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第二章

 太陽は沈み、空には月が綺麗に浮かんでいる。五月の風が木々をすすり笑いさせるように吹く。

 綺麗な夜なのに僕はすることもなく、ただぼんやりと電気も点けずにリビングの椅子に座っていた。

 目が冴えて眠れない。きっと両親の死が関係しているのだろう、涙は出なかったが心のどこかで喉に小骨が刺さったような感覚がある。

 ――しばらくの間考え込んでいた、なぜ泣けなかったのだろうかそれが頭から離れない。幼少時代の沢山の思い出が蘇ってくる、僕をここまで立派に育て、自由な家庭だっだが道徳だけはたたき込まれた。「困ってる人を見たら助けなさい、見て見ぬふりは絶対にしてはならない」や「相手を喜ばせなさい、相手を悲しませることはするな」などの言葉を母親は僕らに言い続けた。

 子守歌の代わりに聞かされていたので体で覚えてしまった、僕はその影響を強く受けて育った。母親は僕が生まれて余程嬉しかったのだろう、藍を泣かせたら仕置きを与えられた。

 子供の頃はなぜ僕が怒られていたか分からなかった、けれど今は理解をして母親の理想通りに育っただろう。だから僕を知る人々は僕に対して優しいという印象を持っているようだ、友人には名前通りの性格だと言われたこともある。

 そんなに優しい人が両親の死に涙を流さないなんて……やっぱり変だ。自嘲気味に笑いがこぼれた。


 ――夜もさらに更け、明日のことが頭によぎる。

「明日からまた学校が始まるのか」

 葬儀などがゴールデンウィークと重なってしまったので、今年の長期休暇が無くなってしまった。また忙しい日々が始まると思うとため息が出てしまう。

 明日は朝早く起きなければいけない、眠れなくても身体を休めた方が良いだろうと思い、全体重を預けた椅子から立ち上がる。

 リビングを出てふらふらとした足取りで自室に戻る。自室は急な階段を上らなくてはならないので今の僕には結構な重労働だ。

 階段を無事に登り切り、部屋に入ろうとドアノブに手をかけた。

 ……そのとき隣の藍の部屋からガタン、ガタンと変な音が鳴っている。何かが壊れるような音にも聞こえるし、大きな物が揺れているようにも聞こえる。テレビで見る地震の仮想体験の様な音が一番近いかもしれない。

 僕は本能的に足音を殺し、藍の部屋の前まで来るとそっとドアに耳を近づけ中の様子を探る。

「……あはっ、どこ……どこにあるの……」

 ほんの僅かだが、笑い声と何か探しているようなことを言っているように聞こえる。そして、なぜか苦しそうだ。

 何なんだ、全く見当が付かない。そしていつもの藍ではない口調にホラー映画でも見ているのかと思わせられるが藍の部屋にはテレビが無いので違う。

「あったあった、あはっ。良かった……」

 今度は苦しそうな声ではなく、明るくなった時の声。藍はやはり何かを探していたようだ、いったい何を見つけたのだろうか。そもそも自分の部屋であれほど苦しそうになるまで探す物などあるのだろうか、無くしたら困るような物だとしても、そんな大切な物を自分が分からなくなるような所に置くだろうか?


 ――その後も息を殺してしばらく間ドア越しに部屋の様子を伺っていたが、先ほどの何かを見つけた瞬間から、藍は一言も言葉を発していない。

 もしかしたらもう寝たのかもしれない……だが、寝たと憶測するにはまだ早い。……なぜならベッドに入る音が無かったからだ。

 なぜ何一つ聞こえない、全くの無音が続くのだろうか。明らかに不自然……いくらドア越しでも何かしら物音が聞こえても良いはず、それなのに部屋の中は誰もいないような静かさ。

 不安な気持ち、嫌な予感がする。

 ドアをあけて真相を知りたい。藍は何をしてるのか、何を見つけたのか、分からないという不安と恐怖が僕を襲う。

 だが今ここでドアを開けることは絶対にしてはならない、理由なんて無いただの勘。もしここでドアを開けてしまったら歯車が狂う、これも勘でしかない。真実は分からない、知りたいという気持ちは凄くある。けれど安易な興味で危険を冒すべきではない。

 ……明日、そうだ、明日聞けば良い。もしも明日、藍が知らないフリをしたらそれは聞いてはならないことだった、そう解釈すれば良い。いくら家族でもプライベートは尊重すべきである、僕が踏み込んで良い領域など家族というカテゴリの兄弟というほんの僅かな部分だけだ。明日にしよう、明日になれば今日のことは解決するんだ。

 僕は念のため足音をできる限り消し、暗闇の中ほんの数メートルを慎重に慎重を重ねて歩いた。数メートル歩くだけで僕の脈拍は上がり、冷や汗が出る。自室に入るときのドアの音も出さないようにする作業が一ミリのズレも許されない精密作業のように思えた。

 自室には安心感があった。ここだけは絶対に守られている空間、そう思うと、藍にとっては藍の部屋が自分の空間ということになる。やはりさっきドアを開けなくて正解だったと胸をなで下ろす。

 僕はすぐにベッドに潜り込み眠りについた、いくら自室だからといって何が起こるか分からない、だから逃げるかのごとく全身を隠すように布団を頭まで覆った。



 朝は目覚ましの音ではなく、暖かい日光で目が覚めた。

 昨日は藍の不可解なことがあってあまり眠れなかった。それでも疲れが取れるくらいは眠れた。

 まだ気怠い身体に鞭を打ち身体を起こす、そして普段通り部屋の壁に綺麗に掛けられている制服に袖を通す。一週間前まではこれが日課だった、そして今日からも日課になるだろう。

 気持ちを入れ替え、自室を出る。僕らは互いに先に起きたら相手を起こすという暗黙のルールがあった。今朝は藍に起こされなかったので藍はまだ部屋で寝ているということになる。だから藍の部屋の訪ね、ドアをノックをして一声かける。

「朝だぞ、早く起きろよ」

 ドアは開けない、昨夜のことがあるからだ。普段は直接体を揺すって起こしていたのだが、やはり顔を合わせにくい。

「はーい、分かったすぐ行くんだよ」

 いつも通りの起き抜け声で藍は返事をする。部屋の中からはバタバタと準備をする音も聞こえてくる。

「朝食は僕が作るから」

 食事を用意することを伝え、僕は急な階段を下りてキッチンに向かった。


 朝食は簡単なメニューにした。目玉焼きとご飯、それにみそ汁にサラダ。これだけあれば十分だろう。僕が調理を始めると、するとすぐに藍がリビングに入ってきた。

「今日もいつも通りの朝ご飯だね」

 笑いながら僕に言ってくるがこの台詞は皮肉にもとれる。

「満干全席でもご用意いたしましょうか?」

 負けじと僕も紳士的な口調で対抗。

「それも良いかもね」

「冗談言ってないで準備手伝えよ」

 あっさりと返されたので僕は戦いから早めに身を引くことにした。

 藍は皿の準備や、テーブルを片付けを始めた。


 調理を終え、テーブルへ運ぶ。藍はちゃんと手を合わせ「いただきます」と言ってから食べ始めた。

 ふと思うのだが藍はどこか幼いところがある。僕はあの教訓を除いて他は父親に似ている、それに対して藍は母親に似た。母親はいつも「いただきます」を言っていた。子供の頃から藍も言っている。そんな当たり前のことになぜか笑みがこぼれた。

「どうして笑っているの?」

「何でもない、なんか昔を思い出して……」

 言った後に後悔した、藍には両親の話はタブーだった。藍の方へ視線をやると藍はうつむいて黙り込んでいた。

 結局その後は話そうとしても話しにくく、お互いに一言も言葉を交わすことなく食事を終えた。


 朝食を食べ終わり、しばらくすると藍は沈黙を破った。

「……優兄、今日学校休んでいいかな?」

 先ほどよりは少しだが顔が僕に向いていたような気がした、藍は幼いと思っていたが、自分から立ち直ろうとする姿勢が見られたので僕の考えは少し間違っていた、藍はもう立派な大人なんだなと、でもまだ情緒不安定なだけなのだ……そこに僕がデリカシーの無い言葉を放ってしまった。僕の方が幼いかもな……。

