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第十七話 夜のお手伝い

第十七話 夜のお手伝い



 「何っ、ちょっと。どうしたのよ」


 優乃が突然悲鳴を上げたので、矢守は驚いた。


 「だ、だって安さんが急に月森さんに接近するんだもん。キ、キス、するかと思って」


 優乃は弁解するように言った。


 「バカね。キスぐらいいいじゃない」


 「だめですっ。キスは乙女の祈りです」


 「何言ってるのか分からないわよ。あっ、やばい。逃げるわよ」


 矢守は安が走って近づいてきているのに気付いた。


 矢守は安に背中を向けて立ち上がりながら、優乃に小声で言った。


 「いい、私の言う通りにするのよ」


 「はい」


 優乃は頷いた。


 「まずゆっくりとグラウンドに背を向けて立って、そう。私と腕を組む。頭を私の肩にもたせかけて…」


 「何ですかこれ。恋人同士みたいじゃないですか」


 優乃はバカバカしいような、恥ずかしいような気分になった。


 「バカね。こうやってごまかすの。走ったりしたら、すぐに追いつかれてバレるに決まってるでしょ。こうやって女同士でも恋人みたいにすれば、声だってかけてこないわよ。ほら歩いて」


 矢守もイヤそうだ。


 「あ、まずいわ。すぐ後ろまで来たみたい。そのマスク、取って」


 二人のすぐ後ろで、安が不審気に着いてきているような足音がする。矢守は次の手を打った。


 優乃は言われた通りに矢守に体を預けながら、マスクを取った。


 「止まって、そのまま」


 優乃がなんだろうと立ち止まると、矢守は頬にチュッとキスをしてきた。


 「ー!」


 優乃はびっくりして、固まってしまった。一呼吸置いて、小声で抗議する。


 「何するんですかっ」


 「バレるよりましでしょ」


 矢守も小声で怒った。


 「ここまでしてダメなら、キスするからね。覚悟しなさい」


 「だめですっ。唇は許しませんよ」


 「私だってそこまでしたくないわよっ」


 二人は殺気を放ちながら、足早に遠ざかって行った。



 「何なんだ、あの二人」


 安は呆然と二人を見送った。


 女同士だったみたいだけど、気が合ってるんだか、合ってないんだかよく分からないな。女同士ってあんな風になるのか?最後、近寄りがたい雰囲気があったしな。あっ、イカン。月森さんの事、忘れてた。


 安は月森の事を思い出して、急いで戻った。安が心配して戻ると、月森は電話を相手に怒っていた。


 「もー、その日はダメだって言ってるじゃない。前は良くても都合が悪くなったの。別の日にしてよ。それならつき合ってあげる」


 モテモテの月森だった。


 「もうこいつとは二度とつき合わん」と、誓う安だった。



 一方月森の方は安とは反対に、ライバル心を抱いたようだった。


 「今度また勝負して下さいね」


 と一緒に帰りながら何度も言ってきた。


 安はうんざりしていたが、とうとういいことを思いついた。


 「分かりました。それじゃあそっちのルールに合わせるんで、ルール細かく教えて下さい。ルール事項書いた紙、持ってきてもらうのが一番いいですね。試合中にルール違反とかで中断したくないでしょ。だからそれ持ってきてもらって、こっちが理解したら試合しますよ。つかむのがダメならひっかけるのは、挟むのはどうなのかとか、それも分からないんじゃ試合になりませんからね」


