06. 錬金術師の工房
当世風時代における帝都は煌びやかな街並み、モダンガールなどの新しい人々の登場、西洋の食や技術の到来によって、華やかなイメージがある。しかし関東大震災の傷跡が各地の残り、米国から始まった大恐慌の余波、そして世界大戦が始まりつつある、例えようのない不安が立ち込めていたのもまた事実である。
小林飛鳥はそんな世相の中、帝国奇術学校に入学を果たし、帝都にやって来た。当然魔術師になるというのが目的だったが、意外なことに彼の半生は魔術とは縁遠いものだった。
田舎育ちの飛鳥は幼いころから好奇心旺盛で、学校の勉学だけにとどまらず幅広い分野に触れていった。特に軍人である父の書物や持ち物から得た知識は、およそ尋常なものではない。武器や格闘技、開錠技術、諜報、先端科学、地政学、行動心理学などなど学校の教科書には載っていないことの方が多かった。後で知った話であるが、彼の父は軍でも諜報に特化した部署にいたらしい。
父が不在の間にすくすくと悪いことを覚えていった飛鳥は、当たり前のようにそれを私生活に応用し始めた。中学校への進学にあたって受験が必要だった彼は、進学先の学校に侵入し、試験問題を手に入れて悠遊と合格を果たした。ギャンブルにも手を出した彼は、手先の器用さを生かしてイカサマを働き、大金を得るなんてこともやってのけた。当然ゴロツキに目を付けられることもあったが、そこは護身術とハッタリで上手いこと凌いだ。
昼は勉学に明け暮れる優等生、夜はヒリヒリした博打へ出かけていた彼であったが、ある時古びた書物を手に入れ、魔術というものを知った。多少なりとも今の生活に飽き始めていた彼は、魔術という神秘的な世界に興味を抱き、あれこれ調べている中で自分にも才能が宿っていると知った。そして終には魔術師を志すようになったのである。
これが帝国奇術学校に入学するまでの経緯。
そして紆余曲折を経て、二十人殻という怪盗業にまで精を出しているのだった。
「人生ってヤツは先行き不透明だ。未来のことは誰にも分からないし、一寸先は闇ってカンジ? だからこそ面白いんだけどね」
「何ブツブツ言ってんの? この私が工房を借用させてやってるんだから、少しは殊勝な態度を見せてくれないかしら?」
友人たるエミリア・ベネディクトが、金髪を靡かせながら飛鳥へと文句を垂れる。
彼は前日の電話の通り、エミリアの工房へと足を運んでいた。古めかしい本が並ぶ棚や試験管、フラスコ等の実験器具、毒々しい色の液体を眺めると、怪しい研究をしていると疑いたくなる。錬金術師の工房というのは、魔術師というよりは科学者に近い気がする。
「何だか錬金術師の工房って悪の実験室って感じだよね。こう細菌兵器とか化学兵器とかの研究に明け暮れるマッドサイエンティストみたい」
「つまんないこと言ってんじゃないわよ。ホルマリン漬けにするわよ?」
「いや悪の科学者ですやん、そのセリフ」
実行に移しても不思議ではないので、これ以上は茶化すのは止めよう、と思った。しかしながら彼の感想は尤もな所でもあった。
元々科学の発展に錬金術が絡んでいたのは、歴史的に見ても事実なのだ。黄金の錬成や不老不死の薬を求めた錬金術師達は金属の研究に明け暮れ、その過程こそが今の科学の基礎になっている。実際、アルコールや蒸留器といった概念は彼らが作ったのだから驚きだ。
「私は医学を極めることを目標としている。錬金術は医療への応用もできるし、不老不死とは言わないけど、それに近いものが出来たら面白いじゃない?」
「永遠の命ねえ、僕は別にいいや。大切なのは今だよ今。ということでエミリアちゃん、早速だけど頼んでたもの持って来てくれる?」
椅子に腰かけた飛鳥は、我が家のような態度でエミリアにそう告げる。
