彼の名は……
不意に、その人は目をさましました。
どこからか、いい匂いが漂ってきていたからです。
目を開けると眩しい光が入ってきて、思わず目を閉じます。今度はゆっくりと目を開けると、まず目に入ったのは木で出来た天井でした。だいぶ明るいので、もう朝なのでしょう。
「起きた? ……ああ、そこでじっとしてて」
起き上がって声の方を向くと、フライパン片手に、女の人が料理をしています。女の人はこちらを振り向いて笑っています。
「そこにある梨は自由に食べてね。……ああ、皮をむいたり切ったりした方がいいかしら?」
女の人はそう言って、首を傾げました。
「……ああ、いえ。大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
その人は礼を言い、梨にかぶりつきました。
その瞬間、梨から甘い水分が溢れ出します。
梨は美味しく、さらに水分たっぷりですから、お腹もペコペコ、喉もカラカラだったその人は、梨にがっつきました。
梨を食べきる頃には、カラカラの喉は潤い、空腹を訴え続けていたお腹も、少し落ち着いたようです。
「……何を焼いているんですか?」
「ドングリクッキーよ。森のみんなはこれが大好きでねぇ。ところで、お名前は?」
「名前ですか? ……田沼タキと申します。あなたは?」
「私の名前は、今野むぎ。よろしくね」
そう。ここはコンちゃんの家の隣にある、古小屋でした。そしてコンちゃんは今野むぎに化け、いつもとは声も口調も変え、倒れていた男の人の看病をしていたのです。
コンちゃんはクッキーを焼き終わると火を灰で消し(火の上から灰をかけると火が消えることを、コンちゃんはちゃんと知っていました)、タキさんのケガを見ました。
「ああ、大分良くなった。よかった、よかった。でもまだ油断はしちゃダメよ。しばらく安静にしててね。薬草を取り替えるから、じっとしてて」
そう言って、テーブルの上に置いておいた薬草を取り出し、巻いていた薬草と交換しました。もともと巻いていた薬草は、外で天日干しにして、あとで薪代わりに使います。
「……あの。ここは、どこですか?」
「逆さ虹の森よ」
コンちゃんが答えると、なぜがタキさんは、ポロポロと涙をこぼし始めました。
「……あら、どうしたの?」
コンちゃんが不思議に思って尋ねると、タキさんはぽつりと言いました。
「……ようやく、ようやくたどり着いた……。
私は……私は、逆さ虹の森の、ドングリ池を探して、ここまで来たんです」
コンちゃんがぴくり、と動きます。
「……その理由を、お聞きしても?」
「……ええ」
タキさんは、静かに語り出します。
***
ここよりも遠い遠い場所から、私は来ました。
私が住んでいたのは……山間の小さな集落でした。そこに住む者はみんな明るく元気で、優しい者ばかりでした。物知りの年寄りもおり、可愛らしい子供達もおりました。みんな、集落のことが大好きでした。
しかし最近、集落が小さくなってきたのです。
他の集落に、どんどん場所を取られていってしまいました。もうすぐ、住む場所がなくなります。
だから私ははるばるここまできたのです。
願いを叶えてくれるという噂のある、ドングリ池のあるこの地まで……。
そして、集落を元に戻してほしいと願いに来たのです。
***
コンちゃんは正直、その話の真偽は分かりませんでした。でも、コンちゃんは微笑んで「素敵な願い事ね」と言いました。
「ドングリ池は……本当に、あるのですか?」
「あるわ……でも、行くには危険なところもとおるからね、まずはケガを治して、体力を戻しましょ」
コンちゃんのこの言葉は、本当です。
薬草を一晩巻いていたとは言え、まだまだケガはたくさん残っています。たくさん食べ物を食べて力も付け直さなければならないでしょう。
「分かりました。ありがとうございます、今野さん」
タキさんが礼を言い、コンちゃんはふるふると首を振りました。
「このぐらい、当然よ」
そう言って、コンちゃんは笑いました。