 まだ迷いや不安があるだろう、何も聞かずに承諾した。

「学校には伝えておくよ」

「ありがと」

 しんみりした空気になってきた。

「気にするな、その代わり家中ピカピカに掃除だな」

「うん……ん?」

「汚いところは念入りに頼むよ」

 首を傾げ、悶々と考えている。数秒後に手のひらを開いて腕を突き出し、待てというポーズをとった。

「いや、ちょっと待とう、確かに私は頷いたんだよ。でもね、そんな無理難題を言われるとは思わなかったんだよ。だから……卑怯だぞ!」

 最後は無理矢理だ。

「卑怯じゃない、こんな狭い家なら一日もあればピカピカにできるって」

「無理、できない、絶対無理!」

 実際、一日もあればすべての部屋を掃除するくらいは可能なのだが、藍は首をぶんぶんと横に振り拒絶する。

「何事もやってみる。その後、無理だったら正直に謝る」

「言ってることは間違ってないんだよ……ただ人として間違っている!」

 そろそろこちらが折れないと何を言われるか分からない。人であることを否定されたら次は何扱いされるのか気になるところだがそれはまた次の機会にしよう。

「冗談だよ、でも掃除はよろしく頼むよ」

「冗談なら早く言ってよ!」

「半分笑み、半分怒りなんて凄い技を持っているんだな……」

 藍は笑いながら怒っていた。怒らせたのは悪いが、いつも通りの空気に戻った。


 僕も食事を終え、身だしなみを整え、学校へ向かう時間となる。

「それじゃあ行ってくるから」

「行ってらっしゃい」

「家中ピカピカな」

「はいはい、わかってる……って無理だって言ってるでしょ!」

 そんなこんなで家を出た。


「おはー優ちゃん」

 学校に着き、教室に入って席に着くとすぐに御堂有紗が近寄ってきて、手を振りながら声をかけてきた。

「何だ、有紗か、おはよう」

「何だってなんだよ、悲しいなあ、昔はよく遊んだ仲じゃないか」

「ただの腐れ縁だ」

「ずっと学校もクラスも一緒だった運命共同体のこのワタクシにそんなことを言うなんて……」

「気色悪いからやめろよ」

 確かにずっと一緒だった、家も近いし親同士も仲が良かった。子供の頃は良かった、有紗はまだ可愛さが残っていた。

 今は百七十を超える身長、抜群の運動神経、綺麗に整った顔立ち、そこまでは良い。だが、有紗は性格を偽装し演じている。嘘で塗り固めた有紗は高校でもトップクラスの人気者、有紗に何かしたら僕の立場は危険だ。

「えへー、怒られちゃったよ」

 後頭部をなでる様な動きをする。

「だから俺の前で演技するなよ!」

「演技だなんて……ひどい、ひどすぎるよ優ちゃん」

 学校で普段通り話しているとすぐに演技をする。そのせいでクラスのみんなから痛い視線を受けるのが日課になりつつあった。

「やめろって、後で男子にボコボコにされる」

「……狙ってやってるの」

 僕の耳元でわざと小声で言う、しかも小悪魔ボイスで。本当に根性が曲がってる。

「それでさ、本題なんだけど」

 だが突然珍しく、トーンを落として話しかけてくる。

「……その、優ちゃんのお父さんとお母さん……」

 間を入れながら有紗は言ってくる、まぁそうだろうな。葬儀には御堂家全員で来ていた、立派な花をもらい最後まで両親を見送ってくれた内の一人だからな。

「大丈夫だ、気にしないでくれ」

「本当に? 藍たんも大丈夫?」

 痛いところをつかれた。まだ少し両親の死を引きずっているだろう、だから僕は首を横に振る。

「やっぱりねぇ、藍たんの性格と外見だとねぇ」

「外見は関係ないけどな」

「だって、あんなに可愛くて、ロリロリしてるんだよ!」

 有紗らしかった、少しは僕に気を遣ってるのか、それとも本当にそう思ってるのか、どっちにしても有紗は僕らのことを心配してくれているようだ。

「藍たんのあの性格だと、今日は学校行ってないね。というか行けないって言った方が良いかな」

「あぁ、学校は休んだ」

 鋭い読み、流石有紗だ。

「だって藍たんは外見を含めまだ子供だからねぇ。よし、今日は優ちゃんの家に行かせてもらうよ」

 以外と外見よりは大人になっているのだが、無駄口を入れる場面でもないだろう。

「いいのか? なら頼むよ、少しでもいいから藍を元気づけてくれ」

 こんな時に有紗は本当に頼りになる、ありがたく恩を受け取っておく。

 ……でも、あの夜の出来事は言わなかった。有紗に余計な心配をかけさせたくないし、人に言ってよいことなのかどうかもまだ定かではないからだ。


 すべての授業が終わり、有紗と校門を出て我が家へ向かった。

 途中、有紗は家に「夕飯はいらないから――うん、食べてくる」と電話をしていた。誰も夕食を御馳走すると言っていないのに……本当に容赦の無いヤツだ。

 我が家には十分もかからずに到着する。

「久しぶりだねえ、藍たん元気かな」

 期待を隠しきれずに表情に薄笑いを浮かべながら、わざわざチャイムを押して藍に出迎えさせようとする。

「意味の無いことをするな」

 その行為を止めさせる。

「いいじゃんかよ」

 つまらないヤツだなと言いたそうな顔をして僕を睨んでくる。

「とにかく入れよ」

「お邪魔しまーす」

 玄関を開け、有紗を招待すると文字通り邪魔をしに来たようにも思える。

 リビングに入ると藍はテレビを見ていた。

「お帰り優兄……あ! お姉ちゃん!」

 藍は嬉しそうに有紗のもとへ近寄る。有紗もニヤニヤと笑っていた。

「藍たんいつも通り可愛いねえ、身長も百五十五センチから変わってないねえ」

「え! 何で分かるの!?」

「お姉さんの特技だよ」

 その特技は異常だと思うが口に出したら何をされるか分からないので必死に出かかった声を飲み込む。

「楽しそうで良かった……」

 安堵の息をつく。二人は久しぶりに会ったからなのか、とても楽しそうに笑っていた。これは有紗を呼んで正解だった。

「本当に変わってないねぇ、髪型も、眼鏡も、身長も、服装も、声も、肌も、んでもって胸も全然変わってない」

 藍の頬が赤く染まる、これは面白い。そこで有紗のだめ押しの一言。

「揉めば大きくなるよ、お姉さんが揉んであげようか?」

 親父丸出しの有紗と、たこのように真っ赤な藍。

「お姉ちゃんだって、身長は伸びてるけど胸は全然無いじゃん!」

「男はこれくらいがちょうど良いと言うのさ」

 まるで世の男について悟ったような語り口、そして両手を腰に当てて胸を張る有紗。

「でも本当に身長の割には胸無いよな」

 ――殴られた。反射的に思ったことを口に出すのは危険だ。

「優ちゃんは放っておいて藍たんの部屋に行こうよー」

 有紗は軽蔑に似た目で僕を見て、藍は大きく頷いて笑っている。

「じゃあ、優ちゃんは最高に美味しい料理作ってね。これで不味かったら明日どうなるか分かってるよね?」

 小悪魔スマイルで聞くのは反則だ。

「毒でも盛ってやろうか……」

 小声で愚痴る。

「あと、洗濯物も取り込んでね」

「それは自分の仕事だろ!」

 話の流れで自分の仕事を押しつけてくる、やることが有紗に似てきたぞ。

「それくらいすればいいじゃん。あと毒なんて盛ったら怒っちゃうぞ」

 聞こえていました。そういってリビングを出て行った。

「あいつら……」

 急に場が賑やかになったので頭がズキズキする、けれど夕飯を用意しなければならない。仕方ない、藍に元気が戻るための先行投資だと思って大人しく従うとしよう、精一杯うまい物を作ってやる。

 口では皮肉ばかり言っているが本心はやはり楽しい、僕は二人を驚かせる様な料理を作るために材料の買い出しへ出かけた。



 テーブルの上には沢山の豪華な料理が並んでいる。

「これ……全部優ちゃんが作ったの?」

 有紗は目を大きく見開いて僕に聞いてきた、その目は真剣そのもので嘘を付いたらただじゃ済まないと感じたので素直に答える。

「そうだけど、どうした? 不満なところがあるなら作り直すけど」

 しばらくすると、有紗の口から涎が垂れてきた。

「はっ! やられた!」

 垂れていた涎をすすり、まじまじと僕を見つめてくる。

「毒を盛ったな! 騙されないぞ! 正直に言ったら許してあげよう」

「あれは冗談だから心配しなくて良い」

「で、でも……これはいくら何でも……」

 確かに奮発して作った、だがこれほど驚かれるとは思ってもいなかった。

 そして有紗は箸を持ち、おそるおそる料理を口に運ぶ。

「……うまっ! 何これ?」

 初めて海外旅行に行って見たことも聞いたこともない料理を目にし、食べたら意外と美味しかったので使い慣れていない外国語で「何の料理ですか?」と聞く日本人のような台詞。

