胎動の隘路・其の四──勤労意欲と繰延衝動
職務に復帰したダリオが苦慮したのは、まったくもって仕事に切り替わらない思考だった。
あまりにも長い空白期間は、ようやくの出社に勤労意欲を駆り立ててはくれている。それは間違いない。だが、いざ席に着くともどかしいくらいに頭が働かない。焦る感情は表層意識ばかりで、体幹を司る深層意識がごっそりと寝こけているような感覚だ。文面を追う視線は斜めに滑り、記載しようとする手は動かない。果てはぼんやり虚空を眺める始末。
「……人の休み呆けを責められないな、これは」
突発の長期休暇、その初日には、修了証書期限失効などというくだらない失態に悔やみ、進捗を停滞させてしまうことへの自責の念に苛まれ、しかしどうにもできない立場に憤る感情に頭を抱えたものだ。しかし一方で、仕事から解放される安堵もあるのは認めざるを得ない。
修了証書の再発行は最短でも一〇営業日後との回答であり、待つより他に打つ手が無い。なれば焦燥に気を病んでいても詮方無い。できることは、心地よい日差しがまだ低い位置にある青空に、巻雲が刷毛で梳いたように淡く広がるのを見上げ、慌ててもやむなしと諦観するのが関の山。逃避以外になにができようか。
などと自身に言い聞かせたところで悟りに至れるわけもなく、休日を心底とっぷり堪能できるようになるには三日を要した。幸いにして、この国の企業群には有給付与が義務付けられている。出勤扱いの保証は二四営業日だ。使い切るつもりで腰を据え、余裕をもって高を括ろうではないか──
などと伏線のつもりなどあろうはずもなく言い放ち、待てど暮らせど音沙汰の無いままに、とうとう消化間際の残一日ともなれば、なぜ余計なことをこの口はとの後悔もする。待ち惚けていても状況を変えるに至らないのは明らかなのだからと、遅ればせながら関連各所に問い合わせたところ、各所それぞれで同じ数だけ襷を繋がれ、明らかとなったのは驚愕の真実だった。
なんと発行事務局に申請書が届いていなかったのだ。
「遅延発生がわかった時点で、なぜ問い合わせされなかったのですか」などと疑問を投げかけられるのは、全くもって至極真っ当で当然でもある。だが、不条理な吊し上げに遭わされた不愉快さはどう処理してくれよう。叫ばなかった自制心を誰か褒めてくれないものだろうか。
ともかく、教習機関からは書面を回覧しているとの確認を経て、とにかく急ぎでと再発行を依頼。その足でギルドに状況説明に向かうことにした。非常に重い足を引き摺りながら。
ギルドはしかし、発端が自業であろうが長期欠勤は外部要因によるものと認め、現状は出勤停止に能わず、よって職務復帰までは給与の八割を生活保障金として支給するとの温情判断を沙汰した。思えば、労働安全衛生管理は国家直属の公務機関であり、ギルドもまた国家機関の一部なのだから、謂わば身内の不手際の隠蔽に動いたのだろうとは容易に想像がつく。ならばその恩恵を賜ることに何の遠慮があろう。
そうしてずるずると月日は流れ去る。
その間なにもせぬではさすがに後ろめたさが勝った。加えて──これは自身にも驚きであるが──労働が恋しくなる感情に突き動かされることになろうとは思いもよらなかった。そうしてギルドの庶務に拝み倒しての内職稼ぎに参加する。
修了証書が送付されてきたのは、その庶務での単純作業の最中であった。実に一二〇日目を数える、ほどというにもおこがましい経過日数の果てであった。
受け取った場所が幸いにも庶務であるから、復帰の手続きになんら不自由は無く、庶務の一員の立場も、関連各位への報告に自らの足で赴くのに有効だった。翌営業日には業務再開との指示も、カリルトから無事に受領できた。
待ち望んでいたはずなのに、なぜだろう、環境がするすると元の生活に戻りゆくことは、自分の身に起きていることなのだと実感できなく成り果てていた。どうにも寂寥感が募るのであった。
そうして冒頭に戻る。
