10. VS名探偵②
「明智昴君、あなたはやはり素晴らしい。中村警部だけが相手だと思い込んだ、この二十人殻の不手際だ。だがそれを差し引いても、君の手管には賛美を添えさせていただきたい」
根負けし、宿敵に仰々しい態度で拍手を送る。
対する昴も二十人殻という言葉を聞き、立ち止まって笑みを浮かべた。
「予告状を出さずに盗みを働くなんて、あなたの美学に反するのではなくて?」
「痛いところを突く。しかし今回に限っては別なのだよ」
「へえ、何か特別な事情でもあるのかしら? ぜひお話を聞きたいわね」
「そうしたい所だが、ここは君との逢瀬にはふさわしくない場所だな。少しずつ観客が付き始めているご様子だ」
やり取りを眺めてた職員たちは二十人殻が現れたと知り、すでに臨戦態勢に入っている。所々警棒や拳銃を身構えている者も映る。彼らにとっても二十人殻は、自分たちの誇りを傷つけた悪人なのだ。誰一人として容赦はしないだろう。
包囲されて逃げ場を失くした怪盗は、堪えきれぬ笑い声を漏らした。
「? 何がそんなに面白いのかしら? 逃げ場は無いというのに、随分と余裕ね」
怪訝な態度を見せる昴だが、当の彼はこの状況を楽しんでいた。
これだ、これなのだ。帝都にやってくるまで、こんな興奮に出会えたことはなかった。自分は悪事を働くことを娯楽としているのではない。我が身の限界を超える困難、苦難、踏破できぬ巨大な壁こそが、渇望していた宝なのだ。
「ああ、そうだ。さっき見せた警察手帳は盗んだものでね。彼に返しておいて欲しい。伝えておいてくれ、『濡れ衣を着せて済まなかった』とね」
「自分で渡せば済むことでしょう? 付き添ってあげるから、両手を差し出しなさい」
「それは御免だな。まずは受け取ってくれ」
チラつかせた警察手帳を、彼は昴へと放り投げる。
宙に舞った手帳に視線が集まった瞬間、彼は両の袖口から何かを取り出した。
昴だけは行動に気づき、拘束しようと駆けるが、奇術師の手業はその先を制した。
右の袖口からは取り出したのは羊皮紙だった。紙面には太陽を示すSのルーンが刻まれ、魔術を行使すると、庁舎内に差し込んでいた太陽光が途端に強く降り注ぎ始めた。
視界が白く染まる中、更に左の袖口から取り出した南部式小型自動拳銃を、あらぬ方向へ向けた状態で何度も発砲し、混乱に乗じて正面玄関を抜ける。
光と音に怯んだ人垣を突き飛ばし、霞が関の大通りへと至った。
「待ちなさい! 二十人殻!」
背後に昴の接近を感知し、飛鳥はその場から大きく跳躍した。刹那、剣閃が視界の端で走り抜け、思わず息をのんだ。
「手荒いな。もう少し淑女らしい所作を期待したいところだな」
人力車や馬車が走る道路の街灯、その上から日本刀を構えた昴を見下ろす。彼女の手に握られた刀は紫電を纏っており、危険な代物だと傍目にも分かる。
「私もこんなもの振り回したくないけど、逃げる御仁がいるから悪いのよ。手足を大事にしたいなら、今すぐ投降しなさい」
刀を構えなおし、昴は剣先を真っ直ぐこちらに向ける。
事前の諜報において判明している昴の魔術は、西洋の高等魔術に属し、錬金術にも見られる四代元素と呼ばれる魔術だ。土、水、火、風という四つの要素を持つ基礎魔術で、彼女の雷を想起する魔術はこのうち火と風を複合した高位の術式である。
(腹立たしい限りだけど、僕には真似できない高等術だな)
分かっていたことであるが、術者としての腕前は昴が一歩どころか百歩も先を行く。観察する限り、薄皮一枚でも斬られればそれで終了。人間の電気抵抗はおよそ二千Ωで、そのほとんどは皮膚で賄われている。もしそれを削がれてしまえば、水分を潤沢に含んだ細胞と血管がむき出しになってしまうからだ。