「ただのシーフードパスタだけど」

「これもうまっ!」

「これもただのマグロのカルパッチョ」

「全部うまっ!」

 今日のメニューはシーフードパスタにマグロのカルパッチョ、ポテトサラダ、デザートに買ってきたケーキ。

「いつもより少し豪華だけどそこまで驚くことは無いだろ」

 僕がそう言うと、有紗は食べる手を休めて藍を見る。

「いやいやいや、今日はすごーく豪華だよ」

 藍は嫌な強調の仕方をする。

「見栄なんて張らなくて良いよ、普段からこんな豪華な料理食べるなら毎日来ちゃうよ?」

 有紗は少しあきれた様子でこちらを見る。

「確かに豪華に作った……でも美味しい物を食べたいって言ったのは有紗だ、少しくらい見栄を張ったって良いだろ!」

 有紗は僕の正直な心の叫びに耳を傾けず、またバクバクと食べていた。

「……藍……早くしないと消えるぞ」

 泣きそうで話す気にもなれなかった。

「うん、そうみたいだね」

 だがしかし、食事の時間がこんなに楽しいのは久しぶりだ。藍にも元気が戻っただろうか、有紗には後でもっとお礼をしなければならない。

「って、おい! それは僕の分だ!」

 良い気分に浸っているところに、有紗の手が伸び僕のサラダを胃袋の中に隠した。

「気にするな、若者よ」

 有紗は満面の笑みで口をもぐもぐさせている。

「あはは、優兄取られてる……って、私のパスタ!」

 今度は藍のパスタを目にもとまらぬ早業で奪う。

「同じく気にするな、若者よ」

 腹の底から笑いがあふれる。最高に楽しい夕飯だった。


 食事が終わり、有紗は寝転がっている。食べ過ぎのようだ、そりゃあれだけ食べたら胃も大満足だろう。それに対してパスタを奪われた藍は食事量が少なかったので、有紗のようにノックアウトされず、バラエティー番組を見ながら笑っている。

「うおー、優ちゃーん」

 苦しそうな声と顔で僕を見てうなっている。

「そろそろ帰るから送ってー」

「洗い物が終わったらでいいな?」

「うん、おっげー」

 ゲップ混じりで返事をする有紗、本当に学校とは別人だ。

 洗い物が片付き、あとは有紗を片付けるだけだ。

「有紗、送るぞ。藍は先に風呂にでも入ってろ」

「うぃーす」「はーい」

 二人同時に返事をする、ついつい僕は笑ってしまう。

「んじゃあ、藍たんも元気でね」

「お姉ちゃんもね」

 有紗がリビングを出て行く、それを追いかけるように僕もリビングを出て玄関に向かう。


 外に出ると、五月の夜風が涼しくて気持ち良い。有紗も同じようだった、外に出るなりすぐに背伸びをした。

「気持ちいいね」

「あぁ……」

 自転車には乗らずに、ゆっくりと歩き出した。


「――本題だけど、藍たんに変わったことなかったかな?」

 声がいつもと違っていた、真面目で、冷たい感じ。顔を見ると有紗の目は僕を睨むような目をしていた。

 なぜだろう、素直に言えばいいのに言葉が出てこない。

「どうしたの? 何かなかったって聞いてるの」

 やはり声が冷たい、有紗がこんな声を出したのは初めてじゃないだろうか。

「どうして何があったなんて聞くんだよ?」

「質問を質問で返さないで」

 即答される、間髪入れずに有紗は僕の言葉を遮る。本気の目だ、いつもの優しさは無い。

「もう一回聞くよ、優ちゃん。藍たんに変わったことはなかった?」

「……少し」

「どんなこと? 詳しく教えて」

 やけに噛みついてくる、なぜこんな事を聞くのか知りたい。有紗と藍の間に何があったのだ、夕飯の時は何もなかったじゃないか……。

「早く教えて」

 僕を急かす。

「……苦しそうに笑ってた、あと何か探してた……」

「それは本当に藍たんなの? 泥棒とかじゃなくて?」

 あくまでも真剣なまなざしで確信を求めるように聞き直してくる。

「藍の声だった……はずだよ」

 記憶は鮮明だったがついあやふやに答えてしまう。

「分かった……ごめんね、なんか恐い声出しちゃったねえ、そんなに驚かないでよちょっとしたジョークジョーク、ハハハ」

 いつもの有紗に戻った、目には優しさ、声には明るさ。……何だったんだ、今のは本当の有紗だったのか? 自分に何度も問いかけるが本当の答えは見つからない。奇妙だった、不思議だった、難解だった。

「ここで良いよ、恐いお兄さんに襲われないようにね」

「まだ有紗の家じゃな……」

 少しだけ歩いただけだ、数分しか経っていないと思う。けれど邪魔者扱いするように有紗に帰れと言われる。

「いいって、早く帰ってあげなさい、藍たんが待ってるでしょ」

 有紗は僕の言葉をかき消すように言い放って、自転車に乗って走っていった。

「何なんだよ……」

 頭の中で色々な事が巡る。藍の昨夜の不可解な行動、有紗の不可解な発言。何だっていうんだ……。

 途方に暮れても仕方がないので、家に戻ることにした。


 同じ道を引き返し、すぐに家に着く。ついさっきの不可解なことに思考を巡らせながらドアに手をかける。

 ドアを開け、そこには見慣れた玄関があり、見慣れた靴があり、見慣れた靴だながあり、見慣れた置物があり、見慣れない藍の姿があった。

 藍が普段決して外さない眼鏡を外していたのだ。眼鏡を外している藍はとても目つきが悪い、だから誕生日に僕が似合う眼鏡をプレゼントした。それを気に入り、それから眼鏡を外すことは無くなった。それなのに……お気に入りの眼鏡だったはずなのに……。

「……ただいま」

 いつもと雰囲気が違うので少し動揺してしまい、少し声が小さくなってしまった。

「誰だアンタ?」

 いつもより低い声に汚い言葉遣い。眼鏡を外しても僕の声とシルエットで人を判断する能力くらい備わっているはずなのに妙な質問をする。

「誰って……優だよ、お前の兄貴だろ……何言ってるんだよ?」

 意味が分からない、自分でも何を言ってるんだろう。そんな当たり前の事を実の妹に説明している。

「ああ、コイツの兄貴か」

 藍が喋った瞬間、僕は家を出てドアを閉める。訳が分からない、きっと夢でも見ているのだ、有紗も変だった。藍も変だった。これは夢なんだ。

 玄関のドアに背中を合わせ、息を整える。目を閉じて気持ちを落ち着かせる。

 最近色々なことがあって疲れただけ、これは現実ではない。

「きっと、玄関を開けたら藍がいる。いつもの藍がいる。絶対、絶対、絶対に……」

 一息つき、玄関のドアを開け、目を開ける。

「やあ、お帰り。どうした? 顔が真っ青だぜ」

 目を開けると目の前に藍の姿をした何かがいた。

「どうした? お帰りって言ってるだろ、返事くらいしたらどうだ?」

 夢じゃない。

「……ただいま」

「ああ、良かった返事をしてくれて。流石に驚いたよ、アタシがドアを開ける寸前でいきなり開くとは思ってもいなかったよ」

 夢じゃない。

「……誰だよ?」

「ん? なんだって?」

 夢じゃない。

「……お前は誰だって聞いてるんだよ」

「アタシか? そりゃそうだなアタシしかいないからな」

 夢じゃない。

「早く答えろよ!」

「怒鳴るなよ、アタシは舞だ。踊りの舞と書いて舞だ」

 夢じゃなかった。


 全身の力が抜け、地面に膝をつくような形になる。

「誰だよ、舞って誰だよ……お前は藍だ! 舞なんて知らない!」

 脳が理解することを拒絶する。今ここでこの世界を現実だと思いたくない。

「アタシが舞、もう知ってるだろ。知らないなんて言わせない」

 誰が見ても僕の目の前で仁王立ちしているのは藍だ、舞なんて誰も知らない。

「じゃあ藍はどこだよ……どこに行ったんだよ!」

「いちいち五月蠅いな。アンタの妹さんはアタシ」

「違う……違う違う……違う違う違う違う!」

「五月蠅いな……斬るぞ」

 藍……いや舞と名乗る藍が僕の頬にカッターを当てる。急なことで僕は黙ってしまう……。

「やっと黙ったか、次に五月蠅くしたら斬るからな」

 カッターの冷たさが、熱くなっていた僕の頭を冷やしてくれる。それでも心臓は跳ね上がるように脈打っている。

「今度は黙り込んでどうした?」

 冷静に、落ち着いて状況を判断する。

 舞と名乗る藍は、僕にカッターを向けている。それと眼鏡を外しているのにも関わらずはっきりと見えているようだ。あとは眼鏡を外した目つきの悪い目が、普段の藍と少し違う様な印象を受け、声もいつもより低い。

