小さな導き手
『そこの子、早く逃げるんだ! ここはオイラが食い止める!』
穴から這い出ようとする腕を睨みながら、ライオンもどきが言う。
「え? や? 逃げろってどこへ?」
しかし悠華は訳の分からないファンタジック大自然に放り出された衝撃からいまだ立ち直れておらず、戸惑うままに尋ね返す。
『どこでもいいから……』
それに答えようとライオンもどきが口を開くと、言葉を遮って地面が爆発。
飛び散る石や土くれを前に、鎧のような甲殻をまとうライオンは宝石のたてがみを開いて土砂の柱へ唸る。
土と石の雨が上がり、地面を突き破って現れたモノの姿が露になる。
一足早く顔を覗かせていた闇色の手。デッサン人形めいたそれを辿れば、歪に捏ねられた粘土のような胸に繋がる。
ツルリとした腹を挟み、またも無造作な粘土の腰に続く。
そこに埋めるようについた脚も可動式人形のそれである。
そして粘土塊の胸に乗るのは、のっぺりとした闇色の塊であった
出来損ないの、あるいは作りかけとも見える人形。
表情のないソレは、顔の正面を悠華へ向ける。
「うっ……」
人形の顔が目玉が無いのっぺらぼうにも関わらず、悠華は射竦められて呻く。
『おぉりゃあ!!』
そこへ割り込む気合の雄叫び。
鋭いその声に乗って放たれた岩の塊が闇色の人形を直撃する。
『とにかくここから離れて! 早く!』
「う、うん!」
体の自由を取り戻した悠華は、鎧ライオンに促されるままに踵を返す。
『うぉおおおおお!!』
雄々しい咆哮に続く重い轟音と震動。
あの小さな体から生まれたとは想像もつかないほどの地鳴り。それを背に受けて、悠華は木立の間へ駆け込む。
掻き分け通り抜ける度に音を立てて擦れる枝葉。
その都度その都度に、日に焼けた肌が裂け、服のそこかしこが千切れほつれる。
だが悠華は傷つく体に構わず、身を隠す場所を求めて影の濃い奥へ奥へと走る。
その間にも、逃げる背を煽るように地鳴りと轟音が重なり響く。
非現実的な音の中を、悠華はただ見知らぬ木々を掻き分け逃げるしか無かった。
「ただ逃げろって言われても、どこまでいけばいいわけ?」
僅かに息を弾ませながら、あての無い逃走に悠華はぼやく。
「知らない草原に知らない木の森、ワケわからんの同士の戦いに巻き込まれかけてお逃げなさいで今ココ。なんだってアタシがこんな目に……」
手足を休まず動かし続けながら、深刻にならぬようにか努めておどけ調子で溢し続ける。
「……って、稽古サボろうとしたからか。でもだからってここまでされる謂れは無いっしょ……」
悠華はそう力無く呟くと、足を止めて深くため息を吐く。
鬱蒼とした森の中にぽつりと開けた空間。
真上からの木漏れ日が漏れ注ぎ、井戸の底じみた雰囲気を醸し出す空間で、悠華は傍らのねじれ幹に背を預けて座り込む。
根を椅子に座った悠華は、そこで膝や手に出来た切り傷と蚯蚓腫れを改めて目にする。
そして大きく肩を上下させて心身の疲労を吐き出すように息をする。
「夕方だったはずなのに、いつの間にか太陽昇り直してるしさ……ホントなんなのさココ」
一度木の葉のカーテン越しに直上の太陽を見上げ、かくりと折れるように俯く。
「ああもう神様仏様婆ちゃん様。どうかお助けください。もう稽古はサボらない……かもしれませんから」
建前にすらなっていない緩い誓いを掲げて祈る悠華。
それで何かが変わるわけもなく、祈りの言葉は虚しく木立の隙間に消える。
だが悠華は頭を振って顔を上げると、両の頬を挟むように張る。
「いかんいかん! しょぼくれるなんてアタシらしくない」
音を立てて気合を叩き込み立ち上がる悠華。
「どれくらいの森か知らないけど、婆ちゃんに山に放り込まれて一人で脱出させられたこともあるし、何とかなるっしょ」
そうして鼻息も荒く頷き、自身を奮い立たせるように言葉を重ねる。
「おろ? なんぞこれ?」
するとその眼前に細かくちらつく光が降ってくる。
雪にも似た光を辿って悠華が顔を上げる。
するとひらつく青と赤が、二匹の蝶が羽ばたき舞い降りてくるのが目に入る。
だがそれはただの蝶ではない。
色鮮やかな翅の間にあるのは細くしなやかな人の体。透き通るように白いそれは、一糸も身に付けていないのに、男女の区別がつかない。
