プロローグ
時は現代から遡ること百年近く、大正から昭和にかけた当世風時代。
欧米列強による異大陸進出と世界大戦。押し寄せる大波の煽りを受ける形で日本――その中心たる江戸は、帝都東京へと名を変えることになった。
明治に引き起こされた文明開化は、街並みに加えて人々の生活を大きく変貌させた。文化住宅と呼ばれる洋風建築が犇めきあい、エキゾチックな洋装を着こなすモダンガールが街を歩き、黒塗りのフォードや路面電車は珍しい物ではなくなった。そして急成長する経済の裏で、浮浪者や犯罪者の跋扈、過激な反社会思想、特高警察による言論統制、都市伝説や怪談めいた噂が行き交う等々、言葉で表そうとすればきりがない有様だ。
ようは光と闇が入り混じり不安と期待が人々の胸中に蠢く、そんな時代の話である。
****
月が美しく輝く晩、帝都の片隅である大捕り物が行われようとしていた。
「果たしてヤツは現れるだろうか? 明智君、どう思う?」
「中村警部、彼がこの場に現れるのは間違いありませんよ。これまで一度として予告状を蔑ろにしたことはなかった。そもそも怪盗というのは、盗むまでの過程に美学があると考える人種なのですから」
中村警部と呼ばれたスーツ姿の男性に答えたのは、彼とは似つかわしくない少女のものだった。明智と呼ばれた少女の出で立ちは、上から鹿撃ち帽、紳士服、インバネスコート、革靴という女性らしからぬ恰好で、探偵小説の主人公を思わせる風貌である。
「ふむ、理解できないなあ。私ならこっそりと盗みに入るものだが。あ、いや疑うわけではないよ。名探偵と呼ばれる君がそう言うのなら、それが正しいのだろう」
警部が口元の髭に触れながら言うと、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。
少女の名は明智昴。帝都で探偵業を行っている人物で、一見すると美少年に見えなくもないが、紛れもない女性だ。名探偵などと評されたが、実の所まだ成人も迎えていない一八歳。当時の言葉を借りれば『恋よ夢よ』と青春を謳歌する年齢に当たる。
そんな場違いとも言える妙齢の昴は、ある人物と対決するために帝都の美術館にやって来ていた。合理性と機能性を追求したアール・デコ様式に則った白塗りの美術館は、ヨーロッパの豪奢なビルディングを想起させる。窓の外を見ると、数十人単位の警官が、警棒と懐中電灯を持ち、何かがやって来るのを今か今かと待ち構えている。
中央展示室にいる昴は、彼らを束ねる警視庁の刑事たる中村宗次と共に、ガラスケースに収められた首飾りの警護に従事していた。
警部はケース越しに首飾りに目をやり、宝石の輝きに感嘆の声を漏らした。
「しかしヤツはどこから現れるんだろうか? ケースは頑丈で、首飾りを取り出すには工具が必要だし、警備は厳重で鼠一匹通さない程だ」
「警部、二十人殻はただの怪盗ではありません。人を欺く術だけでなく、魔術の心得まで持ち合わせている。『有り得ない』『出来っこない』、その思い込みを覆すのが彼なのですから、油断は禁物です」
二十人殻。それが先日美術館に予告状を送り付け、『首飾りを頂きに参上する』と宣言した怪盗の名である。神出鬼没、変幻自在、十では足りないほどの顔と名を騙る、稀代の大盗賊。これらは帝都の各新聞社が与えた謳い文句で、それを裏付けるように彼は幾度となく警察の包囲網を破り、宝石や美術品を盗み去っている。
昴が警部に苦言を呈すと、警部は『冗談ではない』と声を上げた。
「これまで警察は何度も二十人殻に手玉に取られてきた。油断なんてとんでもない話だよ。私なんて警視庁では肩身が狭い上、休暇の予定だってヤツの所為でパーさ」
「そ、そうですか。それはお気の毒に」
「ああ、考えただけで苛々してしまう! 今頃は列車に乗って熱海に向かい、愛する妻と娘とともに家族三人水入らずの時間を過ごせるはずだったのに……」
盛大な溜息と共に中村警部は肩を落としてしまった。どうも余計な事を口走ったらしく、昴は少し後悔した。
「君の事は頼りにしているよ。今日こそあの憎っくき悪党を懲らしめ、その両手に手錠を掛けてやろうじゃないか」
頭を振って威勢を取り戻した警部に対し、昴は力強く頷く。
間もなく予告状に書かれた時刻となる。
室内の警官達も緊張し始めたのか目を泳がせ、警部の額にも薄っすらと汗が滲んでいるのが分かる。昴自身も鹿撃ち帽を深く被り、賊の出現をただ待つのみである。