その様子にため息を漏らした彼女は何も言わず、奥から鞄を持ってきた。デスクに広げられた鞄の中身は、複数の長方形の形をした金属板だった。
「はいよ。頼まれてた一円札の原版。紙幣を参考にして作ってみたわ」
原版の表面には一円札と同じ模様、肖像画が描かれていた。紛れもない日本銀行券の一円札であり、中でもこれは改造一円券という種類のもの。偽造防止のため淡い水色で全体が印刷され、透かしの技術も投入されている。当時の最先端技術が詰まった紙幣、その元となる原版の複製が目の前にあるのだ。
繁々と原版を値踏みする飛鳥に向かって、エミリアは自信満々である。
「少し苦戦したけど、錬金術師に掛かればこんなもんよ。これであとは印刷さえしちゃえば、完璧な一円札紙幣が出来ちゃうわね」
彼女の語るところによると、本物の一円札のデザインを魔法陣で読み取り、それをそのまま銅板に転写したのだという。見ると細かい文様や複雑な濃淡である肖像画まで、完璧に写し取ってあるようだ。金属のプロならではの神業と言える。
「すごいなあ、エミリアちゃん。流石の腕前だね」
「あらあら褒めても何も出ないって。いくら何でも空前絶後の天才錬金術師は言い過ぎよ? まあでもこの原版を見るとそれも頷けちゃうわね。ホント自分の才能が怖いわ」
「いや誰もそこまで言ってないよ。意外と分かりやすい性格してるね」
目に見えて調子に乗っているエミリア。彼女の作成した原版の精度は、確かに舌を巻くレベルだ。紙幣からほぼ完璧に転写できている。
「でもこれじゃあ駄目だ。紙幣と全く同じ額面ではね」
「はあ? どういう意味?」
不十分だという裁定を下した飛鳥に対し、エミリアは食って掛かる。自分の技量に絶対の自信を持つ彼女からすれば当然の反応だが、飛鳥には明確な根拠があった。
「問題は原版から紙幣を印刷する工程にあるんだ。無地の紙幣にインクを載せたり、湿紙っていう工程を経たりすると、紙全体が伸び縮しちゃうんだよ」
「紙の伸び縮み? そ、そんなのどうしようもなくない?」
「そう。だから紙幣がどのくらい伸び縮みするかをあらかじめ計算して、その分だけ原版を紙幣よりもいくらか拡大縮小して作るんだ。とは言えそれが難しいんだけどね」
印刷に使用するインクには、色や滲み方を含めてかなりの種類がある上、紙との組み合わせや工法でも伸び率は変わっていくる。そうなれば原版に描いた線の太さや彫の深さも変えなければならないため、調整に根気がいることは想像に難くない。
「凸版印刷なのか平板印刷なのかとか、輪転機の型式とかも考えないといけない。あと印刷する工室の湿度や温度も大事になる。これは大変だ」
原版だけあってもどうしようもない、というのが飛鳥の結論だった。本物の一円札を参考にして紙やインクの種類、印刷工法の調査をするべきだろう。
「何なのよそれ。じゃあ原版から先に作る必要なんてなかったじゃない。私の苦労は何だったのよ……」
がっくりと肩を落とすエミリア。しかしながら彼女の作った原版の正確さは相当なもので、口にはしないが飛鳥は本当に賞賛していた。
印刷原版を紙幣から起こそうと考えれば、どう頑張っても当時の写真技術では限界がある。オリジナルに近い原版を作成しようと考えれば、プロの造形師が針等を使って精密な線を彫り込む程なのだ。
「僕も調べ始めたばかりだから一緒に頑張ろう。細かい製法なんかは僕が調べて研究するから、エミリアちゃんは正確な原版を作ってね。本物と寸分狂いないぐらいのヤツを」
「乗りかかった船だから協力するけど、悪用は許さないからね。というか何もそこまで取り組む必要はなくない? あくまでこれは偽造犯を調べる一環なんでしょ?」
「やるなら徹底的に。それが僕の信条だから、偽札を作る気で僕は取り組むよ!」
「その心意気。褒めたいけど、向かう先があくまで犯罪なのよね」
両者が役割を確認した所で、工房の小窓を叩く音が響いた。
