空が青い理由
この国で、青は忌み色だった。
空の色であり、海の色であり、本来ならば誰もが美しいと感じるはずの色。けれど、グランシエル王国の民は青を恐れた。
子どもが青い布を身につければ、母親は慌ててそれを脱がせた。画家が空を濃く塗れば、司祭は眉をひそめた。貴族の娘が青い宝石を飾れば、「災いを招く」と陰口を叩かれた。
なかでも、青い瞳は最も嫌われた。
青い瞳を持つ者は、神に背いた者の末裔。
そう教えられて、誰も疑わなかった。
私、リーゼリア・クラウディアは、その青い瞳を持って生まれた。
母は、私が生まれた瞬間、泣いたという。
喜びではない。恐怖で。
「この子の目は……青い」
産婆がそう呟いたとき、部屋にいた者たちは一斉に口を閉ざしたらしい。
クラウディア侯爵家の長女。王太子の婚約者として生まれた娘。家門の誇りとなるはずだった赤子は、その瞳ひとつで、不吉な子と呼ばれることになった。
青色が忌まれるようになったのは、百二十年前のことだった。
当時、この国には「蒼月の王妃」と呼ばれた女性がいた。
名を、イリス王妃。
彼女は異国から嫁いできた王妃で、青い瞳と、青い月の紋章を持っていた。そして、王宮の正式な歴史書では、彼女はこう書かれている。
王を惑わした魔女。
青い瞳で人心を操り、王国に飢饉と疫病をもたらした女。
そして、反逆の罪で処刑された大罪人。
イリス王妃が処刑された年、王都では本当に疫病が流行した。翌年には長雨で麦が腐り、さらにその翌年には北方の山から魔獣が下りてきた。
王家は発表した。
すべては蒼月の王妃の呪いである、と。
以来、青は災厄の色になった。
空が青い日でさえ、人々は「王妃の呪いが見下ろしている」と言った。青い花は庭から抜かれ、青い衣は燃やされ、青い瞳を持つ子どもは神殿で祓いを受けた。
私も、五歳のときから毎月神殿へ連れて行かれた。
冷たい石の床に膝をつき、白い衣の司祭に聖水をかけられる。
「災いの色よ、退け。罪の血よ、鎮まれ」
何度も、何度も、同じ言葉を聞いた。
私はただ、目を閉じて耐えた。
青い瞳は消えなかった。
消えるはずがなかった。
それでも父は諦めなかった。私に薄い灰色の布を被せ、人前ではなるべく顔を伏せるよう命じた。王太子との婚約が破談にならないように、私は完璧な令嬢でいなければならなかった。
笑いすぎてはいけない。
怒ってはいけない。
泣いてはいけない。
青い瞳の女が感情を見せれば、それだけで人々は言う。
やはり魔女だ、と。
だから私は、静かに生きた。
静かに学び、静かに微笑み、静かに傷ついた。
そして十八歳の春、私は王宮の大広間で婚約を破棄された。
「リーゼリア・クラウディア。お前との婚約を、ここに破棄する」
王太子ユリウスの声は、広間によく響いた。
夜会の最中だった。
楽団の音は止まり、貴族たちの視線が一斉に私へ向けられる。驚いたふりをしている者もいたが、多くは期待していた。青い瞳の令嬢が破滅する瞬間を、彼らは見たかったのだ。
ユリウスの隣には、一人の少女が寄り添っていた。
淡い金髪に、蜂蜜色の瞳。男爵令嬢のフィオナ・ベルク。
彼女は震える手で王太子の袖を握り、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「理由を、お聞かせください」
私はそう言った。
声は震えなかった。
震えないように、長い年月をかけて訓練してきた。
ユリウスは冷たく私を見下ろした。
「お前はフィオナを池に突き落とそうとした。さらに、彼女に呪いの言葉を吐いたそうだな」
広間にざわめきが広がった。
「やはり」
「青い瞳の女ならあり得る」
「王太子妃になる前に分かってよかった」
私は静かに息を吸った。
「私は、そのようなことはしておりません」
「嘘をつくな」
ユリウスの声に、フィオナが小さく肩を震わせた。
「殿下、もうよいのです。リーゼリア様も、きっとお苦しかったのです。青い瞳のことで、ずっと皆様から恐れられて……だから私のような者が殿下のおそばにいるのが、許せなかったのでしょう」
見事な言葉だった。
私を責めているようで、哀れんでいる。自分を被害者にしながら、優しい娘にも見せている。
貴族たちは、すぐに彼女の味方になった。
私はフィオナを見た。
彼女の唇が、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間、分かった。
これは仕組まれたものだ。
私が何を言っても、無駄なのだ。
青い瞳の私が、蜂蜜色の瞳の彼女に勝てるはずがない。この国では、真実よりも色のほうが強い。
