P3Cの空
日本人らしく、綺麗に管理された航空基地に、自衛官達が真っ直ぐに列を作っていた。
いつものパイロットスーツではなく、茶色に染めた綿の戦闘帽と白い落下傘を身につけたその出で立ちは、旧日本海軍のそれであった。
しかし隊員達は正真正銘の自衛官であり、皆、機上時間3000時間を越えるベテラン揃いである。
その顔に疑問が浮かぶのは無理もないだろう。上官からは『この装備に着替えて0800にエプロンへ集合』とだけ伝えられているだけだ。その装備はかつての日本軍の物である。もしや、映画の撮影協力かと胸を躍らせたものもいたが、駐機場で実弾の短魚雷が運び込まれているのを見て顔がひきつっていた。
集合時間2分前には上官がやってきて、着なれない戦闘服に身を包んだ隊員達を見、その顔が曇る。
「我々は化かされているかもしれない」
「は……」
自衛隊では、発言を認められるまで部下は口を利いてはいけない場面というのがある。ここは世界的に見れば有数の軍事力を持った軍隊であり、彼らがどう言おうとも回りから見れば完璧なそれは、まったく姿勢を崩さずにそのことを伝えた。
「君たちには第二次世界大戦末期の日本海に飛んで貰う」
皆ブワッと吹き出た汗が戦闘帽に茶色いシミを作った。
そうか。
彼らの愛機、P3C哨戒機は見慣れぬ緑色に塗られ、これでもかと赤い日の丸が大きく胴体に描いてあった。
「海域は鹿児島の北西約10キロの海上。一隻の民間船が旧海軍の駆逐艦の護衛を伴って本土を目指している。その貨物は沖縄から疎開する児童423名である。史実では無線を傍受した敵潜水艦の魚雷攻撃によってこれは撃沈される。諸君らにはそれを防止してもらいたい」
あの時代、まだ高度なGPSや長距離をつなぐ電波もない。つまり、もっとも孤独な海上がそこにはあった。
史実ならば、その空を飛んでいた友軍の機体はない。しかし、敵の飛行機は飛んでいる可能性が高い。あの時代、日本の空はもう制空権がほぼ無いに等しかった。
P3Cには自営用の空対空誘導弾を搭載することが出きるが、今回の任務では敵潜水艦の駆逐、撃退が任務となるために、ハードポイントには短魚雷用のアタッチメントがつけられていた。
P3Cは謂わば旧式の機体で、令和の世ではほとんどの国で退役している。理由は機体の老朽化。設計思想の古さにあった。P3Cはプロペラ機であった。推進力を得るためにエンジンでプロペラを回す形式をとっている。そのエンジンをターボプロップエンジンという。これはジェットエンジンでプロペラを回す特異な形式をもっているために、巨大な機体を強力なエンジンでもって無理矢理引っ張るというアメリカの流れを汲んだ設計思想を持っていた。
現代では、さらに早いジェット推進に主役を変わられたが、遅い飛行機にも使い道はある。P3Cは低空を這うようにして、敵の潜水艦を探すことに特化していた。もちろん、そんなものは第二次世界大戦中には存在しない。日本やアメリカでは普通の燃焼系統をもったプロペラ機が制空権を担っていた時代。このP3Cはターボプロップという未知の技術をもって空を飛ぼうと言うのだった。