すると照明が蝋燭の火のようにフッと消え、視界が闇に迷い込んだ。
「山崎と佐藤の二人は電気室を見て来い! 他の者はその場に留まって指示を待て!」
どよめきが支配する前に警部の声が通り、警官隊は統率を失うことなく警備を続ける。
照明が落ちたという異常。二十人殻が近くに迫っているのは明らかだ。昴は冷静に目を暗闇に慣らせることに努め、同時に魔力を練り上げて強襲に備える。
肉体の感覚が鋭敏になるにつれて、昴はふと気づいた。外界からの侵入を防ぐため閉め切っていたはずの館内に、そよ風が流れていることにだ。
肌に触れる冷気を辿って行くと、奥にある両開きの窓が開け放たれていた。
カーテンが風で揺らめくその傍に、警官とは明らかに違う、黒づくめの人影が立っている。
「御機嫌よう、警察諸君。そして名探偵、明智昴君」
男の声だった。届いた声はすぐ隣から発せられたような、ともすれば壁を隔てた先から聞こえたかのような、所在のつかめない摩訶不可思議なものだった。認識阻害の魔術が行使され、正体を見抜くことを困難にしているのだと昴は理解した。
「ようこそ二十人殻。随分と趣向を凝らした登場ではないかしら?」
魔力を眼球に込めて影を見据えると、実体が朧げに見え始めた。
紳士帽に鳶マントを纏い、その姿はカラスのように漆黒に染まっている。最も特徴的なのは、黒とは対照的な白い仮面。両目と口の部分だけが血のように紅く、不気味な笑みを浮かべたペルソナである。
仮面を被った怪盗は、奇妙な笑い声を漏らした。
「当然さ。麗しの昴嬢に迎えて頂けるなど、まさに恐悦至極。美しい女性に追いかけられるなんて、男冥利に尽きるというものじゃないか。私が宝石や美術品を盗むのも、美女に相手にされない腹いせのようなものなのだ」
「ご立派な動機ですこと。だけど私、盗人風情に心躍るような性分ではないの」
「これは手厳しい。であるなら首飾りは持ち去るほかありませんな」
飄々とした物言いの二十人殻は、黒マントの内からあるものを取り出した。
賊の手中に収められたものを見て、警部は素っ頓狂な声を上げた。
「な!? く、首飾りが、なぜお前がそれを!?」
先ほどまでケースに守られていたはずの首飾り。それを二十人殻が手に提げているのを見て、警部は度肝を抜かれる。
昴はすぐさまガラスケースに懐中電灯を向け、中を確認する。
見ると首飾りは変わらず内部に鎮座していた。こじ開けたり、穴があけられた様子は見当たらない。
「すでに本物と偽物をすり替えさせてもらった。私は変装の名人だからね。首飾りに触れる機会のある人間に化ければ、赤子の手を捻るよう簡単にできたよ」
「すり替えた!? ちょ、ちょっと待て! なら予告した時刻よりもずっと先に、首飾りを手に入れていたのか!? 予告状を出したのに……ひ、卑怯じゃないか、そんなの!!」
怪盗に対して卑怯も糞もあったものだろうか、と昴は思ったが口には出さない。
だが疑問はあった。すり替えは変装すれば可能かもしれない。だが一時間前に首飾りの真贋は館長に確認してもらったばかり。それに魔術で化けていないか確認した上、以降首飾りはずっとケースの中にあった。
二十人殻は警部の言葉に盛大な嘲笑で返した。
「中村警部。定刻通り私は姿を現したではありませんか? 奇術というのはタネも仕掛けもあるし、存外地味なものです。だがそれは演出で誤魔化せる。今このように参上し、あなたがた警察の包囲網を破って逃げおおせる――素晴らしい演出でしょう?」
逃走を図るという言葉を聞き、警官達はホルスターから拳銃を引き抜いた。
銃口をいくつも向けられるが、当の二十人殻は気にも留めない。
「ではそろそろ幕引きですな。それでは皆さん、また会いましょう」
旧友に別れを告げるような素振りの後、賊は懐から一枚の紙を引き出した。
北欧に伝わるルーン文字――アルファベットのKが刻まれた羊皮紙が、凄まじい光を放って燃え始めた。火や松明を示すKのルーンにより、室内は暗闇から一転して光に包まれ、警官達はあまりの光量に怯んでしまう。
彼らが昏倒していると、窓ガラスの割れる音が響き渡った。
一足早く視界を復帰させた昴は、蹴り破られた窓から身を乗り出す。破片の落ちた真下、そこに二十人殻の姿は発見できない。飛行魔術を使ったのかと疑い空を仰ぐが、闇夜に浮かぶ月の美しさが目立つばかりだ。
「クソ!! 外に逃げたか!? 数人をこの場に残して全員外に出ろ!! 奴を絶対に逃がすなよ!! 逃がしたら全員減給処分だ!!」
