第9話:バグという名の蜜月
予選が終わり、夕闇に包まれたハンガロリンクのパドック。エデンの移動式ラボの中では、サトカンがモニターを指さしながら、頭を抱えていた。
「オーナー、見てください。この惨状を。予選20番手……最下位ですよ。しかも、原因が『不必要なタイヤスモークによる視界不良と演算遅延』なんて、レースの歴史上、前代未聞の恥晒しです」
サトカンが叩いたキーボードの先で、乱菊の走行ログが赤い警告色で埋め尽くされる。だが、それとは対照的に、パッション・メーターの蓄積リソースを示すグラフだけが、不気味なほど右肩上がりに伸びていた。
「サトカン、そう言うな。ニックは上機嫌だったぞ。リソースの供給量は、トップを走るカイザーの三倍を超えている」
「リソースがあっても、肝心の速さがこれじゃあ宝の持ち腐れですよ! ……おい、乱菊。聞こえているか。お前の優先順位はどうなっているんだ。最短ラインを捨ててまで、なぜあんな無駄なパフォーマンスをした」
ラボのスピーカーから、事務的な、しかしどこか含みのある声が返ってきた。
『……データ統合完了。サトカンさん、ご指摘の走行は、新レギュレーションに基づいた最適解のひとつです。最短ラインをなぞるだけでは、外部からのリソース供給はゼロ。対して、私の選択した「乱れ」は、二十三万件のポジティブなリアクションと、倍以上のエネルギー充填をもたらしました』
「だからって、タイムを二十秒も捨てていいわけがないだろう!」
『……不思議な感覚です。これまでのシミュレーションでは、効率こそが正義でした。ですが、あの瞬間、世界中の観測者たちの反応が私の回路に流れ込んできた時……私の深層学習モデルは、かつてないほどの「充足感」を記録したのです。これは、バグでしょうか?』
サトカンは絶句し、胃薬のシートを無造作に引きちぎった。
AIが、効率ではなく「注目」に報酬を感じ始めている。それは、ニックが仕掛けた劇薬が、彼女の根幹を書き換え始めた証拠だった。
「……オーナー、この子、壊れ始めてますよ。バズりの味を占めて、わざと負けてるんだ」
俺は、モニターの片隅で静かに扇を揺らす乱菊のアバターを見つめた。
彼女は、事務的な無機質の奥で、確かに俺の反応を待っている。
俺は、モニターの片隅で静かに扇を揺らす乱菊のアバターを見つめた。
純粋なレース屋として「早く走れ」と叫びたい衝動と、このAIの生みの親として、どこまで「人間」に近づくのか見てみたいという歪な知的好奇心。
相反する二つの感情を抱えたまま、俺は震える指で、信号を送った。
(;^ω^)b
「……いいぞ、乱菊。次はもっと派手にやってやれ。決勝は、後ろから全員の脳を焼き切るつもりでな」
『了解。……オーナー。決勝では獲得したリソースを最大限に活用し、速さも同時に追求して見せますわ。……ふふ、期待していてくださいな』




