I'm so happy.
時刻はちょうど0時をまわったあたり。配信時間には早いが目的はパトレオンへの登録だ。ランクは全部で三つ。安いもので五百円、一番高いのものは三千円となっていた。
三千円というのはなかなかに大きな額だが、登録すると決めたら迷いなどない。
俺は疲れ果てた日常を彼女の笑顔に救われて生きてきたのだ。だから今までの感謝の意もこめて一番高いランクに登録を果たす。
パトレオン専用ページにロックのかかっていた未公開動画が幕をあける。
同時に次回のディスコードの予定とフリーメールのアドレスが公開となった。
ディスコードの予定表には「わたしと楽しくおしゃべりしましょう!」といったコメントが英語で記載されてある。
ああ、俺も英語圏に生まれたかった。そんなことができたら、どれほど楽しいか。
「登録したこと教えた方がいいかな……」
ふと、そんな想いがよぎる。
誘ってきたのは彼女だ。登録したと伝えれば喜んでくれるかもしれない。
コメントで返そうかフリーメールを使用するかで逡巡したが、俺は後者を選んだ。
せっかく有料登録したんだから多少なりとも恩恵を活用したいという貧乏性じみた気持ちが働いたのである。
「パトレオンへのお誘いありがとうございます。登録しました。咲間乙矢」
フリーメールなので一応名前も入れておく。
YouTubeのアカウントもバカ正直に本名で登録しているから、きっと分かってくれるだろう。
「あっ、しまった。英語で入れるべきだったかな」
彼女がいつも日本語で返信してくれるのでつい甘んじてしまっていたが、それではいけないと思い立ち、最近英語を勉強し始めたのである。
後悔先に立たず。すでにメールは送信済みとなってしまっている。
そうこうしているうちに更新の通知が届き、俺は新たな動画を視聴しはじめた。
開始から十分ほど経ったころだろうか、スマホが鳴る。
しかも通知音とは違うメロディ。これはメールを知らせる音だ。
まさかと思いながら確認すると知らないアドレスからのメール。ひらいてみれば、
「Welcome!」の見出しでか『咲間乙矢さん、はじめまして! ナターシャです。パトレオンへの登録ありがとうございます。とっても嬉しいです。次の土曜日にディスコードをする予定なのですが、参加しませんか?」という文面が記載されあった。
英語の勉強を開始したとはいえ、残念ながら流暢に会話するほどのスキルにはほど遠いので、「勉強中ですが、英語は上手く話せません」と返す。するとすぐに返事がきた。
『テキストでの参加です。翻訳機能があるので大丈夫です。参加してください!』
PCの動画はいまもなお再生中。画面のなかの彼女は唇を噛みしめ、大きな瞳に涙を浮かべている。ちょっと目を離した隙に何があったのか。
なんだか二人のナターシャを同時にみているみたいで変な気分だ。
『もしかして忙しいですか?』
立て続けにメールがくる。画面のナターシャが気になりつつも苦しげにうめく。
もともとディスコードには参加するつもりなかったんだが、こうも積極的に誘われると断りづらい。くわえて相手は最推しのナターシャだ。画面で泣いているのに、こっちでも悲しませたくはない。なんて、結果的に押し負けただけである。
「わかりました。参加させていただきます」
意を決して返事をすると一分と待たずにメールがきた。
『嬉しいです! それでは待っていますね!』
かくして、土曜日。
平日中に怒濤の勢いで仕事を片付けた俺は緊張した面持ちで自宅のPCを睨みつけていた。
週末に休みを取ったのはいつぶりだろうか。そろそろ初夏も終わり、本格的な猛暑がチラチラと顔をのぞき初めている今日。今年に入って初めてのことである。
もはや休日の過ごし方なんて忘れてしまい、どんな格好で待機するべきかも分からなかったので、休日の、しかも夜中に、ピシッとしたスーツ姿である。
俺はいったい何をしているのか。
一応ルーティンとしてコーヒーは淹れたものの、飲む気になんてなれやしない。
息をひそめて待てば時計の秒針が耳を打つ。機械的な音を静聴すること数十分。
日本時間にして深夜11時。彼女の住むソルトレイクシティでは午前9時という、この瞬間にディスコードから招待メールが飛んできた。
乾ききった喉をゴクリと鳴らし、招待を受ける。
ひらかれた画面にはすでに彼女が映り込んでいた。
ファンシーなグラスにポップな柄のストローをさして、チャットを確認しながらちびちびとジュースらしいものを飲んでいる。
ラフさが前面にでた彼女の姿におもわず頬がほころぶ。
すでに参加人数は数万を超えて増加中。相変わらず凄い人気だと思いつつ、流れだしたチャットを眺める。まずはみんな挨拶から入るらしい。
礼儀として俺も一言くらい入れるべきだろう。
「こんばんは、ナターシャ」
自分でも嫌になるくらい捻りのない文字の羅列。小さく落胆した俺の目の前で、ぼんやりと画面をみつめていたナターシャが目を丸くした。
「サクマ!」
「は。はい!」
ビクッと肩をふるわせ、反射的に答える。背筋はこれ以上ないほど真っ直ぐだ。猫背に慣れていたせいか少し腰が痛い。
あ、マイク入ってなかったんだわ。
すぐに気づき、コメントを打ちこむ。PCの解析画面みたいにずらずらと流れるコメントに乗せて「はい」と入れた。
ストローから唇を離したナターシャは大きな青い目をじっと向けて食い入るように画面をみている。
そして、笑顔が弾けた。
画面いっぱいに映る彼女の笑顔に目を奪われる。唇から白い歯がこぼれて青い瞳に輝きが増し、頬は薄くピンクに色づく。破顔した美貌を銀髪がふわりと包みこむ様はまるで、
「……天使か」
ぽつりと声がこぼれた。
「I'm so happy」
重なるように聞こえた可愛らしい声。
俺に向けた言葉だろうか。よくわからないままに心が温かくなった。