第一話
黒板上のスピーカーからチャイムの音が発せられる。
重みがない安っぽい音がビルに鳴り響くと、教師の話も半ばに生徒たちはすぐに席を立つ。
ざわめきの中に溜め息を溶け込ませつつ教科書類を鞄に仕舞っていると、横からこんな言葉が掛けられた。
「良いよね、有栖川は」
「お嬢様は就活なんてしなくていーもんね」
「悩みなさそうで羨ましいわー」
それは羨みではなく、何処か呆れるような小馬鹿にするような響きがあった。
(私だって、悩みくらいあるけど)
思いはするけれど、心の中で反論するに留める。
下手に言い返して空気と友人関係を悪くするのは避けたかった。
ちくりと心に痛みを感じながらも愛想笑いを顔に張り付ける少女に、前の席に座った金髪の女子は言った。
「そうだ、帰りにカラオケ行くんだけど蝶子もいく?」
「あ……ごめん。漢検受けたいから、次の時間終わったら先生に受付票貰いにいかなきゃいけないの」
「あー、そっか。なら仕方ないね」
「ごめん、また今度行かせて」
そう言って愛想笑いを刻んだままの蝶子から視線を外すと、金髪の女子は隣の席の女子に話し掛けた。興味をなくしたとばかりに解放されたことを寂しく思う反面で何処かほっとしながら、蝶子は次の時間の用意をして教師を待った。
程なくして五限目の授業が始まる。
だが、休み時間のようなざわめきは止むことをしない。
携帯のメールを打つ音、CDプレイヤーの機械音、潜めることもしない話し声、飲料を啜る音、挙げ句にはいびき。そんな授業妨害ともいえる雑音の中で蝶子は教師の声を拾う。
やる気のない生徒を教師は注意する。しかし、ここの生徒は教師の言うことをきくほど利口ではない。
厳しい教師なら生徒を退出させたりもするのだが、この教科の担当は何処か緩い。今日がレポート作成を兼ねた授業とあってか、教師は生徒の横暴を見て見ぬ振りをした。
(いつから慣れたんだろう)
授業中、煩いのは苦手だったはずだ。昔なら「静かにして」なんて声を上げて皆を静めることもした。
けれど、今蝶子は雑音の中にいる。素知らぬ顔をして、配られたレポート用紙を塗り潰す作業をしている。
(……慣れって凄いね)
蝶子の世界にこの空間が徐々に馴染んでいっている。
真面目な者と不真面目な者が同居した異様な空間に違和感を感じて溶け込めはしないけれど、これが普通だと感じる程度には馴染んでしまった。
右に習えのように茶髪にして、スカートの丈を短くして、意味があるのか知れないメールに興じて……。蝶子はそれを下らないと思っている。下らないけれど、合わせなければ弾かれる。いや、わざわざ弾かれるほどの友人すらいないかもしれない。
何とはなしに窓から階下を見下ろすと、自動車が流れるように走っていくのが目に入る。
人生もこの道路を走る車と同じようなものだ。
流されて、ぶつかって、また流されて。
蝶子が自動車と違うのは、目的地が分からずに疾走しているということか。
自分が何をしているか、何をしたいのかが分からなくて蝶子は漠然とした空虚感・疎外感を味わっている。
そうして今日も皆に合わせながらも、冷めた目で車道を見下ろすのだ。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
有栖川蝶子はフリースクールに通う三年生だ。
街中のとあるビルの二階と三階、ここが蝶子の通うSキャンパスである。
フリースクールとは単位制の高校のことだ。全日制の高校とは違い、ここではレポートと呼ばれる課題作成を中心に自宅学習を進めていき、必要単位を取得して高卒認定が貰うのが最終的な目標となる。
何等かの事情があって全日制の学校を辞めた者、通えない者など多様な者が集まる学校。当然、そこに通う生徒は世間擦れした者が多い。
四十を越した中年女性、赤や緑に髪を染めた男子、水商売かと疑いたくなるような濃い化粧をした女子。幼稚園の頃から私立の女子校に通っていた品行方正な蝶子には関わりがなかった存在が二年前のあの日、蝶子の世界になだれ込んできた。
二年前の夏の終わり、蝶子はこの学校に編入した。
