ささやかなバカ騒ぎ
「気ぃにする必要ないんじゃなぁい?」
授業が終わっての帰り道。人気がまばらになったところで梨穂対策を切り出した瑞希に対して、悠華の返事はこれであった。
「で、でも、永淵さん学校では何もして来なかったけど、戦いで鉢合わせたらきっとまた襲ってくるよ?」
先日の戦いを終えてから今日。学校で顔を合わせた梨穂は、まるで何事もなかったかのように、いつも通りの口煩さで悠華に接した。警戒する瑞希をよそに、どこまでもいつも通りに。
もちろん瑞希はそんな梨穂の取り繕った表面を頭ごなしに信じはせず、放課後の訓練の前からいくらか対策を練ろうと、親友に話を持ちかけたのだ。
だが悠華は鞄を持つ手を後ろ頭に組むと、日に焼けた頭を軽く傾げる。
「そりゃあ間違いないだろーね。てか、それを折り込んで気にしないってゆーか、無理に相手しないってゆーか?」
「えっと、それってどういう?」
悠華の言葉に、今度は瑞希が首を傾げる。
すると悠華は、未だ説明としてはっきりとした形を得ていないのか、傾げた首を深めて考えるような姿勢を見せる。
「……あーっと、例えばさみずきっちゃん。怒ってるウチの婆ちゃんと、腹空かしたクマ、両方いっぺんに森の道で会ったらどうするのがいいと思う?」
「え? えっと、逃げる?」
唐突な例え話での質問にも、瑞希は首を捻ったまま律儀に答える。
「だぁよね。アタシだってそーするし」
すると悠華は軽く首を縦に振り、瑞希の答えに同調する。
「ま、よーするにそーゆーコト? クマは婆ちゃんに任せて逃げちゃえばいいんじゃないってねー」
「えっと、つまりヴォルスと戦ってる所を襲われたら、任せて私たちは撤収しようって?」
「そーゆーコト。アレくらい強ければ任せても大体大丈夫だろうしぃ? 無理に付き合って巻き添え食うことないよって」
言わんとする事をまとめた瑞希に、悠華はいつもの軽い調子で頷く。
「ハンターじゃないんだから、敵の取り合いなーんてする必要無いし? むしろ厄介なの積極的にやっつけてくれるならアタシらが楽でいーじゃん。取り零しとか襲ってきたのだけ相手にしたらいいんだしさ」
そう言って締め括り、親友にウインクして見せる悠華。それに瑞希は半ば呆けたように、口を開いたまま頷く。
「そ、そっか、そうだよね。意地になってわざわざ取り合いに付き合う事も無いんだよね」
「そーそー、そーそーもーとく……っと、ま、いいんちょのやり様が気に入らなくて、手を出しちゃったアタシの言えたことじゃー無いかもだけどさ?」
そう言って悠華は、先の戦いでの失敗を挙げながら、おどけ調子に肩をすくめて見せた。
瑞希はそれに思わず溢れた笑みを手で抑える。
「なら気をつけるのは、仕上げのところでこっちを巻き込んで乱入してくることくらいかな?」
「だぁね。押し付けるのもサイコ・サーカス相手でもなきゃ、いいんちょならなんとかするだろうし」
図らずもマーレの推測を外れた基本方針で、悠華と瑞希の水組対策は固まる。
そうして二人は悠華の自宅、宇津峰流闘技塾道場へ向けて足を進める。
二人は大仰な毛筆の看板を掲げた格闘私塾の門を潜ると、掛け声響く道場ではなく家の方へ。
「たっだいまーっと」
「お邪魔します」
適当に帰宅を告げる悠華と、無人の空間に会釈を一つしてから敷居をまたぐ瑞希。
そんな対照的な上がり方をしながらも、二人は揃って脱いだスニーカーと革靴を整える。そして悠華は瑞希に来客用のスリッパを出すと、自身は靴下一つで板張りの廊下を進んでいく。
悠華は自身に宛がわれた部屋の襖を無造作に滑らせる。
『ああ、おかえり悠華。それに瑞希も』
すると部屋の内で待っていたテラが朗らかに相棒とその友人を迎える。
『兄様だぁああ!』
直後瑞希の眼鏡が炎のように輝いて、そこから翼を広げたフラムが飛び出す。
『おわっとッ』
『あふん!?』
しかし四肢と翼とを広げて躍りかかる妹を、テラはとっさに回避。ダイブをかわされたフラムは、そのまま部屋の隅に重ねた座布団へ突っ込む。
『避けるなんてヒドイよぉ兄様!』
『いやだって、また『兄様ペロペロ』とか言って舐め回すのかと思ったらつい』
座布団の上から抗議するフラムに、テラは歯切れ悪い困り顔で対する。
『なら意地でもペロペロするよぉッ!』
するとフラムはより気持ちに火をつけて跳躍。再び兄を目掛けて躍りかかる。
