04. 昼の蝶
当世風時代において、帝都は関東大震災やら世界的な大恐慌の不運に見舞われながらも、華やかさという点では現代にも決して負けていなかった。驚くべきことに漫画が流行り出したのもこの時期で、大衆雑誌に国産映画なんてものまであった。浅草に行けば寄席に加えオペラなんていう大変お洒落な娯楽もあり、庶民の楽しみは意外にも多かったのだ。
田舎からはるばる上京した由佳里もその眩しさに初め戸惑ったものである。奇術学校への入学が決まって、あれよあれよという間に気付けば帝都へやって来た。レンガ造りに電気の通った街並み、自動電話に向かって会話する人々を見て、当初は魔術か何かを使っているのかと本気で疑ったほどだ。
一昔前の世界からやって来たような由佳里は、帝都に来て早々怪しい業者に騙されるところだった。喫茶店の女給をやらないかと勧誘され、お金に余裕がない彼女は危うくOKを出す寸前だったのである。それがリボンを付けた『夜の蝶』とよばれる、今で言うキャバ嬢的なサービスを要求される職業とは全く知らなかったのだ。
「――あなた騙されてるわよ」
そこで颯爽と現れたのが昴であり、同時に二人の出会いでもあった。
間一髪の所で危機を脱した由佳里は、昴の口利きと厚意によって無事思い描くような喫茶店のウェイターとしての働き口、そして住む場所を得ることになった。昴にとってみればお手伝いが現れて万々歳であったが、当の由佳里にとってみれば昴がヒーローのように映ったのもまた事実だった。
事務所を後にした由佳里は、バイト先たる純喫茶『エチュード』で働いていた。
カフェーよろしくエプロンを着けてはいるが、明るい店内で客に提供するのはコーヒーとサンドイッチで、決してエロではない。カウンターで静かに佇む黒髭の男性は、今どき珍しいこの硬派な店を開いた人物である。
「由佳里さん、次はこれをあちらのお客様にお願いします」
「はい、分かりました」
店長の指示に従い、由佳里はせっせとトレイを運ぶ。
客の数は多くはないため、業務はそれほど大変ではない。むしろ赤字ではないかと心配になるときもあり、お給金を減らしても大丈夫だと一度提案したことも有るほどだ。
だが不思議なことに店長曰く、由佳里を雇ってからの方が利益は増したとのこと。未だにその理由は分かっていないが、役に立っているならそれで良いかと彼女は結論した。
トレイを提げた由佳里は、カウンターの端で新聞を読む客へと声を掛けた。
「お待たせしました。こちらコーヒーとサンドイッチになります」
「ああ、ありがとう。そこに置いといて――」
紙面を下ろして返事をした人物に由佳里は驚いた。
「あ、飛鳥さん!? どうしてここに!?」
声を掛けたお客は、先刻由佳里を悪漢たちから助けてくれた学生だった。それも自分が入学することになっている帝国奇術学校に在籍する、言ううなれば先輩にあたる人物だ。
驚いたのは由佳里だけでなく、当の飛鳥も目をぱちくりとさせる。
「そ、そういう君こそどうして!? エプロンまで着けて……ここの店員なの?」
「はい。少し前からここで働かせていただいているんです」
「そ、そうなんだ。何度か来たことあるけど、由佳里ちゃんの姿は見たことないな」
持っていた新聞をカウンターに置いて、飛鳥は由佳里の姿を見つめる。どことなく鼻の下が伸びているような、下心が透けて見える視線がちょっぴり怖い。
ほーと感心したような声を飛鳥が漏らしていると、見かねた店長が近寄ってきた。
「小林さん、ウチの子にちょっかい掛けるのは止めてくださいよ。ここはカフェーじゃなくて、コーヒーの味を楽しんでもらう本格的な純喫茶なんです」
「いやいや店長、心配ご無用さ。僕と由佳里ちゃんは先輩後輩の仲でね、断じて下心などない清い関係なんだ」
「そうなのかい由佳里ちゃん?」
飛鳥の言葉に不審げな店長は、由佳里へと確認を取った。
「ほ、本当です。今日なんて私が困っていた所を助けて下さったんです」
「小林さんが!? 嘘でしょう!?」
どうにも飛鳥の事を以前から知っているらしい店長は、まさかと言った表情になる。
その反応を見て飛鳥は聞き捨てならないと反論した。