「あはっ、やっと落ち着いたかな?」

 この笑い方……昨夜と同じ。

「昨夜、藍の部屋で何か捜し物をしてなかったか?」

 おそるおそる言葉を発する。

「ああ、してたよ。このカッターを探していた、別にハサミでも何でも良いんだけどな」

 昨夜の出来事は夢ではなかった。つまり紛れもない真実なのだ。

「なぜカッターを?」

 どうしてそんな物をあれほど必死に見つけようとしていたのだろうか。

「そんなことアンタには関係無いだろ」

 あっさりと答える事を拒否した、なぜあそこまで言えるのに理由は言えないのだろうか?

「じゃあ質問を変える」

「もういいだろう? アタシは疲れた、何でご親切にアンタの質問に答えなければならない?」

 話し方や表情を見ると舞は僕を殺す気が無い様に思える。そんなにしっかりとカッターを握っているわけでもないし、殺すそぶりは先ほどの一回しか見せてない。

 それに殺気が全く感じない、僕と話すことを楽しんでる様に見える。

 一か八か、運が無ければ僕はきっと殺される。実の妹に殺される。


「なあ、舞……お前の後ろにいるのは誰なんだ?」

「……え?」

 生きるか死ぬかのブラフから生まれるほんの僅かな一瞬。僕はすぐにカッターを持っている手を殴る。

「おい! アンタ何すんだ! 畜生!」

 殴った反動でカッターは手を離れ外に転がる。僕はその瞬間に舞を押し倒す。

「暴れるな!」

「おい、やめろっ!」

 抵抗できないようにしっかりと腕を固定し、マウントポジションを取る。

「やめろ! 助けてくれ!」

「何が助けてくれだ! 糞野郎! 妹を……藍をどこにやった!」

「違うんだ、頼む、カッターを……」

 助けを求めても誰が力を弱めるか、藍の身体をおかしくしたんだ。

「黙れ! 藍は無事か!」

「……」

 ――様子がおかしい、熱くなりすぎて気付かなかった。

「早く、カッターを……頼む」

「おい! どうなってるんだ」

 さっきとはうってかわって弱そうな声、顔はどんどん顔が青ざめていっている。

「おい……カッターがどうした?」

 冗談を言っているようには思えない、少しずつ心配になってきた。

「返してくれ……」

 じわじわと首もとから蕁麻疹が現れ、声を発することも苦しそうだ。

 舞をマウントポジションから解放し、すぐに外に落ちているカッターを拾う。

「あはっ、カッター、カッターだ。刃物だ、刃物だ、刃物、刃物刃物刃物刃物刃……」

 拾い上げたカッターを見た瞬間、壊れたように小声で刃物と繰り返しながらはいずって近寄ってくる。近寄ってくるとき舞の目が輝いていた。いや、実際に光っている訳では無い、光っているように見えるだけ、だがそれが僕を不思議な気持ちにさせる。

「どうしてこんなに身体が熱い……」

 全身が長距離を走ったような熱さ、そして心臓は跳ね上がるように脈打っている。

 舞はやっとカッターに手が届き、きつく握りしめるとそのまま動かなくなった。

 ――僕の荒い息づかいだけが夜に響く、舞は微動だにしない。まるで屍のように……

「……し、死んだのか? 藍はどうなるんだ、おい!」

 身体を揺さぶり安否を確認する。

「うう……」

 反応が有る、死んではいない。

「おい、返事をしてくれ」

 もう起きてこないそぶりを見せられたので心配だった。

「……な、なんだよ……少し黙ってろ……」

 気が付いたと思えばいきなりこの台詞、けれど素直に黙り復活の時を待った。その間に落ち着こうと深呼吸をして時間をつぶす。


 ――数分後、舞と名乗る藍がやっと起きあがり、僕の呼吸も整った。

「さっきのは何だっ……」

 カッターが僕の喉に当てられた。

「アタシは刃物が無いとさっきの様になる。今後私から刃物を取り上げてみろ! 命は無いからな」

 そういってカッターを振り下ろす……僕の服が斬れた。

「こんな風になりたくないだろ?」

「……ああ」

「話は中でする。いつまでも外で騒ぐ訳にはいかん」

 すっと立ち上がり、靴を脱ぎ、リビングに入っていった。僕も後を追うようにリビングへ向かった。


「とりあえず着替えてきな、格好悪いぜ」

 まずリビングに入るなりそんなことを言われた、汗をかいていたから命令に従った。

 バスルームに向かい、綺麗に斬れている服を脱ぎ、洗濯機の上にたたまれているシャツに着替えた。

 ふと、鏡を見る。僕の顔はやつれ、疲れ切っていて、魂が抜けたような顔。自分でも見るのが嫌になったのでリビングすぐ戻ることにした。


 リビングに入ると、舞がテレビを見ていた。深夜のニュース番組か何かだろう、海外で起きたテロの特集がやっていた。

「座りな」

 テーブルに向き合うように座る。

 舞は殺す気が無いようだが、僕の心配は消え去らない、注意を怠ってはダメだと自分に言い聞かせる。

「とりあえず、状況が全く把握出来ていないようだな」

 僕はこくりとうなずく、もう喋る気力が残っていない。

「今アタシはアンタの妹さんの身体を借りている、そこまでは理解できるか?」

「そうみたいだな」

 明らかに藍ではない、もうそこは認めるしかないだろう。

「藍は無事なのか?」

 心配はそこだ、藍の身体に異変が無いのか、そもそも藍はどうなっているのか。

「問題ない、アタシの意志でどうにでもなる。アタシが消えれば妹さんになるし、アタシが出てくればアタシになる」

 安心したせいか、全身の力が抜ける。

「良かった……」

「良かったな」

 少し笑みがこぼれる、ぶっきらぼうなしゃべり方だが、どことなく優しさが見えた気がした。

「いつまでもアンタって呼ぶのは好きじゃない」

 舞は急にそんなことを言ってきた、そういえば僕の名前を言っていなかった。

「僕は優」

「優……優か。もしかして名字は月森か?」

「そうだけど、どうして?」

 名字を言い当てられるなんて思ってもいなかったので驚いた。

「ということは……桜の息子か、どうりでな。あはっ、これは面白くなってきたな」

 独特な笑い方をする、何となく目つきの悪い目が輝いているように見えた。その目は吸い込まれるような不思議な感覚を受ける。

「そうか、そうか、よろしく頼むよ優」

「何で母親の名前を知ってるんだよ?」

 舞は何も無かったように挨拶をするが、僕はなぜ名字を言い当てられることができたのか、母親は有名人ではないし、何かすごいことをした人でもないのになぜ?

