後編 美しくはなったけれど
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自分が誰なのか知りたくて、灰色娘は池を離れました。
「おばさん。わたしが誰の子か、わかりませんか?」
そう尋ねて回るのですが、スズメも、メジロも、シジュウカラも、みんな「わからない」と言います。灰色娘のような雛は、誰も見たことがないと言うのです。
いつしか公園を出て、辿り着いたのは、幼稚園の裏の飼育小屋でした。そこに灰色娘は、どこか親近感の湧く真っ白な鳥を見つけました。
「こんにちは。あなたは、あなたは誰?」
大変美しい鳥だと思い、小屋の前ですっかり興奮して、灰色娘は尋ねました。
「わたし、あなたの子じゃありませんか」
くちばしや肢の形も似ているし、模様がないところも一緒です。真っ白なおばさんの子どもなら、灰色一色ということもあり得るように思えました。
ところが小屋の中のおばさんは、灰色娘をじろじろ見たあげくに、言いました。
「まあまあ、ずうずうしいったら。どこから来たんだい、みにくい子だね」
見た目違いのガアガア声と、冷たい物言いにびっくりして、灰色娘は首をすくめました。誰かからはっきりと「みにくい」と言われたのは、初めてのことでした。
「おまえがあたしの子のはずがあるかい。アヒルの子は黄色くて、それにもっときゃしゃでかわいいんだよ。薄汚い灰色の子なんて見たことも聞いたこともないが、その図体のでかさからすると、おまえはきっと、ガチョウの子だよ」
こう言われて、ガチョウというのはどんな鳥なのか、灰色娘はもう訊いてみる気になれませんでした。
恥ずかしくて逃げるようにアヒルから離れ、泣きながらさまよううちに、公園に戻ってきていました。
鬱蒼とした森の中で泣いていると、頭の上から声がしました。
「誰だい、あたしの家の下で泣いているのは」
声の主を認めた灰色娘は、真っ青になってがたがたと震えました。何羽ものきょうだいの命を奪った、恐ろしいカラスのおばさんです。
「迷子かね。こんなところへ迷い込むなんて、運の悪い娘だね」
もうおしまいだ、殺されてしまう。そう思ったとたん、灰色娘はすっと体の力が抜けて、震えるのをやめ、上を向いて言いました。
「どうぞ、カラスのおばさん、わたしを殺してくださいな。生まれてきてこのかた、いいことなんて一つもなかったけれど、生き延びてみたって、わたしはみにくいガチョウになるだけなんだもの」
ニタニタ笑いを浮かべていたカラスのおばさんは、これを聞くと目をぱちくりさせて、やがて言いました。
「ガチョウ? おまえがガチョウの子だって。バカをお言い」
「だって。だってアヒルのおばさんが、黄色くもないし、きゃしゃでもない、みにくいわたしはガチョウの子だって言ったんだもの」
灰色娘が涙ぐんで言うと、カラスのおばさんは高笑いをして言いました。
「無知なアヒル! ガチョウだってね、子どもの間は黄色いんだよ。おまえはおそらく、白鳥の子だよ。ちょっと考えにくいことだがね」
思いがけないことを言われて、ぽかんとしていると、カラスのおばさんはバサバサと羽音を立てて、一番低い枝に降りてきました。
「どういうこと?」
「白鳥が雛を連れているところなんて、ふつうは見られないのさ。里帰りの間に子育てする渡り鳥だからね。だが秋頃に渡ってくる若鳥の容姿から推測するに、雛はちょうどおまえのような灰色のはずだ」
「白鳥って、いったいどんな鳥なんです?」
その話が本当なら、自分のような雛を誰も見たことがないという謎の説明がつくように思われます。灰色娘はドキドキして尋ねました。やっぱり目も当てられないようなみにくい鳥だと言われたら、もう立ち直れないような気がしたのです。
だから、カラスのおばさんから返ってきた答えが、すぐにはのみ込めませんでした。
