19. ダンスホール
探偵事務所に電話を掛けた犯人達が指定したのは、帝都の一角にあるダンスホールだった。一九一九年にダンスホールは初めて日本に登場し、若者の憧れの的となった。当時まだ貞操観念の強かった帝都において、人前で堂々と女性の手を握ることができるというのは、若人として興味関心を持つのは当然のことだったのだ。
事務所を後にした昴は大きな鞄を提げ、エミリアと共に「フォルテ」と呼ばれるダンスホールに来ていた。一八歳未満はダンスホールに立ち入り禁止であるためか、客達が熱気を帯びジャズ音楽を背景に踊っているの見て、両者ともやや圧倒された。
受付で名前を台帳に書いた後、二人は奥のホールへと通された。
奥のホールはどうやら何者かの貸し切り状態にあるらしく、先ほどの光景とは異なっていた。黒服の男たちが何人も壁際に控えており、天井から下がったシャンデリアの下には、装飾された椅子に腰かけ、彼女達の来訪を待っていた紳士服の男の姿があった。
「あなたが阿藤ね。どうも初めまして」
待ち受けていたいたのは偽札事件の中心人物として名が上がっていた男、内閣印刷局の局長である阿藤その人だった。
横柄そうな髭面に苦々しい色を浮かべ、阿藤は二人を睨みつけた。
「挨拶をする気分ではない。我々から奪った偽札の原版は持ってきただろうな?」
「ええ。ここにあるわ」
昴は鞄を開き、中に並べられた一円札の偽造原版を見せた。
偽札工場に足を踏み入れたあの晩、二十人殻との戦闘の負傷から復帰した彼女は、すぐさま騒動の隙をついて原版を奪い去っていた。これは由佳里がすでに誘拐されていると知り、対抗策はないだろうかと考えた末に取った行動だった。
彼女の予想通り交渉の場を持つことが出来たが、由佳里の姿が見えない。
「あの子はどこにいるのかしら? 傷でも負わせているのなら、今すぐこれをゴミに変える」
冷徹な目つきの彼女は、右手に紫電を走らせる。
それを見た阿藤は渋い顔を見せ、背後の部下に目配せした。
しばらくすると、誘拐される直前と同じかすりの着物を身に着けた由佳里が、部下の男と共に姿を現した。
「由佳里! 怪我はない!?」
「昴さん! わ、私は大丈夫です!」
連れてこられた由佳里の顔には疲労の色と不安が見て取れたが、目立った変化はない。
人質として一応は丁重に扱われたらしく、昴はホッと胸をなでおろした。
「さて、もういいだろう。早く原版を渡したまえ」
「ちょっと待って。その前に聞きたいことがあるわ」
早くことを終わらせたいらしい阿藤とは対照的に、昴は質問を投げた。
「なぜ偽札を作ろうなどと考えたの? それも本物の一円札の印刷に関わる要人が、こんなしょうもない悪事に手を染めるだなんて、理解不能だわ」
「何かと思えば、紙幣を刷る理由なんて金以外にないだろう? この不況の世に、少しでも富を蓄えようと考えるのは当然のことだ。要職に就く者がその地位と権力を悪用するなんていつの時代にもあるもの。そうだろう?」
「ええ、その通りね。そしてあなたみたいな屑を捕まえるために私はいる」
キッと睨む昴に対し、阿藤は肩を竦めた。
「あなたの動機はもういい。それより二十人殻の影が見え隠れするのだけれど、それはどういうことなのかしら? あなたと彼はどこで手を組んだの?」
偽札工場での経緯を考えると、二十人殻が関わっているのは最早疑いようがない。だが彼の方は動機も関与の具合も、そして正体についても霧に包まれたように定かではない。
二十人殻の名前が飛び出し、阿藤は眉間に皺を寄せた。
「フン、元々この事業を始めようと考えたのは彼の方だ。小金稼ぎしか出来なかった私に、偽札製造という大掛かりな仕事を持ち込んだのは、何を隠そう二十人殻なのだ」
阿藤の言葉を信じるわけではないが、工場の手配から偽造紙幣流通に掛ける周到さは、裏社会でフィクサーとして動いていた二十人殻によるものだとは予想していた。印刷にかかる部分は阿藤が担い、他は二十人殻が手を回したのだろう。
「彼の顔は見たの? あの道化を写したような仮面の下を」
「もちろんだとも。契約に従ってその名を口にすることは出来ないが、この中で私だけが彼の正体を知っている」
阿藤は余裕そうな口振りで答える。契約と言っているが、魔術絡みの取り交わしがなされたのは想像に難くない。彼の意思と関係なく、二十人殻の名前を口に出来ないように強制の魔術を施されているのだと考えられる。口を割らせるのは無理だろう。
「さて名探偵殿の疑問にも答えたことだし、終幕といこう」
阿藤の合図とともに黒服たちは銃を構えた。三八式歩兵銃に加え、陸海軍や警察に支給されているべ式短機関銃を持った者もおり、一斉に撃たれれば魔術師であっても分が悪い。
「いいの? 原版を一気に溶解させるわよ?」
人質と言わんばかりに、鞄の中の原版に触れる。
