じゅうご
黒い靄が私の頭上を凄まじい速度で通り過ぎていった次の瞬間、細いものが一斉にちぎれる音がして、足が一気に軽くなった。引きずられていた体に、自分の重さだけが残り、無意識に詰めていた息がどっと肺から吐き出される。
首だけ捻って何が起こったのか確認する。
地面に這いつくばる私と化け物を繋いでいた髪の毛が千切れて、あたりに散乱していた。
そして化け物に立ちはだかるように、学ランを着た少年の姿があった。
少年は目の前の怪異と似た白髪なのに、その色を見た瞬間から今度は安堵の涙が滂沱と溢れる。
「くらくん」
ガラガラの喉で絞り出した呼びかけに、彼はプッと勢いよく何かを吐き出した。
べしゃっと地に落ちて泥にまみれたそれは、怪異の髪の毛だった。
え、あれ、嚙みちぎったの……?
助かったという安堵と、久羅くんが来てくれた喜びと、純粋な困惑で頭が一瞬フリーズする。
久羅くんは化け物としか形容できない怪異に、肩を怒らせ、唸るように低く言った。
「なんのつもりだ、お前」
怪異はパーツの配置がおかしい顔をさらに歪める。嘲っているらしかった。
「兄様、どうして邪魔する」
「兄様だぁ?」
久羅くんの白すぎる首筋に青筋が立つ。
彼の怒気に合わせて、冷気があたりを包み、雨に濡れた体が急激に冷えていく。
「これは俺のだ。手出ししたということは、わかっているんだろうな」
「兄様がいつまでも母様のところに持っていかないのが悪いんだよぉ」
「それはお前ではなく、俺が決めることだ。身の程をわきまえろ」
「あははは!本当はおしくなったんだろぉ!兄様、弱くなったねぇ!」
キャラキャラと複数人の子供の声を寄り合わせた声で、怪異は笑う。その笑い声は酷く不快で、鼓膜がゾワゾワした。
久羅くんは自分を嘲る言葉を無視して、私を見た。
そして綺麗な顔を鬼の形相に変える。
「一人でこんなところに来て、何考えてるんだ!」
「く、久羅くん」
私は怒られたショックよりも、彼が怪異にすっかり背中を向けてしまっていることが恐ろしく、声を震わせる。
しかし久羅くんは私が純粋に生命の危機におびえていると思ったのか、はぁと大きくため息をつきながら、なんとしゃがみ込んで私に手を差し出した。
久羅くん、後ろ!後ろのやつが、髪の毛わさわさしてる!絶対無視されて怒ってる!
「どうせ俺の姿とかで騙されたんだろ。まったく」
「う、うしろ」
「後ろ?ああ、あれね、あれはいいよ」
いやいやいや!よくはないでしょ!
久羅くんは泥と血で汚れた私の手を掴み、その場に座らせた。
「うわ、ドロドロじゃん」
面倒くさそうに口を歪める久羅くんの背後で、黄みがかった怪異の白髪が寄り合わり、一本の鋭い槍のようになる。
それが久羅くんの後頭部めがけて突き出された。
「危な……!」
私が咄嗟に上げた声よりも早く、槍は突き出される。
久羅くんは振り返りもせずに、首を軽く傾けてそれを避けた。逃げ遅れた彼の髪が数条切れて、空を舞う。
彼は頬を掠めた槍先を目にもとまらぬ動きで掴んだ。
「お前」
ゾッとするほど冷たい表情で、久羅くんは肩越しに怪異を見やる。
灰色の目だけがうすら寒い色に光っている。
「兄に対する礼儀がなってないぞ」
髪の槍先を掴んだ右手をゆっくりと内へ回す。
ぶちぶちぶち、と外側を構成する髪の毛が千切れる。
久羅くんがグッと手を引くと、髪の毛が根元から抜ける嫌な音がした。
「ぎゃあああああ」
髪の毛を毟り取られた下から青白い地肌が露出した。
怪異の体表に十円禿げのようにぽっかりと穴が開く。
ゆらり、と、久羅くんは幽鬼がごとく立ち上がる。
見た目は非力な少年のままなのに、見ているだけの私ですら恐怖を感じる。対峙する怪異はいわんや、左頬にずれた口をひきつらせ、黄ばんだ歯を見せる。それは威嚇に似た恐怖の表情だった。
「山の主気取ってるか知らないが、道理を教えてやる」
久羅くんは、低く腰を落とす。
だらりと下がった指先が地面につくかいなか、怪異が新たに作り出した髪の毛の槍が四方から襲い掛かる。
しかしその槍が的を貫くより先に、彼の姿は消えていた。
泥水のしぶきをあげて、槍はむなしく地面を抉る。
そのはるか上、おそらく飛び上がって槍を避けた久羅くんは、踵落としを怪異の頭に叩き込んだ。
先ほどとは比にならないしぶきと土砂が巻き上がり、花が咲くように白髪が空に広がる。
そのうちの一束をひっつかみ、久羅くんは力任せに怪異をぶん投げた。
怪異を叩きつけられた木の幹が弾け、成人男性の胴ほどの太さの木がまとめて折れた。
久羅くんは手に絡みついた髪をばっちいものでも捨てるように、ぺっぺっと手を振って払う。