「店長、今まで僕の事を何だと思っていたのさ? こう見えて腕っぷしには自信があるし、学校の仲間からも『勇敢という言葉を体現した男』と豪語されているぐらいなんだ」
「それ自分で言ってるだけでしょう? 由佳里ちゃん、気を付けるんだよ。この人は口ばっかり達者だから、あまり相手にしない方が良い。身の危険を感じたと言ってくれれば、すぐにコーヒーぶっ掛けて追い出すから」
「おい何て言い草だ。そんなんだから儲からないんだよ、この喫茶店は」
何やかんや文句を垂れる飛鳥を尻目に、店長は由佳里へと忠告する。普段から口数が少ない印象の店長がそんな冗談を言うなんて驚きである。
「あの、飛鳥さんはよくこの店にいらっしゃるんですか?」
「いや来るようになったのはここ最近で、回数も片手で足りるぐらいだよ。いつも暇そうだから話し込むことが多くてさ。金払っておっさんの相手なんてホント嫌になるよ」
「失礼ですね、最近は利益も上がってます。それに愚痴を零すのは小林さんの方でしょう? ご友人の女の子に冷たくされたとか、学校での訓練がキツイとか。ホント下らないですよ」
相当に話し相手をさせられたらしい店長は、盛大な溜息を洩らした。話によると飛鳥がこの店にやって来るのはいつも昼間で、顔を合わさなかったのは由佳里の勤務する時間とはずれていたからのようである。
しばらく話し込んだ後、二人が知り合いだと納得した店長はカウンターへと戻っていた。由佳里も仕事に戻ろうかと考えたが、休憩がてら飛鳥の相手にをしてくれと頼まれたため、彼の真向かいに座ってコーヒーを楽しむことになった。
迷惑かと思ったが、飛鳥のはにかんだ表情を見るにそんなことはないようだ。
「いや~、何かしらの縁を由佳里ちゃんには感じるよ。偶然助けた女の子が、まさか行きつけの喫茶店で働いていて、しかも学校の後輩だなんて。運命だよこれは!」
うんうん頷く飛鳥を見て、同意するべきか迷ってしまう。そもそもあれは助けられたと言えるのだろうか。悪漢を追い払ったのは有難かったが、銃を振り回した挙句誘拐じみたことをされたため、素直に首を縦に振れない。
「普段はお手伝いをやっているんだっけ? 書生(住み込みで働きながら、学校などへ通う者)みたいなのを雇うってことは、奉公先はかなりのお金持ち?」
「そうですね、お金持ちかは分からないですが有名な方の下で生活させて頂いています。明智探偵と言えば、ご存じではないでしょうか?」
「え? 明智って……二十人殻と戦っているっていう女性探偵のこと?」
飛鳥の驚きに頷いてみせる。やはりどこに行っても昴は有名人なのだな、と改めて感心する思いだった。
「そうです。お手伝いと言っても身の回りのお世話ばかりで、私が何か事件に関わるっていることは少ないですけど」
「へえ、帝都中から事件の知らせや依頼が舞い込むんだろうなあ。大変だったりしない?」
「いえ、とても親切な方で不便を感じたことはないですね。むしろ私が迷惑を掛けることが多くて、ちょうどさっきも少し失敗してしまって……」
事務所に立花がやって来た時の事を思い出し、知らず声が落ち込んでしまう。偽札の鑑定結果がすべて外れてしまい、ようやく役に立てると思った彼女に、これは相当堪えた。
「あ、すいません。暗いことをお話ししてしまって」
気分を害すような発言をしてしまい、慌てて謝罪する。
「何だか嫌なことを思い出させてしまったみたいだね。まあそう落ち込まないで。僕だって失敗ばかりでね、おかげで一流の魔術師に成れるか分かったもんじゃないよ」
飛鳥は励ましの言葉を送る。自分を元気づけようとしてくれるのは嬉しいが、彼が魔術の才能にあふれる人間だと由佳里は知っている。それが分かっている以上、彼女には気弱な返事しか出来なかった。
そんな由佳里の心情を察したのか、飛鳥は真剣な表情になった。
「人の目なんか気にせず、思う通りにやってみればいい。出来るかどうか、それはやった後に分かることだよ。問題は『出来るまで』やり続けられるか。その覚悟があるかさ」
「やり続ける覚悟。それは飛鳥さんの極意というか信条みたいなものですか?」
「そうだね。まあ方法っていうのはいくらでもあると思うし」
