第三話
火曜日は世界史と小論文の授業。週に一度、友人たちと顔を合わせる日である。
文化祭準備があるといっても授業優先だ。二年生の結斗は教師公認でサボっているが、三年生の蝶子は最終学年という立場上、授業欠席は認められなかった。
蝶子は午前から登校し、午後の四限と五限の授業を受けた。この学校では二十分に授業が始まり十分に授業が終わる。時計を見ると時刻は三時二十分だ。
五限目の授業を終えた蝶子はすぐに文化祭準備に取り掛かりたかった。だが、友人二人に話し掛けられてどうにも抜けられない状況に陥っていた。
いつものように蝶子の前の席に座る金髪の愛梨と、その隣に座るキャロットブラウンの髪をボブにした恵美。
この二人は一年生の頃に先輩の紹介で知り合った同学年の友人である。
愛梨は見た目通りの軽い性格をしていて、今が良ければ良いという刹那主義者。腰まで伸びた金髪を巻いて、こんもりと盛った姿は兎に角目立つ。対する恵美は愛梨ほどテンションは高くないが、猫かぶりの男好き。女子に厳しく男子に甘い彼女は、三階の進学コースに通っている彼氏にいつもべったりしている。
愛梨と恵美はどちらかと言えば大人しい蝶子が付き合うには、あまりにも弾けすぎた二人だった。
「二人は文化祭、参加する?」
「しないよ。行事とかだるいもん」
「ねー」
写真部に所属しながらも幽霊部員で、今回も作品を提出していない二人だった。
先輩がいた頃は部活動に参加していた二人も、三年生となった今では顔も見せないで蝶子に全て任せきりだ。
写真部は二年と一年の後輩が二人いるだけの小さな部なので蝶子一人でも何とかなっているが、部活に入っているという事実で内申点を稼ぐ二人に不満がない訳でもなかった。
「そういえば蝶子、実行委員やってるんだっけ? あんなたるいの良くやれんね」
「ていうか、実行委員って他に誰いんの?」
「二年の花里くんだよ」
「あー、あの悪いやつ」
花里という名字を聞いて蝶子に懐いている後輩だと思い至った愛梨は、結斗を【悪いやつ】と言った。
その例えに内心首を傾げていると、恵美はやけに神妙な顔をする。
その目を見て蝶子は背中がぞくりとした。恵美の目にあるのは悪意ではないが、好意でもない色。それは叔父と叔母が持つ色にとても似ていた。
「ねえ、有栖川。あの後輩に良い顔すんの止めなよ。あーゆーのって絶対下心あるから」
「……そんな、こと……」
「ないなんて言い切れないでしょ」
下心という生々しい言葉をぶつけられて蝶子は言葉を返せなかった。
蝶子は結斗があまりにも明るくて優しい良い人だから、異性と特に意識していなかったのだ。
自分が他人から好意を向けられるような高尚な人間でないことを知っているが、だからといって結斗から向けられる全てが親切だけとも思えない。蝶子は自分の感情にも他人の感情にも疎かった。
恵美はそんな危うい蝶子を心配して忠告したのだろう。
友人の忠告だ、深く受け止めねば……そう思った蝶子であるが、次に友人の口から発せられた言葉に、それが心配からくる忠告ではなく揶揄だったということを知った。
「有栖川がお嬢さんだっての知って逆玉狙ってるのかもしれないし」
「あははは、何それ! 物語考える才能あるわ。あんた医療事務いくの止めて漫画家とかなったら?」
馬鹿笑いする二人を見ながら、蝶子はすうっと胸が冷えていくのを感じた。
頭が煮えくり返りそうなほど熱い。その癖、芯の方は冷えていて蝶子は屹然と言う。
「人の友達を悪く言わないで」
いつもなら愛想笑いをして頷く蝶子が反論したのがそれほど意外だったのか、二人は軽く目を剥いた。
「ちょ……何、マジなってんの。ただの冗談だってー」
「そうだよ。有栖川らしくないよ」
「だったら私らしくってなに?」
喉の奥がからからに乾いて、目の奥が熱い。胸がどくどくと嫌な音を立てている。
声が震えて視界が歪む。その途端、涙が零れた。
頬の上を転がる雫に流石の二人の顔色も悪くなる。それでも蝶子はぼたぼたと落ちる涙ごと吐き捨てた。
「もういいよ」
ああ、二人だけの友達も失ってしまった。言ってから気付いたが、後悔はなかった。