今まで自分のいた世界との違いに怯えながら登校して、教室の席に着いてからも震えが止まらなくて、どうにか授業を受ける。 二年前の蝶子は学校にいても、家にいても心が休まらない極限の中にいた。
それでも幸運なことに友人はできた。
授業前、たまたま隣に座った先輩と蝶子は仲良くなった。
そうして編入してから早二年。色々な意味で鍛え上げられた蝶子はそこそここの学校に溶け込んでいる。
蝶子は三年生なので、もう殆どの単位を習得済みである。
世界史と小論文と介護と一般常識。その授業を受ける為、週に三回学校に通う程度だ。友人とは受ける授業の科目が違うので、彼女たちと会えるのは週に一度だけだった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
「済みません、斉藤先生って何処にいますか?」
授業が終わった後、鞄を持って教室を出た蝶子は教育指導の教師に訊ねた。
教室脇の自販機で買ったばかりらしい炭酸飲料のキャップを開けながら、教師は答える。
「斉藤先生なら次の時間、授業じゃないかな」
「分かりました」
どうやら漢字検定申込み担当の教師は授業に出ているようだ。
授業が終わるまで時間を潰さねばならない蝶子は、教員室内にある長机の前に腰を下ろした。
教員室と廊下が隔てられていないのはビル内に作られたキャンパスならではだろう。
蝶子も最初は違和感を感じたものの、慣れると意外にもこの教員室という場所は居心地が良いものだ。
何処か慌ただしい空気は心を逆に落ち着かせてくれるし、何よりも教室で不良たちと肩を並べているより精神衛生的にも良い。教師にすぐ質問できるという意味で勉強に適してもいる。
蝶子は漢字検定のドリルを開くと睨めっこを始めた。
今回挑戦するのは準一級である。今までは一夜漬けで合格できていたが、流石に準一級となると難易度は高い。正直、合格は無理かもしれないと蝶子は後ろ向きになってしまう。
これは何と読むのだろう。そうして回答を見ながら読み進めていると、ふと視界の端に影が入った。
「おはようございます、蝶子先輩」
「あ……花里くん、おはよう」
もう夕暮れだったが、そんなことは気にしなかった。
「隣座っても良いですか?」
「うん」
礼儀正しく訊ねてくる男子に蝶子は頷く。すると彼は嬉しそうに微笑み、蝶子の隣の席に腰掛けた。
「また漢検の勉強? 確か今度は準一級っすよね」
「うん、そう。花里くんは授業待ち?」
「いや、先輩の姿見たんできただけです」
彼の名前は花里結斗。制服のスラックスに自前のワイシャツとベージュのカーディガンを合わせた彼は十八歳だが、学年は二年生なので蝶子の後輩に当たる。
ほんのりと茶色に染まった少し長めの髪に、二重瞼のくっきりした瞳。スポーツをやっている長身の彼を、蝶子の友人たちは「イケメンじゃない?」と持てはやしたが、蝶子は人の美醜に興味がない。そんな学年も性別も違う結斗と蝶子の出会いは、この教員室の長机――通称、生徒相談室だった。
『こんにちは。勉強ですか?』
突然隣に座られたことにも驚いたが、見知らぬ男子に声を掛けられたことにはもっと驚いた。
半年前その日、蝶子は進路相談の為に順番を待っていた。友人は登校していない日で、時間を持て余した蝶子は漢字検定のドリルを捲って暇を潰していたのだ。
『漢字検定二級か。オレ持ってますよ』
『うそ……凄い……』
『そこよりこっち見た方が良いっすよ』
こことか出るかもと彼が言うので、蝶子は有り難くメモをさせて貰う。
そんなこんなで三十分ほど話した後、気付く。今話している彼が初対面だということに漸く気付いたのだ。
『初めましてだよね?』
『オレは知ってますよ。教室とかで会ってるし』
『……そうだった?』
一方的に知っていると言われ、蝶子は驚いてしまう。
自分はそんなに目立つのだろうかと軽く落ち込みすらした。フリースクールの宿命というべきか、この学校では生徒同士の繋がりがとても薄かった。
そんな偶然から出会った結斗と、蝶子はたまにこうして話す。
特別仲が良い訳ではない。この会話に意味がある訳でもない。同じ教科の授業を受けている訳でもないし、住んでいる県も――結斗は隣の県から通っている――違う。それでも会うと会話が続いている。