どんな事柄でもやり方は一つではない。それは魔術だけでなく万に通ずることであり、どんなことにも応用できると彼は言う。
「例えば火を起こす方法を考える。魔術師である由佳里ちゃんならどうする?」
「それはもちろん、魔術を使って火を起こします」
高等魔術の四大元素に通じている術者なら、火の魔術を行使するだろう。ルーン魔術が得意ならKのルーンを、自然魔術に詳しければ宝石に宿る星や惑星からの魔力を用いることになる。
「そうだね。なら魔術を知らない一般人なら?」
「それは……マッチとかライターを使うのではないでしょうか?」
人間は太古の昔から狩猟など生活の端々で火を使って生きてきた。火は誰にでも扱える便利な道具ともいえる。道具がありさえすれば、火を起こすのは取り立てて難しいことではない。
つまり飛鳥の言いたいことは、あくまでも『魔術は便利な道具』に過ぎないということらしい。信仰や文化から端を発する魔術の歴史を考えれば、正しいのか疑問はあったが、納得できる部分も確かにあった。
「もし君がぶつかっている問題があって、それを解決する術が見つからないなら、もっと違う視点から考えてみればいい。やり方が間違っていたかも含めてね」
「違う視点……ですか」
由佳里は頭を捻って考えた。目下の問題とすれば偽札をどうやって見分けるか、というもの。判別方法は由佳里でしか真似できないが、発見することは出来た。
しかし結果は失敗に終わり、暗礁に乗り上げたと言える。これを解決する方法などあるのだろうか。
「うーん難しいです。そもそも私、偽札のことなんて詳しくないからなあ……」
「ん……偽札!? それってどういう意味!?」
思わず口に出てしまった言葉にハッとなった。昴が取り組んでいる偽札事件は立花に頼まれたもので、おいそれと他人に語っていい話ではなかったのだ。
「あわわ、すいません! 今言ったことは忘れてください! 他の方には話せないことで――」
「偽札っていうのは、もしかして一円札の偽札が出回っているっていう話かい?」
「え? ご存じなんですか?」
偽札の件は限られた人にしか伝わっていないと聞く。由佳里も昴との関わりがなければ知ることは無かったが、どうも飛鳥は知っているようだった。
「ある人から偽札が出回っているから、誰がやっているのか調べるように頼まれてね。ちょうど調査を始めた所なんだよ」
「そ、そうなんですか……やっぱり飛鳥さんは凄いです」
何の気なしに言うが、学生に過ぎない彼が帝都を揺さぶるような事案を耳にしているというのは驚きである。やはり相当に魔術に関して秀でている、もしくは頭が切れるということなのだろう。
双方が思わぬ事実を知っていると理解した所で、飛鳥は由佳里にある提案をした。
「由佳里ちゃん、もし良ければ僕と協力して偽札事件を調べないかい?」
「え? 私と飛鳥さんで、ですか?」
「うん。僕はまだ調査を始めたばかりでね、協力しくれる人や情報が必要なんだ。先行して調査している人が居るなら手を貸してほしいし、もちろん僕も協力したい」
突然の申し出に困惑してしまう。事件解決を目指して協力者が増えるというのは悪い事ではないだろう。だが昴に断わりなく進めるのは良くないだろうし、これまで集めた情報やその出所を話すのは更に不味い。
「あの、有り難い申し出なんですが、話せることはあまりないです」
「何も知っている事を教えて欲しいというわけじゃないよ。むしろ僕が調べたことを由佳里ちゃんに教えるから、君にはそれを明智探偵に伝えてほしいんだ」
「どういうことですか?」
こちらからは何も教えず、対して彼からの情報は得るという話になる。一体彼に何のメリットがあるのか、由佳里には皆目見当がつかない。
「明智探偵が優れた人物であることは周知の事実。だから今真相に一番近いのは彼女だ。だとすれば彼女に情報を集めるのが、偽造犯逮捕のために効率的だと思ったんだ」
「なるほど……でも飛鳥さんはそれで良いんですか?」
確かに事件解決を考えるなら納得出来る話だ。しかし一方的に情報を渡すだけでは、飛鳥が余りにも損な役回りになってしまうだろう。幾ら何でも気が引けるというもの。