久方ぶりの自身の席に腰を据えたダリオの虚のような目は、机上に立てて並べられた文書保存箱の列に向けられていた。あるのは仕掛かり前と途中、そして完了案件である。
山とある確認数だが、グローブで社会人をしていた当時を思い返せば、ささやかとは言えずとも処理可能な分量だ。この余裕はおそらく、こちらの世界にパソコンなる代物が存在しないことが多分な要因だろう。加えて、音声と文面の通信設備が存在するにもかかわらず、個人持ちの携帯電話はおろか各席の内線すら配布されていない。となれば、資料庫に向かわねば過去事例を確認できず、連絡の全ても対面しての口頭または書面提出回覧頼りとなり、ありとあらゆる行動に空間移動の時間が計上される。日に処理可能な業務配分にも余裕が与えられるわけである。
「──内線が置かれないのは、必要としたくないからだろうが……そういやメールをチャットと勘違いしていないか、という奴もいたな」
情報化が進むことで仕事がはかどるようになった反面、作業者にも処理能力の高速化が求められ、単価が削られた実務を大量に抱えさせられて拘束時間は肥大化していた、それが一〇年前のグローブだ。さて現在、向こうの世界の効率化は、業務軽減効率化が叶っているだろうか、それともただただ負荷が上がり続けているだけか。実際、いくら対面しての会話を不要とする通信環境を整えたところで、扱う側の伝達能力が欠落していては手間はむしろ増えるだけだろうと考えると、どうにも悲観的にしかならないのだが。
とまで思考を暴走させたところでダリオは、我に返り慌ててかぶりを振った。
「だめだ、油断すると仕事から目を背けてしまう」
やるべきことはわかっているのだ。仕掛かり途中の案件に参戦可能かどうかを、進捗状況を確認して早急に仕分けるのが最優先。次に保留されたまま置かれた新規業務の納期確認。不在期間中に完了している業務は、空いた時間にでも目を通せばそれで良い。
なのに、つと手を伸ばしてしまうのは、完了業務の書面の束だ。
どんな業務を、どのように進めて、どう終えたのか、工数はいくらだったか、内容は評価できるものであるのか──気掛かりであるとの言葉は言い訳である。回避欲求を満たしたくなる衝動であるのは間違いない。
「……なにかやらないと」ぶつぶつとぼやきつつ、新規案件から束を取り出してみる。ところが予想よりも分厚く重い案件であることにダリオはぎょっとした。「なんだこれ──ああ、サコ姐さんが言ってた洞窟城の新規支路の件か」
ぱらぱらと内容を流し読みすると、ソアダがまとめた現状報告に、洞窟城領の行政機構のうち環境事務所からの調査結果、そして領主印が押された依頼内容一式、それらが全てそこにあった。重量にも納得である。
サコギが持ち込んだ時点では、支路生成に伴う自壊崩落に即応するため先行して支保工を進めたい、といった要望だったように記憶している。だが、どこがというわけではないが、全体から受ける印象がどうにも胡散臭い。検討も検証もなくただ事実の羅列がつらつら描かれているような──
「なぜ依頼前に計算書が揃って──?」気づきに至り背筋に凍るものを感じつつ、工程表と付録を交互に眺め机の上に広げてゆく。そしてダリオは頭を抱えた。あの日、サコギの来訪時には、レッシナから依頼されたウーゾが計算書作成と支保工作図を完了させていることがわかってしまったのだ。「名義貸しそのものじゃあないか。後追い承認なんて嘘っぱちもいいところだぞ。ていうかなぜツグさんの名前まで入ってるんだ」
「独り言、増えましたね」
声に顔を上げれば、そこにはベネディクトが立っていた。仕掛り前の案件保存箱に書面を押し込みながら「それ」と指し示すのは机に広げられた洞窟城案件である。
「簡易現況調査に追従依頼書が仕込まれています。浸透挙動計測結果がしれっと紛れていますけれど、それをギルド発注名義にしてほしいとのことでした」