「いやー、こっちでは有名な人だよ。懐かしいねえ、今はどうしてるんだ?」

「死んだよ」

「あはっ、死んだか、失敗でもしたかな。それより、実の母親が死んだのにあっさりしてるな」

「別にどうでもいいだろ」

 他人から見ても両親の死という体験をしたのに、悲しんでいないような印象を植え付けるとは思っていなかった。

 それよりも失敗? 失敗とは何だ、飛行機事故で失敗なんて操縦士しかしないはずなのに……。

「失敗ってのは何だ? 母親との関係も教えてくれ、訳が分からない」

 素直に聞く、僕の中で知りたいという意識が強くなってきたのだろう。

「気にするな、優が気にするような事じゃない。それより死因は何だ?」

 質問を質問で返される、知りたいことを教えてもらえないということは少し腹が立つ。

「飛行機事故だよ、ニュースでも大きく取り上げられた。そんなことどうでも良いだろ! 教えてくれ!」

 早く情報を得たいがあまり、話し方が喧嘩腰になる。

「どうでも良くないな。飛行機事故か、それじゃあ桜は何も出来ないわけだ。あはっ、これもまた運命だ」

「一人で笑ってるなよ!」

 つい怒鳴ってしまう、もうこれ以上混乱したくない。正体不明の舞、母親のことを知っていて、藍の身体に居座っている。そもそも藍の中にいるということもおかしい。現実を見ると、そこには非現実が広がる。

「五月蠅くするなって言ってるだろ、君も大人だ、もう少し聞き分けを良くした方がいいぞ」

 ちらりとカッターを見せつけてくる、ここまで来ると完全に舞のペースだ。どうしようも無く僕は黙り込んでしまう。テレビの音だけが静かな空間に響いていた。


『一週間前の飛行機事故のニュースです。死者八十名の大惨事、奇跡的に生き残った四名の意識が戻りました。』

 そんなときにあのニュースの内容が流れた。

「これだ! このニュース」

「五月蠅い、静かにしろ」

 舞はカッターをちらつかせた。

『専門家によると、席が後ろの方で衝撃が少なく、墜落時に頭を抱えていたため、重傷でしたが命に別状が無かったようです。ただいま病院で治療を受けている生き残った四名です。佐藤光さん、佐藤美輝さん、佐藤光輝君、秋月栄凛さん。最後に無くなった方々、ご冥福をお祈り致します』

「あはっ! これは傑作だ!」

 ニュースが終わり、舞は突然笑い出した。意味が分からない奇怪な行動、もう嫌だった。

「優! これはすごいぞ」

 目つきの悪い目を光らせながら話しかけてくる。

「何が何だって言うんだよ!」

 もう僕の精神状態はピークだった、舞の行動一つ一つが気に障るくらい落ち着きがなかった。

「怒るんじゃないよ、飛行機事故に犯人がいるんだよ。あはっ」

「犯人……」

 自分の耳を疑う、興奮状態だったので状況がよくつかめていない。

 けれど、この『事故』に犯人がいる?

「そうさ! 犯人だ! 栄凛、秋月栄凛。笑わせてくれるぜ。あはっ」

 この『事件』に犯人がいる?

「――本当……なのか?」

「ああ、間違いない。秋月栄凛とは殺し合ったことがある、間違いない」

「この、秋月栄凛ってのが……犯人……」

 死んだのでは無く、殺された。栄凛という犯人に殺された。舞は殺し合ったことがあると言っていた、舞は母親のことを知っていた、舞は母親が失敗したと言っていた。心のどこかに苛立ちを覚える。

「舞、お前はいったい何者なんだ?」

「アタシは舞、舞でしかない」

 上手く誤魔化されているが、舞には何かあると僕は確信する。

「違う、僕の言っていることはなぜ母親を知ってるとか、なぜ栄凛が犯人だって分かるとかその類の質問だ!」

「なんてことない、知っているから知っているだけだ」

 薄気味悪い笑みを浮かべながら返答をする。ひねくれ者だとは分かっていたがここまで屈折しているとだんだんと怒りが沸き上がってくる。

「そうだ……服だ」

 舞はぱっと僕を見つめてくる、反応があった。急いでバスルームへ行き、先ほど脱いだ服を拾う。

「やっぱり……そうだ」

 服を手にしたままリビングに戻り、さっきと同じく笑っている舞の向かいに座り、服をテーブルの上に置いた。

「なあ、舞……」

「改まってどうした優?」

 笑いをこらえながらの返答、両腕を腹に抱えて必死に笑いをこらえている。

「どうして……服が斬れてるんだ?」

「あはっ!」

 ついに笑いがこぼれる。

「だっておかしい、カッターだぞ? あんなちっぽけな刃物でこんなにスパッと斬れる訳がない!」

 そうだ、おかしい……文字通り綺麗に斬れている。

 舞はチキチキチキとカッターの刃を出す。

「あはっ! 気付くのが遅い、桜の子供とは思えないな。さて、よく見てろ答えを見せてやるよ」

 木のテーブルに刃の部分を向け、目が輝き出す。

「な、なんだ……」

 刃を突き刺して、それを引く。


 ――真っ二つに斬れた。


 テーブルが音を立てて崩れる。綺麗に二つに、僕の服と同じように。

「すまない、壊してしまったな」

「これ……カッター……分からない……」

「私は何でも斬れる。そんな力を持っているんだ」

 何でも斬れる? 力?

 僕の思考能力がパンクした。

「……限界だ」

 身体に力が入らず、そのままテーブルと一緒に崩れ落ちる。

「優! おい……っかり……だいじょ……」

 舞の声が薄れて聞こえ、はっきりと聞き取れない。


 ――僕の脳は考えることを止めた。



「優兄、朝だよ」

 藍の声だ、スズメの声も聞こえる。

「ん……朝?」

 身体に気だるさが残っていて、ちょっとした頭痛もあるような気がする。

「そうだよ、今日は珍しく私より遅れてるんだよ」

 本当だ。目覚ましはちゃんとセットされているのに、いつもより三十分ほど寝坊していた。

「ちゃんとしてよね、一家の主になったんだから」

「はいはい、分かったよ」

「ご飯は私が作るから。あ、でも学校あるんだから早めにリビングに来てね」

 僕がうなずくと、藍は部屋から出て行った。

 いつも通り壁に掛かっている制服に袖を通し、いつもの学校に行く準備をする。寝坊をしたので準備を早めに終わらせ、リビングに向かう。


 リビングに入ると藍が何か困っている様子だった。

「ここのテーブルどこに持って行ったの?」

 いつも有るはずのテーブルが消えていた。

「早く持ってきてよ?」

 昨日……そうだ舞じゃない、今は藍なんだ。眼鏡をかけていて、声も明るいいつもの藍なんだ。

「あ、ああ」

 とっさに出た返事は間の抜けたものだった。藍と会ったのは数時間ぶりなのにもうずっと会っていない様な気分、見知らぬ土地から我が家に戻ってきた感覚、疲れ切った身体がやっと休まる様な感覚だ。

「面倒だから隣の和室に持って行くよ? 早くテーブル戻してね」

「頼む、そうしてくれ」

 舞がどこにテーブルを片付けたか分からないので藍の言葉はとても助かった。

 それより昨日のことだ、あの後どうなったんだ……僕が気を失って、朝起きたら僕の部屋に寝ていた、テーブルも何処かに消えていた。分からないことばかり、もっと舞と話さなくてはならない。

 だが、どうしたら舞は現れるのか。僕から呼び出すことは出来ないのだろうか。出来たとしても藍に怪しく思われてしまう。

「早く来てよー」

「ごめんな」

 和室から藍が戻ってきた、そんなに考え事をしていたのか。

「どうしたの? 何か変だよ、それに時間考えないと遅刻だよ」

「大丈夫だ。ほら、食うぞ」

 とりあえず朝飯を食べるために和室へ向かう。

 和室は廊下を挟んでリビングと向かい合っている。いつもは客人をもてなす場所として使われているが、たまに和室で食べることもあった。


 和室はそれなりに広く、日本らしいちゃぶ台があり、本物の兜、鎧、刀が二本綺麗に飾られている。夜に入ると不気味で、藍が子供の頃は使われなかった。今では泣くことも無くなったので問題なく使われている。