危険性を再認識したところで、彼は道路を跨ぐようにして跳び、昴もそれを追撃する。
街灯から建物の上を渡り、空中でサーカスの曲芸の如き攻防を続ける。繰り出される剣戟を軽業師のように飛び跳ねて躱し、間隙を付いて体術と拳銃による発砲を繰り返す。そして常に逃走先を確保しながら、怪盗は逃げ回った。
冴えわたる剣技を回避出来たのは、ひとえに飛鳥の武芸者としての腕によるものだ。昴の業前は大したものであったが、彼の技量は更に上をいく。互角に渡り合えているのは、魔術の才に乏しく、それを補おうと苦慮した小林飛鳥の努力の産物だった。
七度目の至近距離でのやり取りを終え、両者は道を挟んでにらみ合った。
「――チ、あなた本当に何者なのかしら? 魔術師なのに、その達人めいた技量はどういった趣向なのよ。つまらない悪事を働いて……拳が泣いてるわよ」
「そうかい? なら反省して怪盗から武人に鞍替えしようと思う。だからこの場は見逃してくれないだろうか?」
「戯言を。法の下であなたは更生するのです」
軽口を叩きあうが、ずるずる戦闘を長引かせれば、不利なのはこちらだ。庁舎からはかなり移動しているが、帝都中の警察が動き出しているのは間違いない。包囲網が厚くなるほど、逃走の障害は大きくなる。
昴は地面に亀裂が走るほどの衝撃を足元に残し、大きく跳んだ。八双跳びのように自動車の流れる道路を超え、二十人殻へと刀を振り下ろす。
向かう先の彼は両手の皮手袋を見下ろし、勝負に出ることを決意した。
両足を中国拳法の震脚のごとく叩きつけ、なんと両手で昴の剣を白羽取りしたのである。
「――な!? 馬鹿ね!!」
胴を切り裂くはずの一撃を止められて瞠目するが、昴からすれば大した問題ではない。このまま剣を握る両手から高圧電流を流せば、それだけで昏倒させられるからだ。
「眠りなさい! コソ泥君!」
勝利を確信したらしい昴の笑みが、飛鳥の瞳に映る。
しかし紫電の煌きは、彼女の手から刀身へと渡った後、白羽取りした彼の両の手で止まってしまった。
「――な!?」
「悪いな! 隙ありだ!」
昴が驚いた隙に、握りこんだ両手で刀身を捻り、剣の柄を胴へと叩きつけた。
日本刀を介した高圧電流を止めたのは、飛鳥の手袋にあった。合成繊維はもともと高い電気絶縁性を誇るが、さらに彼は四代元素魔術である「土」元素の魔術を付与していた。固体的状態・安定を司る土元素は、揮発性を意味する風、そして運動を示す火の効力とは真逆の性質を持つ。
化学繊維の絶縁耐力、元素魔術の構造固定。この二つを合わせることで、物質間の電子の移動を食い止め、格上の魔術である昴の雷撃を防いだのだ。
「――ぐ!?」
不意を突いた一撃に柄を握る手が緩み、飛鳥は昴から刀を奪い取った。さらに空いた間合いに踏み込んで、強烈な回し蹴りを見舞う。
昴は間一髪のところで腕で防御したが、衝撃を殺しきれず大きく後退する。
(徒手空拳ではこちらが上回っている。このまま押し切る!)
奪取した刀を投げ捨て、視界の先で苦悶を浮かべる昴を追撃する。あらん限りの力で地面を蹴り、一気に距離を詰め、彼女の鳩尾に強烈な一撃を叩きこもうと構えた。
彼女は苦し紛れか、カウンターを狙うように正拳を繰り出す。だが下半身がふらついた状態での一撃など、容易に見切れた。
最小限の動きで拳を右に躱し、そのまま上体の捻りを利用して抜き手を放つ。
今度こそ、この麗しい好敵手を地に沈める、そのはずだった。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴が、口から零れ落ちた。呼吸の乱れがまず意識に上り、次いで肺に攻撃を受けたのだと理解できた。
正体不明の反撃を受け、反射的に距離を取る。紙一重で避けたはずだが、隠し武器か何かにやられたのか?