 安は我ながらいい考えだと思った。


 だいたい洗濯機のアダプターもまだ買ってきてないぐらいだから、きっとこの勝負の事も忘れるに決まってる。


 月森の方はお安いご用とばかりに、安請け合いした。


 「いいですよ。それじゃあ約束ですよ」


 今度試合したら、コテンパンにしてやるんだから。


 二人はお互いに都合のいいように考えニッコリ笑い合って、で愛の荘に帰った。



 で愛の荘では、優乃と矢守が怪しげな反省会を開いていた。


 「矢守さん。結局、今日の尾行って成功だったんですか?」


 矢守の部屋で優乃は尋ねた。


 「うまく逃げられたから、成功じゃないの」


 矢守は帽子とサングラス取って、くつろいでいた。


 さすがに部屋の電気はつけて、明るくしている。


 「逃げるのが目的じゃないんですよ。逃げるために私、乙女の祈りを、矢守さんに奪われる所だったんですから」


 優乃はキスされた頬から、唇に手を動かした。


 自分の薬指が、柔らかな唇に触れた。


 あ、でも安さん、あんな風に私の唇、強引に奪ってくるかも…。


 矢守は優乃の妄想にかまっていなかった。


 「だいたい乙女の祈りって何よ。ネンネじゃあるまいし。でさ、結局目的って何だったっけ」


 「あ、あぁそうですね」


 優乃は妄想に浸る間もなく、現実に引き戻されて答えた。


 「そう言えば何だったんでしょう」


 こいつはアホかと言わんばかりに、矢守は言った。


 「優乃ちゃんが忘れてどうするのよ。そんなんじゃ、成功するのも成功しないわ。マンガで言うなら作家と編集よ。作家が進むべき道を編集が指し示す。これが出来てないのよ」


 「矢守さん、何言ってるのか分かりません」


 「そうね。私も例えがイマイチだって思った。言いたい方向は合ってる筈なんだけど」


 「矢守さんに編集がいるんじゃないですか」


 「そうなのよ。安さんがその気なら、私いつでも」


 「安さんはダメって言ってるじゃないですか」


 丁度その時、廊下から安と月森の声が聞こえてきた。


 「今日はありがとうございました。次は試合ですね」


 月森はくどいくらいに念を押した。


 「月森さんがルール書いた紙持ってきて、それを読んだらですよ。それまではしませんからね」


 安も負けじと念を押した。


 「それじゃあ、また。おやすみなさい」


 「おやすみなさい」


 月森が階段を駆け上がって行く音と、安の部屋の戸が閉まる音がした。


 「じゃ、私たちも」


 「はい。おやすみなさい」


 「おやすみ」



 三十分後。


 安はドキドキしながら矢守の部屋の前にいた。さっきから二・三度入ろうとしては、ためらっている。


 イカン。何をためらってるんだ。とって喰われる訳じゃあるまいし…、喰われるかも知れないけどな。イザとなれば大きい声出せばいい…、女みたいじゃないかっ。もういいっ。


 安は覚悟を決めると、矢守の部屋の戸を叩いた。


 トントン


 「入って」


 部屋から矢守の声が聞こえた。


 まさか戸を開けたら、イキナリ抱きついてきたりはしないだろうな。


 そんなことを考えながら安は、恐る恐る戸を開けた。


 中では矢守が机に向かっていて、ペンを走らせていた。


 「ちょっと待ってね。上がってて」


 矢守の言葉に従って、安は部屋に上がり腰を下ろした。


 キリが着いたのか、矢守はすぐに安の方に向き直って言った。


 「安さん、雪先生から聞いたんだけど」


 矢守は、ふふっと意味深な笑いをこぼした。


 「安さん、テクニシャンなんだって。しかも専用の道具まで持ってるって」


 安は一瞬言葉に詰まったが、すぐに答えた。


 「テクニシャンかどうかは自分で判断することじゃないから」


 微妙な言い回しだ。矢守は続けて言った。


 「それにとっても丁寧で早いって。私、ゆっくりなのよりもそっちの方が好きなのよ」


 安は表情を変えずに返事をしたが、体はいつでも逃げ出せる準備をしていた。


 「で、何して欲しいんだ」


 「何って知ってるわよ、初めてじゃないって。だからこれ、して欲しいの」


 「おい、かんべんしろ」



 その日から、夜ごと安の矢守部屋通いが始まった。小さな、で愛の荘内の出来事である。三・四日も続くと山川も優乃も何となく気付き始めた。


 カチャ


 戸の開く音がした。


 あ、今日もだ。


 夜の九時。優乃は安の部屋の戸が開く音を聞きつけた。


 確か昨日もそうだったんだよね。で、このまま外に行かなくて…うん、多分矢守さんの所に行ってるみたいだし。


 隣の山川の部屋ではない。奥の部屋、つまり矢守の部屋に入っていったような小さな戸の音がした。それに山川の部屋に入ればすぐに分かるはずだ。


