百十七話 禁裏の奥へ
毎度ありがとうございます。
尾州除葛氏の名族に生まれ、ここ朱蜂宮の南苑で貴人に次ぐ美人の位にある、漣さま。
彼女の下でお世話になり始めて、三日目の朝。
日昇への祈祷をいつも通り終えた漣さまは、先輩侍女たちに囲まれて、よそ行きのお召し物に着替え直されていた。
「陛下のお側に、行かれるんですか」
「ええ」
小声で訊ねた私に、孤氷さんが小さく頷く。
漣さまと皇帝陛下の逢瀬、ランデヴーである。
相変わらず男女の蜜月に慣れないおぼこ娘の私は、ソワソワする気持ちを胸に隠しながら、脱ぎ置かれた部屋着をいそいそと片付ける。
部屋にはフローラルなお香がもうもうと焚き染められ、漣さまの女っぷりを向上させるのに、一役買っていた。
「漣さま、今日もとてもお綺麗です」
「そうなんかな」
化粧も髪結いも、服装も香りも、バッチリと準備万端に決まって。
孤氷さんからの賛美にもどこかずれた発言を返す漣さまは、特に緊張も興奮も感じられず、いつも通りであった。
いやらしい話だけれど、こういうボーっとした女性がむしろグッと来る、エロい、と感じる男性も、多いのだろうな。
ま、そんな下世話な基準で皇帝陛下が寝室の相手を選んでいるのかどうか、私にはわからないけれどね。
おそらくは政治的なパワーバランスが、大きく影響している問題だろうし。
ともあれ、朱蜂宮の南門を出て、宦官の担ぐ輿に乗り、漣さまは皇帝陛下のもとへ赴かれた。
「この場合、今日の夕方と明日の朝のお祈りは、どうなるんですか?」
疑問点を孤氷さんに質問する。
巫女である漣さまは一泊二日の間、不在である。
「漣さまは主上のお部屋に行かれても、自らのお勤めを必ず欠かさず、果たされています。私たちも朝夕に、中庭に出て漣さまがそこにいるときと同じように、座して日を崇めるのです」
マ、マジか。
陛下と甘く熱い一夜を共に過ごしても、日の出前には起床して、四四十六回の拝跪を、絶対にサボらないのか。
なんと言うか、色々な意味で、超越した人だなとしか、言葉がない。
「わかりました。私も気を抜かず、いつも通り頑張ります」
「ええ、その心持ちでお願いします。さ、漣さまがいない間は大掃除です。棚の下や隙間も徹底的にやりますよ」
貴賓には蒙塵させるべからず。
お妃さまが部屋にいる間は、家具を移動するような大掃除は、ホコリが立ちすぎるので、できない。
部屋を離れたこの機会にやってしまおうということなのだな。
掃除なら任せろー、とばかりに私は気合いを入れて、孤氷さんの指示のもとに棚や卓を動かしにかかる。
作業興奮が乗り始めたそのとき、水を差すような邪魔が入った。
「除葛美人の侍女、麗なにがし。畏れ多くも正妃殿下がお呼びである。ただちに奴才とともに、北の宮に来られよ」
「は?」
部屋に若い宦官が来て、偉そうに言った。
おそらくは、昨日に会った川久とか言うニヤけ宦官の差し金だろう。
うお、こういう手で来たか~!
漣さまと話し合い、折り合いをつけて私を召喚するのが面倒だから、漣さまがいない隙を見計らいやがった!
見た目がけち臭そうなやつは、やることも小者臭えな!!
しかしその宦官の前に孤氷さんが立ちはだかり、いつものクールな顔で問うた。
「どういうことですか」
「申し上げた通りであれば、どうもこうもござらぬ」
「部屋の仕事に差し障りがないように計らうから安心せよと、皇太后さまのお言葉があるはずです。このようなやり方で彼女を呼びつけられる謂れはありません。今は見ての通り、忙しいのです。この機会でなければできない仕事をしているので。邪魔をしないでいただきますよう」
おおお、想像通り、いやそれ以上に、孤氷さんが頼もしい。
そうだそうだ、漣さまがいない状況を利用してなし崩し的に私を連れて行こうなんて、そんな姑息なやり口、筋が通らないぞ!