硬直する二人の顔をもう一度だけ見ると、蝶子は鞄を掴んで教室を出ていった。そして文化祭準備の部屋となっている談話室に入り、扉を閉める。
談話室には幸い誰もいなかったようで、蝶子は扉に背をつけたままずるずると膝を折った。
嫌な思いもすることはあったけれどこの二年、少なくとも寂しさを感じなかったのは二人のお陰だ。啖呵を切ったことに後悔はしていない。それでも涙は止まらない。
両親が死んで以来、流すこともなくなった涙の止め方が分からない蝶子は必死に嗚咽を堪え、目を押さえた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
元々アイラインを引く程度しかしていない化粧だ。落ちたところでどうなるという訳でもない。
涙で汚れた顔を豪快に洗い流した蝶子は長い髪を一つにさっぱりと纏め、化粧室を出た。家では邪魔になるので結んでいるが、外では髪を下ろしている。パソコンルームでプログラムの印刷をしていた千葉は、そんな蝶子を見ていつもの調子で言う。
「あれ、雰囲気変わってない? イメチェン?」
「邪魔になるから結んだだけです。というか千葉先生、花里くんって授業ですか?」
「五限目の終わりに蝶子さん迎えにいってたけど、会わなかった?」
「探してみます」
迎えにきてくれていたなんて知らなかった。蝶子はそれほど友人二人に気を遣っていたのだ。
教員室の長机にも、パソコンルームの横の自習室にもいないとなると、地下の駐車場かもしれない。駐車場への扉には生徒立ち入り禁止の貼り紙があったが、結斗が友人と屯しているところを見たことがある。
教員室前のガラスの重たいドアを開けて、エレベーターを使わず階段を使う。薄暗い階段は狭く、すれ違った三階の教師に道を譲りながら蝶子は地下に下りた。
階段向かいの狭い通路。そこから駐車場へと繋がっている。
駐車場へ出た蝶子は辺りを見回す。生徒が屯するベンチに結斗の姿はない。しかし、その隣の自販機横に寄り寄り掛かる人物のベージュのカーディガンの裾が見え、蝶子はそちらに足を向けた。
「花里くん?」
「――――!」
彼はぎょっとしたように目を見開き、慌てて手に持っていたものを地面へ捨て踵で踏み潰す。
蝶子は顔を上げる。自販機に軽く凭れ掛かった結斗は無表情だ。ただ、その顔はいつもよりずっと冷たくて鋭い。
「……煙草、吸うんだね」
何かと自由な学校ではあるが、未成年の生徒の飲酒と煙草は校則で禁止されていて、見付かれば処分ものだ。
校則を守らない者が相当数いるのは知っていた。それでもその相手が結斗だと思うと複雑だ。
蝶子に煙草を吸っていた事実を指摘された結斗は靴底の吸い殻を拾うと、それをごみ箱に捨てた。そうして改めて振り返った彼は笑った。
「先生に言いますか? オレは言われても構いませんけど」
蝶子の心配と訝りを含んだ視線を受け止める結斗は、冷めた微笑と共に鳶色の目を細めた。
今まで沢山の微笑を向けられたが、そのどれとも異なる笑みに蝶子は何度も目を瞬かせる。
「……どうかしたの?」
問い掛けたその時、影が揺れる。
出入り口から射し込む光を背に浴びる結斗が前に出る。衣擦れの音と共に伸びた手が壁に掛かる。長い腕が蝶子の退路を封じた。
「オレ、先輩のダチが言うようなろくでなしなんです」
頭一つ分ほど上にある彼の双眸は凍て付いているようだった。
蝶子と友人の会話を聞いてしまったのだろうことが窺えた。
「煙草のことだったら別に……」
「先輩に近付いたのだって下心があったのは事実だし」
これから治せば良いと言おうとする蝶子を結斗は遮った。
今まで優しくしたのは親切心からではなく、下心からだと告白する結斗はこんな時まで素直だった。
「軽蔑しますよね」
結斗は見越したかのように笑う。
人が失望して去っていくのを理解し、止めようともしない冷たい眼差し。彼のその笑みは人を油断させる為のものではなく、寧ろ人を突き放す為のもののようだった。
しかし蝶子は、幻滅して去ってくれと言わんばかりの態度を取る結斗に寂しさを見付けてしまう。
「そうだとしても私はあの時、話し掛けてもらえて嬉しかったよ。実行委員に誘ってくれたことも感謝してる」