だがそこで由佳里は先ほどの言葉を思い出した。人の目なんか気にせず、思った通りにやってみればいい。もしかして今の状況はこれに当て嵌まるのではないだろうか。実際偽札の調査は停滞している上、これ以上自分に出来ることはない。
だが彼の申し出を受ければ、新たな手掛かりが掴めるかもしれない。
そこに思い至った所で、まるで見越していたかのように飛鳥は笑みを浮かべた。
「どうする由佳里ちゃん? 僕を使うかい? 自分でも言うのも何だけど、必ず役に立ってみせるよ」
挑戦的ではあるが自信に満ち溢れた飛鳥を見て、不思議と頼もしく思えた。
どことなく昴と似ている気がする。思えば昴との出会いも飛鳥との出会いも、由佳里が窮地に陥っていた時に助けてもらったのが始まりだった。二人とも彼女が困っている時に颯爽と現れ、手を差し伸べてくれる。
今こうして彼と出くわしたのだって、それと変わらないのだろう。
決心した由佳里は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「あの、では厚かましいかもしれませんが、よろしくお願いします。私も出来得る限り飛鳥さんのお手伝いをさせて頂きます。それで事件を解決に導けるのなら――」
自分が何か役に立つのであれば何だってやってみせる。その覚悟を持とうと思った。
「よーし、こちらこそよろしく! 一緒に悪いヤツを捕まえよう! なーに僕と由佳里ちゃんが協力すれば偽造犯だろうと二十人殻だろうとチョチョイのチョイさ!」
「は、はい! 頑張ります!」
飛鳥の喜びの声を聞き、つられて由佳里も笑顔を見せた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて!」
すると何を思ったのか、飛鳥は店長に断りを入れて店外へと出て行った。一分ほどで戻って来ると彼は何か持ってきた。
「実は友達に上げようと思ってたプレゼントがあってね。車に置いていたんだけど、タイミングが悪くて渡せなかったんだ。僕が持ってても使い道がないし、由佳里ちゃんに似合いそうだから、どうかなって」
飛鳥が持ってきたのは、凝った装飾の施されたリボンの髪飾りだった。自分のような田舎者には中々手が出ない上質な品だと分かる。もしや思い人か何かに用意したのだろうか。
「……嬉しいんですけど、その方に渡さなくて良いんですか?」
「気にしなくて良いよ。ただの友達だし、由佳里ちゃんの方がずっと似合うよ。きっとこの髪飾りだって和装が似合う大和撫子に使ってほしいはず。まあこれをあげるから、今後ともご贔屓にってことで……ほら、付けてみて!」
「はあ、では頂きます」
髪飾りを受け取って勧めに従って付けてみる。お洒落に気を遣う余裕などあまりなかったが、街中で見かけるモダンガール達を見て、憧れがないこともなかった由佳里は、少しだけ心が浮足立った。
おずおずと飛鳥の方を振り向くと、彼は歓声を上げた。
「とっても似合うよ! やはり僕の目に狂いはなかった! いやあ、良いことをするって気分いいや! 店長もそう思うでしょ!」
大喜びの飛鳥はすかさず店長へと同意を求める。カウンターで苦笑する店長だが、今回ばかりは彼の意見に賛成の様子だ。
「よく似合ってるよ。気に入ったのならバイトの時も着けて構わないよ」
「は、はい。ありがとうございます。飛鳥さんもその、ありがとうございます。こんな高価な物、私なんかには勿体ないぐらいです」
「気にすることないよ。むしろバンバン着けてくれると有り難い。いやホントにそれでお願いします。うん、可愛いは正義だからね」
「そ、そんな、可愛いだなんて……」
子供のように大はしゃぎする飛鳥に対し、由佳里は恥ずかしくて顔を上げられなかった。きっと今自分の顔を見れば、赤面していることは間違いない。
本当に不思議た。彼と話していると何でもできる様な気がしてきた。話す言葉の一つ一つに何か暗示のような、魔術が込められているのではと疑うほどだ。きっと彼の自信は、掛け値なしの実力に裏付けられたものなのだろう。
あの二十人殻の容疑者リストに名を連ねていた以上、それは間違いない。
由佳里は事務所の出来事を思い出し、そんな感想を抱いた。