「和室で食べるのもなかなか良いじゃないか。明日からもここで食べようぜ」

「それも良いかもね」

 藍は笑いながら同意してくれる。

 今日の朝飯はトーストとハムエッグ、それと牛乳。我が家の定番メニューだ。

 昨日疲れたからだろうか、食事が進む。すぐに食べ終えてしまい、結局はいつもとほぼ同じ時刻。

「今日は早いね、どうしたの?」

「藍が作ったから美味かったんだ」

 藍が牛乳を吹いた。

「うおっ!」

 間一髪で避ける。

「げほっ……恥ずかしい事言わないでよ! 怒るよ!」

「いや、怒ってるよな?」

「怒ってなんか無いよ!」

 どう見ても怒りながらテーブルを拭き始める。

「まぁ学校行くから、今日も休むんだろ?」

「あ、ごめんね」


 昨日と同じく、身だしなみを整え家を出て、自転車を走らせる。

 すぐに学校へ着く、有紗には何となく会いたくなかったが、教室に行けばいつも通り女子と喋っているだろう。嫌な気分だったが教室に入る。

「おは優ちゃん」

「おはよーさん」

 いつも通りの学校キャラの有紗。

「昨日は激しかった、帰ってからもう立てなくなったくらい」

 急に聞き取りやすい声でとてつもないことを言い出した。

「ちょ、ちょっとまて! お前に何かしたみたいな言い方止めろよ」

 周りの目が少々痛い、言いたい放題いいやがる。

「何のこと? 私は食べ過ぎて胃への負担が激しくて、帰ったらお腹いっぱいですぐ寝ちゃったって事だよ」

 今度は異様に男子の目が痛い、有紗の本性を知れば絶対こんな事にならないのに。

「本当に昨日はご馳走様でしたー」

 今度はいつもの有紗口調でさらっと言う。

「藍と遊んでくれたお礼だと思ってくれ」

「それとは別の話じゃなかったの?」

 コイツ……酷すぎる。

「冗談だって、そんな恐い顔しないでよ」

 あの目は間違いなく冗談じゃ無かった。

「まあ、昨日ありがとっ」

 素直に礼を言ってくるなんて珍しい。

「こちらこそ感謝してるよ」

 僕が言葉を返すと、有紗はクラスメイトの女子の所へ戻っていった。

 意外なことに昨日の出来事については聞かれなかった。昨日の有紗は何だったのだろう、今日の有紗はいつも通りの有紗だ。

 むしろ恐怖を感じる、有紗は何か知っている様な気がする。舞のことは言わない方が良さそうだが、僕は嘘を突き通せるか……あの目で睨まれたらまた恐怖におびえ何も出来なくなるかもしれない。

 考えても答えは全く見つからない、まだよく分からない箇所は舞に聞く以外方法は無い。


 チャイムの音が鳴り響く、一限の授業の開始のチャイムだ。とりあえずは勉学に勤しもう、こんな訳の分からないことを考えていたくない。

 一限が始める、古典の授業。先生からはき出されるお経みたいな台詞は、僕に眠気を運んでくる。

 大きなあくびを一つ。ふと、有紗の方を見ると目があって微笑を浮かべられた。

 その後もあくびが止まらず、一限が終わったとき、眠気はピークだった。

「眠たそうだねえ、優ちゃん」

「古典は面白いが、先生が面白くない」

「それには激しく同意」

 有紗は笑いながら言った。

「そんなに眠いなんて珍しいね」

「そうか?」

「いつもはもっとしっかりしてるじゃよ、疲れてるんじゃない?」

「さあな、昨日は有紗が来たから疲れたんだろ」

「酷いなぁ、今日も行って疲れさせてあげようか」

 出た出た、小悪魔スマイル。

「ちゃんと疲れは取るようにしようね、身が持たなくなるよ」

 僕がうなずくと有紗は自分の席に戻っていった。何気ない会話が僕の緊張をほどいてくれた、有紗はこんなに優しいのに、昨日はどうしたのだろう。

 昨日の出来事は幻だったのだろうか。藍に何かあったか聞いただけだし、口調が強くなったのも僕はぐだぐだしていたからかもしれない。

 そんなことを考えてる間にまたチャイムが鳴り響く。次は数学だ、考えただけで眠気がおそってくる。


 特に有紗との会話もなく放課後を迎える。有紗はすでに下校、僕はクラスのみんなとくだらない話をしていた。

「今日は日本対ブラジルの試合だぜ」

「超楽しみだよな!」

「どっちが勝つかな? やっぱりブラジルだよな」

「日本だってやるときはやるぜ」

 他愛もない会話に僕は相づちを打っている、色々なことがあったのでくだらない会話は、何となくだが癒される。

「そういえばお前最近疲れてないか?」

 山村が僕に聞いてくる。

「何でまた急にそんなことを?」

「いや、目の下に隈ができてるから、お前が隈を作るなんて珍しいじゃんか。テスト前もいつも綺麗な顔してるくせに」

 僕に隈が出来てる?

「本当か!?」

「ああ、でもそんなに驚く事じゃないだろ」

 つい声を大きくしてしまう。有紗ともこの顔で喋っていた、隈を見られた。

「睡眠不足には注意しろよ。確かにご両親の事は残念だと思うが、自分のことも大切にしろよ」

「あ、ああ」

 隈を見られた、つまり寝不足だと気付かれる。


 ――だから、何も聞いてこなかった。


 僕の中で点と線がつながった、有紗は何も言わなかった、それは僕を見たら一目瞭然だった訳だ。

 つまり逆を言うと隈についてふれなかった有紗は、何か隠していたということになる。

「おい! 聞いてるか?」

「ああ……ごめん」

「しっかりしろよ、今日はゆっくり休んだ方がいいぜ」

 僕は優しい友達を持ったな、山村の言葉が心にしみる。

「ごめん、今日はもう帰るわ」

「お大事に」

 なんだか藍に危険が迫ってる、もしくは有紗が何かしたような、そんな気がしたので僕は家に向かって急いだ。



 夕焼けがまぶしい時間に家に到着。

 すぐに玄関を開け中に入り、急いでリビングを見る。

「いない」

 和室を見る。

「いない!」

 二階へ上がる、まず僕の部屋。

「何でいない!」

 藍の部屋の前、鼓動が早い、ドアをふれる手も汗で滑りそうだ。

 勢いよくドアを開ける。

「いない……」

 部屋の中は誰もいない、何も変わってない。藍はいなかった。

 どこだ、どこに行った……静まりかえった部屋の中で僕の荒い呼吸音だけが響く。だらだらと冷や汗が滝のように流れ出す、服には湿り気まで感じる。

「……畜生」

 ふと嫌な考えがよぎる。藍がいないのは有紗のせいなのか? いや、有紗がやったという証拠が無いし、そもそも有紗が怪しいかどうかも定かではない。

 こんな悪い考えをするなんて……少し自己嫌悪に陥る。でも、いったい何なんだ。最悪有紗が消したとしても藍はどこへ消えた、どこにいる。


 冷静さを取り戻した頃、微かだがガタンという物音がした。

「まさか、バスルーム……」

 そうだった、バスルームを調べていない。もしやと思い僕はバスルームに向かう。

 折角取り戻した冷静さも木っ端微塵に吹き飛び、また焦りで心が満たされていく。

 階段を駆け下り、バスルームの前に到着。一気にドアを開ける。

「藍!」

「おっ!?」

 藍がいた。眼鏡をかけていない目つきの悪い時の藍だ。

「良かった……本当に良かった」

 捜し物が見つかり、ほっと一息ついた。

「お、おい……優? いくら妹さんの身体でも、見つめられると恥ずかしいのだが」

 優? 藍の口調が違う。つまり、藍では無い。

「ん……舞なのか?」

「ああ、その通りだ。それより、そんなにアタシの裸が見たいのか?」

 そうだった……よく見ると舞は全裸、風呂上がりだろう。

「――ごめん!」

 とりあえず謝って、バスルームのドアを急いで閉めた。

 でも良かった、藍の姿を確認出来た。文字通り全身隈無く。

 けどどうして舞が出てきていたのだろう。昨日もそうだ、勝手に現れて、勝手に消えていた。

 まだまだ謎が多い、昨日は混乱状態だったが、今の僕は冷静さを取り戻している。今日は舞からあらゆる事を聞き出さなければ。

「リビングで待ってるから」

「おう」

 一枚のドア越しに舞の返事を聞き、僕はリビングへ移動する。

 リビングはテーブルが無くなったからなのか、広く感じる。

 いつもテーブルのあった場所にぺたりと座り込む。


 数分後、舞はやってきた。

「それ……」

「借りたぞ」

 僕の普段着を一枚だけ着て、リビングにやってきた。

「妹さんの服はアタシに合わないのだ、今度買いに行くぞ」

 僕でも少し大きい服を、妹の身体で着ているのだからぶかぶかだ。

 でも、そんな事は舞の持っている刀に比べたらちっぽけなものだ。

「服じゃない、刀だ。何でそれを持ってるんだよ」

「刃物が無いと駄目になるんだ、知っているだろ」

 そうだ、舞は刃物を持っていないとあの時みたいになってしまうのだ。だからと言って和室の刀は模造刀じゃなく、本物の刀だ。一本は打刀、もう一本は大太刀、舞は打刀を持っている。

