ヘタレな俺のコメント事情
この日の仕事は当然ながら身が入らなかった。
夜に近づくほどそわそわとして落ち着くこともできず、久しぶりに定時であがり自宅へと足を向けた。巧を含めた部署の全員がそそくさと帰宅準備を始めた俺に目を丸くしていたが。
三日ぶりに帰った我が家はどこか陰鬱とした空気の澱みを感じた。換気なんてしばらくしていないから当然かもしれんが。
フローリングに薄く埃がたまっている。
俺は小さく息を吐くと一心不乱に部屋の掃除に取り組んだ。
じっとしていることができなかったから、気を紛らわせるのにちょうどいい。
そうして深夜一時、俺はコーヒーをお供にPCの前でちょこんと正座して待機中。
テーブルに置いたスマホとPCのディスプレイに同時に通知が入る。
今回の動画も日本アニメ。平成に流行ったやや古いもので、視聴者からのリクエストが最も多かったものらしい。
けれどこのアニメ、人気が高いゆえに寄せられるコメント数が尋常ではない。昨日のアニメも千を超えていたが、あれでも少ない方なのだ。今日の動画は数千を超えるだろう。
画面に向かってハーイと手を振り、彼女は笑顔を浮かべる。
今日のファッションは肩紐に大ぶりの花飾りがついた青や赤の花柄が目を引く白地のワンピース。派手めではあるものの、彼女が着ると可愛らしく収まるから不思議だ。こういったところも神ユーチューバーの成せる業なのだろう。
つたない英語力で彼女の言葉を読み取るに、どうも視聴者からプレゼントが届いたらしい。
本日配信となったアニメのフィギュアやメモ帳、クッションなどを大きな包みから取りだして目を輝かせている。バリエーションからみて海外では手に入らなそうなラインナップだ。おそらく日本人からのプレゼントなのだろう。
「ふむ。俺も何かプレゼントしようかな……」
などと再び血迷ったことを考えたのはこのとき。
三十年、日本で過ごしてきて一度もアイドルや芸能人にハマったことなどなかったのに、彼女の喜ぶ顔が見たいと思ったことに我ながら驚いた。ファン心理というのは、こうして蓄積されていくらしい。
俺は動画を見終えるとドキドキしながらコメント欄をひらいた。
いいたいことは山ほどある。服装のことも褒めたかったし、プレゼントしてもいいか訊ねたい。今日のリアクションもすべてを翻訳できなかったからアレだが、的を射たことをいっていた気がする。彼女は考察力が鋭い。それによく日本の声優陣を褒める。
べつに俺は愛国者というわけでもないが、自国を褒められるのは悪い気がしない。
そのことについても感謝を伝えたかった。
しかし、あまり長々とコメントするのはいかがなものか。
コーヒーを片手に右往左往と懊悩すること一時間。
けっきょく入れたコメントは『今日も面白かったです』という面白みの欠片もないものだった。
俺の書き込んだ短い日本語はあっという間に他のコメントに押し流されてしまう。
「……やっぱり返信は期待しない方がいいかもな」
といいつつ、やはりふくらんだ期待は簡単に消すことができない。
日本語だったから目立ったのではという、巧の言葉があたまをよぎっていた。
ベットに横になっても何度もサイトをひらいてはコメント欄を見返し、英語ばかりの中にぽつりと浮かぶ日本語をみつける。でも一時間経っても二時間経っても、朝の六時になっても返信はこなかった。
翌日は一睡もできぬまま会社へ出勤。
いつもと変わらぬ朝なのに、どうしてこうも体が重いのか。
たった一度のコメントに浮かれてバカじゃないのか。
だから期待するなっていうんだよ……
デスクに腰をつけながら重々しい溜め息を吐き、気怠げにスマホを取りだす。
そこで緩慢だった動きがピタリと止まった。
出勤前までは何もなかった画面に通知が表示されてある。
俺は硬直した体でまばたきを繰り返し、通知をそっとタップした。
『ナターシャ・アリアナからコメントに高評価がつけられました』
『ナターシャ・アリアナから返信がありました』
みた瞬間、心臓が止まったかと思った。
嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ!?
