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ろく


放課後、私は久羅くんに連れられる形で、とあるマンションの前に居た。

学校の裏山を半周ほどしたところにある、一般的なマンションだ。新しくはないが、ボロでもないといったふうで、赤茶色のレンガの外観が特徴的だ。長年雨風にさらされた壁はうっすら黒ずみ、正面玄関のタイルはよくみるといくつかひびが入っていた。

寮に住んでいるとさっき聞いたし、久羅くんの家、というわけでもないだろう。

「ここが目的地?」

久羅くんは、そう、と短く返事をして、エントランスの中へずんずん入っていく。

慌てて追いかけて一歩入った瞬間、急激に暗くなったように感じた。ちゃんと電気はついているのに、妙に薄暗く、じめっとしている。

なんだか嫌な感じだなと辺りを見回すと、郵便受けが目に入った。

壁面にずらっと並んだ銀色のうち半分以上くらいが、口からチラシが飛び出している。そして一列に渡って、投函口に白い紙が貼られ、中に何も入れられないようになっていた。近づいてみると「何も入れないでください」と神経質そうな字で書かれている。それが501から505まで続いていた。五階の部屋すべての投函口が封鎖されているようだ。

「ねぇ、久羅くん。これって五階には誰も住んでないってことかな」

「そうだろうね」

うへぇと思わず声が出る。

五階だけ丸まる人が住んでないとか、明らかにやばい階のあるやばマンションじゃないか。

「ちなみに事故物件だったり?」

「事故物件?なにそれ」

「前の住人が死んだりしている部屋のこと」

「そこまでは知らないな。まぁ一人か二人は死んでるでしょ」

人の命の扱いが、かる~い!

久羅くんはポケットに手を突っ込んで、オートロックを見つめたまま動かない。

どうやって中に入るつもりなのだろうと疑問に思っていると、オートロックの向こう、エントランスからポーンという音が響いた。エレベーターが開き、電話を肩と耳で挟んだ状態で鞄を必死に漁る男性が出てくる。

男性はオートロック前にたむろしている私たちを一瞬怪訝そうに見たが、通話相手に怒鳴られ、慌てた調子で何かを説明しながらこちらへ小走りにやってくる。

オートロックが内側から開く。

男性は電話越しの相手に頭を下げつつ、私の横を通り過ぎる。

「いまからうかがいますので、上で待っていてください」

そこだけが切り取られたように明瞭に聞こえた。

マンション自体の雰囲気に吞まれているのか、なんだかゾッとしてしまった。

無意識に腕をさすると、久羅くんに名前を呼ばれた。

「早く来なよ」

彼はいつの間にかオートロックが開いた隙に中に入り込み、なおかつエレベーターの開ボタンまで押していた。

「……ウス」

ここまでついてきて、やっぱり帰りますとは言えなかった。


エレベーターに乗り込むと、久羅くんは迷わず五階を押す。

「やっぱり五階に行く感じすか……」

「五階にしか用はないからね」

そっかぁ……。誰も住んでないやばそうな五階にしか用はないのかぁ……。

まだ何も起こっていないのに怖くて、昔流行ったしわしわのピカチュウみたいな顔になってしまう。

いくら推しに誘惑されたからといって、安請け合いするんじゃなかった、と今更ながら後悔が押し寄せてくる。

しかし無情にもエレベーターは昇っていく。

ポーン。

階表示モニターの赤い数字が「5」で止まる。

軽やかな機械音と共にエレベーターが開く。

薄暗い踊り場がそこにはあった。

さっさとエレベーターから降りる久羅くんに少し遅れて、恐る恐る私も降りる。

右手は突き当りになっており、赤い消火栓扉と外階段の扉がある。住居の入り口は左に曲がらなければ見えない構造になっていた。

久羅くんがあまりにもズンズン進んでいくので、慌てて彼の後を追う。

L字に曲がった廊下の先は、五つの扉が並んでおり、思ったよりも短かった。

学校を出た時よりも随分と低い位置に移動した太陽が、廊下をほんのりと赤く照らす。転落防止用に高く設定された手すりの影が、長く伸びていた。

「何もいない、よね」

確認と希望的観測を込めた言葉が、廊下にぼわーんと響く。

「まだ、ね」

嫌な含みのある返答をして、久羅くんは廊下の突き当りを指さした。

「Aさん、ゴー」

「えー!?」

犬にボール取りに行ってこいみたいなノリの指示に、つい大きな声が出る。

「ゴーって、ま、まさか一人で!?」

「行って戻ってくるだけなんだから簡単だろ」

「いやいやいや……」

渋る私に、久羅くんは面倒くさそうな顔を一瞬したのち、眉尻をほんのり下げてコテンと首を傾げた。

「お願い」

「ぐわーっ!行ってきます!」

お願いって言って、可愛い顔すれば、私が言うこと聞くと思ってやがる!聞きますけども!

