誘惑または詭弁
双王国のガルデとルシュを隔てるのは、泳いで渡るには少々距離のある大河である。
対岸に霞んで見えるルシュの街並みは、王城以外に三階以上の建屋が数えるほどしかないために、一見して発展しているようには思えない。だがそれは近代からの転移者たち主観であるからだ。双王国総計六〇〇万人都市は、エールデ世界でも有数の巨大国家である。
安定した治世は、見渡せばすぐにわかる。川縁に敷かれた広い遊歩道には、連れ立った家族をはじめ子供たちだけで駆ける姿があり、馬上の騎士に挨拶を投げてもいる。貧富の差や治安の悪さが微塵も見受けられない、平和そのものの光景だ。
そんな喧騒に背を向け、岸に迫り出したウッドデッキテラスの、切り出した岩で作られた柵にもたれてタバコを燻らせ、対岸を眺めるのはギルド所属のベネディクトである。
伸びざらしの黒髪に茶色の瞳、意志の強さを思わせる太い眉、すっきりとした輪郭のそれらは誰もに美青年との形容を認めさせていた。だが今の彼は、無精髭に覆われたカサつく肌に落ち窪む眼窩、憔悴の表情とひどくくたびれており、その面影は無い。
「どこでもうまくやれる……そう思っていたんだけどな」
我に返れば独り言すらエールデ語であることに失笑してしまう。故郷スペインのバレンシア訛りは、覚えてはいるが発音を忘れてしまった。人を認めて受け入れ、打ち解けるまで会話を重ねて、判りあえない相手なんていないのだ、そう信じていたあの頃は、本当に幸せだった。
ゴトリ、とウッドデッキを踏む靴底の金属音を含む響きに、ベネディクトは閉じていた双眸を開く。感傷は終わりらしい。
「もう少し、早く迎えにくるかと思っていたよ」
振り返れば、国家地方警察の革鎧に身を包む女性が、ひらひらと手を振っていた。
緩やかにうねる長い金髪に鮮やかな青い目、若干四角い輪郭は幼さを印象させるが美人であることは疑いようもない。転移者の騎士がひとり、カルラだ。
ベネディクトは彼女の顔を知っていたが、彼女はさて、この事態になるまでこちらの存在すら認識してくれていたであろうか。
「あんたがね、うまくやりすぎたの。これでも頑張ったんだから」
気安く返してくる初めての会話は、嬉しいものがあった。さりげなく視線を巡らせると、それまであった歩行者の姿が消え失せている。包囲は終えているようだ。彼女が帯刀していないのは、敵意がないことを示すためだろうか。
「うまくやれていたなら、連中の片棒を担ぐなんてことにはならないさ」
「ロクホウ改心者の言葉は、さすが重みが違うわね」
まあ、調べはついているだろうな。
携帯灰皿がわりの皮袋を取り出して、中で吸い殻を揉み消す。熱さがじんわり伝わる指先は、緊張に細かく震えていた。覚悟していたこととはいえ、その時が来るとやはり、怖い。
「働くのが嫌になったとか?」カルラの両手は下ろされて、手のひらをこちらに向けている。攻撃の意思は無い。その意図だ。「転職とかしてみるのも手だと思うんだけど」
「まあ、本音を言えば、就職なんてクソだったよ」
出会った上司がクソ以下だった、が正しいかな。顎の無精髭を撫でながら首を横にふる。
「業務を押し付けるのはいいが指示はふんわりと要領を得ない。詳細を訊けば逆ギレだ。わからないなりにどうにか形にしても、重箱の隅をつつくようなダメ出しで怒鳴られる。勇気を振り絞って教えを請うても碌な答えは返らない。指示を出して文句をつける、それが仕事と思い込んでる相手と会話が成り立つはずなんてなかったんだな。わからないことはすぐに質問しろと言うから訊けば案の定、前にも言った、何度目だ、こんな今更なことを訊くのか、いつまでペーペーのつもりだ、結論から言え、先に言うことがあるだろ」大きく息を吐き出し、肩をすくめて、せめて美人に癒されようとカルラを眺める。「自分にできることを精一杯やる、ことすらできなかったな。ユキヒトやコウイチには申し訳ないと思ってる。限界だったんだよ」
「それが、ロクホウへの協力理由?」
「連中に協力したところで解消するなにかしらなんて無いが──あいつらがやってるダンジョン実験は知っているな」
「拡張と自己保持に指向性を与える実験ね。おかげさまで苦労してる」
ダンジョンの性質に制限を与えた上で拡張を促し、意図した形状に誘導する実験は、それ自体はなんら法に問われることでは無い。むしろその技術は有用性が認められており、王室は幾度となく交渉を持ちかけている。なしのつぶてではあるが。