「なんで? 下心で近付かれた挙げ句に面倒事にも巻き込まれたってのに? 下らない行事の雑用を押し付けられたらフツーふざけんなって思うだろ」
「確かにこんな学校の行事なんて下らないかもしれないけど、私は遣り甲斐を感じてる。……昔は勉強ばっかりでこんなことに取り組んだことなかったし、今は適当にやってるだけだったから。それに花里くんだって、本当に下らないと思っていたらあんなに真剣に準備しないよ」
下らないと思っていたら、土日に他県から電車と高速バスを乗り継いでわざわざやってくるなんてできないはずだ。
不思議なものを見るような鳶色の目を真っ直ぐと見上げて、蝶子は気持ちを伝える。
「漢検の勉強に付き合ってくれた時もそうだよ。例え最初はからかい半分だったとしても花里くん、凄く丁寧に教えくれたもの。だから、下心以上に優しくて真面目なんだと思う」
周囲に失望し、色眼鏡を掛けて斜め上から物事を見ていた蝶子だ。もし結斗に本当に打算があったのだとしたら、蝶子は叔父や叔母、そして友人に向ける愛想笑いを彼にも向けていたはずだ。本人ですら気付いていないが、蝶子は無意識下で結斗の人と成りを見極め、その上で接していたのだ。
相変わらず無愛想で、けれど誠実な言葉を向けられた結斗は何とも言えない顔をする。
「……なんで先輩は……」
うなだれた結斗を見て、子供を泣かせてしまったような気分になった蝶子はばつが悪くなる。
腹を割って話すことなんてずっとしていなかったから言っていることも支離滅裂としている。今までの友人関係も含め、自分も大概酷いなと蝶子は思った。
「私が口出すことじゃないのかもしれないけど、煙草は体に悪いから止めた方が良いよ」
蝶子は反省や仲直りよりもまず始めに大事なことを結斗に言う。
「ほ、ほら、それに煙草って値上げしたからお金食うし。そのお金で音楽プレーヤーとかチョコとか狙った方が花里くんも楽しいんじゃない?」
「……そうかなあ……」
「うん、その壊滅的な腕も少しは上がるかもしれないし」
落ち込みモードに突入している結斗を懸命に励まそうとしている蝶子であるが、らしくもないことをしているので軽く墓穴を掘っている。
暫くして蝶子の慰めになっていない慰めにうんざりしたのか、ぺしゃんこに潰されて逆に開き直ったのか、はたまた擦り減りすぎて軽くなったのか、結斗は喉の奥で笑った。
自嘲と苦笑が混じった苦い笑み。けれど、その顔にはいつもの色が戻りつつある。
「これで退学なったってのにな。ホント、ろくでなしだ」
「じゃあ、そのろくでなしを返上する為にも準備頑張らないと」
「そうっすね……」
向けられた笑みに冷たさはないけれど、今までのような底なしの明るさはない。
いつも明るく太陽ような彼の陰りを見た蝶子だった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
文化祭四日前の木曜日、相変わらずの自主登校の蝶子は談話室にいた。
ダンボールを二つ重ねた上に紙を貼り付け、学校入り口に置く看板を作っているのだ。
「うわ、貧乏臭い看板。ボードでも買ってきて、ドアに立て掛けた方がまだマシなんじゃ……」
隣に立った結斗はその看板を見てがっかりしたような顔をするので、蝶子はむっとする。
「ボード買うお金が何処に余っているの?」
「百均で小さいボード買ってきて繋ぎ合わせるとか」
「そんな継ぎ接ぎだらけのボードも安っぽいし、何より折れると思うんだけど」
「だからそのダンボールを添え木みたいにするんだよ」
「ああ、その手があるね」
「ちょっとは頭使いなよ。飾りじゃないんだから」
「……花里くん、どさくさに紛れて失礼なことを言うのはやめて」
結斗のそれは文系を馬鹿にする理系の目だ。
前の学校で蝶子が属していた特進クラスは文系と理系が混ぜられ、専門の授業の時だけ別れて学んでいた。特進クラスの中の文系だった蝶子は、理系が文系に向ける蔑みの目を知っている。
「私のこと馬鹿にして楽しい?」
「馬鹿になんてしてない……ですよ?」
今更敬語で話されても胡散臭いだけだ。
あのいざこざから二日が経ち、友人と決裂した蝶子も、本音を暴露した結斗も一応落ち着きはした。しかし、結斗は蝶子先輩大好きな可愛い後輩から、真っ黒な同年輩になってしまった。