友人との会話に詰まることがある蝶子はそれを不思議に感じながらも、ほんのりと居心地の良さを感じる。
「先輩、文化祭の実行委員とかやりませんか?」
来月の文化祭のことを話していると、結斗は唐突にそう切り出した。
「私、企画とかそういうの苦手で……」
昔は好きだったのだが、最近は表に立つ仕事は苦手だ。
蝶子は「ごめん、無理」と即座に断る。
だが、いつになく真面目な顔をした結斗は引かなかった。
「いやいや、だいじょぶです! 飾り付けとか食べ物用意したりとかポスター書いたりとか、そんな感じですから」
「それってつまり雑用係」
「あはは……、そうも言いますけどね」
ずはり言ってしまう蝶子に結斗は乾いた笑いを返した。
「オレしかいなくて正直超ヤバいんです。だからって蝶子先輩に頼むのも悪い気がするんですけど、他に頼める人いないっていうか、手伝って貰いたいっていうか……。あー、何か勝手言って済みません……」
何事も言い訳せず、事実を認める辺りが結斗の素直で良いところだ。
そんな彼だからこそ、人付き合いが苦手な蝶子もこうして話すことができている。
「別に良いよ。暇だし」
困った顔をしながらパックのレモンティーを飲む横顔に、蝶子は言った。
「マジですか!」
「マジです」
「あ、先輩がマジって言うの似合わない」
「……あ、そう……」
「あはは。でも、ありがとう御座います。先輩に引き受けて貰えて嬉しいです」
その無邪気な笑みを見ながら、良いように流されてしまったように感じた蝶子だったが後悔はしていなかった。
それから担当教師に挨拶をすることになり、蝶子は結斗に付いていった。
パソコンルームで何かを作成していた茶髪のメッシュという奇抜な青年教師に、結斗は声を掛けた。
「ちばっち、蝶子先輩が実行委員入ってくれるってさ」
「おー、それは良かった……って三年生が実行委員している暇ないでしょうよ」
ちばっちとは英語担当の千葉先生のことで、蝶子が一年生の時の担任教師でもあった既婚男性だ。
生徒も生徒なら教師も教師。ここには変わり者の教師が多く、フレンドリーな彼等は生徒に呼び捨てにされようが渾名で呼ばれようがあまり気にしない。
「蝶子さん、受験勉強は大丈夫なわけ?」
軽くタメ口を利いてくる千葉を、蝶子は慣れているので何とも思わない。
「私は専門学校なのでそっちは大丈夫ですよ」
漢字検定の方はあまり大丈夫ではないが、そちらの方は時間を見付けて勉強すればどうにかなるだろう。
写真部所属の蝶子はどの道、文化祭に参加することになる。雑用に加わわったところで問題はない。
「そう? なら、お願いしようかな」
「はい、宜しくお願いします」
「宜しくお願いします、委員長!」
先生に頷き返したところで、思いもしない言葉が背中から突き刺さる。蝶子は大きく目を見張る。
見返す結斗の鳶色の瞳は、蝶子を真っ直ぐに見つめている。
「ちょっと待って。私が委員長なの?」
「だって先輩だし」
「こういう時は参加順じゃ……」
蝶子はぽつりと呟き、深くうなだれる。
「大丈夫ですって。副委員長のオレがサポはばっちりしますから絶ッ対上手くいきます」
結斗は眩しいばかりの笑顔を添えてきっぱりと言い切る。その鮮やかすぎる押し切りに、蝶子はぽかんとするしかなかった。
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――『実行委員に入ってくれてありがとう御座います。頑張りましょう、蝶子さん』
信号待ちをしている時、ふと携帯にメールが入る。
結斗は学校では蝶子を先輩と呼ぶ癖に、メールの中では【さん】呼びだ。
初めて会った日に何故かメールアドレスを交換して、その日の内に「名前呼びで良いですか」と訊かれたので蝶子は良いと応えてしまった。それからは、まあこんな感じだ。
――『宜しくね、花里くん』
蝶子はそう携帯に打ち込んで、その味気なさに自分で吃驚した。
もっと気の利いた返し方があるはずだ。これだから友達からもあまりメールがこないのだ。
歩きながら考えるのは良くない。返事はバス停でじっくり考えよう。
蝶子は急ぎ足でバス停へと向かうのだった。