中村警部の怒号に警官達は我先にと階段を下っていく。外の警備をしていたチームも懐中電灯を絶えず振り回し、盗賊の姿を探し回る。
本当に二十人殻は逃げたのだろうか。視界を奪われたのはほんの一瞬。そのわずかな間にこの美術館の敷地外へ脱出するなど、果たして可能だろうか。転移や飛行魔術を行使すれば、魔力の波動か魔術痕を見つけられるが、それすらも感じられない。
昴は粛々と考えながら、ガラスケースに収められた偽物の首飾りを眺める。
「館長を別室から呼んできてください。これが偽物か確かめてもらいます」
了承した警部は、別室に退避していた館長を連れてこさせた。
部下が工具を使ってケースを解体し、静置されていた首飾りを館長に渡す。
彼は緊張を落ち着けるように数度深呼吸したあと、丹念に装飾や宝石に視線を向ける。
「こ、これは先ほど見た物とは違います!! 偽物です!!」
館長の悲鳴にも近い回答に、警部は両手で頭を掻き乱した。
「おのれええええ、全員周辺を隈なく探索しろ!! 何としても二十人殻を捕えろ!! 私も外に出る!!」
「待ってください!!」
焦りが最高潮に達した警部とは対照的に、昴は冷静な口調でそう言った。
「警部、落ち着いて考えて下さい。ついさっき首飾りは本物だと確認し、頑丈なケースに入れて警護していた。首飾りがすり替えられるなど有り得ません」
「何言ってるんだ!? 事実こうして偽物とすり替えられているじゃないか!? ヤツは魔術とやらにも精通しているんだろう? 完璧な変装も出来るし、ケースを壊さなくても触れる手段があったかもしれない!」
「このケースは魔術障壁を施していますから、いかなる魔術も受け付けません。万一障壁が壊されても、私には分かるようになっています」
興奮しっぱなしの警部を宥めるように昴は話す。彼女の言うように首飾りをすり替えるのは不可能なのだ。それは動きようのない事実。だが現実、首飾りは偽物へと変貌した。この食い違いは一体何ゆえに起きたものなのか、それが重要だ。
昴はゆっくりと視線を初老の館長へと向ける。
「館長、これは本物に間違いないのです。奪われることなどなかったのですから、本物でなければおかしい。だと言うのにあなたはこれが偽物だと言う。どういうことですか?」
「そんな!! 私はただ首飾りを確認して、偽物だと判断しただけです。すり替えられた責任はあなた方にあるでしょう!!」
自分にあらぬ批判が向けられたと知り、館長はあわあわと怯え始めた。
「明智君。館長はこの道のプロだし、つい先ほど真贋を確認してもらったばかりだ。彼の発言を疑うのは流石にどうかと思うぞ? そりゃ私もすり替えられたとは思いたくないが」
中村警部には、昴が非を認めず館長を咎めていると映ったようである。しかし彼女が言いたいのはそういう事ではない。
ブルブルと震え、今にも逃げ出しそうな館長の腕を掴み、鋭い目で射抜く。
「あなたが先ほどまで退避していたのはご自分の書斎でしたね。扉は警官が見張っていましたが、確かあの部屋には窓がありましたよね?」
「え?」
窓という言葉を聞いて、中村警部は先ほど盛大に破壊された両開きの窓を見やった。二十人殻はあそこから逃走を図り、行方知れずになった。
だがもし向かった先が敷地外や空ではなく、館内なのだとしたら話は変わる。
「二十人殻は窓から飛び出した後、屋根へ昇ることで姿をくらました。外を必死で探す我々を尻目に屋根から壁伝いに降りて、館長が退避していた部屋へ窓から侵入した。偽物だと宣言された以上、我々は館長に首飾りの真贋を確かめてもらわなければなりません。――それこそが狙いだった」
「じゃ、じゃあこの館長は!?」
警部が館長に視線を移すと、彼は口が裂けんばかりの笑みを浮かべた。まるで道化のように真っ白な仮面、二十人殻のシンボルが浮かび上がったかのようだった。
瞬間、室内に光りが迸った。先ほどの熱線混じりの光ではなく、まるで雷が落ちたかのように地鳴りと紫電が走る。
放電による光と音に警部が悲鳴を上げる中、いがみ合っていた昴と老人はそれぞれ正反対へ弾け飛んだ。
レールのように焦げ付いた床の先で、昴はすぐさま体勢を立て直す。
「また会ったわね、二十人殻。消し炭になる前に逃げたのは褒めてあげる」
吹き飛ばされた片割れを見据えると、かの大盗賊の姿があった。苦悶の声を漏らし、見ると羽がもがれたように片腕が焼けただれていた。熱傷と痙攣を繰り返すその様は、感電したときの症状に近い。