彼は廊下を歩く時と変わらぬ調子で、白目をむいて呻く怪異へ歩み寄った。
「母様に背くのですか……?兄様、あなたほどなら、きっと母様も……」
嘲り笑っていた時とは打って変わり、恭しく、縋るような枯れた声。幼いのに、老人のような、男とも女とも判別のつかない、金属をこすり合わせた音にも聞こえた。
見上げてくる老人の頭を、久羅くんは片手で掴み、持ち上げた。
ざんばらに千切れた髪が、濡れぼそり、コードのようにぶら下がる。
どんな顔をしているのかは、久羅くんの背に隠れて見えなかった。
「俺も長い間そう思っていたとも」
ぐしゃ、と肉と骨が潰れる音がした。
黒い血飛沫が、水風船が割れるみたいに飛び散り、そして雨に溶けて消えた。同時に怪異の体も、千切れて散らばった髪の毛も幻のように消える。ただ私の足に、締め上げられた痛みだけを残して。
雨は降り続いている。
地べたに座り込んだままの私に、久羅くんはどこか沈んだ灰色の瞳を向ける。なんだかひどく寂しげな顔をしていた。
彼はその場に立ち止まり、何かを注意深く探るみたいに私を見下ろしている。
彼が何を探っているのかわからず、とりあえず無事だということを示すために、痛む足でなんとか自力で立ち上がった。
「ドロドロになっちゃった」
わざとおどけて両手を軽く広げて見せる。
少しよろけたけれど、それでも無事なことは伝わったはずだ。
「ごめんね、久羅くん。勝手なことして……でも」
助けてくれてありがとう、と続けるはずだったのだが、ツカツカとすごいスピードで歩み寄ってきた久羅くんが抱きしめたので、言葉は息と一緒に止まった。
冷たく骨ばった体が、ぎゅうぎゅうと私を抱きしめている。
目をしろくろさせる私の耳元で、久羅くんが怒鳴る。
「阿呆が!」
「く、久羅くん?」
「うるさい!」
さらに強く抱きしめられて、またもや息が止まる。
「お前が久羅くん久羅くんって馬鹿みたいに呼ぶから……!」
絞り出すようにそう言って、久羅くんは額を私の肩に押し付ける。
「ご、ごめんね……?」
とりあえず謝ると、謝るなと鋭く叱られた。
「餌扱いされて、恐ろしい目にあって、俺がおぞましい化け物だとわかっているくせに、どうして平気にしていられる。どうして変わらずにいられる。見た目こそ誤魔化しているだけで、俺はさっきのと同じ化け物で、もっと醜悪な正体を隠しているんだぞ」
降りしきる雨のごとく言い切り、彼は私の背を抱く腕を解いた。
暗い灰色の瞳が、迷子のようにたよりなく揺れている。
久羅くんらしくない様子に、思わず笑みがこぼれた。
「なんで笑う」
きゅっと眉をひそめ睨まれても、全然怖くなかった。だってちょっと可愛いなって思ってしまったから。
「久羅くん、舐めてもらっちゃ困るよ」
私は久羅くんがドン引くくらい長い間、ずっと君が好きで、奇跡が起こらなきゃ永遠に会えないはずだったんだから。
だからいまさらどんなに酷い目に合ったって、もうこれは私自身にもどうしようもないことなのだ。
私は今度は自分から久羅くんの体を抱きしめた。
冷たい胸に頬を寄せ、目を閉じる。
どんなに耳をそばだてても、心臓の音など聞こえない彼の体が愛おしかった。
「そんなの私が久羅くんのためなら死んでもいいくらい、久羅くんのことが大好きだからだよ」
その瞬間、私は自分の本当の望みが、久羅くんに殺されることではなかったことに気が付いた。
私は、本当は、ただ彼に大好きだと伝えたかったのだ。
拒否されても嘲笑われてもいいから、直接伝えたかったのだ。
そっと背中に腕が回される。
今だけは幸福で、痛みも寒さも感じなかった。
「……帰ろう、イツカ」
驚いて、えっと声が漏れた。
「私の名前、知ってたの?」
「馬鹿にするな。栄イツカだろ。言っておくけど、俺がちゃんとフルネームで覚えている人間なんてほぼいないからな」
「それってわざわざ覚えてくれたってこと?」
「そうだよ」
ヤケクソじみた、子供っぽい言い方だった。
「はぁ……もうめちゃくちゃだ。ちゃんと責任とれよ」
「いや、そんなこと言われましても何の責任をとれば……」
後頭部に手が添えられ、無理やり上を向かされた。
顔に雨の雫が落ちてきて、反射的に瞼を閉じる。
唇に冷たく、けれど柔らかいものが触れた。
目を見開くと、視界一杯に灰色の二つの目と、カーテンのように顔を囲う白髪が飛び込んでくる。
久羅くんは唇を離し、鼻先が触れるほどの距離で呟いた。
「責任」
わかった?と真剣な眼差しが問いかけてくる。
え、責任って、まさかそういうことですか……?