飛鳥は鈍痛の残る胸元に触れるが、衣服に目立った損傷は確認できなかった。ナイフや桐での斬撃ではない。小口径の拳銃というのもあり得ず、雷撃による熱傷も見られない。
(魔術による攻撃。それも事前調査にない未知の術式か?)
予想外の反撃を受けた飛鳥は、魔術の痕跡を探るように昴を見やった。
彼女は肩で息をしているものの、戦闘に影響はなさそうである。それ以上のことは分からず、魔法陣や魔術痕も見当たらない。
正体不明の術に思いを巡らせていると、昴の方から声が上がった。
「どうやら一矢報いることが出来たようね」
「奥の手は最後まで取っておくと言うが、一体どういう術式を使ったのかな?」
「さあ? 当ててごらんなさい」
挑発的な物言いの昴は両手を突き出し、素手で戦う構えを見せた。
触れることなく攻撃を加えたという事実から、飛鳥は呪術の類を疑った。
呪術は太古の時勢から用いられた原初魔術であり、離れた人物を呪い殺すというのは有名な話だ。距離や場所を選ばず正確に対象者に危害を加える点から、疑うのは自然な話だった。
飛鳥は機先を制すため先に動き出し、ホルスターに収めていた拳銃を再度発砲した。弾丸は突っ込んでくる昴へと着弾するが、例外なく体表面の魔術障壁によって防がれてしまう。
勢いを削がれることなく接近した昴は、お返しと言わんばかりに跳び蹴りを放つ。
先ほどよりも大きく回避するが、今度は左腕に衝撃が走り、骨を軋ませるような鈍痛が襲う。
不利を悟った彼は、背後にそびえたつ建物の屋上へ跳んだ。
(呪術というのは尤もらしい答えだが、現状では条件が不足している)
飛鳥は二度の攻防を経て、呪術という可能性を捨て去るに至った。
呪術の行使には厳正なルールが存在し、流派によって差異はあるが、いかなる場合でも呪いの方向を定める印が必要だからだ。例えば髪の毛、爪など対象を象っていた物、他にも効果を強めるための鏡、藁人形などがこれにあたる。
(呪具の類は発見できない。条件が整っているとすると、肉弾戦に持ち込んでいるのは不可解だ。距離・障害物を無視できるなら、近接戦闘が成立しているはずがない)
よって彼女の魔術は、射程距離の存在しない呪術ではなく、範囲の限られた戦闘用の術式だろうと予測を立てる。そしてその正体を戦闘中に割り出すのは難しい、と判断した。
最優先事項は盗み出したリストを持ち帰ることだ。この場は負けを認める他ない。
特に悔しがることもなく、淡々とその結論を導き出した。
(そうと決まれば、サクッと逃げるとしますか)
逃走すると決めるや否や、彼は一気にペースを速めて帝都の街を駆け始めた。
熾烈な攻防を繰り広げていた敵が、突如この場から逃げ出し始めたと分かり、昴はやや驚いたような顔を見せた。
「待ちなさい! 逃げるなんて、プライドはないの!?」
「面白いものを見せてもらった。またお会いしましょう」
「ふざけるな! 逃がすわけないでしょう!」
鬼の形相で昴が背後から追いかけてくる。鍛え上げた身体能力に加え、肉体強化の術式も行使しているが、撒くのはかなり厳しそうだ。夜間であれば暗闇に紛れられるが、日中の街中となるとそれは難しい。
こうなれば気は進まないが、奥の手を使う他ない。
飛鳥はポケットに手を忍ばせ、携行していた懐中時計のりゅうずを押す。そして屋根伝いを走りながら大きく息を吸い込み、精神を集中させる。
「――我ガ身ハ掛目ヲ忘却シ、雷鳴ノ如ク疾走スル」
自己に働きかけるように、ゆっくりと一文字一文字噛みしめるように言葉を紡ぐ。精神が変性意識状態へと移行し、意識の半分が夢の中に墜ちる。
すると仰々しい文言のとおり、体が重力の糸から解き放たれたように軽く、そして両脚が稲妻を思わせるように地を破壊しながら駆け始めた。
「ちょ!? どういうこと――」