ヨシ!と気合を入れて一歩踏み出した。

「ついでに全部の部屋のドアをノックしてきて」

「な、なにゆえ……」

「その方が面白いから」

「鬼ー!」

まぁ久羅くんは本物の鬼ですけども。

叫んだらいい感じに脱力したので、ぽとぽと私は歩き始めた。

なんか、ホラー映画で幽霊屋敷に行かされるいじめられっ子の気持ちだ。


グダグダしているうちにも日は落ちる。

長く濃く伸びた影を踏み、私は一つ目のドアの前に立った。

プレートに書かれた数字は、501号室。

曲げた人差し指の背で、黒いドアをノックする。

コンコン。

もちろん中から返事などない。誰も住んでいないのだ。

これでいい?と久羅くんの方を見ると、ポケットに手を突っ込んで立った彼は次に行けと顎をしゃくった。尊大な態度もカッコいいと感じてしまうのは、もはや業なのか。

次は、502号室。

さっきと同じようにドアをノックする。

コンコン。

今回も特に変わったことはない。

503、504号室も同様に、拍子抜けするほど何も起こらなかった。久羅くんはスタート地点に立ったまま、ジッと私を見守っている。

そして最後の505号室。

コンコン。

緊張で口内はカラカラだったが、ごくんと唾を飲み込む。

耳に痛いほどの静寂。

少し待っても何も起こらず、私はほっと肩の力を抜いた。

なぁんだ、たいしたことなかったな。

505を通り過ぎ、廊下の突き当りまで行く。

とりあえずここまでちゃんと行きましたよ、という意味を込めて塀にタッチした。

「そこから森が見える?」

久羅くんがそんなことを聞くので、軽く背伸びをして景色の中に緑色を探す。

「小さい森っぽいのがあるよ」

住宅地にぽつねんと一区画だけ、木が茂っているところがある。

上から見ると、白とか茶色の豆腐だらけの中に、唐突にブロッコリーが置かれているみたいだった。

「それ、元処刑場」

「聞きたくなかったかも」

「この廊下はちょうど、その元処刑場と裏山の黒塚の祠を結んだ直線上にあるんだ」

「あーね。それはもっと聞きたくなかった」

お墓と葬儀場を結んだ直線上の家は住んだらよくないと聞くけど、そういうパターンもあるんだ。

嫌な直線上に廊下があるから、五階は人が居つかないのだろうか。

本当にそういうのってあるんだなぁと思いながら振り返って、私は硬直した。

「おっふ……」

さぁっと血の気が引いていく。

全部のドアが少しだけ開いていた。

鍵が開いた音も、ドアが軋む音もなかった。

通り過ぎて振り返るまでの数秒で、全部のドアが指二本分ほど開いたのだ。

かすかに開いた隙間からは、真っ暗な室内の闇が見える。まるで暗闇の中に何かが潜んでいて、こちらを覗き見ているというイメージに捕らわれそうになり、私はその瞬間「無」になった。恐怖が臨界点を超えて、一周回って妙に冷静になってしまったのだ。

私はドアの隙間から目を引きはがし、スタート地点で待っている久羅くんだけを見つめてスタスタ来た道を戻る。

誘うように開いた五つのドアを無視して、久羅くんの横も通り過ぎ、無心でエレベーターの下行きボタンを押した。

エレベーターは誰かが動かしたのか、九階で止まっている。

もう一度ボタンを押した。

エレベーターの表示は動かない。

もう一度押す。

動かない。

はぁと重たいため息が漏れた。

ここはいつもそうだ。

いつもエレベーターが来ない。

エレベーターを睨みつけ、もう階段で降りてしまおうと視線をそちらへやった。


その瞬間、目の前に白い手が現れ、私を制止した。

「階段はダメ」

はっと我に返って、私を止める久羅くんを見上げた。

私、今、一瞬だけど、久羅くんと一緒に来たこと忘れてた。

怖いからではなく、とにかく下に降りたくてイライラしてて。「いつもエレベーターが来ない」なんて、ここに来たのは今日が初めてなのに。

ドアが勝手に開いていた時よりも、ゾッとした。

「久羅くん、私、今……」

青ざめた顔で見上げる私に、久羅くんは大丈夫と微笑む。

「ここからは俺の出番。Aさんは俺の顔でも見てればいい。好きでしょ、俺の顔」

「え、あ、はい」

顔が好きなことバレてら。そりゃそうか。

今の状況を怖がればいいのか、顔が好きなことがバレてるのを恥ずかしがればいいのか。

混乱の極みにいる私に久羅くんはもう一度軽く微笑み、くるりと廊下の方を向いた。


一番奥、505のドアが全開になっていた。

ゆっくりと稼働限界な位置まで開き、バネ仕掛けのおもちゃみたいに一気に閉じる。

バタン!