翅と同じ色の髪からは幾対かの触角が伸びる。その下の顔は赤子の人形のようにふっくらと愛らしく整っている。
「よ、妖精……ってヤツ?」
そう舞い降りてくるのは正に妖精。ストレートなまでに綺麗にイメージされた手のひらサイズの妖精そのものであった。
赤と青の蝶妖精はそのまま花の香に誘われるように悠華の鼻先まで降りてくる。
そしてご馳走を薫りまで味わおうとするかのように、揃って胸が膨らむ程に鼻から空気を吸い込み、うっとりと目を開く。
そこで妖精たちはようやく悠華を認識したらしく、蕩けていた目を見開いて舞い上がる。
「あの、アタシそんなに匂う?」
そんな蝶妖精二人に、悠華は自身の肩や手の甲に鼻を近づけながら尋ねる。
しかし赤と青の小妖精は質問を無視して顔を突き合わせ、悠華には聞こえない言葉で何やら相談している。
「ねえ? おーい、妖精さんやーい? もしもーし? ノックするぞーい?」
悠華は自分を置き去りに相談を続ける妖精にこっちを見ろと手を振り声をかける。
すると妖精たちは、揃って弾かれたように悠華を見る。
いやその目は悠華の後ろ、鬱蒼とした木立の向こうを見据えている。
森の奥を見つめる妖精たちの表情は慄き凍りついている。
「ど、どしたの? おーい?」
妖精たちの発するただならぬ戦慄。それに悠華が探るように応答を求める。
と、同時に響く重低音。
「へ!?」
悠華の背後から響いた岩を砕くそれに続き、若木のひしゃげ折れる音が響く。
「ぉわっとぉ!?」
背後の破壊音を確かめようと悠華が振り向きかけた刹那、その身はグンと何らかの力に引っ張られる。
見れば左手を青のが、スカーフの先端を赤翅のが掴んで、さらなる森の奥へと引き込もうとしている。
「ちょ!? えぇ? どうする気!?」
手のひらに収まる体躯からは思いがけない力。そんな怪力の妖精に、悠華は木の根につまづきながらも牽引されるままについていく。
蝶妖精二人の強引な案内に戸惑う悠華。その視界の隅に小さな緑色がちらつく。
「今度はなに?」
ピョンピョンと軽快に跳ねるそれは、一つまた一つと辺りの草むらから現れてみるみるうちに数を増やす。
緑色に染めた甲虫の鎧兜を纏い、両手にはカマキリ鎌のマチェットで武装したバッタの足の小人たち。
それが悠華の周囲を囲む緑色の正体であった。
縄こそうたれてはいないが、隙間無い護送はどこかガリバーじみている。
手を引く蝶妖精も含めて、悠華を緑色の流れに取り込んだ小人らの思惑は依然として知れない。
さっきの飛びきりのご馳走を目にしたような様子から、食料か、畑のようなものとして扱われるかも知れない。
だが少なくとも彼らは今のところ、悠華を貴重な財産として何かから守ろうとしているようであった。
今はこの小人たちの導きのままに、木々の海を魚群の如く泳ぎ進むしかない。
そう結論付けてか、悠華は先導する赤と青の翅とバッタの兵士たちの背中を見つめて足を進める。
だがそんな妖精護送団の行く手を阻むように、前方の地面が爆発。
「うわ!?」
立ち上る褐色の柱。土と、腐りかけの木の葉を含むそれを前に、悠華を核にした小人の群れが立ち止まる。
直後、土柱を割って何かが飛び出す。
闇色のそれは、最前列のバッタ兵士が身構えるよりも早く強襲。鎧兜に身を包んだ体を消し飛ばす。
「え? ……うそ?」
埃を吹き払うように飛び散ったバッタの小人。着ていた鎧の破片が悠華の右頬を掠めてまとめた髪を揺らす。
呆ける悠華の前で赤と青の妖精が甲高い声を上げて腕を伸ばす。
その号令を受けて緑の兵士たちが突撃。土柱へ殺到する。
同時に巻き上がった土が晴れ、その内にいたモノが姿を現す。
闇色をしたデッサン人形と粘土を組み合わせたような人型。
それは紛れもなく、小さなライオンもどきと戦っていたはずの禍々しい人形であった。
ライオンもどきを振り切ったのか、あるいは突破してきたのかどちらかは判断はつかない。だが闇色の人形は今ここに立ち、目の無い顔で悠華を睨みつけてくる。
闇色の人形は躍りかかるバッタの小人をハエを払うように叩き落としつつ一歩前進。