「これは、キツイ一撃を貰ったな。意識が飛ぶところだった」
掠れた声音から判断するに、相当な深手を負わせたようだ。だが想定したよりは効果が薄い。どうにもあの黒い鳶マントには対魔力の術式が縫い込まれていたようである。
「観念したらどうかしら? その疲労困憊な姿を見るに、歩くことすら難しい。これでは我々から逃げるのは不可能でしょう」
昴は油断することなくコートの下に隠した日本刀を抜き去り、踏み込めるよう低く構えた。二十人殻との間合いは10メートル近くあるが、彼女ならば一度の跳躍で埋められる。
「不可能か、それは果たしてどうかな?」
二十人殻は頭を振り、小さく何かを呟いた。昴には何と言ったか聞こえなかったが、どうも何かの呪文らしい。
反撃の暇を与えるべきでないと判断した彼女は、深く踏み込んだ後、大きく跳躍した。千鳥が囀るような音、紫電が刀身に絡みつき、一気に二十人殻へと迫る。
「私にとって不可能とは、どんな物よりも価値のある宝なのだ!!」
触れれば昏倒を免れない剣閃を、二十人殻は上体を捻ることで躱す。
その様に昴は瞠目した。紙一重で斬撃の軌道から逃れ、負傷を物ともせず十全に肉体を動かす敵にだ。負傷したというのに、この妙技は一体どういうことか。
剣の勢いそのままに体が窓際へと流れる。床に着地した瞬間、反撃を感知した昴は、振り返りざまに剣の腹でそれを防いだ。
「――ぐ!?」
お返しと言わんばかりに繰り出されたのは、恐るべき練度を誇る正拳だった。それも焼けただれ、箸を掴むことすら困難だと思われた拳から、空気を切り裂くような絶技が繰り出されたのである。
人間の筋力を超えた、恐らく魔術で強化された一撃によって、昴は窓の外にまで吹き飛ばされてしまう。破片が舞う中で身を翻し、美術館の壮観を成す庭園へと身を落とす。
足から上手く降り立った彼女は、剣を構え直して追撃を警戒する。自分を放り出した窓辺を見るが、敵が出てくる様子はない。
下半身と足裏に耐衝撃と筋力強化魔術を行使し、弾丸のように再度館内へ舞い戻る。待ち伏せを警戒し、別の窓を荒々しく破壊した彼女は、室内へと勢いよく飛び込む。
素早く辺りを見渡すが、尻餅をついた中村警部以外に気配は感じられない。
「逃げられた、か」
昴は宿敵の逃亡を許してしまったことを理解し、盛大な溜息を洩らした。これ以上は追いかけても徒労に終わるだろう。かの賊は逃げることにかけては自分の上を行くと、これまで数度のやり取りで分かっているからだ。
昴は壁にもたれ掛かり、コートのポケットから首飾りを取り出した。
贋作という濡れ衣を着せられてしまった正真正銘の本物。初撃で決められなかった原因の一つは、これを取り返すことに気を割いたからだ。あのずる賢い盗人はそこまで分かっていたからこそ、手放したのかもしれないが。
そんなことを考えていると、体裁を整えた中村警部が笑顔で近寄ってきた。
「ああ、良かった明智君。無事に首飾りは取り返してくれたんだね。これで世間の連中に馬鹿にされずに済むよ」
「ええ、ですが彼には逃げられてしまいました。申し訳ないです」
「いやいいんだよ、君が居なければまたしても苦汁を舐めるところだった。それと本物の館長なんだが、無事みたいだ。縄で縛られて書斎の机の下に押し込まれていたらしい」
まあそんな所だろうと昴は思った。あの怪盗はやたら盗みの美学というものを好む。やれ一般人には危害を加えないだの、盗品は堪能したら返却するだの、自分の出した予告状を厳守するなどがそれに当たる。
ガラスの破片が散らばった窓辺に視線を落とすと、焼き焦げた手袋を発見した。おそらく二十人殻の物であろうそれを拾い上げ、まじまじと観察する。血が付着し所々炭化しているのを見ると、先ほどの離れ業がますます不可解なものに思える。謎は深まるばかりだ。
「まあ無事に首飾りは守り切ったから、今日はこの辺にしとくか」
楽しみは後にとっておくことにしよう。あの馬鹿げた盗人の正体を知るのはもう少し先になっても別に構わない。いずれは自分が捕まえる。
世間では稀代の大盗賊と持て囃されているが、仮面の下はどんな悪党面をしているのか分かったものではない。帝都の人々はあの仮面と仰々しい言動に騙されている。どれだけ取り繕った所で相手は犯罪者であり、正体を偽る嘘つきに他ならない。
探偵明智昴が対峙している敵は、ただの詐欺師以外の何者でもないのだ。