黄金のリンゴ争奪戦(8)
先輩はさっきの私の言葉に黙ったまま、なにも答えようとしない。なんか言ってくれないとグラタンをつくる時間だけがなくなっていくんだけど。
「先輩なんか言ってくんなきゃ私帰っちゃいますよー?」
「…なんでよ、」
「は?」
「なんであんたなのよ!私の方が何十倍も可愛いのに‥!」
いやいやいや、その何十倍っていう自信、いったいどこから出てくるのよ。ていうか、どんだけ自信過剰なんだよ、あんた。
「いや、そりゃあ先輩可愛いとは思うけど、」
「なのにどうしてよ!」
「いや、どうしてって言われても、‥うーん、」
どうして、かなぁ?
「なんでお前が励ましてんだよ」
「ほえ?‥凛久?入って来ちゃったの?」
凛久の声が聞こえたせいか、先輩は華奢な肩をびくりと揺らした。俯く先輩を見る凛久の表情はとても冷たい。いつだったか、梨央と喧嘩したときに1度だけ垣間見たような、とても冷たい無表情。
「言っときますけど、先輩。直のが何十倍も可愛いっすよ」
って、無表情でなんてこと言ってくれてんの、この子。そんな無表情で言われてもちっとも嬉しくないんですけど。いや、むしろ怖い。
「それに俺、前も言いましたけど、先輩のこと好きになんてなれないっすよ」
「なんでよ!?」
先輩は目に一杯の涙をためて凛久に詰め寄った。凛久はそれを抱きとめることもなく、ただ自分の胸元で泣く先輩をじっと見ていた。
「なんでって言われてもなー‥好きになれないんすもん、仕方ないでしょ」
「‥だから、なんでっ、」
「直いるし?」
そこ疑問形なんだ?でもって、そんなこと言うから先輩に睨まれちゃったじゃん。
「どうして、」
「直より自分が劣るのって?そりゃあ俺が直に惚れてるからでしょ」
こいつはいけしゃあしゃあとまぁ恥ずかしいことを言ってくれる。私はなんだか気まずくなって、何ともやわらかい笑みをこちらに向ける凛久から目をそらした。なんつー対照的な表情するのよ、こいつ。
「だから先輩そろそろ俺のこと諦めてくださいよ」
凛久は先輩から1歩下がってしっかりと先輩の目を見て言った。なんていうか、こういうところ、本当に律儀っていうか、しっかりしてると思う。こういうのを見てると高校の時の深山ちゃんのことを思い出す。あの時も、こいつは律儀にもしっかりと深山ちゃんに諦めてほしいということを告げた。おかげで私は睨まれることになったんだけど。迷惑なことに。
「じゃ、直行こうか」
「え、行くって、」
泣いてる先輩放って?それ、ひどくない?
私は凛久に手を引かれながらも確実に教室の入り口に向かっていく。先輩になにか言葉をかけようかとしたけれど、何の言葉を見つからなくて、結局なにも言えずに私はその教室を出た。黙ったまま、駐車場まで手を引かれ、車のそばまで来たときにやっと凛久に手を離してもらえた。
「なんで、」
「直が言ったんだよ?」
「は?」
私がなにを言ったって?
「半端な優しさは相手を傷つけるだけだって。まさか覚えてないなんて言わないよな?」
「あー‥、」
言った、ような気がする。…‥うん、言ったな、言った。深山ちゃんの時に言ったね。中途半端な優しさほど相手を傷つけることはないんだって。いや、確かにそうだと思うし、その言葉に偽りはないと思うけどさ。まさかここでそんなの引っ張ってこられるとは思ってもなかったんだけど。まさかかえってくるなんて誰が思うか。
「思いだしたか」
「まさか自分が引用元だとは思わなかった」
そう言って、私は助手席に乗り込んだ。そんな私を見た凛久も運転席乗って車を発進させた。
「そういやさ、なんであれ黄金のリンゴなの?」
「は?あんた知らないの?ヘラの神話のひとつよ。結婚式に争いの神が呼ばれなかったから、それにムカついた争いの神が黄金のリンゴを送ったんだって」
「それのどこが関係あんの?」
「そのリンゴには最も美しい女神へって書かれてたんだって」
「あ、なるほど」
なんつーか洒落てるよね、そういう名前のつけ方は。ただ、なんかすっごい争うような意味合いも含んでそうな気がするけどね。
「まぁ、ヘラは黄金のリンゴを受け取ることはできなかったんだけどね」
「へ?ヘラってすっげぇ美人だったって聞いたことあるけど?」
「なんでそういうとこだけは知ってんのよ。あとはよく知らないから自分で調べて」
「わ、投げやがった。……でもあの時の直、ほんとに綺麗だった」
「……‥どうも、」
急にそういうこと言わないでほしい。まじでけっこうマジで照れる。
「あれ、照れちゃった?」
なんて茶化すから、かっこよかったよなんて言葉はいつも返せずじまい。ぷいと窓の外の景色に顔をそむけてしまった私を見ながら凛久はきっと笑っている。表情はわかるけれど、いつもその表情は見えない。
「なぁ、もいっかい言ってよ」
「は?」
スーパーの駐車場の端っこもいいとことの端っこに車を停められて、凛久は真剣な声色で言った。思わず凛久を見れば、じっと私を見ていた。‥いや、余計に言えないし。
「もいっかい」
「誰が言うか、あんな歯の浮くようなセリフ」
「それでも俺はあの言葉けっこうきたけどなぁ」
「あんただけでしょ」
私はシートベルトを外して買い物に行く支度をする。凛久はその間もじっと私を見ている。なんか、すっごく居た堪れない。
「……絶対、絶対どこにも行かないで。お願いだから、」
ああもう、恥ずかしい。俯いて小さな声でいえば、隣からクスッという笑う声が聞こえてきた。そっと抱き寄せられた頭にあたったのは、あたたかくて柔らかいなにかで。小さなリップ音とともに離れていくその温もりは、なにと聞かなくてもすぐにわかった。瞬間に見上げた時に見えた凛久の表情は、これまでにないくらい綻んでいた。