だが阿藤は舌打ちするだけで、態度を変えることはなかった。
「原版の喪失は痛いところだが、再製造することは可能だ。それよりも今は、私達に辿り着いた君らを排除する方が優先事項なのさ。保身を第一に考えるのは、官僚社会で生きる秘訣なのでね」
ニヤリと笑う阿藤に対し、昴とエミリアは顔をしかめる。攻撃される前に先手を取るべきだろうが、その瞬間由佳里の身が危うくなる。
昴は由佳里の方を見やるが、拳銃を持った部下の男が横についており、奪い返すのは難しいというのが正直なところだった。
(あの子の安全さえ確保できれば……)
帽子を深く被った男を見据えていると、突如その口元が歪んだのが見えた。
「阿藤さん。殺すなんて勿体ないでしょう? こんな可愛らしい女の子達を手に掛けようだなんて、愚かだと言わざるを得ない」
「は? 何だと?」
部下の突然の発言に目を瞠る阿藤。
彼だけでなく他の仲間たち、そして昴達すらも呆気に取られた。
「偽札製造なんて面白いことに手を染めた癖に、随分と遊び心がない。だがまあ、由佳里ちゃんに手をあげなかったことだけは褒めてあげるよ。もし手荒に扱えば、全員八つ裂きにしてたところだ」
由佳里を連れてきた男は前に進み出て、帽子を取って見せる。
明かりの下に照らされた人物の正体は、以前喫茶店で顔を合わせた小林少年だった。
「あ、飛鳥!? あ、アンタ……どうしてそこに居んのよ!?」
背後のエミリアが驚きの声を上げると同時に、阿藤たちも動揺を見せた。
「き、貴様!? どこの誰だ!? いつから忍び込んでいた!?」
「え!?」
声を荒げる阿藤を見て昴は驚く。二十人殻の正体は彼だと確認したというのに、ヤツは飛鳥を知らないらしい。先ほど顔を見たと言っていたのにも関わらずだ。
銃口が一斉に飛鳥へと集まるが、当の本人は気に留める様子もない。
彼の背に隠れる形になった由佳里は、あまりの展開に目をパチクリさせている。
「あ、飛鳥さん、なんですか?」
「そうだよ由佳里ちゃん。僕は君が攫われてすぐに、傍に控えていたんだ。もし危害を加えられそうになったら、すぐに助けるつもりだったのさ。ゴメンね、本当はすぐにでも安心させたかったけど、僕はどうしてもこの状況を作る必要があった」
振り返らずに由佳里に答え、正面の阿藤を見やった。
「誰だが知らんが、この場に現れたというのは考えなしだったな! このまま共に葬れば、事件は闇の中だ!」
「馬鹿かアンタ。お前らの悪事はもう警察の知るところになっている。偽札の原版と偽造紙幣の製作にかかわる他の証拠が、今頃警視庁に届いているころだ」
「何を言っている!? 原版ならすぐそこにあるだろう!?」
罵声を上げる阿藤を無視し、飛鳥は指を鳴らした。
すると昴が提げていた鞄の隙間から、液体となった金属が流れ出した。まるで魔法が解けたように、中に収められていた原版が形を失くしてしまったのである。
どよめきが上がる中、エミリアがアッと何かに気づいた。
「これは……私が作った一円札の原版じゃない! 何でこれが昴さんの所に!?」
「偽札工場に忍び込んでいた時に、エミリアちゃんお手製の原版と、こいつらの愛用している偽札原版をすり替えておいたのさ。侵入に気づかれないための偽装工作だったんだけど、まさか昴さんが持つことになるとはね」
「あなた、あの時工場に来ていたのね……」
偽物のさらに偽物の原版を掴まされていたと知り、昴は溜息を洩らした。
目の前で原版が液体となって消え失せ、阿藤は青ざめた顔になった。
「じゃあ、本物の原版は……本当に警察に!?」
「そうさ、君ら全員お縄についてもらうことになる。豚箱で悔やむことだね。怪盗二十人殻が目を付けた以上、盗めないものなんてないんだよ」
「そうか貴様が!? あのふざけた乱痴気騒ぎを起こしていたのか!?」
怒髪天を衝いた阿藤は銃を構え、撃ち殺そうと引き金を引く。
それを察知した飛鳥は黒の鳶マントを広げ、背後の由香里ごと漆黒に身を包んだ。撃ち放たれた弾丸は着弾するも、魔術で強化したらしい繊維には傷一つ付けられなかった。
「今だ! 明智昴!」
「OKよ! エミリアさん!」
「え!? な、何を――!?」
飛鳥の合図を聞き、昴はすぐさま傍にいたエミリアを宙に放り投げた。そして四大元素魔術の火と風を起こし、両の手に二つの系統を混ぜた雷撃を創り出す。
「食らいなさい!」
掲げた両の掌から雷撃が迸り、その放電は阿藤達が手に持った拳銃へと短絡し、そのまま彼らの体を貫いた。高圧電流に晒された黒服たちは、部屋中を迸る紫電の輝きを見た瞬間、例外なくアッという間に気絶した。
昴は最後に、叫び声をあげて宙に放り出されたエミリアを受け止めた。
「ご免なさい。怖かった?」
「ええ、とっても!」
涙目のエミリアはそれ以上何も言わず、ジト目のまま床へと降りた。