「雪のように白い羽毛の、大きな美しい鳥さ」
***
大きくなったら雪のように白い美しい鳥に生まれ変わるのだと教えられて、灰色娘はどんなに嬉しかったでしょう。
そのうえカラスのおばさんは、この哀れな身の上の娘に同情して、命を取らずに帰してくれたのでした。
美しくなることだけが、灰色娘の生きる希望でした。いつかカルガモの母さんやきょうだいをあっと言わせたくて、そのままひとりで夏を越し、空を飛ぶこともひとりで覚えました。なるほど初めての渡りができるはずで、夏の終りには翼もすっかり逞しくなりました。
けれどふわふわの雛からすらりとしたおとなの体に変わってからも、灰色娘の悩みはしばらく続いたのです。
夏の終わり頃から雛の羽毛が抜けて、のどから胸にかけて白く変わり始めました。カラスのおばさんが言った通りになると期待したのですが、秋が深まっても、灰色娘の体は完全には白くならなかったのです。一部だけが白く、残りは灰色のままで、雛の頃のようなふわふわの羽毛でもなくなったので、却って灰をかぶったような、みすぼらしい姿になってしまいました。なまじ見た目に白鳥とわかるものですから、池を訪れる人々も無神経に、
「あの白鳥はなんだか薄汚いなぁ」とか、
「白鳥って若い時はあんな色なんだね」
などと、灰色娘を指さして言います。惨めで、悔しくて、灰色の羽根を自分でむしり尽くしてしまいたい衝動に駆られることも、何度もありました。娘の美に対する執着はそれほどに強いものでした。そして灰色娘ほど美しいということに強くこだわった鳥も、池の周りには他にいませんでした。
白い羽毛が生えそろったのは、冬の一番寒い頃でした。
池に映った自分の美しさに見とれて、白鳥の娘はため息をつきました。細く長い首と大きな翼は、アヒルにはない特徴です。それもすべてが新雪のように白く、眩しいほどなのです。なんて美しいのでしょう。
みんなに認めてもらいたくて、白鳥の娘は胸を張り、生まれ変わった自分の容姿を見せびらかして回りました。悔しい思いをした時期が長かったものですから、悩みから解放された途端に、高慢で鼻持ちならない娘になってしまったのです。
池の周りの鳥たちは困惑をもって、この一方的で世間知らずな娘を迎えました。
すべての鳥が美しさを重要視するわけではないのです。賢さや、器用さ、闘う強さに価値を置く鳥もいます。白鳥の価値観は白鳥の価値観であって、他の鳥も同じように考えると思い、それを押しつけるのは傲慢であることを、娘は知りませんでした。
だからみんなが、口先ではほめてくれるけれども、どこか冷ややかに引いている様子なのがどういうわけなのか、娘には理解できませんでした。
(どうして? こんなに完璧なのに、この池で一番美しいのはわたしなのに、みんなはわたしを好いてくれないの)
期待を挫かれて、白鳥の娘は不満を募らせました。カルガモのきょうだいの間では何でも一番優秀な娘でしたから、唯一欠けていた美しさを手にした今、好かれない正当な理由などあるはずがない、いや、あっては困るのです。
「わたしの何がいけないの? わたしに足りないものがまだ他にあって?」
ある日、白鳥の娘は梅の木にとまっていた珍しい鳥に尋ねました。全身目の覚めるような黄緑色のインコです。チャラチャラしたインコの兄ちゃんは言いました。
「キミは綺麗かもしれないけど、かわいくないね。セクシーじゃないよ」
「何よそれ、下品な話? ちゃんとわたしの納得のいくように話してよ」
頭にきて噛みつくと、インコの兄ちゃんは飛び立ちながら言いました。
「ま、そういうところさ」
認めたくはないがなんだか核心を突いたことを言われたような気がして、無性に腹が立ちました。
モヤモヤしながら泳いでいると、スズメのおばさんたちのおしゃべりが池を囲む桜の枝から聞こえてきました。
「例の女の子、カルガモさんのところに混ざってた子なんでしょ?」
