禍々しき裂唇
暗闇に包まれた住宅街の夜道を行くひとりの少女。
ランドセルを背負っている所から、小学生と判断出来る。
「すっかり遅くなっちゃった…ママ、心配してるかな…」
この少女は3つも塾を掛け持ちしている為、家路に着く頃にはいつも夜になってしまうのだ。
毎日のように通っている道の為、今日も何事もなく帰宅出来ると彼女は思っていた。というより、何か起こるなどとは考えもしなかったというのが妥当かもしれない。
だが、今日は何かが違う。幼いながらに少女は違和感を感じ取っていた…
彼女の前方から歩いてくる人影。
街灯に照らされたその姿は、黄色いシミのついた赤いワンピースに腰まで伸びた長い黒髪、顔の下半分を覆い尽くす程の大きなマスクを着けた不気味な女だった。
『ねえ…ワタシ…キレイ?』
少女の行く手を阻むように目の前に立ち塞がる女が、少女に問う。
その格好を識別した少女は戦慄した。
ワンピースの赤色は、元々の生地色ではなく…血だった。シミに見えたのはワンピースの本来の色。
その瞬間、少女は悟った。この女は危険だ、と。
『ワタシ、キレイ?って訊いてんのよ…!
答えなさいよっ‼︎』
急に逆上した女が怯える少女に突きつけたのは、刃渡り30㎝はあろうかという大型のハサミ。
一見赤いハサミに見えるが、もちろんその赤色も血である。
「……っっ‼︎」
恐怖のあまり声も出ない少女は震えながら頷く。
女は目尻を下げ、マスクを取ると…
こめかみ辺りまで裂けた大きな口が露わになり、少女をさらに凍てつかせる。
『そう…キレイなのね…じゃあアナタもワタシみたいに、キレイにしてアゲル…』
いきなり少女の首根っこを掴む女。少女は必死に逃れようとするが、凄まじい腕力に全く抵抗できなかった。
そして女は蒼白の瞳を見開き、高々とハサミを振り上げ…
夜の住宅街に、悲痛な叫び声が響き渡る ーー
一日の最後の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響き、生徒達の殆どが各々の部活へと向かう中…
小冬は小さく溜め息を吐き、鞄に教科書等を詰め込んでいく。
「ガラコ見ーっけ!」
子どもみたいなはしゃぎ声を出して駆け寄ってくるのはプスコもとい琴羽。
「あ…プスコ、さん」
「ちょっ、なんで『さん』がつくの?そういうのはナシナシ!気楽にいこうよ!
それに常にプスコって呼ばれていたら、ガラコちゃんがあの状態になった時に変に動揺しなくて済むしさ」
「?あの状態って、何ですか?」
キョトンとして首を傾げる小冬。彼女の思わぬ反応に琴羽は一瞬言葉を失う。
「ホラ、二丁目にいたあの時のガラコじゃない!