ユリウスは高らかに告げた。
「リーゼリア、お前を北方修道院へ送る。そこで一生、祈りと悔恨の日々を送るがいい」
修道院。
それは名ばかりの幽閉先だった。
王都から遠く離れた雪深い土地。戻ってきた令嬢はいない。
父は助けてくれなかった。母も視線を伏せた。友人だと思っていた令嬢たちは、扇の陰で口元を隠していた。
私は、ひとりだ。
そう思ったとき、広間の扉が開いた。
「その判決は、少々早すぎるのではありませんか」
低く、落ち着いた声だった。
人々が振り向く。
黒い礼服をまとった男が、ゆっくりと広間に入ってきた。銀に近い灰色の髪。氷のように澄んだ瞳。王都の甘い空気には似合わない、北の風をまとった人だった。
アルヴィス・レインフォード辺境伯。
北方の魔獣を退け続ける、王国最強の領主。
そして、王家が最も軽んじ、同時に最も恐れている男。
「レインフォード卿。これは王家の問題だ」
ユリウスが不快そうに言った。
アルヴィス卿は静かに首を傾げた。
「王家の問題であるなら、なおさら正確でなければなりません。冤罪によって侯爵令嬢を処罰したとなれば、王家の威信に関わります」
「冤罪だと?」
「ええ」
アルヴィス卿が片手を上げると、彼の従者が一人の庭師を連れてきた。
老いた庭師は、青ざめた顔で膝をついた。
「申し上げます。池のそばで見ておりました。フィオナ様は、自ら足を滑らせたふりをなさいました。リーゼリア様は、それを助けようとして手を伸ばされただけでございます」
フィオナの顔から血の気が引いた。
「嘘です!」
彼女は叫んだ。
アルヴィス卿は表情を変えず、次に小さな硝子玉を取り出した。
記録魔石だった。
王宮の庭園では、貴人の安全のため、要所に記録魔石が置かれている。普段は事故や侵入者を確認するためのものだが、証拠として使われることもある。
魔石が淡く光り、空中に映像が浮かんだ。
池のそばに立つフィオナ。
少し離れた場所にいる私。
そして、フィオナが周囲を確認してから、わざと体勢を崩す様子。
映像の中の私は、驚いて彼女へ駆け寄り、手を伸ばしていた。
広間は静まり返った。
誰も私を見なかった。
先ほどまで私を責めていた者たちは、急に床や壁に興味を持ったようだった。
ユリウスは唇を震わせていた。
「フィオナ……これは、どういうことだ」
「違うのです、殿下。私は、ただ……」
「ただ?」
アルヴィス卿が初めて、わずかに声を冷たくした。
「青い瞳の令嬢なら、誰もが信じると思ったのですね」
フィオナは黙った。
その沈黙が、答えだった。
私は胸の奥が冷えていくのを感じた。
悔しさではない。
怒りでもない。
もっと深い、乾いた感情だった。
彼女だけが悪いのではない。
彼女が私を陥れられると思ったのは、この国全体がそう教えたからだ。
青は災い。
青い瞳は罪。
ならば、青い瞳の女には何をしてもよい。
その考えが、人々の中に根を張っている。
アルヴィス卿は私の前まで歩いてきた。
「リーゼリア嬢」
「はい」
「あなたは、なぜ空が青いのかを知っていますか」
唐突な問いだった。
広間の誰もが困惑した。
けれど、私はその問いに覚えがあった。
幼いころ、私はよく空を見上げていた。
なぜ、皆が恐れる青を、神はこれほど広く世界に広げたのだろう。青が本当に罪の色なら、どうして空は毎日、私たちの頭上にあるのだろう。
その疑問から、私は本を読んだ。
古い自然哲学の書。異国の学者の論文。光について記された禁書に近い写本。
そして、ひそかに一本の論文を書いた。
もちろん、本名では出せなかった。
青い瞳の令嬢が青について語れば、それだけで嘲笑されると分かっていたから。
「太陽の光が、大気の中で散らばるからです。特に青い光は、ほかの色よりも散らばりやすい。だから私たちの目には、空が青く見えるのです」
アルヴィス卿は、静かに頷いた。
「やはり、あの論文を書いたのはあなたでしたか」
私は息を呑んだ。
「読まれたのですか」
「北方では、迷信よりも知識のほうが役に立ちますから」
彼の声には、かすかな笑みがあった。
「あなたの論文には、こう書かれていました。青は呪いの色ではない。光が世界に触れた証である、と」
胸が詰まった。
忘れていた言葉だった。
私自身が書いた言葉なのに、いつの間にか信じられなくなっていた。
青は罪ではない。
青は、光の証。
アルヴィス卿は周囲を見渡した。
「百二十年前、蒼月の王妃イリスは処刑されました。だが、北方に残る記録では、彼女は疫病の原因ではありません。疫病対策を進言し、飢饉に備えて穀物庫を開くよう求めた人物です」
