はち
飛び出し注意の黄色い警告が貼られた電柱を夕日が赤く照らしていた。ガードレールにお尻を軽くのっけて、私は特に意味もなく電線の数を数える。カラスが飛んできて、電線に掴まる。カァ、と一声鳴いた。
「お待たせ」
頬に冷たいものが当たって、飛び跳ねそうになる。
「つめたっ!」
予期せぬ冷たさは頬に当てられた缶が原因だったらしい。
久羅くんは桃ジュースの缶を片手にクスクス笑っている。ピンクの缶と久羅くんという組み合わせは、ひどく珍妙なものに見えた。
下校間際、久羅くんに首根っこを掴まれ、私は「釣り」と称して住宅街のど真ん中に連れていかれた。海どころか川すら見当たらない住宅街で少し待つように言われ、ボケーっとしていたら今に至る。
というか。
「久羅くん、お金持ってたんだ」
「人を勝手に貧乏扱いしないでくれるかな」
「だっていつもお昼ご飯奢らされるし、お金ないのかと……アダダダ!」
骨ばった手がすごい勢いで私の頭を掴んで、ギリギリと締め上げてくる。容赦のないアイアンクローに私はたまらず叫んだ。
「口の悪い餌だなぁ」
「すみませんでした!」
わかればいいと大理石みたいな手が離れていく。
久羅くんの手は冷たく、掴まれていた部分に触れると少しひんやりとしている気がした。
カシュとプルタブの開く音がする。久羅くんは缶を煽り、一気にジュースを飲みほした。
おお、いい飲みっぷり。
少年らしい尖った喉仏が上下するのを眺めていると、自分も何か飲みたくなってくる。きっと久羅くんが飲料水のCMに出て、一気飲みすれば、売れ行き爆増は確実だろう。
ふぅと息を吐いて、久羅くんは濡れた薄い唇を舐めた。
エ、エッチだ……!
「はい、あげる」
もう中身の入ってない缶を手渡され、反射的に受け取る。
念のためアルミ缶を振ってみたが、何の手ごたえもなかった。
「いや、これゴミじゃん」
あげるって、代わりに捨てて来いってことじゃないか。ハッ!?それとも、この推しが口をつけた缶を持って帰って飾っていい、というご褒美か!?いや、さすがにそれはキモいか。
どこかで捨てるところを見つけたら片付けるとして、名残惜しく缶を見つめながら、私は久羅くんに問いかけた。
「ねぇ久羅くん、今日の目的地って……」
隣を見上げる。
誰もいなかった。
「あれ?久羅くん?」
キョロキョロとあたりを見回すが、久羅くんの影すらない。この一瞬でいったいどこにいってしまったのか。
まるで狐につままれた心地で、私は缶を握りしめて困惑した。
「久羅くーん」
とりあえず名前を呼びながら近くの角をのぞき込んだり、電柱の裏を探す。いくら久羅くんが細身とはいえ、電柱の裏に隠れているかもはありえないか。
それでも影も形も見えないので、私は途方に暮れながらあたりを探した。
同じところを行ったり来たりして、角を曲がり、なんとなくさらに角を曲がってみる。どこも同じような景色で、このまま適当に歩いていたら迷子になりそうだ。
そんな思考を見透かしたように、その声は聞こえた。
「お姉ちゃん、迷子?」
唐突に背後から幼い声がかけられ、私は振り返った。
腰のあたりほどに、小学高学年くらいの男の子の丸い頭があった。黒いランドセルを背負い、賢そうな顔をしている。
「迷子というか、友達とはぐれちゃって」
小学生に迷子と答えるのはあまりに情けないし、まだギリギリ迷子ではない。
とはいえ心細さが顔に出ていたのか、少年はそうなんだと共感するように眉を下げた。
「僕ね、今から神社に行かなきゃいけないんだけど、お姉ちゃんも来る?」
「神社?」
「神社まで行ったら、バス停がある」
バス停か。でも、久羅くんとはぐれたまま帰るわけにもいかないし……。
「友達もバス停にいるんじゃない?僕も友達とはぐれたら、そこで待ち合わせするよ」
「そうなんだ」
「案内するから、代わりに神社までついてきてよ。知ってる?あの神社、お化けがでるって……本当は一人で行きたくなかったから、ついてきてよ」
「そんなところに今から行くの?やめときなよ」
でも行かなきゃいけないんだ、と少年は口をへの字にしてランドセルの肩ひもを握りしめた。
お化けが出る神社か。もしかしたら今日の釣りの目的地ってその神社だったりするかも。
そこに行けば久羅くんもいるかもしれない。
「いいよ。一緒に行こ」
「ありがとう!」
今時素直にお礼の言えるいい子じゃないか。と思うと同時に、水中に投げ込まれた釣り餌のイメージが脳裏に浮かんで仕方なかった。