「そうそう。卵の時から違うってわかってたのに、育てたんですってね」
「よく育てたわよねぇ、感心しちゃうわ。自分の子だけでも大変でしょうに」
「あの面倒な性格じゃ難しかったでしょうにね」
「本当、頭が下がるわぁ」
これは聞き捨てならないような気がして、白鳥の娘は口を挟みました。
「まあ、そんな話、母が自慢話にでもしてるんですか? 育てたなんて言うほどのこと、母はわたしに何もしてくれなかったんですよ」
スズメのおばさんたちは声に驚いて、そそくさと散っていきました。中には、
「あれまあ、ずいぶんと恩知らずなことを言うもんだ」
と呟いた声も聞こえましたが、みんないなくなってしまいました。何なのでしょう。
カルガモの母さんが、今さら美談のようにしてそんな話を広めているのだとしたら一言物申したいと思って、白鳥の娘は母さんに会いに行くことにしました。
***
「お母さん」
池のほとりの葦の間に懐かしい背中を見つけて、白鳥の娘は呼びかけました。
振り向いてじっと自分を見返した顔は、少し小さくなって見えました。
「わたしよ。あなたの子に紛れていた、灰色娘です」
カルガモの母さんは、灰色娘が来た訳をわかっているみたいでした。
「わたしは白鳥だったの。この姿を見て、わたしを誇らしく思う?」
あるいは、こうして会いに来ることもわかっていたかのようでした。
「自分の子じゃないけど、わたしを育ててよかったと思う? ねえ、お母さん」
どうして答えてくれないのでしょう。真っ白な頬を涙に濡らして、灰色娘は訴えました。
「お母さん。決してかわいいと思えないなら、卵のうちに巣から蹴り出してしまえばよかったのよ。わたしが生まれる前に。池に沈めてしまえばよかったのよ」
「できなかったのよ。躊躇しているうちにおまえが生まれてしまった」
「だったら」
カルガモの母さんは目を逸らし、灰色娘の脇を過ぎて水辺に降りました。
「だったら? 生まれたから一緒に育てた。それじゃ不満なの? 確かに私はおまえを特別にかわいがりはしなかった。けど、特別に遠ざけていたつもりもないわ」
「お母さんはただの一度もわたしをほめてくれなかった。わたしだけ何でもできて当然みたいに。わたしはお母さんに認めてほしかっただけなの。それだけでも高望みだというのなら、あなたの子じゃないって最初に教えてほしかった」
母さんは背を向けたきり、何も答えてくれませんでした。その沈黙が、成長した白鳥の娘の悩みも、不満も、求めているものも、自分に向けられるべきものではないと語っているようでした。
そもそもカルガモの子育ては、一羽でも多くの雛を巣立たせるということに尽きるのです。誕生から巣立ちまでおよそ二月という短い期間に慌ただしく生きる術を叩き込み、独り立ちさせてやるのが親の愛なのです。
ただ生き延びる以上のことを生涯に求めるという発想そのものが、カルガモにはないものでした。
「おまえに応えてやることはできない。私は白鳥ではないのだから」
いつまでも泣いて待っている灰色娘に、カルガモの母さんは言いました。
「おまえは白鳥の仲間を探して、早く仲間のもとへ戻るべきよ。そして自分の子どもたちには、どうぞ自分が望んだようにしてやりなさい。おまえはもういいおとななのだから、雛の気分も卒業しなくては駄目。親として最後に言うべきことがあるとすればね」
***
桜が満開を迎える頃になっても、白鳥の娘はまだあの池にひとりでいました。
もし、旅に出て他の白鳥に巡り合えたとしても、仲間の間でうまくやっていける自信がありませんでした。
自分には愛される才能がないのだと、この頃では半ば諦めていたのです。
青空に白い花が映えて、池の周りは見事な景色でした。そして桜の枝の下で、白鳥の混じりけのない白はさらに映えました。けれど白鳥の娘は我を忘れて美しい光景に見入っていて、池を訪れる多くの人々が桜と一緒に自分を写真に収めていることに気づきませんでした。