 でもどうして安さんが、矢守さんの部屋に行くんだろ。十二時になっても帰って来ないみたいだし。


 昨日も優乃が布団に入り寝に着くまで、安が帰って来たような音はしなかった。と言うことは、少なくともその時間までは矢守の部屋から帰ってきてないということだ。


 安さんが矢守さんと密かにつき合ってるってことはないし。まさか、そんなはずないっ。でも安さん、矢守さんの誘惑に負けて…。だったら『まだ』ぴちぴちの私の所に来なきゃおかしいじゃない。やっぱり誘惑しなきゃダメかな。あぁん、もう変な方に考えちゃう。明日、山川さんに相談してみよ。でも山川さん、私がこんなに安さんの事、心配してたら嫉妬しちゃうかな。でもそれって恋の駆け引きよね。いい女は男を振り回さなくちゃ。今は私が安さんに気がある様子を見せて、山川さんの気を揉ませて、次に山川さんの方を向いてあげる。そうすると今度は安さんが気を揉んで、山川さんが私に夢中になる。そうやって二人の男をぶんぶん振り回しちゃお。それでそんな事をしているうちに、安さんと山川さんが私の事でケンカしちゃったりして。『おい山、優乃ちゃんに手を出すな』『何言ってるんですか安さん、恋愛は個人の自由でしょ』『だめだ。優乃ちゃんは誰にも渡さん』『安さん、優乃ちゃんは物じゃありませんよ』『ふっ、山に説教されるとは僕も焼きが回ったか。それじゃあ実力で勝負だ。表に出ろ』『安さん、手加減しませんよ』『それはこっちのセリフだ』『やめてっ二人とも。私の事で争わないで。私のことで二人がケンカすることなんてないのよ。お願い』。何て、ウフフ、ウフフ。


 布団を抱きしめ不気味な笑いをこぼしながら、優乃は眠りに入っていった。



 翌日。優乃は学校から帰ると早めの夕食をとり、風呂屋に行って帰ってくると、山川の部屋を訪ねた。


 トントン


 「優乃です。山川さん、ちょっといいですか」


 安や矢守に気付かれないように、小声で山川を呼んだ。


 トントン


 反応がないので優乃が聞き耳を立ててみた。中では山川が電話をしているようだった。


 「そりゃ大変だったね。うん、うん。そんな事、俺知らないって。自分で考えろよ。うん、いいんじゃない。頑張れ。うん、また。おやすみ」


 電話が終わったようなので、優乃はもう一度、戸を叩いた。


 トントン


 今度は山川もすぐに気が付いて、戸を開けて出てきた。


 「あれ、優乃ちゃん。どうしたの」


 優乃は口元に指を立てて、静かにするようにお願いをすると「ちょっといいですか」と小声で言って中に入った。


 優乃が中に入って座ると、山川がどうしたのと聞いてきた。


 「実は山川さん。最近、安さんが夜、矢守さんの部屋に通ってるみたいなんですけど、何か知りませんか」


 優乃は声を落として聞いた。


 山川はこくりと頷くと、声を落として口を開いた。


 「その事か。ちょっと違うんだけど二・三日前まで矢守の部屋から変な声が聞こえててさ。気をつけないと聞こえないくらいホントに小さい音だったんだけどね。それで安さんにどうしたらいいか聞きに行ったんだよ」


 矢守に直接言いに行けばいいのに、どうして安の所に聞きに行くのか優乃は不思議に思った。


 「変な声って何です」


 「うん、ちょっと言いにくいんだけどね、うん、まあ、要するに女の人がね、アンアン言ってるんだよ」


 「それって-」


 二人は顔を赤くして黙ってしまった。


 すると、隣の矢守の部屋から小さな音が聞こえてきた。二人は無意識に聞き耳を立てた。


 「山川さん、何か変な音しません」



 「あん、…。…、あ」


 女の人の声に続いて、安の疲れて様な声が聞こえてきた。


 「おい…、声…すな」


 「あ…、ごめん…。…つい……のよ」



 どうやら矢守の部屋の窓も、山川の部屋の窓も開いてるため、そこから小さいがハッキリと声が聞こえてくるようだった。


 このままじゃこの部屋まで妙な雰囲気になりそうだ。


 山川は急いで話を続けたが、小声でバレないようにした。


 「うん、ま。今みたいなのがね。それでいろんな状況分析をした結果、いや、やめておこうか。とにかくその声が矢守の声なのか、他の女の人の声なのか分からなかったんだ。もしかしたら矢守が女の人を連れ込んでる可能性もあるし、そうじゃない可能性もある。それで安さんに何とか言って下さいよって相談したら、聞こえなくなったんだ。だけどそれから毎晩安さんが矢守の部屋に行ってるみたいなんだ。もしかしたらその前から行ってるのかも知れないけど。それで以上の結果から様々な仮説は立てられるんだけど、一つに安さんがその女の人の身代わりになったと考えられる。一つに三人で共同研究に入った。一つに安さんが入ったことによって方向性が変わったなどが思い当たるんだ」


