14話:師の壁(その3)
巨大なマグロを船に揚げたマサハルは、それを甲板に置くと手早く包丁を取り出す。
いつも使っている包丁より大型のものだった。
マグロを〆るためだ。
そして狙いを定める。場所は頭部の中心、すなわち眉間。
包丁をピタッと静止させると一息で刺し貫いた。
ズブリとした独特の手応えと共に包丁はマグロの頭へ吸い込まれ根元まで突き刺さる。
そのとき突然マグロがビクビクと痙攣し始めた。
八十貫を超える大物が痙攣するのである。
船は大きく揺れた。
(神経が暴れてるという事でしょうか)
大きな揺れに堪えながらもマサハルはマグロの頭に突き刺さった包丁を手放さない。
しかし持ち方を変えた。
握っていた右手を放し、柄尻に左の掌を押し付ける。
(深く鋭く中へ力を徹す事を想像する。本当の実戦じゃ私には難しいですね)
右手を軽く引き、深く息を吐く。
そして右の掌をパンと左の甲へ重ね合わせた。
瞬間、マグロは大きく身体を反らせ、その後は完全に沈黙した。
マグロの脳から脊髄の神経が完全に破壊された事の証明であった。
「見事な剄だぞ」
何時の間に戻ってきたのかガウが船の縁にしがみ付いていた。
「まだまだ未熟ですね。シビが暴れる事を予見できませんでした」
返しながらもマサハルは包丁を抜き、更に突き刺し十字の傷をつける。
血抜きの穴を作るためである。
エラブタに切込みを入れ、手前を三日月状に切り取る。
血が飛び散るがマサハルは気にせず包丁を入れていく。
腹も縦に切り開き、慎重にエラと内臓を取り出す。
「ガウ任せます」
「おう」
ガウは縁から船に上がるとマグロの尾を掴み上げた。
血がボタボタと落ちて行き海を赤く染める。
血の流れがある程度収まるとドボンと海面に着け上下に揺らし始めた。
中まで洗うためである。
一方のマサハルは備え付けてあった甕から柄杓を取り出す。
中には酒が入っている。
それを内臓に振り掛けると丹念に汚れを拭き取っていく。
それを何度も繰り返し、別の甕に漬け込む。
そこには醤油が入っていた。
「旨そうなんだがな。シビってあまり食わねえんだろ?」
「我々ならともかく町の人たちは下魚をあまり好みませんね」
「俺ならこんだけあれば喜んで食うぞ」
ヒノモトにおいてマグロはシビと呼ばれ、下魚とされている。
我々の世界の食卓を賑わすマグロがなぜ下魚なのか。
それはマグロが腐敗しやすいからである。
その大きさゆえに家庭で処理しきれる訳がなく腐らせてしまう。
脂の部分が特に腐りやすく腐った後の匂いも酷い。
ではどうすれば保存できるのか。
当然の事ながら思い付くのが冷凍保存である。
しかしマサハルが持っている氷室をもってしても品質を保つ事は難しい。
マサハルも一度試した事があるが失敗していた。
ならばもっと温度を低くする必要がある。
しかし、ヒノモトにおいてそれを可能にするのは技術ではなく術の領域であった。
マサハルの伝でもその術を持つものは何人かいる。雪女などがそうだ。
しかし、殆どの者は雪国とされる東方に所在していた。
ヤマトにも人間ではあるが、術を持つものは一人いる事はいる。
しかし、用途が知れれば必ず刃物を持って追いかけてくるとマサハルは確信していた。
その者の名前が斎藤琴音だったからである。
「良太が私の力を借りたいとは珍しい。一体どうしたのです」
「ほう。氷の精霊の術を使いたい。何に使うのです?」
「マグロ?シビの保存?え?何を言ってるんです?」
「まったく・・・お前は昔から全然変わってない。ここに直りなさい!性根を叩き直す!!」
こういう未来図が容易に想像できた。
「食えないのか?」
「食べる事は出来てもここで食べて残りの身の部分は醤油で漬けるしかないでしょうね」
「こんなにデカいのに勿体ねえ話だぞ。塩漬けとかすれば腐らないんじゃねえか?」
「塩漬けですか・・・それも悪くはありませんね。けど、それだけじゃ足りませんよ。
しかし、せっかくガウが頑張って獲った魚です。無駄にするわけにはいかないですねぇ」
それに、とマサハルは赤身以外の部分に目を向ける。
そこは脂が非常にのっており醤油も弾くだろうと思われた。
そこの保存方法を考えるのも一苦労である。
むしろ今この場で食べてしまえば後腐れがないんじゃないかと思えるほどである。
「仕方ないですね。急いで帰って加工しましょう。
その間に考えますよ」
「了解だぞ」
「方角はあちら。全力で漕ぎますよ」
揺すっていたマグロを再び甲板に置き、ガウは櫂を手にする。
マサハルもそれを確認すると身の回りを整理し固定して櫂を手に取った。
食材は獲得した。
後は意気揚々と帰るだけ。
ミコトとアスカは目を丸くして驚くだろう。
その光景を頭に浮かべにやけつつもマサハルは進路を港に向け漕ぎ出すのであった。