12. カルピスと聖水
「偽札製造には魔術師が関わっている。それが僕の得た手掛かりというか、結論ですね」
「魔術師……ですか?」
飛鳥の言葉に由佳里だけでなく、昴もやや驚きに包まれた。
「根拠は? 偽札製造と魔術なんて、関わりがあるとは思えないんだけど?」
「確かにそうですね。でも偽札について調べるうちに、僕は一円札の秘密に気づいたんです」
飛鳥はそう言って財布から一円札を取り出した。
「昴さん。紙幣に使われている偽造防止技術について、ご存知ですか?」
「少しね。『透かし』なんかのことでしょう?」
明治大正から紙幣は一般に流通し、同時に偽造防止技術も導入された。昴の言う透かしとは光を当てると文字や絵が浮かび上がる技術で、実際に一円札には『黒透かし』と呼ばれる特殊な技術が投入されている。他にも紙面に凹凸を付ける凹版印刷、網点や彩文を描くことで複製を困難にする地紋印刷なども挙げられる。
「たしか肖像画を入れるだけで、複製する難易度が跳ね上がるとも聞いたことがあるわ」
「そのとおりです。人の目は人相、つまり顔を見分けることが得意なので、精巧に作らなければ一般人でも紙幣の真贋を見分けてしまう。それに顔の陰影、模様というのは再現が相当に難しいので、偽造において大きな障壁になります」
紙幣に使われている偽造防止技術は非常に多岐にわたり、もし完璧な複製を作るとなれば、生産にかかるコストが、印刷した紙幣の額面よりも大きくなることも珍しくない。それほどに知識や設備、人手が必要になるのが偽札の製造なのである。
「すごいですね。普段何気なく触れてるものに、そんな技術が注ぎ込まれてるなんて」
「小林君が手に入れた手掛かりというのは、偽造防止技術が関係するのかしら?」
勿体ぶった話し方をする飛鳥に切り込むと、彼はニヤッと笑みを浮かべた。
「ご推察通りです。実は帝都に流通している一円札には、魔術を使ったある仕掛けが施されているんですよ」
魔術が紙幣に使われている。これまで立花校長をはじめ、多くの人物から紙幣の情報を集めたが、そんな話は一度も聞いたことがない。そもそもお札の印刷に関して、造幣局は異常なまでに口が固く、紙幣印刷の深奥は聖域と化していると聞く。
昴が半信半疑な面持ちで居ると、飛鳥は懐から小瓶を取り出した。
「仕掛けは簡単です。魔術師がよく儀式や術式の行使に用いる聖水。極少量ですが、これが一円札に含まれているんです」
聖水とは洗礼等の儀式や祝福に用いられる液体であり、宗教によって定義は異なるが、穢れを払った、もしくは穢れを払うことが出来る水のことである。純度や効能を度外視すれば、魔術師なら誰もが手に入れ、また作り出すことが可能だ。
「知り合いに優れた錬金術師が居まして、これはその人に作ってもらった特別な薬品です。触れると聖水の神性に反応して発光する――言わば探知機のようなものですね」
彼は小瓶のコルクを抜き、一円札に薬品を数滴だけ垂らした。
すると薬品の染み込んだ部位が淡青色に発光し始めた。
「これは……!?」
前のめりになって観察すると、僅かだが魔力を感じ取ることが出来た。紙幣に含まれる魔力は感知できないほど微量だが、おそらく彼の持っている薬品は、魔力を増幅する作用も備えているのだろう。大したものだと思った。
「……私も一円札については調べたわ。化学分析と魔術分析の両面を駆使したけれど、成果はなかった。こんなものによく気づいたわね」
これほど精緻な仕掛けに気づくとは、軽薄そうに見えて中々食えない男である。どうやって気づいたのか是非とも聞いておきたい所だ。
「立花校長が調査に当たっているというのが、僕には腑に落ちなかったんです。あの人は凄腕の魔術師ですが、偽造紙幣というのは警察や特高、よくて官憲の仕事だ。なのに魔術師である立花校長に話が行った。これはまず魔術絡みだと思ったんです」
なるほど、と素直に感心した。昴は自分のことを探偵と割り切っている。だからこの話を聞いた時、単純に捜査能力を期待されたのだと思った。
だが彼は情報の出所にまで考えが及んでいたとのこと。これは一本取られた。
「頭の冴える協力者が得られたみたいね、由佳里。私じゃ気づかなかったわ」
「ええ、飛鳥さんは凄い人なんです。昴さんとよく似てます」
「む? 私と似てる? 彼が?」