「いつものこととはわかるんだが──ブランク明けに眺めるとしみじみ、無体も甚だしい状況だなこれは。そんなにしゃべっていたかな俺」
「全部が全部、口に出てましたね」
「まずいな……気をつけることにするよ」
「すでに手を離れている項目は選り分けてありますから──ああ、それです」
「ありがとう」失笑しながらダリオは、取り急ぎ署名捺印に取り掛かる。「計画書体裁の事後承諾がまかり通っているから、検収後に収支が合わなくなるんだ、まったく」
「じゃあ、席に戻りますからなにかあったら呼んでください」
「さっそく悪い。ツグさんからの先行手配依頼なんだが、レッシナ回覧済みだな。発注控えが見当たらないんだが」
「席にあります。アルヴォさんが午後から──そろそろかな、納品計画書を持参すると聞いたんで、確認していたんですよ。物は現地に発送済みとか」
「ああ、俺がそっちに向かう。ちょっと貸してくれ。原価管理の記載だけだからすぐ返す」言いつつ立ち上がり、ベネディクトの机に近づいて──遠目にも気になってはいたのだ──その散らかりように顔を顰めてしまう。書類が積まれているのはまだ良いとしても、備品なのだか預かり品だかわからぬ資材や機器が埋もれている惨状は、さすがに黙っていられない。「お前な、帰宅時には机の上をまっさらにしておけと、口を酸っぱくして言い続けていただろうが。いつから片付けていないんだこれは」
「落ち着き次第、今日からでも片付け始めます」
落ち着くとは、なにがだ。との言葉は無理やり飲み込んだ。ベネディクトの言い分に苛立ちはするが、今、この場で叱りつけたところで即時に片付けが始まるわけがなく、業務そっちのけで整頓に専念されても困る。
それにしても──立てられた綴込表紙の列の上に無造作に置かれている、杖のような物はなんなのだろう。ペグにしては五〇センチほどと大きい上に、装飾も凝っている。ひょいと持ち上げてみるが見た目ほどの重さがない。手触りからは素材が想像できない。
「お待たせしました。発注控えです」
「ありがとう。で、だ。俺の復帰が遅れたのが原因だから申し訳ないんだが、現況調査の会議が三日後に控えているらしい。進捗報告が求められるだろうし、まさかできないと言えるわけもないから──ああ、ちょうどいい」杖をどけた書類の列の中にあった、過去事例の参考案件を抜き出し、ベネディクトに突きつける。「こいつを参照して、工事工程をでっち上げてくれるか。加えて、すでに発注している先行手配に追加で、この参照情報ママの必要資材を発注に回してくれ。不用品の品目削除は後日、技術連絡で回覧する。工数と経費が見積もり前に動いていて、持ち出して払われているからな。なにからなにまで過剰なくらいを計上するのがちょうどいいと考えてくれ」
「えっと」しかしベネディクトは、参照元を受け取りながら首を傾げた。「複製元と本件が類似しているかどうかが、まずわかりません。現況調査の作業工程の組み方を知りませんから、提出する情報が最低限どこまで必要なのか、調べるのに時間をいただけますか」
──これだ。
ダリオは両目を固く閉じ、一旦呼吸を整えた。ベネディクトは業務をそつなくこなす優秀な人材だが、不明点にぶつかると思考と手を止める悪癖がある。だから、余計なことを考えないように、手順だけを指示したつもりだった。なのに、こうして立ち止まる。提出まで日が無いと、たった今、言ったはずなのだが。
「初めからきちんとした仕様が出揃うなんて、誰も期待していないんだよ」カリルト部長からも注意を受けていることであるから、口調を荒げないように気を遣いながら説明する。「どんぶり勘定で構わないから、最大限の費用確保だけを考えろ。どうしても気になるというなら、参照案件に目を通して構わない。最終的に余剰となった部分を確認することは無駄じゃあないからな。だが、その時間も工数に加えられることを忘れるな」
「では、必要資材選定の参照資料を指定いただけますか」
──なにを聞いていたんだ、コイツは。