 山川は困った顔をして、沈黙した。


 その間を図ったかのように、矢守の部屋からまた声が聞こえてきた。



 「まだ終わ…か」


 安の声は相当な疲れているようだ。


 「…。今日は…ないんだから」


 矢守はまだまだこれからと言う感じだ。


 「…覚悟してる…。…、これない方がいい…。邪魔だし」


 「…、なくても…ね。あった方が私が…るの。はい、これ追加…」



 「安さん…、疲れててもやるみたいだな。これは一種の拷問かも知れないな。いや、逆に安さんにそう言う趣味があったとも考えられる」


 「山川さん、何言ってるんですか。安さんの事、もっと真剣に考えて下さいよっ。拷問だとしたら…」


 優乃は真面目な顔だ。


 「踏み込みましょう!」


 「えっ、でも」


 突然の飛躍に山川は驚いた。


 そんな今、矢守が何してるのか分からないのに、踏み込んでいいかどうかも分からないじゃないか。


 優乃は山川に構わない。


 「だってこのままじゃ、安さんどうなるか分からないじゃないですか。安さんがまだ安さんでいるうちに助けなきゃ」


 何かすごいことを言いながら、優乃はすっくと立ち上がった。


 「行きますよっ」


 「ちょっと待ちなよっ」


 山川は慌てて優乃の手を引張って止めた。


 「優乃ちゃん、少し様子を見て情報を集めた方がいいよ。今まだは断片的な情報でしか物事を判断してないんだ。冷静になってもっと他の可能性を考えてみようよ。そうしないと後で大変なことになるかも知れないじゃないか」


 「今が大変じゃなくて、何が大変なんですか」


 優乃は譲らない。


 「いいかい、仮にだよ、二人が合意の上で何かをやっているとしたら、俺たちが急に部屋に行くって事は、二人が今まで作ってきた雰囲気を壊すことになるんだ。それは演劇で言うなら、芝居の途中で客が舞台に上がって来るようなものかも知れない。止めに行くのは簡単だけど、ここは俺たちが冷静になって二人の事をよく考えなきゃいけない」


 山川のよく分からない説得に優乃は頭を冷やして考え直した。


 「二人の事って、二人の関係ですよね。矢守さんあぁいう人だけど、安さんはそういう人じゃないから大丈夫だって思ってましたけど、二人とも実は共通の趣味を持ってたって事ですか」


 「人の趣味って分からないから…」


 山川は考え込んだ。


 隣からは何かのきしむ音、人のごそごそ動く気配が伝わってきた。



 「矢守、そろそろ限界…ど」


 「今日は…越してやるの」


 「……。…やる…。…終わったら、…いやだ…」



 優乃はいつもの安の声ではないことに気付き、ハッとした。


 「やっぱり安さん、強制されてるんですよ。今にも死にそうな声でしたよ。安さんきっと、矢守さんの人体実験の道具にされてるんです。このままじゃ安さん、死んじゃいます。山川さん、で愛の荘が殺人現場になる前に行きますよ。安さん、私が助けます」


 優乃は泣き出しそうになった後、キッと顔を上げて言った。


 「えぇっ。人体実験って」


 山川は優乃の突拍子もない考えに驚いた。


 しかし優乃は山川の反応など気にしていなかった。激しい妄想と共に優乃は立ち上がり、さっきとは逆に山川を引張って、いきなり矢守の部屋に躍り込んだ。


 バンッ!


 ノックもせずに戸を開け放ち、部屋の奥にいた矢守に向かって言った。


 「矢守さん、許しませんよっ」


 部屋はカーテンが閉められていたが、蛍光灯が点いていて明るかった。奥の机に矢守、中央の座敷机に安がそれぞれ原稿に向かって座っていた。TVでは音を消したアダルト映像が流れていた。


