じゅうよん
ぬかるんだ道を懸命に登っていく。前を行く背はすいすいと苦もなく山道をのぼっていく。追いかけても追いかけても差が縮まらない。
霧雨から驟雨へと変わり始めた雨が、周囲の音を掻き消すばかりに降っていた。
雨音に負けないよう大声で呼びかける。
「待ってよ、久羅くん!キャッ」
ズルッと靴底が滑って、前につんのめる。咄嗟に地面についた手のひらが泥に塗れ、砂利が食い込み痛みを発する。
「はぁ……はぁ……」
汗なのか雨なのかわからない雫がポタポタ落ちて視界に雨を降らせる。
あれは本当に久羅くんなのだろうか?
一抹の不安が湧き上がり、私は地面に片手をついたまま動けなくなってしまった。
けれどもし本物だったら?
最近の久羅くんは妙に優しかと思えば、急に不機嫌になったり、言葉を最後まで言わなかったり、様子が変だった。それが今この時に繋がっているのだとしたら、あれが本物でも偽物でも確かめなければならない。
筋が通っていない考えだとわかっていたが、そうしなくてはならないと強く思った。
泥まみれの手で近くにあった木の幹を掴み体勢を立て直す。額から垂れて目に入りそうな雫を汚れていない方の手で拭い、再び歩き始めた。
どれくらいの間登っているのだろうか。もう一時間近く経っている気もするし、まだ十分も経っていない気もする。
どこも似たような陰鬱とした森で、時間と場所の感覚がおかしくなっている。
悪夢の中を彷徨っているような感覚に囚われ始めた頃、ようやく前に開けた場所が見えた。
最後の急斜面を這うようにして登り切ると、そこはごく小さな空き地だった。周囲を高い木で覆われ、そこだけぼっかりと巨人が抉ったかのように見える。
奥に古びた祠が草に埋もれるようにして立っていた。
祠自体は古いが、扉を閉ざすしめ縄はまだ新しい。誰かが管理しているのだろうか。
濡れた髪が張り付いて鬱陶しい。
わずかに見える空は分厚い雨雲に覆われ、夕方であるはずなのに夜のように黒い。
そしてそんな空き地に私は一人で立っていた。
追いかけてきたはずの久羅くんの姿は、影も形もない。
自分の荒い呼吸音が、嫌な予感と焦燥感を煽る。
ガサッ。
後方で何かが動いた気配がした。
慌てて振り向くが、微かに木の根元で草が揺れているだけである。
ガササッ。
また音が聞こえた。
キーンと甲高い耳鳴りがする。
生まれ初めて感じるレベルの怖気が、足元から這い上がってきて首の裏がゾワゾワする。
久羅くんの自殺願望という言葉が脳裏に蘇った。
よくわからないけど、ここは、ダメだ。
来ちゃいけないところだった。
本能的に遅まきながら気がつく。
カサッ……。
また後方で音がする。
振り返りたくない。
そう強く思うのに、頭が勝手に振り向いてしまう。
目が合った。
木の幹に隠れるようにしてこちらを見ている青白い顔があった。顔だけが木の影からぬっとでている。
それは濁った木陰の中でも自ら発光しているかのように白く、嫌でも網膜に焼きつく。
長い白髪の老人だ。
少なくとも老人のようだった。
というのも、顔のパーツの位置がおかしいのだ。
目、鼻、口、それぞれおおまかな位置はあっている。
しかし両目の高さは合っていないし、離れすぎている。右目に至っては、垂れ目というレベルを超えて外側に傾いていた。
鼻もまた妙に上につきすぎている。
一番酷いのは口で、もやは顔の正中など無視して左頬についていた。
切り分けた顔のパーツを輪郭からはみ出さないように乱雑に置いた。
歪で崩れた老人の顔。
そしてその顔はニコニコと笑っているらしかった。
唇をめくりあげ、黄色い歯を剥き出し、威嚇するように笑っている。
「だぁまさぁれた」
老人は顔からは想像もできなかった幼い子供の声で、歌うように言う。
「兄様のお気に入りのくせに、ばかな女。ばか女。ばぁか、ばぁか」
あひゃひゃ、と癪に触る笑い方をして、老人は歪な顔を引っ込めた。
「はっ……はっ……」
過呼吸にでもなりかけているのか、息が苦しい。酸素が上手く吸い込めなくて、耳鳴りがさらに酷くなっていく。
ずるずる。
かさかさ。
ずるずる。
かさかさ。
草を掻き分け、何かが這いずる気配。
「今度妹が産まれるんだよぉ」
聞き覚えのあるセリフだ。
確か廃神社でおそってきた化け物も同じことを言っていなかったか?
