記憶【エルノ】・其の五──暗闇
その小川は、飛び越すには少々幅があった。中央付近に平坦な顔を覗かせる岩、そこに頼りない板がかけられて、こちら側と向こう側の二枚で橋を渡している。
向かい側の岸は間も無く、緩やかな山の登り斜面を見上げさせる。所有者の手入れが行き届いているから、木々は適度な距離を保ち、視界は良好だ。
「二日前に、木が倒れる音を聞いたとのことです」
アルヴォは声に顔を向ける。差し出されたファイルを木製の用箋挟ごと受け取り「手入れされていない山ならわからないでもないが、この山で木が倒れたなら異常と思うだろうに」と文面を確認しながら橋を渡る。「ここからでも見えるな」
左斜め上に視線を向ければ、木々の隙間から顔を覗かせるジオードが確認できる。三つの球体が重なり合っている光景だ。目を落とした書面の記載内容に、舌打ちをかろうじて堪える。
「五つ……まさか家族で」
十数名の作業者たちが、周辺の木々の伐採と、動線確保のための簡易舗装に動いている。小川は足首程度の深さだからと、平然と横断している作業者の姿にアルヴォの眉が顰められた。
「危険だ。あれはやめさせろ。橋を渡す準備くらい、この場にあるもので可能だろう」
報告者は指示を受けて、背後にいた補佐に目配せをする。「管理者は老夫婦で、夫は腰を痛めていたとのことで報告が遅れたそうです。妻は足腰が弱く、移動も難儀しているようなので自宅に待機してもらっています」補佐が、作業者たちに指示を出すのを確認しながら「準備できた通訳は英語と中国語。それ以外となると救出後の療養時になりますね。洞窟城領には先行して依頼を出しています」
「そうか──ぬかるんでいるな」山に踏み入ると、つま先が土に沈む。これだけしっかりと下刈りや間伐が行き届いている環境だから大丈夫かとは思うが、なにしろジオード発生は周辺土壌を含む地盤をごっそり消費する。「ジオード破壊に支障は出るか?」
「山頂までの現況調査は間も無く──ああ、終わったようです」
木々を抜けた先に旗を振る作業者が見える。連絡役を複数名で山頂まで渡しているのだ。これから騒音と振動を伴う作業が始まるのだから、地滑りなどあれば大惨事である。
「始めます。よろしいですね」
「医療班は」と言いかけて、斜面ではあるが開けた場所にシートが敷かれて、医者が待機している様子を、先に見つけた。「あるな。始めてくれ」
「開始だ!」
宣言を合図に作業者たちは、一斉にジオードの壁の破壊に取り掛かる。
《生存確認、少年》《こちらの男性は……死亡者はこれで二人か》
《いや、三だ。女性も息を引き取った。あと一人だな》
エルノは呆然と空を見上げていた。誰かの腕に抱えられて移動している。天頂に伸びる木々が視界の端に流れてゆく。胸元のレーヴィは、大丈夫、ある。
助けられたんだな。との感想はひどく他人事のようだった。生き残った安堵や嬉しさなどは皆無で、死ねていたらよかったとの希望も無い。諦めとも違う。
……どこなんだろう。ここは。
飛び交う言葉は聞いたこともない響きで、意味どころか単語すら聞き取れない。
《両足の大腿四頭筋をばっくりやられてる。繋げられるか》
《こちらに座らせて……なにを抱えているんだ、彼は》
《大事なものなんだろう。邪魔にならない限りはそのままに》
抱き運んでくれていた男性と目が合った。茶髪碧眼の彼は、こちらを安堵させるつもりか、温和な微笑を浮かべて《もう少し我慢してくれよ》と聞き取れない言葉を放つ。
「何語ですか、それ」
問いかけてから、馬鹿だな僕は、と自嘲する。違う言葉を使う相手に訊いても仕方ない。
「ああ、君はスウェーデン語を使うのか。その口調はダーラナあたりだな」
しかし彼は、あっさりと言語を切り替えてきた。ぱちくりと目を瞬かせていると、
「私はアルヴォという。本来、同じ出身地同士が郷里の言葉で会話することはよろしく無いのだが、今は緊急事態だから目を瞑ってもらうことにしよう」
などと先ほどとは異なり、自然な悪戯っぽい笑みを向けてくる。
シートの上で、両足を前に投げ出した体勢で座らされる。ズボンがハサミで切り裂かれる。あらわになった両足は、ひどい有様だった。「歩けるようになるかな」
「その辺りは心配しなくていいと思う。ここの世界はある意味で医学が進んで──」響き渡る女性の悲鳴に、その場の全員が身構える。「待っていて。すぐ戻るから」
……キルシ?
見れば、キルシが周囲の静止を振り解こうと暴れていた。助け出された、あの巨大な球体に戻ろうと必死になっている。叫びは、言葉になっていない。しかしエルノには意味がわかった。
彼女はレーヴィの名を繰り返し呼んでいた。
気づいたから、周囲が暗闇に染まった気がした。
体が、ガタガタと震える。
なんで、どうして僕は、こんなに、
怖い、なにが、手放す、なにを、隠す、誰を──
上げた視線が、ばち、とキルシのそれと絡んだ。