「お、来た来た」
飛鳥が小窓の傍に寄ると、P君が現れたのだと分かった。
窓を開けるとP君は白い翼をはためかたせて、デスクの角にとまった。
「ご主人、報告です。対象に動きがありました」
「よっしゃ分かった。すぐに向かうよ」
P君から何かの報告を受けた飛鳥は、持っていた原版を置いて何やら支度を始めた。
「ちょっと、どこ行くのよ? 対象って……一体誰のこと? 何しに行くのよ?」
エミリアは何のことか分からず、蚊帳の外であることに不満げな顔つきである。そもそも彼女は飛鳥が二十人殻であるとは知らない。そのため何から何まで話す、という訳にはいかないのだ。
「警察署に行くんだよ。そこに情報提供者がいるのさ。偽札事件についてのね」
「情報提供者? いつの間にそんな協力者を手配したのよ?」
「え? ああ、昨日だけど?」
「……随分手が早いわね? もしかしてデートって言ってたのはそれのこと?」
先日デート云々賜っていたのを思い出したエミリアは、どうやら合点がいったようである。とはいえ、その過程は彼女が想像しているようなものではないが。
「そんなカンジ。明智探偵と関係がある人さ」
「明智? ああ、昴さんのことね。アンタあの人と知り合いだったんだ」
知り合いかどうか、と言われれば親密な仲だと言えるだろう。何せ新聞で取り沙汰されているような間柄なのだ。敵という尋常じゃない関係である。
「一応ね。……っていうか、エミリアちゃんこそ彼女と面識があるの?」
一年間苦楽を共にしたエミリアから、昴の話は聞いたことはなかった。これまで昴を執拗に調べていた彼からすると、この反応は意外であるとともに不手際でもあった。
余計な話をしたと反省しつつ、エミリアの言葉を窺う。
「私も二、三回話したぐらいよ。何でも優秀な学生をリクルートしてたみたいで、私にも話が来たのよ。卒業後に事務所に来ないかってね」
「へえ……って、ちょっと待って! そんな話、僕に来てないぞ!?」
自分の与り知らぬ所で、勧誘活動が行われていたことに驚く。
彼の言葉に対し、エミリアはにやにやと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「論外だったんでしょ? アンタ、なんせ落第生だからねえ。そりゃ私のような天才というか、才女の下には話が来るでしょうけど、飛鳥はそのあたり全く話にならないから」
「何だとう!! 僕は今後百年は現れないであろう、天賦の才の持ち主なんだぞ!! 馬鹿にするのは止めて頂きたい!!」
「あのねえ、大口叩くのはそれくらいにしなさい。アンタは本来であれば、この学園に入学だって出来ないくらいの凡人なんだから。私は知ってるんだからね?」
肩を竦め、エミリアはやれやれといった態度で釘をさす。
「アンタと昴さんじゃ、月とスッポンって所かしら? それにしても、どうやってあの人とコネクションを取ったの? 凄く気になるんだけど?」
「フン、絶対に教えるもんか!! エミリアちゃんなんかとは口を利きたくないです。僕の悪口ばかり言って、それでも血の通った人間か!? お嫁さん候補筆頭だったけど、今後はそれも分からないよ!!」
大変気分を害してしまった飛鳥はプイッと顔を背け、手早く身支度を整える。
その様を見てさすがのエミリアも『ゴメン、ゴメン』と宥め始めた。
「悪かったわよ。お詫びにこれ、頼まれてたヤツ。原版の複製とコイツが要るんでしょ?」
テコでも返事をしないと思った飛鳥だが、エミリアから渡された袋の中身を見て、満足げな顔つきになった。
「流石は僕のエミリアちゃん。やっぱり結婚しよう!!」
「悪い冗談は止めて。鉛を食らわせるわよ」
飛鳥の軽口に、真っ向から拒絶の意志を伝えるエミリア。
彼は普段通りの痴話喧嘩を交えながら、工房を後にした。