思いがけない発言に、昴は飛鳥の顔を見た。『いやあ、それほどでもあるよ』とお調子者のセリフを吐く彼であるが、似ているというのは如何なものだろう。別に嫌っているわけではないし、頭も回るとは思うが、軽い印象があるため素直に喜べない。
「しかしこうなって来ると、偽造犯は相当芸達者な奴か、顔が広い人物になりそうね。聖水を製造し、それを紙幣に刷り込ませる芸当が可能となると、いくらか絞り込めるでしょう。印刷局の重役なんかが怪しくなってきたかしら? とにかくありがとう、礼を言うわ」
以前魔術分析を蒼銀研究所に依頼し、空振りに終わったことを踏まえると、偽造犯は聖水を用いた偽造防止技術も再現出来たことになる。研究所側は聖水が含有されていると把握していたのだろうが、公開できない技術であるため黙っていたのだろう。政府機関であるため仕方がないが、おかげで手掛かりを見落とすところだった。
礼の言葉を述べると、飛鳥は年相応の喜びを見せた。
「いえいえとんでもない。僕は由佳里ちゃんと昴さんの力になればと、それはもう無償の奉仕をしたいと思っていたので。その気持ちだけで十分ですよ」
「へえ、見返りはなくても良いのかしら?」
由佳里に鼻の下が伸びている所を見れば、要求というのは当然決まってくる。協力してくれたのは有難かったが、彼女をおいそれと任せるわけにはいかないため、ここで釘を刺しておこうと思った。
だがしばらく考えた彼は、思いのほか真剣なまなざしを向けた。
「そうですね。でしたら一つだけ質問しても良いでしょうか?」
「ええ、良いわよ。私に答えられるような事であれば」
「あなたから見て、二十人殻というのはどういう人物でしょうか?」
想定外の質問に、昴と由佳里は思わず顔を見合わせた。
この流れでかの盗賊の名が出てくるのは驚きだ。興味を持っている、あるいは憧れでも抱いている、ということなのだろうか。
「うーん、そうね。私が思うに彼は寂しがり屋で、自己顕示欲が大きい。予告状なんてものを出して、人目を自分に集めようとしているのがその証拠ね。それと猜疑心も強い。だから捕まっていないのだけれど、おそらく彼は私生活でも孤独を貫いてると思う」
二十人殻ファンの彼には悪いが、ここは本音をぶつけるべきだろう。昴は二十人殻に対し自分なりのプロファイルを行っている。決して意地悪で言うのではない。
「なるほど。あなたは実際に彼と相対し、会話もしたと聞きます。それに彼の正体についても調べているはず。それを踏まえ、もっと詳しくお願いします」
「……二十人殻は保身に長けた人物よ。自分に繋がる証拠は残さないし、話しぶりや会話の内容からも、社会的地位や来歴は見えてこない。唯一魔術師ということだけは分かっているけど、それ以上のことは分からない」
「それはどうしてですか?」
興味津々な彼にやや不可解な印象を受けるが、助けて貰った手前があるため、出来る限り正直に話をつづけることにした。
「彼が今まで見せた魔術は、どれも基礎レベルのモノばかり。それこそ見習い魔術師が扱えるぐらいのね。でも剣を交えた上での話だけど、彼が魔術について相当な知識を持ち合わせているのは間違いない。術は平凡でも、使い方が上手いのよ」
思い起こせば、二十人殻は魔術をただの道具として扱っている節がある。普通、魔術師は自分の技に誇りを持ち、むやみやたらに人前では行使しないものだ。だが彼は使い捨ての道具のように魔術を用い、使うジャンルも一つに傾倒することはない。
「おそらく自分のルーツを辿られないよう、あえて程度の低い術を使用している、と私は考えているわ。悪知恵の働く泥棒なのよ」
昴はこれまでの二十人殻とのやり取りを想起し、取り繕うことなく話した。
耳を傾ける飛鳥はただ頷くばかりで、目立った感情は見せなかった。
「あの、飛鳥さん。二十人殻について何か気になる点でもあるんですか?」
「まあね。僕も彼に興味を持っててね。少し調べたことがあるんだ」
「あら、そうなの? あなたから見て、彼はどんな人物なのかしら?」
やはり彼は二十人殻のファンらしく、昴は興味本位で質問を返した。
「僕の見立てでは、二十人殻は空虚な人間です。数々の犯罪に手を染めていますが、欲というものがなく、情熱もない。ただ淡々と作業こなす機械といった印象ですね」
「空虚な機械? 私にはそうは思えないけど?」
キザなセリフに仰々しい態度。芝居じみた物言いからは、とてもそんな感想は抱けない。
「少し彼の事を偶像視しすぎじゃないかしら?」