白鳥の娘は、やはり目に美しいものが好きなのでした。そして美しいものとともにあることが娘の幸福でした。それを誰かと分かち合うことはできなくても、美しい世界の一部であることに満足を見出すようになっていたのです。
「姉さん。灰色姉さんじゃない?」
ふと誰かに呼ばれて我に返って見ると、若いカルガモがすぐ近くまで来ていました。
それはいつか喧嘩別れした、末の妹でした。初めに水に入るところを灰色娘が励ましてやった、末の妹です。
十二羽のきょうだいの間でおとなになれたのはたったの二羽でしたが、その二羽に、あの末娘は残ったのでした。
(あ……)
妹の後ろに別の若いカルガモを見つけて、白鳥の娘は気まずさに背中がムズムズしてきました。
妹は構わずに、はしゃいだ様子で若者に言います。
「やっぱり、わたしの姉さんだわ。姉さん、彼はわたしのボーイフレンドなの。この池で巣作りをしようと思って、今日は下見に連れてきたのよ。母さんにも紹介したいしね。でも、会いたかったわ、姉さん! まだこの池にいてくれたなんて!」
相変わらず無邪気な妹は、感極まって抱きついてきました。
「姉さん。わたし、わたし、姉さんのおかげで今ここにいるのよ。あの日池に飛び込めなかったら、見棄てていたって、巣立つ時に母さんに言われたの。姉さんがそばに来て、優しく励ましてくれたおかげなのよ。それなのにわたし、姉さんにひどいことをしてしまって、ごめんなさい。姉さんが体のことで悩んでいたなんて、思いもしなかったの。だってわたしたちきょうだいの間じゃ、姉さんは何でもできて完璧な、自慢の姉さんだったんだもの」
白鳥の娘の目からぽろりと涙の粒が零れました。
「ずっと謝りたかったの。ごめんね、姉さん。本当にごめんなさい」
「謝るのはわたしだわ」
妹の茶色い項にぽろぽろと涙を落としながら、白鳥の娘も言いました。
「わたしはわざと意地悪を言ったんだもの。ごめんね、あなたに嫉妬していたの。きょうだいの中で一番かわいくて、いつも母さんの一番そばにいたから」
「そんな、謝らないで、姉さん。謝らないで」
桜吹雪の池の上で、姉妹はしっかりと抱き合いました。
妹と赦し合ってみると、これまでの長い苦悩までもが不思議と過去のものに色褪せ、急速に解けて流れ出すのでした。
もう楽になろう。と、灰色娘は思いました。だから生涯癒えることはないと思い詰めていた悲しみが自分から離れてゆくのを、引き留めようとはしませんでした。
それから何日も経たずに、転機は突然訪れました。
ある晴れた日の早朝、白鳥の娘は何かに呼ばれたような気がして池の真ん中に出ました。すると頭の上を十羽ほどの白鳥が隊列をなして飛び過ぎて行ったのです。
初めて見る光景に呆然としていると、ほどなくして、白鳥の群れが戻って来ました。
「君、こんなところにぽつんと居残っていては駄目じゃないか」
「召集に気がつかなかったの? 私たちと一緒に帰りましょう」
生まれて初めて白鳥たちに囲まれて、娘はすっかりどぎまぎしてしまいました。
「なんだ、口が利けないのかい?」
「そういえば見覚えのない顔だなあ」
「さあさあ、行くよ。遅れてしまう」
「ほら、あんたはあたしの後ろ。はぐれないで付いてくるんだよ」
何が何だかわからないまま、娘はみんなと一緒に飛び立ちました。
冬の間に長旅の用意をしてこなかったものですから、大変な事でした。結局途中で体力が尽きて、大陸に渡る手前の休憩地点に居残り、生まれ育った池の場所もわからなくなってしまって、二度と戻ることはなかったのですが。
空気の綺麗な土地の広い湖で、一度だけ子育てをした後は、美しい景観を求めて転々としながら、ずっとひとりで暮らしたそうです。
夏に一羽で涼しい顔をしている白鳥を見かけたら、それはあの気位の高い灰色娘かもしれません。