19話:師の壁(その8)
「まったく・・・何か食べ物が合わないのかと心配してしまいましたよ」
次の料理を持って部屋に入ったマサハルの眼に最初に飛び込んできたのは、
腹を抱えて笑い転げる椿の姿だった。
「いらぬ誤解を招いたお前が悪い、と言いたいがこの味では文句が言えぬな」
「椿のあれは私に他意がない事を分かっててやってますからね。
そもそもこの丼の素案を出したのはミコトですよ?」
「姉しゃますごい」
よっぽど気に入ったのか幻斎は山かけ丼のお替りをミコトに頼む。
それに負けじパクパクと食べるアスカも空になった茶碗をミコトに差出し、
ミコトが甲斐甲斐しくよそってやる。
椿はまだ笑いが収まらないのか目じりに浮かぶ涙を指で拭いながら、
チビリチビリと酒を口に含む。
その様子を見てマサハルは何度目か分からない溜息をつく。
そして、椿の手から銚子を奪い取る。
「酒の飲みすぎは体に毒ですよ?」
「爺に続いてお前もか?酒は我の友ぞ?」
「それでも、私やミコト、アスカより優先される事はないでしょ?」
「お前は夫で、ミコトとアスカは娘ぞ?そういう比べ方は卑怯と言うものではないか?」
椿は軽く頬を膨らませてやれやれと言わんばかりに大袈裟に首を横に振る。
猪口に残っていた酒をくっと煽り、ふーっと溜息をつく。
「まったく・・・大久保の男共ときたら、どうしてこうも口うるさいのだろうな?
ミコト、アスカ、婿を取る際は聞き分けの良い男を選べよ?」
「何言ってるんですか!?まだ二人には早い話でしょうに。
それに酒臭い母親なぞミコトもアスカも好みませんよ」
「うぅっ・・・ミコトォ・・・良太が我をいじめるぅ」
マサハルの注意に不貞腐れたのか椿はミコトに絡む事にした。
「良太も昔は可愛かったのだ」
だの、
「良太は大きくなったら我の嫁になると言っておったのだ」
だの、マサハルの過去の恥部をベラベラとミコトに抱き付きながら喋り出す。
もちろんマサハルも椿の恥部を知っている。
子供の頃、一緒に昼寝をしていた時の寝小便を自分のせいにした。
幻斎お気に入りの茶碗を割ったのを自分のせいにして、逆にそれがばれて怒られた。
数えるのも馬鹿らしいくらいである。
しかし、仮にも一国の王の恥を娘にとはいえ晒す事は出来がたい。
女王の、母親の威厳というものを保ってやろう。
そう考え、マサハルはちらっと幻斎に視線を向ける。
視線を受けた幻斎はすぐさまマサハルへ視線を返す。
マサハルは溜息を吐くと頷いた。
「ミコトにアスカや、ちと小僧の様子でも見に行こうか。
向こうでも美味い物が用意されとるみたいだからのぉ」
幻斎は立ち上がるとミコトとアスカを抱えて両肩に乗せた。
男二人が取った行動。
戦略的撤退はマサハルの威厳がいささか崩れるという被害もあったが、
致命的な被害を受ける事なく遂行されるのであった。
「大根だけ?」
次にマサハルが出したのは温かい汁に漬かった大根の煮物であった。
先に出た料理で椿が感じたインパクトは全くない。
箸で割ってみる。抵抗なく進み簡単に割れた。
口に入れる。
微かにシャリッとした歯触りと共に煮含められた汁が口に広がっていく。
煮崩れしないようにキチンと面取りがなされており、
中まで味を染み込ませようと隠し包丁がしっかりと入れられていた。
「先程までの驚きはないが、ホッとする味だな。強さもないが重さもない。
しかし、くっきりと味が分かる。シビの旨味を大根に閉じ込めたか」
「骨から出汁をとりました。
臭み消しに生姜を使ったのも効いているのか思ってた以上の味ですね」
「酒に合うと言いたいが、この出汁だけ飲んでも満足できるのがいいな。
だから大根を使ったのか・・・」
「魚肉を使うとどうも味が重くなりかねないのでね」
「そうか・・・」
椿は目を閉じてムグムグと大根の食感に没頭する。
その間にマサハルは次の料理の準備に取り掛かる。
茶釜に水を入れ、火を起こす。
厨房でも沸かしていたのだろう。湯になり沸騰するのが早い。
大根を食べ終わり汁まで飲み干した椿が味の余韻に浸ってる間に、