「危ないだろ、もっと小さい……それこそ昨日のカッターじゃ駄目なのか?」

「あはっ。この刀の素晴らしさを知ったら、手放す事なんて出来ないよ」

 舞はとりつかれた様に笑う。

「そんなにすごい刀なのか?」

 僕の父親が集めた一品だ、それなりに値段が張るとは思うが、実際使ってみる事と値段は別のはずだ。

「この綺麗な刀身、手になじむ柄、これが綺麗に納まる鞘。どれをとっても最高だ」

 物理的な証拠はいっさい無く、自らの感覚だけで言っているようだ。

 刃を抜き差ししている時の舞の目は輝いて見える。どことない気持ち悪さが僕を襲う。

「私の刀になるために作られた様にも思えてくる。あはっ」

 舞の機嫌が良さそうなので、質問したいことを全部しよう。

「それより、ここにあったテーブルはどうしたんだ?」

「綺麗に斬って、燃えるゴミにした」

 斬って……という言葉がどこか引っかかる。

「すまないと思っている、弁償は出来ないから心から謝る」

「いいよ、頭をあげてくれ。それより昨日の事を教えてくれ」

 舞は深々と下げていた頭を上げ、一度うなずく動作をして。

「昨日は大変だった、もう気絶なんてするなよ」

 こちらを真剣な表情で見る。

「そうか、気絶してたのか……」

「その後は優を部屋まで持って行き、テーブルの処理をして、この刀を見つけた訳だ」

「それだけか?」

「これだけだな」

 舞の話し方が少し適当に聞こえた。だが、他に何かあったとしてもたいした事では無いのだろう。ならばそこまで詳しく問いつめるつもりは無い。

「舞はさっきから斬るとか言ってるし、昨日はテーブルが真っ二つになった。アレはいったい何なんだ?」

 これが一番の謎、不可解、不思議。カッターの様な脆い刃物であんな事をするなんて非科学的過ぎる。

「アレか、アレはアタシの能力さ」

「……能力?」

 舞の言葉には驚かなくなってきたが、言っていることを理解するのはまだまだ時間がかかりそうだ。

「そうだな、アタシに斬れないモノは無いんだよ。昨日見せただろ、アレは能力の力なんだ」

「何か不思議な力を持っていると、つまりそういうことか……」

「昨日と違って物わかりが良いな。学習能力の有る人間は大好きだ」

 信じられる訳がない、だが信じるための証拠は有る。つまり信じざるを得ない。

「能力についてもう少し詳しく教えてくれないか?」

 さらなる信憑性を求めるために聞いたつもりだったが、実際は少し興味があったからでもある。

「詳しくと言われてもな……どんな事が知りたい?」

「そうだな……」

 能力なんて言葉を聞いたのも初めてだというのに、いきなり難易度の高い質問返しをされたものだ。

「えっと、その何だ?」

 質問がうまくでてこない。能力について皆無なんだ、まだ舞が斬れないモノが無いということしか情報がない。

「その能力ってのは、どうやって使うんだ?」

「アタシの場合は簡単さ、集中して刀に力を加え、一気に振り斬る。それだけだ」

「場合って事は……能力は人それぞれ違うのか?」

「アタシの能力の様に簡単な条件の能力もあれば、能力を使う条件が難しいヤツもいる。能力者はそれぞれ発動条件が違って、その能力も見ただけではカモフラージュされていたりすると、全くどんな能力なのか分からなかったりもするぞ」

「つまり、舞の場合は刃物が条件、カモフラージュには適していないけど強いってことか」

 舞は嬉しそうにうなずいた。

「昨日から大きな進歩だな、アタシは嬉しいよ」

 今でも記憶が曖昧だが、昨日はとても錯乱状態だったのだろう。

「優の親御さんが殺された件についてだが、栄凛も能力使いだ」

 両親を飛行機事故に見せかけ、殺した犯人。栄凛も能力使いなのか……

「栄凛は遠距離から攻撃をしてくるから困った、私の攻撃範囲は刀の長さだから圧倒的に不利だった」

 舞の昔話が始まった。

「大変だったよ、すべてが弾丸になる。そんな能力だった」

「弾丸?」

「銃の弾丸だと思ってくれ、栄凛は一般人を輪ゴムで殺せる」

「……ゴム鉄砲?」

「その通り、命中力が無いのが残念だな」

 そこは常識の無い世界、弾丸にする能力なんて不思議では無いのだろう。

 でも分からない事がある、どうして栄凛は飛行機事故に巻き込まれたのだろう。弾丸の能力で地上から打ち落とせば楽なのに。

「栄凛は少し変なヤツでな、端から見ている分には愉快なヤツだ」

 舞の昔話は止まらない。面倒だから聞き流すことにした。


 ――それから舞の戦いの話が数十分にわたって話された。

「……アレは凄かった」

 少し疲れた表情を見せた。僕はこんな昔話を聞いているより、大事なことを聞かなくてはならないのだ。

「舞……」

「改まってどうした?」

 舞は二重人格なのか憑依しているのか分からないが、栄凛の事を知っていた。多分昔の記憶が有るのだろう。ということは、有紗について知っていたら、有紗の異常な行動の意味も分かる。

「能力について詳しいよな?」

「ああ、自分は詳しいと思っている。能力も能力者もどちらも知識は有る」

 この質問は本来なら聞くべきでは無い、とても失礼な行為だ。だが、僕自身や藍を守るためなんだと、自分に言い聞かせる。

「有紗って人を知っているか?」

「……有紗?」

 胸の前で腕を交差させて悩んでいる。

「記憶に無い」

「能力使いかもしれない人なんだが」

「アタシは知らないな」

 舞の口から聞きたかった言葉を聞けた。有紗は能力使いじゃない、舞がどれだけ詳しいのか分からないが大丈夫だろう。舞を信じ、有紗も信じられる。

 有紗の問題が無くなった今、残りの問題は栄凛だ。

 この事件の犯人、両親を殺した犯人。

「おい」

 舞が強めの声を発する。

「何だよ」

 少し驚いたので、返事に少し驚きが混ざるような形になってしまった。

「栄凛の件なんだが」

 舞も同じ事を考えていた様だ。

「殺しに行かないか?」

「……え」

 栄凛を殺す、僕に取っては復讐。

「栄凛は病院にいるんだろ? なら簡単だ、栄凛の病室に入ってすぐに殺せばいい。弾丸も受けない」

「そんな安直なものなのか?」

「そんなものだ、栄凛だって常時能力を使える状況にしていないだろう。それに怪我をしている、アタシには勝ち目しかない」

 勝ち目しかない、そんな事を言われても僕は復讐なんて考えた事も無かった。確かに少しは恨んでいる、両親が死んだのでは無く、殺された事には腹が立った。

「迷っているのか?」

 僕はうなずく。

「ならアタシが勝手に殺す」

「そんな!」

 つい声を大きくしてしまう。

「勝手に殺すのだから、優には関係無いぞ」

「違う、殺すことが駄目なんだ。法的措置を執ることだって出来るはずだ」

「アタシには殺すことしかできない、今までもずっとそうだった。勿論、これからもそうだ」

 舞には常識という言葉は無い、そんな事知っていた。

「復讐すれば良いじゃないか。実の両親が殺された、殺し返す理由が有るじゃないか」

「殺し返す事が良いことじゃない!」

 舞の面倒くさそうな声に対して、僕の言葉はとても大きい声だった。

「能力者だ、人を沢山殺している。殺しても問題ない、能力者の運命だ」

「いくら栄凛が能力者でも、死んだら悲しいものなんだよ!」

「優の母親だって、能力者を殺していた。殺されて当然の人間だった。能力を使う者のサイクルなんだよ」

「そんな母親だったかもしれないが、藍は泣いた! 苦しそうに泣いた!」

「あんなヤツを悲しむ様なヤツはいないね!」

 ついに舞も喧嘩腰。初めてあったときと似ている。

「そんなのは舞の勝手な考えだろ!」

「そうだ、その通りだ! だから何が悪いって言うんだ?」

「栄凛にも親族がいるはずだ! 誰一人として悲しまない訳が無い!」

「アタシは誰にも泣かれなかった! 殺したい理由はこれだ」

「誰にも泣いてもらえなかったって……」

「少し考えれば分かると思うが、こうして優の妹さんの身体を借りているわけだ。つまりアタシの身体はもうこの世に無い、死んだ身だ。もう本当の姿なんて覚えてもいない、ただ本当の姿だったときの記憶はトラウマとして残されている。優は正論を言ったかもしれない、ただアタシにとってその言葉は辛い言葉なんだ」

