序之舞
…………ゴオオ――――――――ンンン――――――――ンンン………………。
等間隔に響くその根深く哀しい音色を聞くともなく聞いていた。
……どうやら遠くで鐘のような物が鳴っているようだ。
その余韻を耳の穴に刻んでいくうちに……うつらうつらしていた意識がゆっくりハッキリしてくる。それにつれて、鐘の音だけでなくカエルや鈴虫の鳴き声も聞こえてきた。
私はウトウト眼を開けたが、真っ暗で何も見えない。
うつ伏せになっている頭を持ち上げ、寝ぼけ眼をいっぱいに開いて見回すと、どうやら自分は部屋の中央で大の字になって寝ていたらしい。そう考える間に全身を刺すようなひどい痛みを感じた。
ビックリして身体をまさぐるもどこかを怪我している気色がない……。しかし、フツフツとつんざくその痛みが容赦なく五臓六腑を襲う。スルメのごとくのた打ち回り、臓腑の底から煮詰められていくような奇妙な感覚が攻め立て――――次第に痛みは治まってゆき、ピリピリした痛みを最後にしびれた身体は平常を取り戻した。
滝を浴びたように全身がしとしとと濡れゆく、その汗が石床の隙間を縫って広がっていった。
痛みのおかげで眼も冴えてきたようだが、いまだにぼやけ、霞みがかっている。
ひどく疲れた身体を翻し、もう一度あたりを見やると、赤煉瓦らしきものが四方の壁に敷き詰められた四畳半程度の部屋にいることがわかった。天井には埃を笠にした裸の電球がぶら下がり、入り口とおぼしき扉とその真向かいには小さな観音開きの扉があるのみ、他にこれといったものは…………どうやら手に何かを握っている。……一見して球を打つ卓球道具のようなものに見えたそれは、表面を触ってみると硬く冷たい。手鏡か何かのようだが、よほど大切なものなのかしっかりと握って離さない。
何とはなしに鏡を覗こうとしたが、怖ろしくなって覗くのをためらってしまった……。
…………わたしはいま、おそろしいと言ったか……。
いったい何がおそろしいというのか…………。
……はて……おかしいぞ…………。
わたしを取り巻くこの状況もおかしいが……。
……おそろしいと言ったおまえはいったい……誰なのだ……。
我に返ろうと目を瞑ってみても、たったいま鐘の音で目を覚ましたという記憶の他には何も無い……。名前も……過去も……思い出せないというのではない……原始からもぬけの殻の如く、よもや自分というものが存在しない生まれたての赤ん坊のように……。
……しかし、そんな摩訶不思議なことがあろうか……。
緊張で顔が強ばり、生唾が口の中にグワッと溢れ出す。そんな記憶がわたしの人生であるという事実を認識すると同時に、藪から棒に大声で叫ぶ者があった。
そのしゃがれた声は言葉にもならず、息がヒューヒュー漏れるのも厭わずに全霊を持ってして外界へと助けを求めていた。ワタシを知る人物にすがれば、自分の過去を思い出せるかもしれないとでも思ったのであろうか……。四方の壁に反響し澱んだその声は自らの過去を落とし込めるのに十分であった。ワタシでさえ知らないワタシの声がワタシを囲み、静かに木魂し消え去っていったのだ……。
そんな静寂のなかでポカンと口をあんぐりしていると、握っていた手鏡を思い出した。
グッと唾液を呑み込んで、伏し目がちにワタシはそおっと、鏡をのぞき見た――――。
そこに映った自分の姿があまりにも若いことに驚いた。てっきり三〇代ぐらいかと思っていたが、二〇歳くらいの学生風の若造であったのだ……。
…………………………………
……………………
……もはや立ち上がる力すら無い。そこにはやはり自分ではない自分がいるばかりで、途方もない慟哭が四畳半を再び包んでいた……。明滅する意識と意識とをとんぼ返りするかのようにぐったりと、そのまま無意識の狭間へと落ち帰っていった…………。
……フッ……ハッハッハ……なあんだ、そうかそうだったのか……
こんな可笑しなことがあるものか、先刻までのワタシはどうかしていたのだ。
そうかそうかこれは為てやられた。何度かこんな感覚を味わっていたような気もする。
夢の中で目を覚ましてしまったらこんな感じではなかったか。どうだ、そうだろう。
はて、どうやってこの『夢』から抜けだそうものか――――。