テキパキと作業は行われる。
「また丼か?さすがにそんなに食べられないぞ?」
「そんなに多くありませんよ」
マサハルの言うとおり、茶碗に対して飯も少なくマグロの切り身も丼の時と比べ少なかった。
2切れ、3切れ乗せられた程度である。そこにちょんと醤油をたらす。
脇においておいた茶器で煎茶を作り、ザバッとかける。
マグロが浸るまで注がれた茶の熱でマグロの表面がみるみるうちに白みを帯びる。
マサハルは茶碗の縁に山葵を少量乗せて椿に渡す。
「良い香りだな」
茶と醤油の入り混じった香気が鼻腔をくすぐる。
切り身を口に含む。
茶の効果で生臭さがないからか、熱を通した半煮えの刺身が妙に旨い。
それに喉の通りがよくスルスルと入っていく。
「あまり入らんと思っていたが、これはこれは・・・」
「たまにはこういう趣向も乙ってもんでしょう。これもどうぞ。箸休めです」
そういって差し出したのはクルリとカーブを描いた揚げ物である。
「これはなんだ?」
「皮を揚げたものです。獲れたての魚でないと出せない代物ですね」
噛むと独特な弾力をした歯応えが返ってくる。
味も魚肉よりもずっと濃い旨みがサクサクした衣と一緒に口の中でほどけていく。
「皮とはこんな味がしたのか。初めて知ったぞ」
「中より皮の方が味が強い食材ってのは結構あります。
まぁ、皆が椿に出せるはずもないでしょうけどね」
一国の王である椿に端材となる部分を料理して出せるわけがない。
「王とはこういう時に不自由なものだな」
それだけを言って椿はサラサラと茶漬けを平らげる。
あっという間に茶漬けは椿の腹の中へ落ちた。
「満腹だ。眠くなってきた」
「ミコトとアスカにも注意してるんですから寝ないでくださいよ。
示しが付きませんから」
「そう言うな」
椿がマサハルに寄り添うようにしな垂れかかる。
マサハルにとってはその重さが心地よかった。
ずれ落ちないように椿の身を腕で支え頭を己の肩に乗せる。
「良太・・・」
肩にもたれながら椿がポツリと呟く。
「なんです?」
「勝てそうか?」
誰にとは言わなかったが、その情報をどこで仕入れてきたのか。
それともこうなる事を予測していたのか。
(椿に隠し事なんて殆ど無理なんですね)
苦笑しながらもマサハルは目を瞑り首を傾げる。
マグロを使って色々料理していくうちに、マサハルに一つのアイデアが浮かび上がる。
確かにマグロは使える部分が非常に多く無駄が少ない魚である。
しかし、その巨体ゆえに保存しにくいという弱点がある。
そんなに頻繁に調達出来るような代物ではない。
(方針はこれで良い。後はそれをどう昇華させるか、ですね)
無駄なく使え確保が容易な食材。
そんな食材があればとうの昔にヨネに研究され尽くされている。
そこでマサハルはマグロと共通するもう一つの条件に活路を見出す。
それは、誰も見向きもしない魚。
そこに自分の知識と技術を注ぎ込み一つの料理に昇華させる。
おあつらえ向きの食材がマサハルの脳裏に浮かび上がった。
「分かりません。けど、師匠の度肝を抜いてやれそうです」
「そうか・・・」
それだけ言うと椿は一瞬マサハルから離れ、ゴロリと頭をマサハルの太腿に置いた。
いわゆる膝枕の体勢である。
「椿・・・」
「我とお前しかおらぬだろう。固い事を申すな」
疲れもあったのだろう。
椿は数秒の後に眠りに落ちた。
マサハルの近くにいるという安心感もあってか寝顔も安らかだ。
その寝顔を綺麗だと思いつつも、マサハルは天井に向けて声を掛ける。
「今宵は椿はここに泊まります。警護の役目、ご苦労でした。
また、琴音殿においては明日は出仕及ばずと伝えてください。
椿が迷惑を掛けて申し訳ないと、どこかの誰かが詫びていた事も」
その次の日からマサハルは勝負のための品を作るために力を注いだ。
使った材料でミコトが
「父様の気が狂ったぁ」
と、幻斎に泣きつく程に様々なモノを込めた渾身の一品は
椿に宣言した通り、良い意味でも悪い意味でもヨネと審査員の度肝を抜く事になる。