兄、妹、産まれる。産まれるということは、母親がいる。母親。黒塚の母。
唐突に脳内でそれらの意味するところ、廃神社の怪異と目の前の怪異が連なるものに気がついたが、いまそれどころではなかった。
私は這いずる音の先を視線で追いながら、ひたすらに身を硬くした。
「お祝い、してくれるでしょう?」
私には関係ないと言えればよかったのかもしれない。
しかし、今回は廃神社の時と違って声すら出せなかった。
「お祝い、ちょうだい」
幼い声が無邪気にねだる。
濁った暗闇、一本の木が急に生えた。
「お祝い、ちょうだい」
その木はよくよく見れば一本だけ強風に吹かれているように揺れている。
違う。あれは木じゃない。
「お祝い、ちょうだい」
何か細長いものが、生き物が立ちあがった影だ。
「答えない。なら、もらうね」
ぬぅっと影が出てくる。
最初に現れたのはあの歪で不気味な老人の顔。
長い白髪は顎の輪郭を隠すようにねじれ、集まり、顔を先頭とした木の幹ほどの太さの綱状になっていた。
ずっずっと化け物は木立の間から、這い出し始める。
白髪が寄り合わさった体はちょうど人の身長ほど続き、手足はなく、円状に広がった髪の毛が樹木の根のように地面を掴んで移動している。
うぞうぞと大量の白髪が蠢く様は、菌糸が伸びる過程を早送りした動画に似ている。
血も肉も腐臭もないのに、生理的な嫌悪から吐き気がこみ上げた。
彼我の距離が縮まる。
体を形成していた髪が一部ほどけ、放射状に広がり始めた。
私は息を詰め、脱兎がごとく踵を返してもと来た道へ飛び込もうとした。
「ぎゃっ!」
しかし右足が何かに引っ張られ、つんのめって倒れこむ。
右足首に汚れた白髪が絡みついていた。
「離して!」
なんとか振りほどけないかと無茶苦茶に足を振ってみるが、絡みつく強さが増すばかりで、次第にキリキリと細い髪が食い込む痛みに悲鳴があがる。
「「う、うぅうううう」
痛みと恐怖に呻く私をケラケラ笑う子供の声が聞こえる。
髪の毛は左足にも絡みつき、剥き出しの太ももに髪の毛の強烈な不快感が走った。
ジワジワと体が化け物の方へ引っ張られていく。
「助けて……!誰か……!」
地面に爪を立て、私は叫んだ。
こんなところに助けてくれる誰かなんているわけない。それでも助けを求めずにはいられなかった。
涙が溢れて、視界が歪む。
久羅くんのために死ねるならいいと思っていた。
けれど、この瞬間、私を支配していたのは再びの死への焼き切れるような恐怖だった。
地面に突き立てた爪先が割れ、血が溢れる。
その瞬間、私は誰もいない木立の闇へ叫んでいた。
「助けて、久羅くん!」
手が滑った隙に、体が大きく後ろへ持っていかれる。
「あああああ!」
喉が裂けんばかりの絶叫も、雨と木々の闇に吸い込まれていく。
頭の片隅で、妙に冷静な自分が、もう駄目かもしれないと呟いた。
その時、道の方から何か黒い靄のようなものが凄まじい速さで飛んできて、私の頭上を通り過ぎた。