アクセルを踏み抜いた暴走車両の如く、飛鳥は昴を突き放す。耳に届く彼女の声はドップラー効果に従って変化し、やがて掻き消えた。
建造物の屋根を盛大に蹴散らかしながら爆走し、彼は日本橋の近くにまでやって来た。
吹き出る汗を拭い、ポケットから懐中時計を取り出して時間を見る。長針と短針の他に、もう一本動きのない針があり、それは「六時」を指していた。
「これ以上はドクターストップだな。あとでエミリアちゃんに万能薬もどきを貰わないと……」
一分にも満たない短い爆走だったが、肉体への負荷は相当なものだった。心臓は爆発寸前といった具合で、肺はナイフで切り裂かれたような痛みが走っている。煉瓦や屋根を蹴り飛ばした両脚は雷に打たれたように痺れ、もう一度同じ芸当は無理そうだった。
飛鳥は荒い呼吸を抑えながら、五階建ての建物の屋上から周りを見渡す。当時は高層建築がそれほど多くなかったため、五~六階から身を乗り出せば帝都を一望することができ、天気が良ければ富士山すら見えるほどだった。
断髪したモダンガールやスーツ姿の紳士が目立つ往来に、慌ただしく走り回る警察官の姿が複数見える。目立った分、探索の手もかなり早い。おそらく今の自分の風貌――似非警察官を探し回っている。逃走するならば今一度、衣服を変える必要があるだろう。
すると視界に日本橋名物たる三越デパートが映った。あそこならば衣服も潤沢にある上、人ごみに紛れることもできる。
飛鳥は建物の隙間から静かに降り、雑踏に身を任せてデパートへと入った。
三越デパートは日本初のデパートで、現代人は驚くだろうが、一九一四年の改装でエスカレーターが導入されたほど、最先端技術を注ぎ込んだ名所なのである。
『今日は帝劇、明日は三越』という名文句に偽りなく、館内は人でごった返していた。玄関のライオン像を横目に、飛鳥は階段を使ってフロアを上がっていく。警官の格好という事で少々人目を引いたが、構わず衣料品が売られている区画へと移った。
早歩きでフロアを巡り、変装に使えそうなスーツや山高帽子を拾い上げ、試着室へと急ぐ。
するとピーッと警笛を鳴らす音が階下から聞こえた。吹き抜けから一階を見下ろすと、多数の警官隊と明智昴の姿が確認できる。出入口を固め、一人一人身元を確認しようという腹積もりらしく、一般客が出ていくのを手で制している。
「相変わらず動きに無駄がないな。モテる男は辛いね」
自嘲するようなセリフを吐いて、飛鳥は試着室へ入った。ものの十秒足らずで着替え、眼鏡や制服などをゴミ箱へと突っ込む。
試着室を後にし、上着から再び南部式小型自動拳銃を取り出した彼は、周囲の目が集まる中、派手な発砲音とともにフロアの照明を撃ち抜いた。
「全員外へ出ろ! さもなければ体に風穴が空くぞ!」
引き金を何度も絞り、ガラスや灯具が破壊されるたびに悲鳴が響く。客達は我先にと争うようにして階下へ走り、彼はそれを煽るようにして発砲を繰り返した。
マガジンを空にした所で拳銃を投げ捨て、帽子を被り、逃げ惑う人ごみに紛れて一階へと向かう。
階下へ降りると、警官達と昴が客を館内に留めようと必死に声を上げていた。
「皆さん落ち着いて下さい! 外へ出ないでください!」
昴や警官達が道を塞ごうとするが、迫る客達から怒号が飛んだ。
「ふざけんな! 銃を振り回しているヤツが居るんだぞ! 早く外に出せ!」
「そうだ! まずは客の安全確保が優先だろうが!」
必死の説得は意味をなさず、十人そこらの警官隊を押しのけて、千人近くいた客が一斉に外へ躍り出た。警官たちは成すすべもなく、人だかりの中に似非警官を探すしかない。
飛鳥は警官たちを尻目に、来るときに見かけたライオン像のすぐ傍を通る。玄関を潜る際、悔しそうに歯ぎしりする昴を発見し、ほくそ笑んだ。
(残念だったな。追いかけっこで二十人殻に勝てるわけがないだろう)
飛鳥はリストを書き込んだ冊子を大事に抱え、喧騒を後にした。