記憶【エルノ】・其の三──伸ばした、両腕
耳触りの良い、鼓膜に滑り込んでくる涼しげな音だった。虫の鳴き声というよりは、氷が爆ぜるような、熱した金属が冷えてゆくような音。
不快には感じないから、危機感は無い。だが、その音を放つものが想像できなかったから、なんだろうと音の出どころを探した。泳ぐように強く弱く、八方から聞こえてくるのが、ただ不思議だった。全員が周囲を見渡していた。
「えと……え? なにが鳴ってるの?」キルシが、おそらく無意識だろう、エルノに近づいてレーヴィへと腕を伸ばす。「エルノも聞こえる?」
「キルシ」エルノはしかし、その問いに答えられなかった。彼女の腕に、異変があったからだ。「それ、どうなって」
「え?」
レーヴィに届くはずのキルシの腕が、肘の先からなだれていたのだ。
消え去った箇所に目を凝らすが、焦点が合わせられない。
「待って、ねぇ、これ」キルシはエルノに身を寄せようと、体ごと飛び込む素振りを見せる。「レーヴ──」
だがキルシの姿は、ぐるりと歪んだ背景に飲み込まれて消える。危機感にエルノは後退り、レーヴィを、しっかりと抱きしめた。
なにが起こっているのかなど、疑問を抱くいとまもない。
兄の姿は、すでに無かった。
視界の隅に、抱き合う両親の姿。
弾かれたように、そちらに顔を向ける。
崩れてほぐれてゆく光景に両親の姿も溶け混ざり、
向こう側に落ち窪んで呑まれてしまう。
ぐらりと、平衡感覚だけが真横にズレた。浮遊感にエルノはレーヴィを確認する。彼は目が合うとケタケタと笑った。なにもわかっていないのだ。この子だけは巻き込んじゃあダメだ。
どうする。投げ出して手放すのか。放り投げたらレーヴィは。
真後ろに引きずられる感覚に、ぞっとした。僕も、ああなる。
レーヴィを手放そうとした刹那、開いているはずの目が、何も映さなくなった。
エルノはレーヴィを、必死に抱え込んだ。
ぼうや! レーヴィ! ママはここよ!
キルシの声がする。
どこからか、ガツンガツンと、なにかを壊そうとしている激しい物音が響いている。
負けじと、火がついたように泣いている赤ん坊の声。
はっとエルノは体を起こした。腕の中にあるはずのレーヴィがいない。立ちあがろうと床についた手が、刃物に裂かれる感触に引き上げられる。そのまま肩から倒れてしまった。二の腕に突き刺さるのは淡く光る結晶。
ようやく周囲を見渡せば、ぼんやりと淡く光る結晶に周囲を取り巻かれていた。
球体の中だ。狭くは無い。立ち上がって両腕を広げ、頭上にも前後左右にも余裕がある。内壁にはびっしりと、鋭い結晶が内側に向けて切っ先を向けている。呼吸は、むしろ楽だ。微かな空気の流れが肌に感じられる。結晶は硬いが脆い。だが足で蹴散らせるほどに弱くは無い。
「……なんだ、ここ」
レーヴィの鳴き声がひときわ大きくなった。
そして壁を殴りつけ続けている物音も、つれて轟く。
ああ……! ぼうや……すぐに、そっちに行くから、もう少しだから!
やっとの思いで立ち上がり、壁に目を凝らす。レーヴィの声を追いかけると、結晶の壁に、不自然に盛り上がる箇所があった。結構な大きさだ。三メートルくらいの球体が、こちら側にめり込んでいるようだ。近づくと、レーヴィの声はその内側から聞こえてくる。
どうなるか、など考えもしなかった。エルノは壁を、その拳で、渾身の力で殴った。
ところが壁は、あっさりと砕けた。細かな砂を押し固めた壁に、固く、尖った水晶がびっしりと埋め込まれていただけのような、そんな頼りなさだ。だからエルノは勢い余って向こう側に転げ出てしまった。大きく割れた破片が伸し掛かってきたから振り払う。
真上から直接、レーヴィの泣き声が降ってきた。
見上げるとレーヴィが浮かんでいる。
耳をつんざく彼の鳴き声に駆け寄ろうと、した膝が上がらない。そのままくずおれる。
どうして、と目線を落とせば、膝のすぐ上がざっくりと切れて、大きく口を開けていた。筋繊維を真横に割った、柘榴の内側のような傷だ。血はほとんど出ていない。膝が伸ばせない。
宙に浮いたまま緩やかに回るレーヴィまでは、距離がある。せめて真下に向かわなければ、と体全体を使って前進する。必死にもがくが、一歩か二歩の距離が遠い。
突き立つ結晶の山が、強度を増して、成長し始める。ずぐ、と刺さり、抉られるが知ったことでは無い。いつまでもレーヴィがあの場所で固定されているとは思えない。
間に合え。
すとん、とレーヴィが落ちる。
彼を掴もうと両手を伸ばす。
手のひらの上に、彼の頭が。




