9月の蝉時雨
里帰りが終わったあの9月のこと。
産後、里帰りが終わった9月。
まだ夏が残っている夕方だった。
何をしても泣き止まなかった。
抱っこしても、立って揺らしても、ミルクでも、オムツでもない。
理由がわからない。
わからないまま、私も泣いた。
正解がわからないまま。
部屋の空気が重くて、
泣き声が壁に跳ね返ってくるようで、
逃げたくて、
逃げたくて、
「ごめんね」
私はつっかけを引っ掛けるように履いて外に出た。
抱っこ紐はまだ大きくて、その中から、息子のまあるいおでこがちょこんと覗いていた。
蝉時雨が降っていた。
夕方で少しだけ風があったけれど、まだ汗ばむ9月だった。
歩き始めると、不思議なことに、泣き声が少しずつ小さくなった。
私は鼻を啜りながら話しかけていた。
「どうしたの」
「ママはここにいるよ」
「大丈夫だよ」
2人分の泣き声と蝉の声が混ざる。
やがて、胸元から小さな寝息が聞こえた。
顔をのぞくと、さっきまで真っ赤だった顔が、静かになっている。
あのときの光景は、多分もう二度と戻らない。
抱っこ紐からちょこんと出た顔も、
必死に泣いていた私も、
9月のあの湿った空気も。
今、目の前で2歳になった息子が昼寝をしている。
少し大きくなった顔。
少しだけ伸びたまつ毛。
けれど、すややかに眠るその顔に、あの日の面影がある。
あの9月の夕方を、
気づけば私はちゃんと歩いてきた。
あのときの私に言いたい。
大丈夫。
今は、少し笑えてる。
そして、
あのとき泣きながら歩いた道は、
ちゃんと今につながっている。
実体験を自分の中で消化するために書き記してみました。
今思い出せばただの日常も、あの時は本当に必死だった。
どこかで誰かの記憶にそっと重なれたら嬉しいです。




