記憶【エルノ】・其の一──初恋
キルシは、物心つく頃にはエルノの隣にいた。
お世辞にも美人とはいえない容姿ではあったが、ころころと無邪気によく笑う、気立の良い女性だった。長い黒髪は年月を通して一貫する、彼女の印象そのものである。歳の離れたこちらの面倒を好んでみてくれたのだから、子供好きだったことは間違いない。のちに振り返ると当時からして、兄のヘンリクが目当てだった気がしないでもない。だが、そうであっても彼女が幼い頃から側にいてくれたことは、なにものにも代え難い大切な記憶だった。
どこか遠出となればキルシは好んでエルノをおぶる。エルノも彼女の背中が降りてくると、自然と抱きついていた。エルノは彼女の背中で、長い黒髪にまとわりつかれて埋もれるのが好きだった。癖が無く、ストンと素直に落ちて包み込んでくれる髪の繭の中で、匂いに安堵してうとうととするのが心地よかった。
そんな姿を見て笑うのは兄のヘンリクだ。キルシの背から眺める光景は、いつでも二人の微笑み合う姿だった。幼いなりに、二人がいずれ一緒になるのだろうとの予感があった。
時が経ち、キルシはヘンリクの妻になった。笑顔で祝福できたエルノだったが、結婚式から解放されて帰宅してからの落ち込みようは、酷いものだった。
父と母は、キルシに向けるエルノの感情が初恋だったことを見抜いていた。そっとしておいてくれたのは大人で、親だったからだろうか。自室のベットでうつぶせに寝転び、枕に顔を埋めていると、二人がやってきて頭を撫でてくれた。
優しさからなのだろうと、嗚咽を漏らしかけた。
「あぁ、そういやエルノ、お姉ちゃんと結婚するとか言ってたものな!」
「あったあったっ、どこ向かうにもついてっちゃって。ヘンリクもよく我慢してたわねぇ!」
「うるさいよっ、出てけ!」
──前言撤回。親はつくづく無遠慮で気遣いが無い。
二人が家を出てから二年。
兄から三人で顔を出すとの連絡があったと、母が嬉しそうに教えてくれた。
子供が生まれたことを報告するための帰省だった。
さすがに恋心などは吹っ切れていたつもりだったが、なにせ二年間、顔を見せないだけならまだしも声も聞かせなかった二人との再会である。キルシが当時、どんな気持ちでこちらを見ていたのかと考えてしまうと、諸々の感情からくる緊張と、得体の知れない怖さに胸が締め付けられた。もとい、胃かもしれない。
どんな顔で笑って、話していたのか、わからなくなっていた。
会いたくないとすら思った。
悶々と、どのくらい悩んでいたのか、家の前でエンジンが止まる音に、はっと顔を上げた。
両親の出迎える声に応える、久しぶりに聞く兄の声。
聞こえてくる会話に混ざる、キルシのあの笑い。
エルノは部屋から飛び出していた。階段を降りてリビングを抜け、玄関へと。
すると、
「うわっ」キルシは、変わらない鈴の音のような声をあげて、小走りに寄ってきた。「背ぇ伸びちゃったねっ、これじゃあもう、おんぶできないよ!」
玄関から差し込む日差しの逆光に、両親と、出迎えられているヘンリクの姿。そして、すぐ前で立ち止まったキルシが、屈託のない笑顔を同じ高さの目線で向けてくる。
「はい、エルノくん。あたしが家に来たら、なんていうのかな?」
本当に、彼女の態度が変わらなかったから、エルノは涙ぐんでしまった。嬉しいと感じる自分に驚いていた。
「──おかえり。キルシ」
「うんっ、ただいま!」