 「あの、何やってるんですか」


 思ってもみなかった状況に、優乃は目が点になった。


 「いやん、丁度いいじゃない。二人も一緒に、みんなでしましょ」


 矢守は少しも動じずに二人を安のいる座敷机のまわりに座らせ、ペンの入った原稿に筆ペン、カッターを渡した。


 「優乃ちゃんと山川はまずベタね。ペケ印の所を黒く塗ってね。終わったら安さんと同じでトーン貼るのよ」


 にこやかに言っているが、目は真剣だ。しかも全身から殺気があふれている。


 「も、もう遅いから、また明日じゃ」


 山川が逃げ腰で言った途端に、矢守がズバッと言った。


 「ダメッ!明日締め切りなんだから返さないわよっ。この部屋に入った以上、身も心も奉仕してもらうわよ」


 言葉は微妙だが、迫力があった。


 山川は諦めたようで、もうベタを塗り始めている。


 優乃は、まだ躊躇していた。


 「矢守さん、この原稿とTV…」


 赤い顔で言う。


 矢守は急に猫なで声を出した。


 「優乃ちゃんの原稿は軽い所よ。ダメよ、ぶりっこぶっても。それに前、私男性向け描いてるって言ったわよ。忘れたなんて言わせないんだから。入った以上はその覚悟ありってみなすから。TVだって背中向けて座ってるから、関係ないじゃない。TVは雰囲気造りなの。安さんから声は消してくれってお願いがあったから消したけど、本当なら声つきの方が私はいいの。そうね、こうして一階のみんなが集まったんだから声出してもいいわよね」


 「イッ、イヤ、いいです。頑張ります」


 矢守の猫なで声の裏に、恐ろしい雰囲気を感じて優乃はとっさに首を振った。


 絶対に帰れない。


 優乃は諦めて原稿に向かったが、チラリと安の方を見てみた。


 安の手元には見たこともないカッターと普通のカッター、プラスチックのヘラのようなもの、太さの違う黒ペン、筆ペンに定規などが置いてあった。さっき渡されたカッターとは全然違う。どうやら安専用のもののようだ。安は何やら手慣れていて、先がくるくる回るカッターを使いトーンを淀みなく切っていく。


 安さん、こんな事も出来るんだ。


 締め切りが明日のせいか安も原稿に集中している。しかし安はすでにゾンビのようになっていた。ただ黙々と手を動かし目の前にある原稿を終わらせていく。優乃の視線に気付もしない。


 「みんなで一緒にするわよ。終わったらスッキリするんだから」


 矢守がまた微妙な言葉で、全員を励ました。



 チュン

 チュン


 雀の鳴き声と共に朝日が昇る頃、安は最後の一枚を仕上げた。


 「お、終わった…」


 安はそう言うと共に畳に倒れた。


 これで優乃、山川に続く三体目の(すい)死体が、部屋に転がった。



 ツンツンと、安の頬を誰かがつついた。


 「もう、ダメ…、これ以上出来ない」


 安は強力な睡魔と戦いながら答えた。


 「起、き、て」


 矢守だった。矢守は三人を起こすと言った。


 「今日はありがと。今から原稿渡しに行ってくるわね。帰りは何時になるか分からないから、起きたら部屋に帰っていいわよん。鍵はしなくてもいいから。どうせ誰も来ないし」


 三人は、化粧までしてきれいに身支度を整えた矢守を見つめた。


 何でこんなに元気なんだ?


 安はフラフラの頭で思った。


 「それじゃ行ってきまーす。あとでお礼はするからねー。何だったら体で返してもいいのよん。バーイ」


 矢守は元気よく出て行った。


 「誰ですか、アレ…」


 別人のように変身した矢守を見て、山川は言った。


 安は何も答えることなく、再び畳に倒れた。


 「私、帰ります」


 優乃はふらふらしながら立ち上がって、戻っていった。


 矢守の原稿を手伝って、ちよっぴり大人になってしまった優乃だった。


 もう矢守さんの私生活には、関わらないようにしよ。


 三人、共通する思いだった。何ともむなしい朝であった。



★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★



次回予告



 小さい頃は

 少ないお小遣いで買ったプラモ作ってた


 私はいつも折り紙やってた

 本一冊、全部覚えたんだから


 図工の時間、好きだったな

 外に出られる写生は特にね


 家庭科の授業、楽しかった

 特に料理実習



 何かを作る


 そんな楽しい思い出、ありませんか


 一人で作るよりも、みんな


 その方がもっと楽しい


 次回はそんなお話です



 ドキドキもハラハラもないけど


 みんなで一緒に作る、大切なとき



 次回第十八話 優乃がんばる



 で愛の荘と優乃ちゃん、その仲間に

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