なんか女王様みたいでカッコよかったよ!悪霊はあっと言う間にやっつけちゃうし、私の事は呼び捨てにしてたし」
最後の一言はいらなかったかなとも思ったが、なんとなく言わずにはいられなかった。
「う〜ん、二丁目には最近行った憶えは無いんですが…
何かの間違いでは?」
「え?そんな…あれは確かにガラコだったよ!」
二丁目にいた、行ってないの押し問答が暫く続き…
ついに琴羽の方から折れる。
「そうなの、私の勘違いか…」
「ごめんなさい。本当に記憶が無いんです…
もっと言うと学校を出てから家に着くまでの記憶が全く無いんです…こんなの変ですよね?」
なぜ?琴羽の脳裏に浮かんだ言葉。
あの時の小冬らしき人物は、悪霊に取り憑かれてたわけではない。その証に目は真っ白になっていなかった。
なのに、先の好美の時みたいに記憶を無くしてしまっているなど不自然過ぎる。
琴羽の頭から疑問符が消える事は無かった。
「ねえねえ、聞いた?五丁目でまた小学生が殺されたらしいよ」
「うん、口を横に切り裂かれて失血性ショック死なんだって…まだ小さいのに、ホント可哀想…」
廊下を歩く女子生徒達の話し声に聞き耳を立てる琴羽、そして再び小冬に目線を戻す。
「何…?殺人事件でもあったの?」
「口裂け女。知ってる人は知っている、この辺りに出没する女通り魔です。昨夜、また被害者が出たみたいですが」
都市伝説では非力な児童しか狙わない悪逆非道な殺人鬼と噂には聞いた事はあるが、その噂が社会現象になったのは1970年代で、まさか現代に姿を現わすとは思わなかった。
「妙な事に、現場にはその事件の被害者ではなく、その一つ前の事件の被害者が死んでるんです。口の両端を切り裂かれ、衣服は着ていない状態で…
そしてその時の被害者が次の事件発生時に死んでいる、と」
「何なのそれ…⁉︎意味がわからないっ」
頰に手を添え思案する琴羽に対し小冬はふうっと溜め息を吐き、ささっと鞄を抱えて教室を出て行こうとする。
琴羽はそんな彼女を追いかけようとするが。
「ごめんなさい。私、図書館で調べたい事があるので」
「え?調べ物ならここの図書室でいいんじゃ…」
「ここには無い文献だからこそ、わざわざ足を運ぶんですよ。それでは」
琴羽を振り切るように教室を出て行く小冬。
ひとり置いていかれた琴羽は暫く呆然とする…
「はあ…マジコは今日も用事だって言ってたし、ガラコにはフラれるし、またカフェはお預けかな」
虚しくぼやきながら、琴羽も教室を後にする…
そして、校門から出た直後。
「お仕事よ」
「わ゛⁉︎っっ」
急に背後から掛けられる声。驚いた琴羽が振り向くと、例の銀髪少女がお決まりの真顔で立っていた。
「だから、急に来ないでって言ってるでしょ⁉︎」
「言われた通り、学校には入ってないわよ?」
ガクンと肩を落とした琴羽が、人気のない路地に少女を誘導する。
「で、お仕事って?また悪霊が出たわけ?」
少女はこくりと頷き、ポケットから一枚の紙を取り出し琴羽に開いて見せる。
「……‼︎」
それはだらしなく伸ばした長い黒髪に、こめかみまで口が裂けた女のモンタージュだった。
「…こ、これって、あの?」
「察しがいいわね、今この地域を賑わせている『口裂け女』とかいう奴。
こいつの屠霊命令が出たの」
少女は紙を折りたたみポケットに入れる。
「命令って誰から?」
「もちろん、私より立場が上の者からよ。
この区域は私の管轄だから、この『口裂け女騒動』は私が収めないといけないの」
少女が再びポケットから紙を取り出し琴羽に手渡す。
今度は地図らしき図面が描かれていた。
「これは…?」
「口裂け女の目撃が多い場所の地図よ。他の場所よりも圧倒的に出やすいらしいの。
今夜8時からそこで張り込むわ‼︎」
少女は言い終わるや否や、踵を返して走り去っていってしまった。
「ちょっと…!ホントにあの口裂け女と戦わなきゃいけないの…⁉︎冗談やめてよ…!」
琴羽の嘆きも虚しく、時は残酷に流れ…
午後8時。地図に描かれた場所に到着した琴羽は、目立たないように電柱の側に立ち少女を待つ。
「何よ、言い出しっぺのあの子がなんでいないの?
