前編 美しくさえなれたなら
五月、緑豊かな公園でカルガモの母さんが卵を抱いていました。葦に囲まれた巣の中には十二個の卵がありました。ところがある日、池で食事をして戻ってみると、産んだ覚えのない大きな卵が一つ、母さんの巣の真ん中に陣取っていたのです。
「嫌だわ、どこから紛れ込んだのかしら」
カルガモの母さんは顔をしかめて呟きました。
「どうしよう。蹴り出して池に沈めてしまおうか。つついて割ってしまおうか」
恐ろしいことを思いついても、そう行動に移せるものではありません。カルガモの母さんはとりあえず巣の上にうずくまり、十三個の卵を温めはじめました。カラスやタカの子が生まれたらどうしよう、と悩んでいる間に何週間も過ぎてしまい、ついにある朝、お腹の下で孵化が始まりました。それも最初にひびが入ったのは、問題の大きな卵でした。
(ああ嫌だ、なんてこと)
カルガモの母さんはいよいよ恐ろしくなって、固唾をのんで見守りました。もし悪いものが出てきたら、自分の子に危害を加えないようにすぐに始末しなくてはならないと思ったのです。けれど殻を破って出てきたのは、なんともいえず不器量な灰色の雛でした。
(あらあら、なんてかわいくないの!)
母さんカルガモは思わずため息を漏らしました。
(でももう、これはどうしようもない。生まれてしまったんだもの)
自分を親と思い込んだ雛鳥は、全身から喜びを溢れさせているようでした。その無邪気な様子を見たら、ふわふわした羽毛をむしってつついて殺してしまうことなど、若い母さんにはとてもできませんでした。
(まあ、いいか。この平たいくちばし、それに水かきのある肢。なんだかわからないけど、カモの仲間ではあるみたい。少なくともカラスやタカの子ではないもの。一羽くらい、一緒に面倒みてやるわ)
その日はとてもいい天気で、一年の間で一番きれいなお日さまの光が降り注ぎ、灰色の雛の誕生を祝福しているかのようでした。そうして灰色娘は、あとから生まれたかわいいきょうだいたちと一緒にカルガモの母さんに育てられることになったのです。
***
十三羽の子どもたちが池に出たのは、すべての卵が孵った翌朝のことでした。母さんカルガモを先頭に、よちよち歩きの雛たちがぞろぞろと続きます。
「さあさあ、今日から泳ぎの特訓よ」
母さんカルガモは池に入り、子どもたちを呼びます。初めて見る水におどおどしているきょうだいたちの中で、一番に飛び込んだのは、あの灰色娘でした。
「みんな、早くおいでよ。とっても気もちがいいよ」
灰色の姉さんに促されて、きょうだいたちもおっかなびっくり、一羽、また一羽と池に降りてきました。でも、末に生まれた妹だけはだめです。みんな水に入ってしまったのに、橋の欄干のところにしがみついて、ぶるぶる震えています。灰色娘はすぐ下まで泳いでいって、優しく励ましました。
「大丈夫だから、いらっしゃい。そんなに高くないし、勝手に浮くわ。冷たくって、気もちがいいわよ」
母さんカルガモはその様子を見ていました。
(おや、あの子はずいぶん筋がいい。教える必要もないみたい。それにいい子だわ)
やがて小さな水しぶきがあがり、末の妹はどうにか最初のテストに合格しました。母さんはスーッと泳いで迎えに行き、憶病な末娘を引き取って言いました。
「おまえはちょっと、心配だわ。おいで、母さんのそばを離れないのよ」
灰色娘は、母さんが妹の肩を抱いてくるりと背を向けたのを、初めはそんなに気に留めませんでした。自分で上手に泳げるので、ふたりの後を付いてゆきました。
さて、カルガモの母さんの泳ぎのレッスンは、灰色娘には退屈でした。きょうだいたちが母さんに教えられて練習しているのを少し離れたところから見ていたのですが、それにもだんだん飽きてきます。
「お母さん、見て。わたしはもうこんなにできるよ」
