記憶【エルノ】・其の六──向けられる視線
その女性は、ジオードの壁が抜かれた後も、傷だらけの身体など意に介する様子もなく、ぶつぶつとなにごとかを呟きながら反対側の壁を殴りつけ、引っ掻き続けていた。
その手は形を成しておらず、一部、骨が露出していた。気が触れていると誰もが思った。だがそのままにもしておけないと、作業員男性三名がかりで引きずり出したのだ。
ひどい取り乱しようだった。一つの単語を繰り返し叫んでいたが、意味を理解するものはその場にいなかった。やっとの思いでジオードから引き剥がしても、死に物狂いで戻ろうとする。相手が女性で、ひどい怪我を負っていることもあり、手荒にもできない。
「彼の、お姉さんか……?」
その様子に駆け寄ろうとするアルヴォだったが、なぜだろう、足が重い、なにかが、引っかかるものが、なにが。
錯乱のひと言で片づけるには、頑なにジオードに戻ろうとする彼女の姿からは、明確な強い意思を……
少年と女性を結ぶ中間あたりで、アルヴォの足が止まった。
ジオードは五つ。
三名の死亡が確認されている。
そして二名の生存者。
冷たいものが背中を滑り降りる。
──彼は、なにを抱きしめていた?
振り返り、少年を見た。彼の腕の中にあるのは、血で染め上げられた、丸められた布。その隙間から覗くものは。
それは、小さな、てのひら。
「レーヴィ!」
女性の叫びに、アルヴォは硬直した。
「ママはここ、大丈夫、もう大丈夫、おっぱいほしいんでしょう、たっぷり飲みましょうね、もう我慢なんていいの、思い切り泣いていいの、お願い、声を聞かせて、あんなに可愛い笑い声、ずっと聞かせてくれてたでしょう──そうよ! ああレーヴィ! なんて可愛い」
彼女の言葉が、ふつ、と途切れた。
軋む動きでアルヴォは再度、女性に顔を戻す。
三名の作業員に抑えられたまま直立して、首だけをこちらに向けている。
視線は──
《そのひとを近づけるな!》
「エルノ! ぼうやは? レーヴィは!」
女性は、アルヴォに、否、座り込んでいる少年に駆け出した。
三名は虚をつかれて、手を離してしまった。
ああ、キルシが呼んでる。
あの体の大きい男性の脇を、キルシがすり抜ける。
あの人は捕まえることができなくて、なにか大声で叫んでいる。
そうだね、レーヴィ。
やっとお母さんに抱っこしてもらえるよ。
すぐ手前で転んだキルシが、すぐに体を起こして両腕を伸ばしてくる。
「ぼうやは、そこだったのね。エルノ。ずっとお世話してくれていたのね。偉いわ。あなたは本当に立派。さあ、エルノ、ぼうやを」
エルノが腕を上げようとした直後、キルシは取り押さえられた。
両腕を掴まれ、羽交締めにされて引き離されようとしている。
「なんなの! ぼうやが呼んでるの! ほら、聞こえるでしょう、笑ってるわ、エルノ、ぼうやの顔を見せて」
どうして僕は、隠そうとしているんだろう?
「さあ、エルノ、レーヴィに、ただいまって」
キルシの顔は、とても優しかった。
だから、
抱えていたそれを、
差し出すと、
布がはらりとほどけ、
中から、
その場の全員が固まった。
全ての視線が、エルノの手元に向けられている。
キルシを抑えていた男性たちの手が緩んだ。
「レー……ヴィ……?」
「……」
拘束が解けたキルシが近づいてくる。
「どうしたの、ママよ、おしめとか大丈夫だった? おなかぺこぺこでしょう」
「……キルシ」
「おっぱいあげましょうね、すぐ、元気になるから、あ、ちょっと目が開いたわね、おっきできるかな? お腹いっぱいになったら、ゆっくり眠っていいから、ほら……」
受け取ろうと伸ばす手が、レーヴィの頬に触れる。
その柔らかさに、キルシの指が離れた。
もう一度、伸ばされた両手が、レーヴィの手前で止まる。
「どう、し、て?」
エルノはきょとんと、キルシを見つめた。
彼女は、こっちを見てくれない。
「エルノ……答えて、レーヴィ、動かない、よ」
「……うん」
「大丈夫だって、言って?」
「……」
「レーヴィは、僕が頑張って守ったんだ、そう言ってよ」
「……」
「言って」
ああ、やっとわかった。僕は。
「……キルシ、僕は」
キルシの双眸が、エルノを捉えた。
「エルノ、あなた……」
ぼうやを、死なせたの?