私はちゃんと時間通りに来たのに…!」
愚痴を垂れる琴羽の背後に迫る人影。
「悪かったわね、私もやることが沢山あるの」
「ひっ⁉︎また後ろからっっ」
驚く琴羽に向かって、事務的な動きで屠刃を手渡す少女。
「ねえ、ガラコのことでひとつ訊きたいことがあるんだけど」
琴羽が周囲を警戒しながら少女に質問する。
「あの子さ、二丁目で屠霊した時の記憶が無いらしいのよ。別に悪霊に憑かれてたわけでもないのに、変よね?」
「何も人間に取り憑くのは悪霊だけに限った事じゃないわ」
「どゆこと?」
急に少女の顔を見る。その目はいつになく真剣だった。
「守護霊っていうのは聞いたことある?特定の人物に憑いていて、いざという時に護ってくれる霊の事。
これは悪霊とは違う、『善霊』と呼ばれる存在なの」
「それじゃ、ガラコの記憶が無い間はその守護霊とやらに意識を奪われているから?」
「その通り。よく聞く多重人格という現象は、この守護霊によるものという説もあるくらいよ」
少女がそこまで言い掛けた時、どこからともなく女のすすり泣く声が聞こえてくる。
「まさか…出たの⁉︎」
声の聞こえた場所へ駆け出して行く琴羽を少女が呼び止めようとするが、聞く耳持たず走り去ってしまった。
「まったく、なんで考えもせずにすぐに動き出すのかしら…まだ奴と決まったわけじゃないのに!」
少女は憤りながら、琴羽の後を追っていく…
琴羽がその場所に辿り着くと、黄色いワンピースを着た少女がこちらに背を向け踞り泣いていた。
「どうしたの?もしかして、迷子?」
心配して駆け寄る琴羽に少女は…
『ううん、違うの…口裂け女が…出たの』
「え⁉︎ど、どこに⁉︎」
彼女が急に立ち上がり、何かもぞもぞとした後 ーー
『ここにダヨ‼︎‼︎』
振り返りざまに刃渡り30㎝のハサミを琴羽に向かって突き出してきた!
琴羽は咄嗟に屠刃で受け止める。ギリギリと屠刃の刀身とハサミの刃がぶつかり合い、鈍い音を立てる。
とても子供のものとは思えない力だった為、押し返すのをやめて受け流し、素早く距離を取った。
「…これが、口裂け女⁉︎」
改めてその姿を確認した琴羽は驚愕した。
想像していたよりずっと背は低く、まるで小学生並みの背丈しかない。
しかも彼女の服の前面はほぼ真っ赤に染まり、黄色の部分はごく僅かだった。
そして、思わず鼻をつまみたくなるほどの異臭。
それは服に付着した血ではなく、何かが腐ったような臭いを放っていた。
『随分と反応が良いじゃナイ…アンタ、さては屠霊師ネ?』
「…だったら、どうだっていうの⁉︎」
『まあ、イイ…アンタはガキじゃないケド、我慢するワ!』
意味不明な台詞を吐き、ハサミを腰の辺りで構え琴羽目掛けて駆け出し ーー
直後に繰り出される刺突。開いたハサミを閉じながら突くので、触れれば間違いなくその身を裂かれるだろう。
琴羽は持ち前の動体視力を駆使し、口裂け女の連撃を紙一重で躱していくが…
「うっっ‼︎」
さすがに何人もの命を奪って来た殺人鬼。ついに琴羽の身体を捉え、服ごと脇腹を引き裂いた。
「ふ、深い…こんなのハサミレベルの切れ味じゃない!」
出血する脇腹を押さえ、屠刃の切っ先を女に向けながら後退する琴羽。
対する口裂け女は恍惚の表情を浮かべ、じわりじわりと距離を詰める。
『ウフフ…アンタも、キレイにしてアゲル…‼︎』
壁に背を打った琴羽に襲いかかる深紅の双刃…!
だが、その刃は琴羽には届かなかった。
2人の間に割って入った者…その人物がハサミを受け止めていたのだ。
琴羽の位置からは陰になっているため誰かの判別は出来ない。だが、身長からしてあの銀髪少女ではない。
「お生憎様。あんたなんかの世話にならなくても、プスコは充分キレイなんだよ‼︎」
顔は見えずとも、琴羽は声でわかった。
この人物が誰なのかを ーー
つづく