百四十四話 口に従い令に従うを命と為す
銀の龍神が、高度をゆっくりと下げる。
その背から降りて地上に戻った私たちは、再度の跪拝で讃え、貴重な空の周遊に感謝した。
バタバタと小さいことで騒ぎ、悩み、神さまを煩わせてしまったことが恥ずかしいな。
私たちにとっては大事な、重いことだったのだけれどね。
『神の前に在りて慙じるもまた、人畜の義しき礼である』
そんな小人の気持ちを見透かしてなお、神さまはこちらを責めるでもなく、道を説いてくれた。
良かった、ダメを出されたままでお別れせずに済んだようだぞ。
「このたびは多大なる恩寵に浴する光栄、まことに、まことに言葉もなく……」
地面に突っ伏し、謝辞の途中で想雲くんが泣き崩れてしまった。
感受性の強い子だし、体験したことに心身の整理が追い付かないんだろう。
私も色々ありすぎて、若干の放心状態にある。
年少者二人の無様をよそに、漣さまは粛々と、堂々とした態度で白銀龍の面前に向き合っていた。
「お会いできて良かったわあ。ほんまおおきに、おおきに」
ゆっくりと四拝する漣さまに、龍神が低く重い聲で告げる。
『哀しみを負いつつも笑う巫祝の女。我はおのしの心に応じて降りた。おのしはなにを望まんとする』
ハッキリと、今回の降臨、召喚は漣さまが主体となって行われたのだと示した。
今までの永く義しい漣さまの祈りに、神さまが応えてくれたのだ。
「ウゥッ」
後ろで嗚咽する声が聞こえる。
孤氷さんが感激して泣いているのだろう。
長い年月を漣さまとともに祈って過ごした彼女にとっても、言葉に尽くせる状況ではないのだ。
神さまからありがたい言葉をかけられて、漣さまはにこやかに、心から嬉しそうに、こうおっしゃった。
「今日も、明日も、いつまでも、うちらをよろしゅう見守りくださいますよう。おたのもうします」
『好し』
素朴過ぎる願いに、たった一言、短くくれただけで、白銀の龍は空高く飛び立った。
人々が見つめる中、早朝の太陽にまっすぐ向かって行き。
いずれ、光の中にその姿を溶かし、誰の目にも見えなくなったのだった。
「いい機会だと欲張ってあれこれお願いしちゃ、ダメなんだね」
「そ、それはそうでしょう。神もお怒りになられます」
私の浅ましい感想に、想雲くんが呆れた。
神さまがいくら全能の超越者だとしても、だからと言って私たちのお願いをいちいち聞く筋合いなどないのだよな。
だからこそ神頼みをするにしても、礼を踏まえることが重要なのであろう。
わかるけれど、私なら自分の感情でいっぱいいっぱいになって、ワガママを言ってしまうかもしれないよなあ。
もうちょっと背を高く、手足をすらっと長くしてください、とか。
「皇さまも、朝はよから騒がせてもうて、堪忍なあ」
近くに来た人へ、漣さまが謝る。
ってぇぇぇ、皇帝陛下がいたんだったぁッ!!
私と想雲くんは引き続き地面に伏して這い、頭を最大限に下げる。
「なにがどうして神のお姿までお目にかかることができたのか、朕にはわかりようもないが」
龍神が飛び去った空を見て、皇帝陛下は優しい声色で話し始めた。
「きっと、漣たちに辛い思いをさせてしまったのだろうね。その不明を国主として不甲斐なく思う」
そう言って、陛下は旭日に拝した。
皇帝が臣民に頭を下げるわけにはいかないので、謝罪や反省をしているときでも拝む相手は太陽である。
「うちらのことは、うちらが勝手にやっとるだけや。皇さまが気にすることなんて、いっこもあらへんよ。のんびり構えとってくれたらええねん」
「ありがとう、漣。しかしそうもいかないことがある」
ふうと溜息を吐き、皇帝陛下が想雲くんを見た。
「翠蝶の、甥であったか」
「は、はい! 玄霧の長男、想雲と申します!」
地面に顔を突っ伏したまま、想雲くんが自己紹介した。
畏れ多くて正視できないのだ。
ウム、と頷いた皇帝陛下は、声の調子を力強く変えて、言った。
「翠蝶が倒れたことは、すでに朕も知るところである。そこになにやらの陰謀のあるかもしれぬことも」
「ははっ! しゅ、主上におかれましては、なにとぞ、なにとぞわが家、司午家に、角州で伏して眠る叔母にお心を賜れんことを……!」
今、想雲くんが言える精一杯が、これなのだろう。
うん、十分なのだ、これで。
直接、皇帝陛下に司午家の人の口から、問題があること、どうにかして欲しいことを伝えたのだから。
神さまが出現してくれてありがたや~というのはもちろんだけれど、それはそれとして、人の世の問題は、人が解決しなければいけないのである。
皇帝陛下は真面目な口調で、想雲くんの懇願に答えた。
「当然のことである。翠蝶が腹に宿しているのは朕の子なのだ。必要なことがあれば整えるゆえ、よくよく司礼総太監と協議せよ。疑義ある部分は枢密の官と折衝し、細部まで取り調べ明らかにせよ」
「あ、ああ、ありがたき幸せにございまする……!!」
感激にむせび泣く想雲くん。
