13話:師の壁(その2)
「つれないね~父様」
「今日はお魚が休業日なんでしょうかね」
釣り糸に餌をつけて垂らしてみるものの一向に当たりが来ない。
釣りというものは釣れない日はどれほど時間をかけても釣果がないものである。
そういう日をも楽しむのか嘆くのか釣り人でも様々な反応となるのであった。
マサハルの場合は無心になれる時間として、それを楽しんでいた。
普段なら、という条件もあるが。
今回のマサハルは全く集中出来ていなかった。
心の底から釣りを楽しむという事が出来なかった。
どうしてもヨネとの勝負の事が頭によぎって仕方なかったからである。
その迷いが釣り糸を通して伝わったのであろう。
魚はマサハルに寄ってこなかった。
そう思うしかないと考え、離れた場所で釣りをしている連れを見る。
見事に大漁であった。持参の桶から魚が溢れんばかりである。
「また来た。ガウ兄ひっぱる」
「チビお嬢すげえな。色んな魚釣れてるぞ」
アスカが釣りまくっていた。
と言っても当たりが来るまで待ってガウに釣り上げてもらう手法ではあったが、
とにかくその日の魚はアスカの竿に集中的に集まっていた。
「お魚さん休業日じゃないみたいだね」
「今日はあっちが当たりだったみたいですね」
マサハルはヨネとの勝負が決まった翌日、釣りをするために池に来ていた。
ヨネからの題材が海の幸である。
同じ魚とはいえ、なぜ池に行くのか?
その答えは、ここである人物と待ち合わせをしていたからであった。
そして、その人物に手土産として魚を用意するためでもあった。
「ふむ。大漁のようじゃな」
「アスカがんばった」
「父様は坊主だったんだよ~」
「そうかそうか」
幻斎は桶の中で泳いでいる魚を見て目を細める。
それを釣り上げたのが幼い曾孫と聞いてますます上機嫌になる。
子供達も釣りの話を曽祖父に聞かせようと身振り手振りで熱演する。
「そういう日もあるって事ですね」
「主。それだけ聞いてると負け惜しみにしか聞こえないぞ」
マサハルも娘達の様子に目を細めながらも自分の釣果を引き合いに出されて苦笑する。
持ってきたおむすびが、ほんのちょっぴり塩辛いのは気のせいであろうと心の中で思うのであった。
そして、ガウの冷たい突っ込みにも一顧だにしないのであった。
「おう、良太よ」
子供達の興味が魚に移った合間を縫って、幻斎はマサハルに声をかける。
「昨晩頼まれた物は用意できておるぞ。好きに使うがよかろう」
「ありがとうございます。随分早かったですね」
マサハルは祖父からの朗報に顔をほころばせる。
その前夜に大久保邸に足を運び幻斎に頼み事をしていたのだ。
海の魚を入手する方法は主に3つある。
1つ目は売りに来た魚屋から買い取ること。
2つ目は魚市場で買い取ること。
3つ目は漁師から直接買い取ること。
そして、裏技としてもう一つ。直接釣り上げる方法が存在した。
マサハルが頼んだ事とは船の手配だったのである。
夜の闇に乗じて沿岸部に向かって一隻の船が出港した。
船上には限りなく引き締まった体躯の男と筋骨隆々の男の姿があった。
それは頭に鉢巻を締めて褌一丁のマサハルとガウであった。
「今日は大物を仕留めますよ」
「腕が鳴るぞ」
船の大きさは米を十石(約1.5t、米俵25俵分)くらいは積み込めるくらいである。
小型と言われる船よりも更に小さかった。
しかし、これを二人で操船しようとすると至難の業である。
相当の技量と力業をもってしないと困難であった。
「主、どこまで行くんだ?」
「それは私の勘次第って所ですね。あっちの方角に進みましょう」
「おうさ!」
それでも二人とも常人離れした腕力の持ち主である。
櫂を漕ぐ呼吸も合いみるみるうちに船を加速させていく。
そしてマサハルは上手い具合に風を読み帆を立てていく。
小一時間ほど進んだろうか。
櫂を漕ぐ手を止めて帆を畳む。
そしてマサハルは櫂を落ちないように船に固定すると竿の部品を取り出した。
竹製で幾つかの部品に分かれており、それを器用に組み立てていく。
「さあ。昨日の雪辱戦といきましょうか」
「主まだ気にしてたのか」
針に餌を付け海に投げ込む。
その竿をガウに手渡すと、今度は自分用に竿を組み立て海に投げ込む。
ここからがマサハル達の戦いの始まりであった。
戦いの開始から約二刻(約四時間)が経過した。
「また釣れましたね」
「嘘だろ主!?」
マサハルが竿を引き上げる。
そこにはピチピチと暴れる鯛の姿があった。
昨日とは打って変わり、マサハルの竿に魚が集まっていた。