「他人の土地の鉱業施設に無許可で上がり込んで場を荒らす、そんな明確な犯罪行為には辟易しているのよ。洞窟城でもやらかして、なにが目的なんだか」
「最終的には、建造物の生成を視野に入れているんだそうだ」そもそも神に類する力を持つ存在が全面協力の元で、縛りプレイに嬉々として取り組み有り得ない結果を形にする日本人たちが全力を注いでいるのである。掘り進んで路床を整えるところまでは成功しているのだ。そのうち町の一つくらいは生成できるだろうと、ベネディクトは予感していた。「だが、俺にとっちゃあ別に、どうでもいいかな」
カルラへと体を正面に向け、石柵を背もたれにタバコを取り出す。はたと、震えの止まらない指をしばし見つめ、吸うのをやめた。
「サコ姐さんは、故郷に戻りたがっていた──俺もそうだが」
「ソアダの、タカシがお世話になった方ね」そしてロクホウに身を寄せていた時期のある女性の名でもある。「その名前、出しちゃっていいの?」
「白々しいことを言うなよ」
笑みを向けると、カルラは「ごめんね」と舌を出した。こんな場面で出会わなければ、是非とも口説きたくなる愛らしさである。
「──姐さんには娘がいる。今年で一五かそこらのはずだ。障害持ちでね。起き上がることも会話もままならないから、実家の両親には苦労をかけていると。満足に産んであげられなかった、そうひどく悔やんでいた」
酒の入った席だったとはいえ、サコギはかなり弱っていたのだろう、後にも先にも彼女の愚痴を聞いたのはその時だけだ。
「意思表示はしてくれるのよ、と嬉しそうに笑う姐さんの痛々しさは、失礼とは思うが、見ていられなかった。なのにエールデに呼ばれてしまったのかと思うと、残酷すぎるだろ。戻る手段を探す彼女の姿は──恐ろしかった」
「……まさか、戻る手段が確立した?」
「だったら俺はここにいない」だけど、と石柵に立てかけてあった杖を持ち上げ、これ見よがしに掲げてみせる。「やらかしやがったんだ。連中が」
幾重もの羽が絡みついた装飾を施すソレは、この場の誰も知る由などないが、サコギの回収したペグとよく似ていた。
「俺は、説得した。反対したんだよ。だけどさ、泣いたんだ、サコ姐さんが。強くて、堂々としていて、誰もの力になれる優しいあの人が、わからないって叫ぶんだ。だから、正しいのか悪いのかなんて、たぶんどうでもいいんだと、考えるのをやめた」
「ベネディクト」身構えるカルラが、緊張の声音で警告する。「置きなさい、それを」
「ああ、安心していい。これは失敗作だそうだ。ダンジョン加工誘導の副次効果、転移の誘導だけを取り出したかったらしいが──自殺くらいにしか使えない代物だとさ」
「置きなさい、ベネディクト」
姿を見せる国家地方警察の騎士たちに「巻き添えになるよ」と首を横に振り、ベネディクトは杖をデッキの上に突き立てる。ぱし、と微かな物音が場に広がった。直後、彼の足元が細かな結晶に白く色を変えてゆく。そして聞きたくも無い、チリリ、との響き。
「カルラ離れろ!」騎士の一人が叫ぶ。「魔力結晶が現れ始めている。ジオードの兆候だ!」
「ベネディクト、あんたなにを!」
「言いやがったんだよ」ベネディクトは、ガクガクと震えながらカルラに言った。「あの神を気取る畜生がさ、向かうことはできないが呼ぶのは可能だろう、そうサコ姐さんに言いやがった。そりゃあ飛びつくよ。仕方ない。だけどまさか、障害を持った子供を呼びつけて、そのあとどうするんだ、なんて言えるわけないじゃないか。言えないなら、最後に、あの人の力になると──」
ベネディクトの言葉は最後まで紡がれることはなかった。彼の体を含む、直径数メートルの球形内が、一瞬にして魔力結晶化したからだ。素材変化に切り離されたウッドデッキが、遅れて重い軋みをあげ浅い川岸に落下する。
「──魔力回生準備を」カルラはデッキの切断面付近まで駆け寄り、ベネディクトだった鉱石を苦々しく見つめる。失敗作と、彼は言った。それは正しいようで、透き通っていた魔力の水晶は見る間に輝きと透明度を失い、土塊のような岩肌へと様相を変えてゆく。それはつまり人の形すら留めていないということだ。「……自殺ですらないわよ、こんなの」
止められたはず、との後悔はすぐに振り払い、踵を返して声を張った。
「エーデルトラウト様の元へ向かうわ。サコギの目的は転移者よ」