黒いというかは手厳しい。言ってしまえば真面目で容赦がない。
「オレ、ちょっと駅前まで行ってきます」
蝶子が見上げると結斗はにっこりと笑って、ボードを買いに行ってしまった。
(行動的なひと。ついでに勝手)
確かに対応は変わりはした。それでもきっと根の部分は変わっていないのだろう。
そういうことで落ち着けて、売店の品書きを書くことにした蝶子が画用紙を棚から取り出していると、談話室のドアが開かれた。
結斗が忘れものでもしたのだろうか。振り返ると、ブレザー姿の小柄な女子が立っていた。
「何か手伝えることある?」
「あ……じゃあ、お品書きを書くの手伝ってくれる?」
キャラメルブラウンのエアリーな髪のトップを押さえるのは水玉のカチューシャ。薄化粧だがぱっちりとした黒目は人形のようで、ギャル系の女子に話し掛けられたことにどきりとしながら蝶子は手伝いを頼んだ。
(多分、一般常識を受けている子だ)
一般常識の授業は必修科目ではなく、単位を潰す為にあるような教科なので参加者が少ない。毎回四人しか生徒がいなかったので、蝶子もこの女子の顔に見覚えがあった。
「字、上手いね。良かったら看板も書いてくれないかな」
「うちが?」
「うん。今道具買いに行ってるから、帰ってきたら書いてくれると助かる」
マジックペンでさらさらと書かれる文字。その意外にも整った字体を見て、蝶子は看板の文字も頼んだ。
それにしても、名も知らない後輩と会話をしていることが嘘のようだ。派手な女子にはつい苦手意識を感じてしまい、蝶子は普段近寄らない。
これも文化祭という行事の為せる技なのか。
そうして後輩と共に作業を進めていると、ボードを手に帰ってきた結斗が彼女を見て言った。
「あー……倫理の授業受けてるよね。時田さんだった?」
「あんた二年でしょ。名前は知らないけど」
「うわ、その口振りだとオレの先輩っぽい……」
「ご想像の通り三年だけど、何か?」
小柄な外見から一年生と思っていた女子が三年だと知り――しかも態度がきつい――蝶子も結斗も吃驚だ。
「キミら、実行委員だよね? 暇だからうちも手伝うよ」
「ありがとう。名前聞いても良い?」
「林原クラスの時田伊万里」
「私は草刈クラスの有栖川蝶子です」
「オレは――」
「あんたは別に訊いてない」
ぴしゃりと刺々しい言葉を遮られ、結斗はうわっ……と首を竦める。
こうして臨時の仲間を一人加え、文化祭準備も佳境へと入った。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
文化祭二日前の土曜日、他の生徒がいない学校で蝶子は伊万里と教室内の改装をする。
結斗は実行委員顧問の千葉と、店に出す食材を買いに行っているので蝶子は伊万里と二人きりだ。
「蝶子ちゃん、これ103号室に飾ってきて良い?」
「お願い。あと後ろのホワイトボードを談話室に移動してくれる?」
「分かった。適当に突っ込んどくわ」
飾りの入ったビニール袋を持って教室に向かう背を見送りながら、蝶子はこう思う。
(口はきついけど、悪い人ではないんだよね)
あの日、伊万里は電車の時間までの暇潰しだと言ったが、暇なら携帯を見ているとか、音楽を聴くとか別にすることがあったはずた。それに、こうして土日までも手伝いにきてくれる時点で伊万里は充分お人好しだ。
自分をろくでなしと言う結斗と、気取らない伊万里は、ある意味似ているのかもしれない。
「そういえば、今日の昼ってどうする? コンビニ?」
キャスター付きのホワイトボードを押してきた伊万里は、昼の予定を訊ねてくる。
「駅の方に行ってる時間ないからコンビニかな」
「だったら近くに美味しい弁当屋さんあるからそっち行かない? 序に千葉と花里の分も買ってきてさ」
「うん。じゃあ103号室の飾り付け私もやるから、あとで連れていって」
蝶子は伊万里と自然と打ち解けられていた。
警戒心が強く、二年も付き合った友人とも打ち解けられなかった蝶子は不思議で仕方がない。
その不思議な気持ちは違和感とも言うのかもしれないが、一つだけ確実に言えるのは蝶子は今、充実感を感じているということだ。