一番上手な自分の泳ぎを、ほめてもらおうと近寄ってアピールしても、母さんはちっとも構ってくれません。十二羽の子どもたちを教えるだけで、手一杯なのです。
しょんぼりとうなだれた灰色娘は、はたと水面に見入りました。そこにはきょうだいたちとはずいぶん見た目の違う、見慣れない雛が映っていました。
「あれっ、これがわたし?」
灰色娘は首をめぐらせて自分の体をよく見ました。そしてあらためて、黄色いほっぺにアイライン、こげ茶頭のかわいいきょうだいたちを見ました。
(どうしてわたしだけ模様もなくて、灰色なの? こんなの全然、かわいくない)
それまでは自分も、きょうだいたちとおそろいに違いないと思い込んでいたのです。母さんの子どもなのですから。自分が他のきょうだいに見劣りするなんて、どうして考えられるでしょう? 灰色娘はひどくがっかりして、一番出来がいいのに母さんに構ってもらえないわけもわかったような気がしました。
(お母さんはわたしが嫌いなんだ。弟や妹たちみたいに、かわいくないから)
***
そうは言っても、母さんに気に入ってもらうために灰色娘にできることはといえば、他のきょうだいよりも優秀なところで目立つことだけでした。一方、カルガモの母さんも、かなりピリピリしていました。
何羽かはカラスに攫われて、また何羽かは餌を獲れずにいる間に力尽き、十二羽いた雛は十日足らずで半分にまで減ってしまったのです。
それで、たとえば灰色娘が親切で、教えるのを手伝ってくれるのをありがたく思っていても、ほめることはしませんでした。灰色娘は歌が得意なのを知っていても、カルガモとして生きてゆくのに必要のない才能には関心をもてませんでした。
(ああ、美しくなりたい! 見た目さえよくなれば、わたしはだれにも負けないのに)
何も知らない灰色娘は、水面を覗き込むたびに悔しい気もちで一杯になりました。そんなある日、物心がついてきた末の妹に尋ねられたのでした。
「灰色姉さん。どうして姉さんの体には色がついてないの? 姉さんの模様はどうして消えてしまったの? 卵の中に忘れて来ちゃったの?」
末娘に悪気はなかったのですが、その無邪気な様子が、余計に灰色娘の癇に障りました。
「そういうあんたは、どうしてそんなに泳ぎ方が汚いの? 母さんが毎日つきっきりで教えてくれてるのにさ」
意地悪な言い方をされて、末娘はしくしく泣きだしました。
「泣くんじゃないよ! そっちが先に言ったんでしょ!」
頭にきて妹の黄色い羽根をくちばしで突っついた、その時。
――バシッ!
はらはらと宙を舞ったのは、姉さんの灰色の羽根です。姉妹の間にサッと大きな影が割り込んで、灰色娘を思いっきり突き飛ばしました。
「こいつ、赦さない! よくも私の子をいじめたわね!」
灰色娘は呆然として、怒りに全身の毛を逆立てた母さんを見つめました。
「お母さん、何て言ったの?」
母さんの陰に隠れながら、末娘も驚いた様子でそっと尋ねました。
残りの三羽のきょうだいたちも、わらわらと集まって来ました。
みんなが聞いている前で、母さんは何を語り出すのでしょう?
灰色娘はいたたまらなくなって、全速力でその場から逃げ出しました。きょうだいの声が追いかけてきましたが、怖くて聞けませんでした。誰も追っては来ませんでした。
終わりかけの紫陽花の下に逃げ込むと、灰色娘はわっと泣き出しました。そのまま夜通し泣き続け、やがて辺りが明け白む頃、灰色娘は疲れ切った頭で考えました。
(わたしはお母さんの子じゃないんだ。お母さんの子でないのなら、カルガモですらないのかもしれない。では、わたしは誰なんだろう?)
灰色の、大きな、みにくい鳥を思い浮かべて、灰色娘はぶんぶんと首を振りました。
(ああどうか、カルガモよりも美しく立派な鳥であってほしい!)