対して赤と青の妖精は悠華を後ろへ押し退けさせながら今一度号令を飛ばす。それに応じて緑色の鎧兜の小兵士たちが敵との間に壁を作るように陣形を組む。
だが突撃した第一陣を残らず返り討ちにした人形は、小さな兵士たちの布陣に向けて真っ向から直進。まるで砂の小山をどこから踏み潰そうかと探るように、じりじりと接近してくる。
その足が枯れ枝を踏み折ると同時に緑の塊が二つに割れる。
「ちょっ!? そんな!?」
戸惑う悠華とそれを押す蝶妖精たちを守る数名の兵士が離脱。残る全員がカマキリのマチェットを構えて突撃する。
決死の殿として、禍々しい人形を阻む小人たち。
闇色の腕が振るわれる度に虫鎧の小人たちがバラバラに砕け散る。だが彼らは一歩も引かず、二本の刃を敵へ叩きつける。
体は小さくとも、彼らは残らず勇猛な戦士であった。
「ダメ! ダメだって!」
自分の盾になって戦士たちが散っていく。
今もまた腕を切りつけた兵士が叩き潰され、足にすがりついた者が蹴散らされる。
一人また一人と犠牲が生みだされる光景に耐えられず、悠華は頭を振って踏みとどまろうとする。
しかし妖精たちはそれに構わず、悠華を敵から引き離そうと力を尽くす。
その競り合いが生みだした停滞の間に、闇色の人形は殿を蹴散らして悠華たちに肉薄する。
眼前に迫るのっぺりとした顔。それがぐにゃりと捏ねまわすように歪んで口を形作る。
「うっ!?」
おどろおどろしく歪な顎の接近に悠華は思わず息をのむ。
だがその口との間に割りこむようにして青翅の妖精が割り込み悠華を突き飛ばす。
尻から倒れかかる悠華の目の前で、青の妖精が歪な口の中に収まる。
「そ、んな……」
目の前で身代りに食い殺された青妖精。その犠牲に悠華は目を剥き、絶句。
腰に衝撃が響く中、闇色の人形は首を捻って逃がした獲物を見下ろす。
確実に仕留めようと振りかぶられる右手。
だが殺意の塊が降り下ろされるよりも早く、草むらから飛び出したオレンジの影が左脛に食らいつく。
それは果たして悠華に逃げろと促したライオンもどきであった。
『何してるんだ! いいから逃げろ!』
またも逃げろと言うその体は手傷を増やし、戦い続けられるようには見えない。
しかし手負いでありながらも敵へ食らいつく鎧ライオンの姿に、残った緑の兵士たちも勢いづき、前後から一斉に闇色に殺到する。
全身を覆うように群がるその姿は、スズメバチを蒸し殺そうするミツバチの如く。
だが悲しいかな。暗い色の人形は、煩わしげに小さな勇者たちを払い落とすだけであった。
赤の妖精も、号令とも檄ともとれる甲高い音を上げながら、兵が弾き飛ばされる度に飛び寄り癒している。
「あ、アタシのせいで? アタシを守った、守ろうとしてるせいで……?」
いまなお傷つきながらも果敢に立ち向かう緑の兵たち。必死に食らいつくライオンもどき。そして一呑みに消えた青の妖精。悠華はそれらを思い、しりもちのままか細い声で呟く。
その悠華の目の前で、人形は宝石たてがみのライオンに食いつかれた足を大きく振り上げる。
『ぐあっ!?』
その踏み込みはライオンもどきのみならず、群がる兵たちをも一息に払い飛ばす。
そして改めて悠華に狙いをつけ、右手を大きく振りかぶる。
だが今まさに降り下ろされようとする右手首に、赤の妖精がしがみつく。
闇色の人形はそれに顔を向けると、再び顔を歪めて口を開く。
「させるかぁッ!」
刹那、悠華は弾かれたように立ち上がり、無意識のまま、心のままに右拳を撃ち出す。
ほのかなオレンジの輝きを纏ったそれは、大口を開けた人形の横っ面へ吸い込まれるように直撃。
深くめり込む右拳。
捻れ歪む暗い色の横顔。
コンマ数秒空けて響く大気を揺るがすインパクト。
オレンジに色づいた風を撒き散らして、闇色の人形は大きく吹き飛ぶ。
木立の合間に吸い込まれるそれを見据えながら、悠華は飛ばされた赤の妖精を左手に受け止める。
『こ、これは……? この力は……!?』
手のひらの妖精を庇い、油断無く身構える悠華。その体から立ち上る淡い輝きに、鎧ライオンは目を見開く。
「これ以上、アタシのせいで誰かを傷つけさせてたまるかってのッ!」
悠華の放つ決意の気。それと共に光が広がり、辺りに倒れた者たちの傷へ染み込んでいく。