じゅうさん
六月に入ってまだ一週間も経っていない日の午後。
今日も雨は降り続いている。
例年より早い梅雨入りに加え、降水量も多いらしい。異例づくしの梅雨だ。
「白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」
黒板に角張った字で、業原先生が黒板に平安時代に詠まれた歌を書きつけていく。
六限目の古文は、ジメジメとした気怠い空気が流れている。
斜め前の生徒がカクンカクンと船をこいでいる。
業原先生は寝ている生徒がいても、気にも留めずに授業を続けた。
「この歌は女が消えてしまったことに気づいた男が詠んだ歌ですね。白玉か何ぞと人の問ひしとき、この「人」というのは女を表します。つまり男に連れ去られ、野を行く時に、女が草についた夜露を見て、あれは白い玉、つまり真珠ですか?聞いたわけです」
業原先生の解説は、一定の速さで流れ続けるオルゴールのようだった。
女があそこに光るものは真珠ですかと何ですかと女が尋ねたとき、露と教えてやって、はかない露のように2人で消えてしまえばよかったのに。
夜露も見たことがないほど箱入りで育てられた女をせっかく屋敷から連れ出したのに、鬼に食われてしまって泣く男の話。
文系は得意だから、前世で習ったことをなんとなく覚えている。
「実はこの話は女はどこにいってしまったのか、というミステリーでもあります」
寝ずに頑張って授業を聞いている生徒たちの興味を煽るように、業原先生はニッと笑った。
「昔の話、古文に鬼はよく登場します。しかし、鬼は本当にいたのか?」
いますけど、と、ちらりと隣を見る。
しれっと高校にもぐりこんだ鬼こと、久羅くんはノートをとる素振りも見せず、ずっと窓の外を見ている。
「次回はそのミステリーに迫っていきましょう」
どこかの世界の不思議を発見する番組のように締めくくり、宿題が出され、授業は終わった。
ホームルームが終わり、今日は釣りをするか聞こうと隣の席を見ると、久羅くんの姿がなかった。
最近は釣りがなくても昇降口まで一緒に行くのに、何か用事でもあったのだろうか。久羅くんに釣り以外の用事があるのってちょっと変な感じだけど、まぁそういう日もあるかと少し寂しい気持ちになった。
私は友達が少ないというか、ほぼいないので、久羅くんがいないとなると本当にぼっちだ。別に避けられているとかではないが、近づきがたい久羅くんと仲良くできている変な人扱いされている感はある。Aさん呼びが浸透しているのも、久羅くんがそう呼ぶから周りもそう呼んでいるからだし。
のろのろ鞄を肩にかけ、教室を出る。
廊下には梅雨特有の湿って蒸した空気が、質量を伴った液体のように凝っていた。
隣のクラスはまだホームルームをやっているようで、教壇に立つ業原先生が何かを説明していた。
ムクちゃんと渡辺クロウ、伊豆那弟。
それぞれを視界の端に捉えつつ、通り過ぎていく。私は他のなんの変哲もない生徒たちに紛れて、背景の一部になる。私はただのその他、モブになる。
なんだか気分が落ち込んできて、教室とは反対側の裏山の影が自分を覆い隠そうとしているように感じた。
なんとはなしに足が止まり、私は裏山へと視線をやる。
雨ににじむように、裏山は黒くそこにあった。
なんだか肌がざわざわする。
ツキンとこめかみが痛む。
うつむけた視線の先で、小さな人影が動いていた。
その人物は老人のような白い頭をしていることが、遠目でも見て取れ、私は固まった。
彼は傘もささずに、校舎と裏山を区切る立ち入り禁止のフェンスをすり抜け、裏山へと入っていく。
「久羅くん?」
心臓がドッドッと激しくろっ骨を叩いた。
まさか、今日なの?
だからホームルームが終わった瞬間いなくなったの?
私に何も言わずに。
私を誘わずに。
もしかして、私以外の誰かを殺そうとしている?
自分の中にうずまく感情が、恐怖なのか嫉妬なのかわからない。
けれどその場に立ち尽くしているわけにはいかなかった。
転がるように階段を下り、裏山に入っていった彼の背を追う。
下校中の生徒に驚いた顔をされたり、ぶつかったりしながら、傘も忘れて私は昇降口を飛び出した。霧吹きで吹いたみたいな細かい雨がうっとうしく体を濡らし、制服がしっとりと重たくなっていく。
校舎をぐるっと回ると、裏山との境界に立てられたフェンスに行きあたる。
急に走ったから息があがり、湿った空気が肺に詰まって苦しい。
通り抜けていったということは、どこかに出入り口があるはずだ。
フェンスを左手に進み続けていると、ぽっかりと穴が開くように扉が開いていた。
普段は厳重に管理されているのであろう、南京錠のついた鎖がだらんと垂れている。
扉の先は、舗装されていない小道が続き、鬱蒼と茂る木々がトンネルを形成していた。
その奥、暗がりの先で、白い頭が振り返る。
「待って、久羅くん!」
追いかけるには重たい鞄が億劫で、その場に放り出し、私は暗い小道に飛び込んだ。