だが、マサハルはその全ての魚を傷付けないように針から外し海に帰していた。
いわゆるキャッチアンドリリースである。
「勿体ねぇぞ」
「思い浮かばないのは仕方ないでしょ。だったら他の魚を釣るまでですよ」
マサハルは勝負の題材を得る事が主目的で船を出したのではなかった。
それも大事ではあるが、インスピレーションを得る事を主目的として海に出たのである。
魚を観たければ、獲たければ市場に行くか魚屋を呼べばよい。
だが、それでは不足だったのだ。
鯛などの魚は普通に調理すれば美味しく食べられる。
しかし、それでは勝負にならない。
マサハルは具体的なイメージも掴めないまま、
何をどう調理するのか未決定のままで行動を開始した。
それは彼らしからぬ行き当りばったりな行動であった。
「けどよう。そろそろ帰らないとまずいぞ?」
娘達を祖父に預けたままにしている。
ガウの言うとおり帰る時間も考慮するともう半刻程が潮時であった。
「仕方ありませんね。次に掛かった魚で検討してみましょうか」
「今度こそ俺が釣り上げてみせるぞ」
そして言葉通りに次にヒットしたのはガウの竿であった。
「引きがつええっ!」
「竿を放しなさい。巻き込まれますよ!」
「ぬおおおおっ!」
ガウが踏ん張って竿を引っ張り上げようとする。
しかし当たりが強すぎてビクともしない。
リールを巻く手に力が入る。
巻いては緩めを繰り返し時間をかけて格闘するものの、獲物の勢いは弱まる気配を見せない。
「面倒だぞ。勝負だ!」
「あ、馬鹿!?」
竿を放り投げて海へと飛び込むガウ。
マサハルは慌てて予備においてあった綱をガウへ投げつける。
綱はガウの腰へと絡まりガウの着水と共にどんどん引っ張られていく。
ガウが飛び込んでから数分。
マサハルは綱と格闘を繰り広げていた。
本気で力を入れて踏ん張っているせいか身体が一回り膨らんで見える。
引き込まれる事はなくなっているが、逆に引き上げることも出来ない。
ガウなら潮に巻き込まれても海面に出てくる程度は出来た。
それが何時になっても現れない。
恐らく魚と格闘を繰り広げているのであろう。
水面が大きく盛り上がる。
魚が水面に現れ飛び跳ねようとする証である。
「シビ!?」
そこには日に照らされて黒光りするマグロの姿があった。
重さはぱっと見ただけでも八十貫(約300kg)を優に超える。
マサハルが今まで見たことのない大物であった。
そして、マグロの鼻面に足を絡ませ、拳で殴打を繰り返すガウの姿があった。
しかし、それも一瞬の事ですぐに着水する。
「ちぃっ!大き過ぎる」
マグロの動きに翻弄されないように改めて足を踏ん張り綱を引くマサハル。
己が船から落とされないように巧みに足場を変え、力の込め具合を調節する。
ガウの打撃とマサハルの綱を操る巧みさによって徐々にマグロが水面に出現する割合が高くなる。
「ふんっ!」
ガウの右拳が火を噴く。
しかし腕力だけでは力がうまく伝わらない。
人間相手であればそれで十分でも巨体を持つ魚に対しては威力が不足していた。
ガウはそれを連打で補う。
同じ箇所に集中的に一発一発丁寧に当てていく。
「ガウ!あまりやり過ぎると食べても血生臭いかもしれません。
殴打で仕留めるのではなく弱らせる事を考えなさい」
「承知!」
山や野の獣とてなるべく速やかに一発で仕留める事こそ後に食す事にとっては肝要である。
漁師や魚屋には聞いた事がないが、魚とて同じであろうとマサハルは単純に考えていた。
そして近海でマグロに遭遇するとは予想だにしていたなかった為に銛もない。
必然的に釣り上げるか素手で仕留めるかの選択肢に限られていたのである。
さりとてマサハルやガウが強かろうが種族としての限界がある。
早期に決着を付けるのが理想的であった。
「この状況でやると疲れるんですがね。それにあの巨体。通用するかどうか」
タイミングはマグロが飛び跳ねた瞬間。
「はっ!」
それに合わせてマサハルも跳んだ。
目の前を巨体が高速で通過する。
人にとっては恐怖する瞬間ではあるがマサハルは全く臆した様子を見せなかった。
それどころか手で触れようとする。
交差した瞬間。
勝ったのはマサハルであった。
マグロはマサハルの更に上へと吹き飛び、急な方向転換に不意をつかれガウはそのまま前に吹っ飛ぶ。
マサハルが着地する。
遅れてマグロも船の上に落下する。
それをマサハルは両手を上に上げて受け止めた。
船が大きく下に沈むがリバウンドで跳ねる。
大きな上下の揺れをマサハルは耐えしのぎ、揺れが収まった頃にはマグロが暴れる事もなかった。