 僕は知らない間に舞に悲しい思いをさせていたのだ。

「どっちにしてもアタシは殺すよ、殺すことによってアタシの心は満たされる。そしてこれはアタシ自信の両親に対する喧嘩だ」

 舞は喧嘩と言っているが、これこそ復讐なのだろう。

「悲しかったのか?」

「別にそんなこと無い」

 舞の言葉には重みがある。怒りや悲しみが混ざった言葉。それなのに僕は……。

「ごめん……」

「優が謝るような事じゃない」

 僕は自分自身のことしか考えていなかった、栄凛を殺すか殺さないか、殺したら悲しむ、殺さなかったら悲しまない。そう思っていた。

 だが違う、舞は殺したら悲しまない、殺さなかったら悲しむ。逆なのだ。

「まあいいさ、アタシは妹さんの身体を借りてる。優の言うとおりにしよう」

「あ……」

「なんだ?」

 言おうか迷った、どっちにしても悲しい思いをする人がいる。つまり僕が言っていた事は、どちらかを選ばないと矛盾する。ならば、両親を殺した栄凛が死ねばいい。

「やっぱり……栄凛を……」

「聞こえないだろう、はっきり言え」

 まだ躊躇ってしまう。でも、言わなければ舞が傷つく。

「――栄凛を……殺そう」

「優……」

 僕の言っていることが難解なのか、変な顔をしながら僕をまじまじと見つめてくる。

「さっきあれだけ否定していたのに、何で今頃心変わりしたんだ?」

「舞の悲しむ顔が見たくないんだ」

 もう誰も悲しんで欲しくなかった、それが僕の願いだった。

「……あはっ、あはっ! 最高に嬉しいよ、それはプロポーズか何かかな?」

 気味の悪い高笑いを響かせながら、なぜか激しく勘違いされた様だ。

 でも、いつもの舞だ。これで良い、これで良いんだ。

「優の許可も得たわけだ。心おきなく斬らせてもらうよ」

「ああ、それで舞の悲しむ顔を見なくて良いなら人間一人の命なんて安いさ」

「優は面白いヤツだな、悲しむのは嫌で死ぬのは良いのか。あはっ、流石桜の息子だ」

「そんなに母親に似ているのか?」

 近所の人々にも一度も言われたことがない、僕はどちらかというと父親似だ。

「性格はそっくりだ。そしてその瞳も、眩しいねぇ」

 どうやら母親の性格はひねくれていたらしい。それの息子の僕がひねくれない訳が無い様な言い様だった。

「もう遅い、寝るか」

 舞が突然切り出す、外を見るともう暗い。時計はすでに九時半を回っていた。

「そんなに早く寝るのか?」

「刀の素振りを三千回した、優と違ってアタシはもうフラフラだよ」

「三千回!?」

「妹さんの身体はとても貧弱だからな、刀を振るということはとても力がいるんだ」

 確かに妹は運動は出来るが力は無い。リレーなどでは早いほうだと聞いていたが、重労働をしている姿を見ることは皆無だ。

「汗をかいてシャワーを浴びて、風呂場を出れば覗かれた。妹さんにもそんなことするのか?」

「するわけ無いだろ」

 何を馬鹿な事を抜かしているんだ、またバスルームで見た時の記憶が戻る。

「赤くなって……」

「そんなことは無い」

 無理矢理舞の台詞をかき消す。

「はいはい、アタシの身体……じゃなくて、妹さんの身体に欲情したんだろ? 健全な男の子の反応だよ」

「そんな満面の笑みで言われても屈しないぞ、僕は妹なんぞに欲情しない、それが健全な兄の反応だ」

 欲情なんてするものか、舞はものの見方を正す必要がある、絶対に。


「――それより何も食べてないだろ、それだけ疲れてるんだ、何か作るよ」

 少しの間が開いたので、僕も空腹だったことから舞に夕食を作ることにした。

「そうだな、食べてから寝ることにするよ」

 本当は消化してから寝た方が良いのだが、言ってもどうせ聞かないだろうからとどめておく。

 僕はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けて中身を確認する。

「簡単な物しか作れないな」

 材料から見ると、カレーか肉じゃがが出来そうだ。

「カレーと肉じゃが、どっちが良い?」

「カレー」

 即答だった。

「カレー好きなのか?」

 舞は首を大きく縦に振った、意外と子供だ。

 僕は調理に取りかかる。といっても、材料を切って、炒めて、煮込むだけ。舞はカレーが好きなようだから多めに作ろう。

 暇な時間は思考に入り浸る。舞は栄凛を確実に殺せると言っているが問題点はいくつもある。まず栄凛の場所、入院しているということは知っているが場所の特定は難しい。そして場所が特定出来たとしても、栄凛を殺すためにあの刀が必要となる、病院まで持って行く事は困難だ。せめてこの二つの問題を解決しないと栄凛は殺せない。

 そんなことを思考している間に、カレーは後十分もかからず出来てしまう。

「手伝ってくれ」

「おう」

 舞が嬉しそうにキッチンに入ってきた。

「何をすればいい?」

「リビングにはテーブルが無いから、皿とご飯を和室に頼むよ」

「おう」

「涎出てるぞ」

 あわててそれを手で拭う姿に笑みがこぼれた。そして何事も無かったように準備に取りかかる姿にも笑みがこぼれた。


 カレーが完成、和室に運ぶ。和室の戸を開けると舞はちょこんと正座で待っていた。

「できたか!」

 カレーを畳に置いて、舞にたっぷりと見せつける。舞は涎を垂らしたまま動かなくなる。

 待てと命令されたよく訓練されている犬のようだ。

「おい! しっかりしろ!」

「お、おう!」

 カレーを皿に盛りつける。真っ白のご飯の上にカレーが盛りつけられ、見事なカレーライスの出来上がりだ。

「いただきます」

 今にもがつがつという擬音が聞こえそうなくらいの食べ方だが、行儀は良い。正座、スプーンの持ちかた、どこをどう見てもジャンクフードのカレーを食べるようなテーブルマナーでは無い。

「おかわり!」

「おかわりはご自由にどうぞ」

 素早い動作で二杯目を盛りつける。そして食べる。

「栄凛の事なんだけど、いつ殺すんだ?」

「明日だ」

「明日!?」

 舞の自分勝手にはついて行けない。

「文句があるか?」

「無いけど……」

 文句は無いが、問題はある。

「大体、栄凛が入院している場所は分かるのか?」

「優が学校に行ってるときにニュースで見た。ここから近いぞ、良かったな」

 何でそんな重要なことを僕に言わないのだろうか。

「じゃあ刀はどうやって持って行く、あんな目立つ物を持ち歩くのは日本の法律上無理がある」

「優の身長があれば打刀くらいは隠せる、もう一本は無理だがな」

「身長を使う?」

「打刀は大体一メートル弱、優の身長なら可能。背中に入れるんだよ」

 確かにあれくらいだったら僕の背中に貼り付けておけば問題無いかもしれない。

「でも、不自然だ。絶対にばれる」

「やってみれば分かるさ、ちょうど良いんだよ。あはっ」

 そういって持っていた刀を僕の背中に合わせてみる。

「だろ」

 舞の言うとおりだった、綺麗に背中に収まった。

「これで問題は無くなっただろ」

 まだ問題はある。藍と舞、同じ身体を共有している、肝心なときに舞がいなければどうにもならない。

「もし、舞が現れなかったら……いつも通りの藍だったらどうするんだ?」

「つまり、アタシが妹さんの身体を乗っ取れなかったらどうするかということか」

 僕はうなずく。

「大丈夫、心配はいらない。眼鏡を外していれば、アタシは出てこれられる」

「だから舞のときはいつも眼鏡を外して……」

「そうだよ、妹さんは眼鏡に強い思い入れがあるようだ。普段は眼鏡を絶対に外そうとしない。何かあったのか?」

 眼鏡か、僕が買った眼鏡がそんなに大事だったのか。

「特に何も無いさ」

「そうか、まあそんな事は関係無いさ。眼鏡を外せばアタシが出てこられる、眼鏡をかければ出てこられないってことだ」

 これで心配な点は無くなった、栄凛を殺すための準備が整った。


 それから舞は多めに作ったカレーを完食、明日の準備をしろと言って寝てしまった。

 準備なんて何もいらない、ただ舞に任せていればいい。だから、食事の後片付けをして、風呂などをすませてから、自室のベッドに倒れ込む。

 明日は栄凛との戦い……そのことを考えると鼓動が高鳴り、目が冴える。両親を殺した犯人、殺した理由などを少し聞いてみたい。母親は過去に何をしていたのか、なぜ殺される様なことになったのか。

 明日になるのが楽しみな面もあれば、来なければいいと思う面もある。複雑な心境、逃げ出したい気分だった。


 僕は逃げられない明日へ向かって眠りについた。

長文ですがここまで読んで頂きありがとうございました。

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