広間が揺れた。
王家の歴史そのものを疑う言葉だった。
「彼女が処刑された本当の理由は、当時の王弟の反乱を告発したからです。王弟は王妃に罪を着せ、民の不満を青という色へ向けさせた。王家はその後も、都合よく迷信を利用し続けた」
「黙れ!」
ユリウスが叫んだ。
けれど、その声に以前の力はなかった。
アルヴィス卿は淡々と続けた。
「青が嫌われたのは、災いを招いたからではありません。災いの責任を押しつけるために、厭われることにされたのです」
私は目を閉じた。
長い間、胸の中で絡まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。
私が悪かったのではない。
私の目が、罪だったのではない。
誰かが作った嘘を、皆が真実として扱っていただけだった。
アルヴィス卿は私に手を差し出した。
「リーゼリア嬢。北方へ来ませんか」
「修道院へ、ではなく?」
「もちろん違います。私の領地には、空を観測する塔があります。あなたの知識が必要です」
「私のような者が、行ってもよいのでしょうか」
そう尋ねた瞬間、自分がまだ恐れていることに気づいた。
許可を求める癖。
存在してよいのか、誰かに確かめたくなる弱さ。
アルヴィス卿は、私の青い瞳をまっすぐ見た。
「あなたの瞳を恐れる者は、北方にはいません」
「なぜですか」
「北方の民は知っています。長い雪の季節を越えたあと、最初に広がる青空がどれほど尊いかを」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。
けれど私は泣かなかった。
泣く代わりに、背筋を伸ばした。
そして、王太子に向き直る。
「ユリウス殿下」
かつて婚約者だった人は、青ざめた顔で私を見た。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
広間の誰かが息を呑んだ。
「ただし、私は罪人として修道院へは参りません。クラウディア侯爵家の娘として、そして一人の研究者として、北方へ向かいます」
初めて、自分の声が広間に響いた気がした。
誰かに許された声ではない。
私自身の声だった。
その後、王宮は大きく揺れた。
記録魔石によってフィオナの虚言は明らかになり、彼女は王都から追放された。ユリウス王太子は判断力を疑われ、継承権を失った。
さらに、アルヴィス卿が北方から持ち込んだ古文書により、蒼月の王妃に関する歴史の再調査が始まった。
すぐに国が変わったわけではない。
百二十年かけて根づいた迷信は、一日では消えない。
それでも、少しずつ変わっていった。
青い花を庭に植える者が現れた。
青いリボンを髪に結ぶ少女が現れた。
青い瞳の子どもを神殿へ連れて行かず、抱きしめる母親が現れた。
私は北方の観測塔で、空の研究を続けた。
北の空は、王都の空よりもずっと広かった。
冬の朝、雪原の上に広がる青は、息を呑むほど澄んでいる。あの色を見て、不吉だと言う者はいなかった。
アルヴィス卿は、ときどき塔へやって来た。
不器用に淹れた茶を置き、私の書きかけの論文を覗き込む。
「今日の題も、空か」
「はい」
「まだ書くことがあるのか」
「あります。空が青い理由は、一つではありませんから」
彼は窓の外を見た。
「光が散らばるから、ではないのか」
「それも理由です」
私は微笑んだ。
「でも、人は同じ青を見ても、恐れたり、美しいと思ったりします。だから、空が青い理由を知るには、光だけでなく、人の心も知らなければならないのです」
アルヴィス卿は少し黙り、それから静かに言った。
「では、私があなたの瞳を美しいと思う理由も、いつか論文にしてくれるか」
私は返事に困った。
けれど、もう目を伏せることはしなかった。
青い瞳で、彼を見返す。
「それは、まだ研究中です」
アルヴィス卿は珍しく笑った。
窓の外には、どこまでも青い空が広がっていた。
かつて、人々はその色を呪いと呼んだ。
罪と呼び、災いと呼び、誰かを傷つけるための理由にした。
けれど本当は、青はただそこにあった。
空に。
海に。
花に。
そして、私の瞳に。
青が嫌われたのは、青が悪かったからではない。
人々が、自分たちの恐れを映す場所を必要としたからだ。
ならば私は、これから何度でも書こう。
青は呪いではない。
青は、光が世界に届いた証である。
その日、私は新しい論文の題名を紙に記した。
『空が青い理由』
それは、空についての話であり、歴史に隠された嘘についての話であり、一人の少女が、自分の色を取り戻すまでの話だった。