ちらりと目線を上げて様子を窺うに、皇帝陛下の後ろに控えている正妃さまも、けち野郎の川久太監も、特に異論のある顔はしていない。
翠さまに対して、彼らの側に含むところは、利害ともにないのだろう。
枢密というのは貴族や軍人、役人の内規を広く取り締まる部署だ。
町人や農民などの民間人ではなく、公人の行政事情を監察する役所であり、国が抱えるスパイ機関の総本部でもある。
枢密を動かすということは、陰謀の仕掛け人が尾州の宰相、除葛姜その人であることが、やんわりとバレているということだね。
馬蝋さんと一緒に椿珠さんたちがいるから、私たちが空中を遊覧している間に話してくれたのだろうな。
想雲くんに言うべきことを言い終えた皇帝陛下が、私に目線を向ける。
「あれは、秋であったか」
なにか話をしたいらしいけれど、私はどう返事していいものかわからないので、縮こまって黙りつづける。
気にせず、皇帝陛下はさほど遠くない思い出を語り続けた。
「戌の匪盗めらが押し寄せた折り、朱蜂宮の塀に登って大立ち回りをしていた娘を遠目に見た。あれが、そなたであったか」
「え、えーと」
チラッ、と正妃さまの顔色を窺う。
静かに小さく頷かれていた。
ならば正直に答えていい場面だな。
「は、はい。あの日は恥ずかしながら、泥まみれになり、駆けずり回りました。あ、私は麗と申します」
「朕が、せねばならぬことだった」
「え」
つい、顔を半分上げて、皇帝陛下の表情を見てしまった。
座する私を沈痛な面持ちで見ているその人は、かつて無力だった自分を後悔している、普通の青年だった。
別に私と彼が似ているわけじゃないけれど、なぜか、鏡を見ている気分にすらなった。
私もその後悔を、たくさん抱えた若者だからね。
「農民を守ることも、賊を追い散らすことも、朕の役割のはずであった。それができなんだせいで、そなたには大きな労苦をかけたと聞く。恨んでおろうな」
「いいえ、そのようなことは、決して」
うん、まったく、ミリほども恨んじゃいない。
私は、自分がやりたいことを、やりたくてやったんだ。
あなたがやらなかったから、仕方なく代わりにやったわけじゃ、ないよ。
私の後悔は、誰のものでもない、私自身のものである。
だからこそ、私を前に進ませる原動力足り得るのだ。
「強い娘だ。ならば聞くが、皇都に姜帥を召喚して訊問するとすれば、そなたも同席するか」
今回の事件の申し開きに、姜さんはどうしたってこの河旭に呼びつけられるだろう。
その場に私も参加していいと、皇帝陛下は言ってくれているのだ。
「へ、陛下! かような婢ごときを、国の大事に関わる詮議に参加させるなど!!」
「うるさい」
後ろにいる川久太監がなにやら騒いだけれど、正妃さまが睨んで制したら黙った。
ま、ごちゃごちゃ言われても言われなくても、私にとってはどうでもいいことで。
「それには預かりません。しばらくは顔も見たくないくらいです。会うなり石で殴ってしまうかもしれません」
私は丁重、でもない断り方で、せっかくの機会を棒に振る。
国の政治として、公の事件として姜さんを締め上げるのは、そっちで勝手にやってください。
私自身の報復は、別の形、別の機会に。
私がやりたいように、思う存分、やってやる。
誰にも邪魔はさせないし、偉い人たちの助けも要らないよ。
心中に煮えたぎるものがあることを、皇帝陛下に見透かされたかもしれない。
少し面白そうに、こう言われた。
「姜帥が禁固されれば、気が変わって会いたいと思っても簡単には会えぬぞ」
確かにそれはそうだね。
牢屋に入れられるでも、屋敷に軟禁されるでも、そんなことになれば姜さんにちょっかいをかけることは難しくなるだろう。
それでも。
「はい、そのときはそのときで、なんとでもなります」
なるようになる。
知識や感情で目の前がとっ散らかり気味だった私の、視界をクリアに広げてくれた人がいる。
そうなれ、そうであれと祈る力の強さを、私に教えてくれた人がいる。
思いも心も以前より一層、透き通る感覚を私は少しだけ身に付けて、二度目の後宮生活、侍女暮らしを終えようとしている。
皇帝陛下たちも屋内に戻り、私は翔霏ら仲間たちと挨拶して別れる。
孤氷さんがクールな表情に戻って、こう言った。
「なんだかやりきったような顔をしてますけど、せめて次の水治めの祭事までは、いてくれないと困りますよ。あなたがいるものという前提で、段取りしていますので」
「はあ、そりゃ今日明日にいきなり出て行くような不義理はしませんけど」
なんだかんだ、漣さまのお部屋も、良い所だった。
南苑統括の塀貴妃も好きだし、後ろ髪が引かれる気持ちは強い。
と、私は十七歳の娘らしい感傷に目を潤ませているわけだけれど。
「どうだか。あなた、前も突然に司午貴妃のお部屋から逃げ出したと言うじゃないですか。あなたならまたしでかすかもと、私は今になって、強く思っています」
痛いところを突かれて、ぎゃふん、と言わざるを得ない。