重たい扉が閉まる音に驚き、思わず瞬きをしてしまう。

そのわずかな瞬間に、それは廊下に現れた。

人だった。

部屋の方を向く形で、土下座をしているように見えた。

確信が持てないのは、その人物に頭がなかったからだ。

「ひっ」

喉が引き攣り、悲鳴が出かけた。

白茶けたボロボロの着物をまとい、青白い手を床について、無いはずの頭をこすりつけている。

ギィイイイイイ。

錆びた音を立てて、今度は504のドアがひとりでに開いていく。

限界まで開いて、バタン!と勢い良く閉じた。

そしてまたもや瞬きした瞬間に、505の前で土下座していた首無しが、504の前に移動していた。しかもちょっと立ち上がろうとしている。

「く、久羅くん……」

私の絞り出した呼びかけに、久羅くんはクスクス笑う。

「俺たちが向こうのルールに応じなかったから、こちらの敷いたルールにのってきたんだ」

「ル、ルール?」

ギィイイイイイ。

ワニが口を開けて獲物を捕らえようとするみたいに、503のドアが今度は開き始めた。

「エレベーターを動かなくして、階段を使わせるのが向こうのルール」

ギ、ギ、と限界までドアが開く。

「順番に部屋をノックしたから、順番にドアを開いて応えなければならない。それがこちらの敷いたルール」

バタン!とドアが閉まる。

瞬きをするまでもなく、膝をついて立ち上がろうとしている状態の首無し死体が、ドアの裏から現れた。

「怪異は現世の存在ではない。だから現世のものに接触するには、条件がいる。それがルール」

ギィイイイイイ!

502のドアが開く。

歯ぎしりするみたいな、威嚇するみたいな音を立てて。

「こちらの敷いたルールに乗っかってきたということは、あいつはまだまだ小物だよ」

「見た目はめちゃくちゃ怖いですけど……」

「見た目なんて、ただのまやかし。怖がらせるためのね」

久羅くんの言葉を遮るように、ドアが大きな音を立てて閉まる。

床から手も膝も離れ、中腰になった首無し死体が立っていた。

やせ細った手足は枝のようで、あばらの浮いた黒ずんだ胸が見える。

もうあと一つしかドアはない。

はっ、はっ、と息があがる。

奥歯がうずくようにムズムズする。

そして501のドアが開き始めた。

「普通は退治するのにもルールがいる。除霊の儀式とかっていうだろ。でもさ、それって」

ギィイイイイイ!!

「力量の差がない奴らのすることなんだよ」

バタン!

ついに完全に立ち上がった首無し死体が、のったりと目の前に現れた。ガリガリに痩せ、青く、そして黒ずんだ体。生臭さがプンと鼻先をかすめる。

頭はないはずなのに、部屋の方を向いていた頭が、こちらを向いたのがなぜかわかった。

コツン、と久羅くんの革靴が音を立てる。

彼は無造作に首無し死体に歩み寄った。

その瞬間、急激に空気が変わる。

今までとは比にならないほどの寒気と悪寒。

それは首無し死体からではなく、久羅くん自身から放たれていた。

近づいてくる久羅くんに、首無し死体が後退る。

その無いはずの頭を久羅くんは鷲掴み、力任せに床にたたきつけた。

完全に一方的な暴力、という光景だった。

「なんだ、食べるところがたいしてないな」

がっかりしたと呟き、久羅くんは手首を捻る。

ゴキリ、と何かが折れる音がして、首無し死体は魚のように大きく身を跳ねさせる。

すぅっと息苦しさがなくなっていって、急に廊下が明るくなるのがわかった。

久羅くんから感じていた凄まじい怖気も、もうない。

そして彼の手の下で、首なし死体は溶けるように消えた。

「きえた……」

周囲を包んでいた膜が無くなったように、マンションの下を通る車の走行音や風のざわめきが私を包む。

「はい、終わり」

パンパンと手を叩いて、久羅くんはこちらを振り返った。

「予想以上に食いでのない奴だったな。今回はハズレだね」

確かにガリガリに痩せてましたけども。

起きた出来事に脳の処理が追い付かず、ポカンと口が開いたままになる。

とりあえずもう安全、ということだけは肌で感じる。

でくの坊みたいに立っているそんな私に、久羅くんは意地悪そうに目をきゅっと弓なりに細めた。

「ということで、これからよろしくね。撒き餌さん」


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