『ちょ、止せって!』
『ギュウッと受け止めてよぉ! あたいの情熱!』
逃げるテラと追い回すフラム。そんなじゃれあう竜の兄妹に、悠華と瑞希は揃って気まずそうに目を泳がせる。
「あー……フラちん。ちょいとアタシらには刺激が強いから、激しくなるなら外でお願い」
『ガッテン承知よぉ!』
『ちょおッ!? 止めてよ悠華!?』
消極的な注意しかしない相棒へ抗議の声を飛ばすテラ。
「ゴメン。あたしにゃ無理」
「ご、ゴメンね」
だが悠華は瑞希と一緒に首を左右に振って、外へ繋がる窓を開ける。
『ち、ちくしょぉうッ!』
『兄様待ってよぉ!』
開くや否や飛び出していったテラを追って、フラムもまた窓を抜けて外へ。
それを見送って悠華は袖で額を拭い、瑞希は豊かな胸を撫で下ろして同時に息を吐く。
「じゃあ、フラムが気が済むまではトレーニングも本格的なのは無理だし、宿題から先に片付けちゃおうよ」
「えぇー……宿題もやんなきゃダメ? 修行してたって言ったらいおりちゃんは許してくれないかねぇ?」
宿題という単語にこれでもかとだらける悠華。それに瑞希が苦笑を返す。
「いや、ちゃんとやろうよ。大室先生だって泣いちゃうよ」
「あぁうん。それはマジで心配だぁね」
中学二年生が全開で暴れまわっていた頃の言動。それを晒されて参っていたいおりを思い出し、悠華は真面目に頷く。
そうして部屋の隅に立て掛けてある、足を畳んだローテーブルをセット。鞄から歴史のプリントや数学の問題集などを取り出し広げる。
そこで不意に襖が開かれ、日南子が顔を見せる。
「げぇーッ!? 婆ちゃんッ!? なに!? 今みずきっちゃんと宿題始めるとこで、だらけてなんかおまへんで!?」
祖母の登場に悠華は慌てふためき、怪しい言葉でサボってないアピール。
それに日南子はため息混じりに頭を左右に。
「まだ何も言ってないだろうに……それより、アンタにお客だよ。五十嵐鈴音って子」
「へ? すずっぺが?」
「どうしたんだろ五十嵐さん」
そして日南子が玄関方向を目で指しながら告げた来客の名に、悠華と瑞希は顔を見合わせて立ち上がる。
そして悠華は出入口ですれ違いながら、祖母へ軽く手を振る。
「あんがと婆ちゃん。道場戻っててよ」
「ちゃんと宿題はやるんだよ。……頼んだからね、瑞希ちゃん」
「あはは。はい」
「おうふ、信用無いなぁもう」
瑞希にお目付け役を頼む祖母の言葉。悠華はそれに体のバランスを崩すフリをして、苦笑混じりに鈴音の待つ玄関へ向かう。
「あ、宇津峰さん。明松さんも」
玄関まで迎えにきた悠華の姿に、長い黒髪を三つ編みにした小柄な少女が笑みを見せる。
「おいっす。すずっぺいらっしゃーい」
「お昼から保健室で休んでたけど、大丈夫なの?」
片手を上げて軽い調子で迎える悠華と、病弱な鈴音の身を案じる瑞希。
その心肺の言葉に鈴音は笑みを浮かべて頷く。
「うん。充分休んで今日はもう大丈夫だから」
力強くはないが、はっきりとした鈴音の笑顔。それに悠華と瑞希は安堵の笑みを返す。
「そっか、なーら良かった。それで、今日はどしたん? 急にウチに来るなんて」
「あ、うん。体鍛えたいって思うんだけど、何かいい方法がないかなと思って。ほら、今日も授業最後まで受けれなかったし」
三つ編みにまとめた黒髪を弄びながら、遠慮がちに悠華の顔を覗く鈴音。
それに悠華は腕を組み、目を丸くして感心したように見返す。
「はぇー……偉いねぇすずっぺは」
「でも、いきなり激しい特訓なんてしたら、かえって良くないんじゃないかな? 逆に体を壊したり」
鈴音の向上心に感心しきりの悠華に対し、虚弱体質に急に負荷をかけるのはいかがなものかと心配する瑞希。
だが悠華は腕組みを解くと、軽く腕を空に泳がせる。
「確かにウチのケンポーは、基本婆ちゃん式のルール無用のケンカ殺法だしねぇ。まあでも婆ちゃんならケンポー関係なら何とかしてくれるっしょ? あっははは」
祖母へのある種の信頼感か、悠華はそう言ってお気楽に笑う。
「いや、あたしゃやらないよ。教えるのは悠華がやりな」
「はぁあッ!?」
そこで飛んできた指導拒否の釘刺し。それに悠華は目を剥き身を翻す。
「いやちょっと婆ちゃん! 孫の友達に虚弱体質の改善法を教えるだけじゃん!? それに昔、未熟者の生兵法を擦りこむなって怒ったじゃん!?」
「昔の話じゃないか。教えるのも修行だ」