だらだらと続く坂道を上っていく。
少年はランドセルをガチャガチャいわせながら、私の一歩前を先導していた。ランドセルについた青い防犯ブザーが、歩みに合わせてあっちこっちへ揺れる。
「僕はさ、なんで神社に行かなきゃいけないの?」
純粋に疑問を投げかけると、少年は憂鬱げな声で答えた。
「お母さんのおつかい」
おつかいで神社なんて初めて聞いた。
私がそう言う前に少年は続ける。
「僕、今度、妹が生まれるんだ」
「そうなんだ。お兄ちゃんだね」
「まぁね。妹のために神社にいってお参りしてこいって」
「でもお化けでるんでしょ?」
「うん、お母さんは知らないんだ」
大人にとってはくだらない噂話程度なのだろう。
そういえば、小学校って謎に怪談が流行る時期あるよね。私はそのころからホラー好きだったから、お化け辞典とか持ってたなぁ。
「妹のために偉いね」
「……うん」
どこか含みのある返事だった。本当は妹ができるのがあまりうれしくないのだろうか。
そこまで突っ込んで聞くのは無神経かと思い、やめておいた。
複雑な少年の心境に想い馳せていると、当の少年が顔だけこちらに振り返る。
「その缶いつまで持ってるの?そんなゴミ、そこらへんに捨てちゃいなよ」
「え、ポイ捨ては駄目だよ!ちゃんとゴミ箱に捨てなきゃ」
「誰も見てないじゃん」
「そういうことじゃないんだよ」
「ふーん……あっそ」
素直にお礼の言えるいい子だと思っていたのに……。勝手に少年を評価して、勝手にがっかりしてしまった。まぁ子供なんてそんなもんか。
「あのね、アルミ缶は土に分解されないから環境に良くないんだよ」
ポイ捨てすべきでない理由をとくとくと説いていると、前方に藪が見えてきた。
近づくにつれ、藪の入り口に朽ちかけた鳥居の姿が夕暮れの中浮かび上がってくる。
「まさか神社ってあれ……?」
あんなところに子供をお参りに行かせる親がいるだろうか。いや、いない。あともし私が行けと言われたら、行ったことにしてたぶん行かない。
「あれ」
「うへぇ」
元々は赤く塗られていたのであろう鳥居は塗料が剥げ、ささくれだっている。参道はかろうじて通れる状態で、短い石階段の上に本堂らしきものの黒い影があった。
「早く行こうよ」
一足先に鳥居をくぐった少年が石段をだんだんと踏んで急かした。
私はお化け屋敷とかは入る前が一番怖いタイプなのだ。つまりここをくぐってしまえば、もう腹が決まる。
そう自分に言い聞かせ、私は鳥居をくぐった。
摩耗して滑りやすくなった石段を上がるごとに、自分が正常な世界から離れていく感じがする。
本堂の影が膨れ上がるように私の目の前に現れた。
「こっちこっち」
少年は迷うことなく本堂へ向かっていく。
そして木枠の外れかけた賽銭箱の裏手に周り、格子状になった本堂の扉を開けてしまった。
「ちょ……!」
制止する間もなく、塗りつぶされたような闇が扉の向こうに広がる。少年はランドセルを投げ捨て、その中に飛び込んだ。
「こっち!」
とっぷりと煮凝った闇の中から、不自然に明るい声が呼びかけてくる。
握りしめた空き缶が、パキッと硬質な音を立てて凹んだ。
陽が沈む。
周囲の藪が一気に伸びてきて、頭上を覆ってしまうような錯覚を覚える。
ランドセルについた青い防犯ブザーの色すら、影に呑まれて見えなくなっていく。
本能的に後退った靴底と地面の間で、砂利が擦れた。
糸のついた餌に向かって、暗い水底から得体のしれない魚影が上がってくる。そんなイメージが脳裏を支配していた。
久羅くんの言葉が蘇る。
怪異がこちら側に影響を及ぼすにはルールが必要となる。
この場のルールはなんだ?それともここに引き込まれた時点でルールを満たしてしまっている?だとしたら、この状況は間違いなく詰み、だ。
「ねぇ……こっちだってば」
低く唸るような声が本堂の闇から洩れてくる。
私は一か八かその声に答えた。
「行かない」
バキ!と本堂の一部が壊れたような音がした。
闇から、ぬっと腕が生えた。
赤く、ぬらぬらと光る、子供の腕だった。
右手が半開きだった扉を押し開く。
左手が白茶けてささくれた床板に滑り出た。
それ以上腕が出てくるはずがない。
しかしもう一本右手が現れ、左手が現れ、右手が……。
何本もの子供の血まみれの手が床を這う、扉の縁をひっかく、宙を掴むようにうごめく。
「だぁめぇえええええ」
嘲るようにそれは叫びながら、ずるり、と黄色と灰色の混ざった濁った空の下に体を現した。