言い返されるとは思っていなかったのか、若い宦官はぐっと顔を歪め、孤氷さんを睨むように呻いた。
「せ、正妃さまのお言葉でありますぞ。それに逆らいなさるか」
「だったらあなたのような木っ端宦官ではなく、川久太監を寄越しなさい。そもそもあなた、誰ですか」
「なっ!?」
お前なんか知らんと面と向かって言われ、若い宦官は顔を赤くして狼狽した。
「ここはろくな礼も弁えずに、あなたごとき匹夫が気軽に足を踏み入れていい部屋ではありません。あの環貴人でさえ、ご挨拶に来られた折には丁重に礼を尽くし、部屋の前で静かに待っていただいたものです。川久太監にどれだけ可愛がられているのか知りませんが、いったいなにさまになったつもりですか。後宮の礼を学んで出直してきなさい」
玉楊さんの話が出たのが、私は嬉しかった。
気安い社交であっても礼を失せぬ立ち振る舞いを、貫いていたんだねえ。
これ以上ないまでの厳しい舌鋒を浴びせられ、若い宦官は身じろぎもできぬほどに固まるしかなかった。
次第にプルプルプルと全身を震わせ。
「お、覚えておるが良い!!」
負け犬の遠吠えを吐いて、立ち去った。
家の前に来た野良犬を追っ払ったお姉さんのようだった。
つ、強い!
痩せぎすでか細い出で立ちの孤氷さんが、これほどまでに芯の硬い女性だったとは!
だからこそ、あの緩やかで危なっかしくもある漣さまのお側に仕え、護ることができるのかもしれないなあ。
キラキラうるうるとした尊敬の眼差しで、アホのように口を開けて孤氷さんを見つめる私。
「は、早く仕事の続きにかかりますよ」
ちょっと照れくさそうに頬を染めてそう言ったのが、更に萌えポイント高くて、キュンとした。
将来は私もこんな風に、部下や後輩を守れる人間になりたいなあと、温かい気持ちで思うのでありました。
「そんなことを考えていた時間が、私にもありました」
「なにか言いましたかな」
独り言を冷たく、突っ込まれた。
今、私はカビの生えたカレー鍋を見てしまったような最悪の気分と表情で、川久太監の後ろを歩いていた。
こうなってしまった理由は、あれから直後にある。
「用があるなら川久を呼んで来い、お前じゃ話にならん」
と若い宦官に啖呵を切った孤氷さん。
やり過ごせたかー、と思ったのは私の頭が平和だったからで、すぐさま改めて、川久太監その本人が、本当に部屋に来たのだ。
尊い方の部屋にお伺いを立てる際の礼を、しっかりと弁えて。
「才なく賤しい身ではございまするが、伏して除葛美人のお部屋の前で、申し上げまする」
部屋の入口前で丁寧に四拝した川久太監を無下に扱うことは、さすがに孤氷さんにもできなかった。
「日没の前までには、お返しいただきますよう」
苦々しく、あくまでも妥協してやったのだという意図を隠さず、孤氷さんは川久太監に要求した。
麗を預けるのは、夕方のお祈りの時間までだぞ、と。
その頼みを嘲るかのように川久太監は言った。
「美人さまがおられぬのですから、そこまで堅苦しく考えずとも良いでしょう」
この発言から察するに、川久太監は漣さまの日々の祈りを、さほど重要ごとと認識していないのだな。
しかしその判断を、孤氷さんはきっぱりと撥ねつける。
「なりません。漣さまと同じお部屋で寝起きする以上、侍女のわたくしたちも同じように天神に祈らねば、穢れが溜まってゆきます」
「そう言うことでございますれば、かしこまりました」
というやりとりがあり、私は正妃さまがおられる北の宮へ、連行されることと相成ったのだ。
「我々を穢れと申すか、血に塗れた除葛氏の部屋付き女ごときが」
行く途中、川久太監が舌打ちしてそうボヤいたのを、私は聞き逃さなかった。
もう、人気のないところでこっそり、煉瓦でも拾ってコイツの脳天にブチ降ろしたくなったよ。
翔霏なら、誰もが見逃すような恐ろしく速い一撃で、容赦なくやってただろうな。
自分の非力が哀しい。
いっそのこと、喉に指でも突っ込んで、ゲロとか吐いてしまおうか。
正妃さまも吐瀉物まみれの小娘と、わざわざ面会したくはあるまい。
あーもう、こんなことに時間を取られている場合じゃないのに。
眠っている翠さまのためにも、さっさと事態を解決したいんだよ!
「ん?」
翠さまのことを考えて、私の思考に一つ、風穴が空くのを感じた。
正妃さまが私に話を聞きたいとおっしゃるのなら。
同時にそれは、正妃さまや素乾家がどのような思惑を持っているのか、私が知るチャンスでもあるのではないか?
後宮に行けと私に命じた姜さんは、素乾家は呪いの首謀者ではない、と見ている。
しかし犯人でないとしても、なにかしらの繋がり、手がかりが見つけられるのだとは、考えられないだろうか。
仮になにもめぼしい情報が得られなかったとしても、ならば他の道を探ればいいだけで、可能性の一つを潰して回る結果になるだろう。
「むふふ、そう考えると、正妃さまに会うチャンスなんてめったに得られるものじゃないし、かえって良かったのかも」
発想を切り替えた私の顔に笑顔が、口に独り言が浮かぶ。
「一人で勝手に浮いたり沈んだり、なんだか気持ち悪いやつだな」
私を横目で見る川久太監の表情が、そう語っていた。
次回もお楽しみに。