悠華が慌てて抗議の声を上げるも、日南子は取りつく島もなし。
「ちょっと婆ちゃん!?」
そして追いすがろうとする悠華を振り切って、門下生の声がする道場へ姿を消す。
「えぇ……マァジでぇ?」
行き場を扉に遮られた手を伸ばしたまま、悠華は引きつった笑いでそう溢すしかなかった。
「はぁー、ああなった婆ちゃんはテコでも動かないし。しゃーないすずっぺ。型稽古くらいしかしてないシロートの考えだけど勘弁してーな?」
そこから悠華はぐったりと上体を折って、腕をだらりと下げたまま顔だけを瑞希と鈴音に向ける。
「あ、ううん。私は別に。むしろお願いしてるのは私の方だから」
すると鈴音は慌てて首を左右にふりふり。そこから改めて悠華に深く頭を下げる。
「あ、あと宿題終わらせてからでいい? 今始めるトコだったし、ね? みずきっちゃん」
「う、うん。そうだね。その方がいいんじゃないかな」
不意に悠華から同意を求められて、瑞希は戸惑い交じりながら頷く。
「あ、えと、宿題や勉強は私もお願いしたいな。あと午後の授業のノート見せて、お願い」
「みずきっちゃん、プリィーズ」
「え、うん。いいよ」
鈴音から飛んできたノートの話を、悠華は流れるように瑞希へパス。
「ほんじゃ玄関でずっと立ち話もなんだし、部屋に戻ろう。すずっぺも上がって上がって」
そして話がまとまると、悠華は小柄な二人を促して改めて奥の自室へと招く。
悠華の部屋で落ち着いた三人は、改めてテーブルに教材を広げ、宿題とノートを借りての補習に取りかかる。もちろんテラとフラムにはじゃれ合いを続けるように思念で告げて。
『そ、そんなバカなッ!? どうしてオイラの身にばかりこんなッ!?』
『さあ抱きしめてよぉ兄様! とろけてしまうまで!』
『あ、あ! ぬあぁッー?!』
竜の兄妹から返ってきた抗議と歓喜と悲鳴の念。それに悠華と瑞希は揃って黙祷を捧げて、目の前の課題に意識を向け直した。
「ダァメじゃ、さっぱり分からん。みずきっちゃん教えて」
「もう、教室にいるのに寝てばかりいるから」
いち早く課題に音を上げる悠華。それに瑞希は呆れ混じりに苦笑しながら、ヒントを分け与える。
その一方で鈴音は間を開けてしまったノートを、瑞希のノートと教科書を参照して、手馴れた様子で埋めていく。
「おお、スラスラいくねすずっぺ」
「うん。明松さんのノートが分かりやすいし、こういうのはいつものコトだから」
悠華の言葉に自嘲を含んだ笑みを浮かべる鈴音。
それに悠華は頬を強ばらせて、宿題と鈴音とを見比べて頭を抱えて見せる。
「いやほら、アタシは授業出ててもぜんぜん分かんないし!? ノートも丸写しにするのも遅いからさぁ、スゴいなって!」
自分は頭の出来が悪いからと己を下げる悠華。
「悠ちゃんの場合、教室で寝てるからだと思うけど?」
そこへ横から呆れ笑いに瑞希が突っ込む。
「いや、いおりちゃんの授業は結構起きてない? 雑学コーナーとか面白おかしいし」
「そう言えば確かに……歴史関係のノートだけは、悠ちゃんにほとんど貸してない……!?」
「でしょお?」
悠華の一言から衝撃の事実に思い至った瑞希。そんなレンズの奥で大きな目を見開いた親友へ、悠華は引き締まった胸を張る。
「あ、悠ちゃんそことそこ、ここも間違ってる」
「え? あっ、マァジだ……」
だがその手元にある解答欄の埋まった歴史の課題の正当率は、半分前後がせいぜいであった。
そんな悠華と瑞希のやり取りに、鈴音は思わず溢れ出た笑みを片手で隠す。
「どったのすずっぺ?」
それに顔面から疑問符を浮かべた悠華が、首を傾ける。すると鈴音はこみ上げる笑みを震えて抑えながら、何でもないと言うように手をかざす。
「大したことじゃないの。ただ二人が、ふふ……宇津峰さんと明松さんが面白くって。ふふッ」
「うん。悠ちゃんは見てると可笑しいよね」
「みずきっちゃん!?」
笑いを堪えながらの鈴音の言葉。それに瑞希がさりげなく自分を外して同意した事に、悠華の顔が驚きに固まる。
そんな悠華と瑞希のやり取りに、鈴音からまた堪え損ねた笑いが溢れる。
だがその顔はすぐさま、憂いを帯びた寂しげなものに変わる。
「……私の体がちゃんと元気なら、もっと早く、もっとたくさん、こんな楽しさが味わえたのかな……?」
その深い哀しみを含んだ言葉に、悠華と瑞希はかける言葉も見つからず、口を閉ざすばかりであった。