「そうですか? 二十人殻は怪盗業だけでなく、以前は闇市場で暗躍していたと聞きます。はじめてその名が警察に知れたのは、盗品業者を摘発した時だとも」
どうも彼は予想以上に熱狂的なファンらしい。二十人殻が裏社会でフィクサーとして活動していたことまで知っている。紙幣のことと言い、どこから情報を仕入れているのだろう。
「あなたの言う通り、怪盗として活動を始めるまでの彼なら、冷徹な犯罪者というイメージも分からなくないわ。ええ本当に、何を思って泥棒稼業をやろうと思ったのかしら?」
「昴さん、前もそんな話をしていましたね。怪盗に転身するきっかけというか、そういう事情があったんでしょうか?」
「どうだろうね? それも含めて僕は是非とも知りたい。どんな人間なのか? どういう考えを持っているのか? 会って話をしてみたい。きちんと素顔を見てね」
そう語る彼の顔つきは淡白だったが、眼差しには好奇心が窺い知れた。まるで火が付いた冒険者のように、声音もどこか楽しげである。かなり変わった感性を持っているようだと、昴は感じた。
話はそこで概ね終わったようで、飛鳥は懐中時計を見て席を立った。
「どうもお邪魔しました。よければまた、一緒に食事でもどうでしょうか? もちろんお二人とも、僕が費用を持ちますので」
「あらそう? 予定が合えば、ぜひご一緒したいわね」
「お願いしますね。次会うときはケーキか何かを持参しますよ。今日一番の収穫は、昴さんが甘いもの好きだと分かったことかもしれません」
快活な笑みを見せる彼だが、当の昴は秘密を知られてご機嫌斜めになった。よりにもよって男の子に、自分が甘党であると露見してしまった。疲れていたとはいえ、あまりにも気が抜けていた。反省しなければならない。
言われっぱなしは癪なので、一言忠告することにした。
「これはアドバイスだけど、二十人殻はあなたが期待するような人物じゃないと思うわよ。嘘に嘘を重ねる、ただの詐欺師でしかないわ」
「それは昴さんに対してだけじゃないですか? きっと二十人殻は世間よりもあなたに興味がある。なんせ凄い美人で、カステラに感動するような可愛いところがあります。彼はあなたの気を引こうと必死なのかもしれませんよ?」
「――ぐ!?」
倍返しを食らってしまい、店を出るまで彼をじっと睨むことしか出来なかった。
非常に不愉快である。帝都はただでさえ男尊女卑の空気があり、それに真向から反抗している彼女からすると、男に言い負かされるなんて絶対にあってはならないのだ。
「くそう……次会ったらお返しをしてやる」
「珍しいですね、昴さんが手玉に取られるなんて。飛鳥さん、とても面白い人でしょう? 二十人殻のリストに名前が載っていましたし、実力も折り紙付きですよ」
「ふーん、リストに名前がねえ。……まあ印象に残る人物だったのは認めるわ。それより気になってたんだけど、その髪飾りというか、頭に着けているリボンはどうしたの?」
「ああ、これですか? 実は前、飛鳥さんから頂いたんです」
由佳里は嬉しそうにポニーテールを揺らし、壁の鏡を見ながらリボンに触れる。パッと見ただけだが凝った装飾が施され、かなり高価なものだと分かる。
「えへへ、あまりお洒落なんかしたことなかったですけど、これで私も少しはモダンガール達に近づけましたでしょうか?」
「そ、そうね、似合っているわよ」
まさかプレゼントまで送り付けているとは、彼はかなりのプレイボーイらしい。人見知り気味な由佳里と仲良げであるし、事実彼女もまんざらではない様子。さきほどは問題ないと思ったが、彼の口の上手さを考えるとやはり危険かもしれない。
どうやら自分だけなく、由佳里まで奇妙な殿方と関わる羽目になったようだ。
(二十人殻が私に気がある、か。……阿保らしい)
先ほどの捨て台詞を思い出し、大きな溜息が出た。
恋の経験などほとんどない彼女だが、おそらく自分が惚れ込むタイプというのは、真面目かつ努力家な男性だと思っている。弛まぬ研鑽を積み上げ、その末に大成する。誠実で一本筋通った御仁こそ、苦楽を共にする相棒として理想だろう。とはいえ、そんなお眼鏡に叶う人物など居るわけないと諦めてはいる。
彼女はカルピスの入ったグラスを掴み、一気に口へ流し込んだ。砂糖で甘ったるくしたコーヒーも良いが、甘酸っぱい飲み物もたまには悪くない。
余談だが、当時の滋養飲料カルピスのキャッチフレーズは、その甘酸っぱさから『初恋の味』として売り出されていた。
帝都一の探偵は、意外にもそのことに気づかなかった。