何度も心中、繰り返す。心臓がバクバクとうるさい。
背後ではおはようございます~と声をかけながら女子社員が流れ込んでくる。
画面をみられなくて席を立ち上がった。
慌てて逃げ込んだのはシャワールーム。ここが一番落ち着く。
ごくりと喉を鳴らしてコメントを確認すれば『日本のアニメはとても面白いです。わたしはみるのが大好きです。あなたにも楽しんでもらえたら嬉しいです』と、これまた日本語で返信。
ですですです、と単調な文面から推察するに、もしかして彼女はグーグル翻訳を使用してるのではなかろうか。だが、そんなことはどうでもいい。
俺に気を使って日本語に変換してくれた優しさや、再び返信をくれたことが嬉しすぎて。
どん底だった気持ちは天上の神を突き抜けて昇天中だ。
何度もコメントを読み返し、読み返し、読み返す。
最後に気持ち的には百回くらい押したいイイねをつける。
悩みに悩んで「返信ありがとう。日本語、お上手ですね」と返したのは、定時を過ぎた後のこと。
小者感がハンパないが返信するにも勇気がいるんだよ。
しかし返信すると、またコメントが返ってくるかもと期待してしまう。
気になって何度もスマホをチェックしてみたり。けれど残念なことに待てど暮らせど二度目の返信はなかった。
少々へこんだものの今日の俺はいつもに増してやる気に満ちていた。
まず出社したての巧に熱い抱擁で感謝の思いを告げ、困り顔の女性社員の仕事を請け負い、タイピングのはやさも普段の1.5倍増し。我ながらなんて単純な男なのだろう。
本日もめでたく定時で会社を終えた俺は爛々と秋葉原に出向く。
もちろん彼女が視聴しているアニメのグッズを購入するためだ。
いい歳をしたスーツ姿の男がひとりでアニメグッズを買いあさる光景というのは、なかなか痛いものがあったが彼女の喜ぶ顔を思えば苦にならない。
思えば、家族以外にプレゼントを購入するなんて初めてのこと。つい買いすぎてしまった。一度に送るには多すぎるので、数回に分けることにする。
彼女の私書箱宛てに郵送手続きを完了すると晴れ晴れとした表情で帰路についた。
今夜もまたコメントを残した。
今回のは日本の特有の文化が背景となっているアニメだったので関連づいたものに。
アニメでは現代風にアレンジが成されているため、もととなる正規の情報を知った方がより面白みを感じられるかもしれないと思ったからだ。
日本特有の語彙を含む、わりと長めの文になってしまったので伝わらない可能性も考慮しつつ、ひとまず画面を閉じる。
もし返信がこなくても、きっとグーグルさんが翻訳できなかったからだと思いこめばダメージは少ない。
しかし返信はきた。
通知の音が鳴ったのは前回と同様に出勤直後のこと。
これで三度目。最初はたまたまだったかもしれないが、三度ともなれば意図的なものを感じずにいられない。彼女に認識されたことが嬉しく、相変わらずのシャワールームで心を高鳴らせながら通知をひらいた。
『わたしは日本の文化にとても興味があります。いつか行ってみたいです』
「お、おおっ……」
やや震えぎみの気持ち悪い声が喉からもれた。
彼女が日本に降り立つところを想像しただけで、日本という小さな島国がとたんに黄金に光り輝くように思える。たとえ彼女と会えなくても彼女が同じ国にいると思えば、それだけで毎日が楽しい。
「ビバ! 黄金の国ジパング!!」
俺はシャワールームで万歳三唱を行い、どこぞの神に感謝を捧げた。
けれど……俺は女性に対し積極的にコミュニケーションを図れる男ではない。
学生時代に築いた交友も狭く浅いものばかり。友人だと認識していても、自分からは気軽に誘うことができないヘタレ気質が信条。ゆえに、こういった流れで「日本に来たときは俺が案内しますよ」という気の利いた台詞こそ脳裏に浮かぶものの口にはだせず。
『ぜひ、いらしてください』
という、またしても何の変哲もない返信をすることしかできなかったのである。