あのね、ハチ
なにがあったのかと訊かれても、二瑚自身明確な答えはわからなかった。
高校受験に備えた勉強は辛いけれど、特別な志望校があるわけでもなく、入れるところに入れればいいと思っている。だから無理などしていないし、適度に息抜きをしても、二瑚の親は煩くなにかを言ってくることはない。
人間関係は少しだけ面倒だと思う。興味のないアイドルの名前を覚えなくてはならなかったり、それほど欲しいわけでもないストラップを御揃いで買ったりしなくてはならなかったりするからだ。
それでも、そうすればクラスで浮くこともないし、そうしなかったからといって虐めにあうようなクラスではない。それに、それだけの努力で居心地がよくなるのだから、周りに合わせることを特別苦に思ったことはない。
(なら、この胸のざわめきはなに?)
なに不自由のない生活を送れているのに、二瑚は時折息苦しさを感じてしまう。
湿っぽく、けれど同時に渇ききっているようにも思える、重くどんよりとしたなにか。平穏な日々を過ごしていても、そのなにかが突如胸の中で暴れ出すと、どうしようもなく不安になるのだ。なんだか無性に苛立ったり寂しくなったりするのだ。
その度に、平穏な日常が平穏ではなくなる。周りはなにも変わっていないのに、息が詰まり、一瞬にして世界が色あせ始め、見えるもの聞こえるもの全てが腹立たしく思え、最終的に世界が遠くなる。
まるで銀幕に映るつまらない映画を見ているような錯覚に陥り、全てがどうでもよくなってしまう。そのまま映画を見続けていると気分が滅入り、自分もその映画に登場する一人なのだと思い出す頃には、生きていることがバカらしく思えてくる。
なにがあったと問われても、答えなど持ち合わせていない。
世界や自分自身の全てをつまらなく見せてどうでもよくさせてしまうそれは、二瑚の胸の中に突如現れるのだ。理由などない。ただ、二瑚は湿っているけれど渇いている、重たくどんよりしたそれを手名付けられずにいるだけだ。
そして《奴》が暴れ出す度に、その考えがふと頭を過ぎる。
(ああ、もう死んでしまいたい)
夏期講習からの帰り道、橋の真ん中で立ち止まった二瑚は川を見下ろした。
午前中だけとはいえ、わざわざ制服を着て学校へ行くのは億劫だ。受験生だからとはいえ、夏休み中まで勉強をしなければならないのは流石に気が滅入る。学校にいる間はまだいい。クーラーの効いた教室にいられるのだから。
陽光が肌に突き刺さって痛い。背後を行きかう人や車の発する物音が煩い。理由もないのに苛々する。喧騒から逃れるように、二瑚は掌で両耳を塞いだ。僅かながら外の音が遠ざかった気がした。
さらさらと流れる穏やかな川の表面を眺めていると、つられて心も静まるような気がした。けれど気がするだけで、二瑚の胸の中では変わらず《奴》が暴れていて、苛立ちや不安を生み出している。
きっとあの川の下も、表面ほど流れは穏やかではなく、綺麗に見える水の中には廃棄物が沈んでいるのだろう。そう思うと、二瑚はなんだか泣きたい衝動にかられた。
「死んじゃおうかな」
呟いて、耳を塞いでいた手を柵へと伸ばす。腕に力を込めると、爪先立ちした足が僅かに宙に浮いた。
(ローファーは、脱いで揃えておくべきかな)
ぼんやりとそんなことを思いながら、二瑚は目を瞑った。頬を風が撫でていく。真夏の生温かい風だ。鼻をつくのは自然の香りではなく、排気ガス混じりの異臭だった。
死に場所にしては、居心地の悪い場所だと思った。
(どうせ死ぬなら、もっと綺麗な場所がいいかも)
自分に向かって言い訳をして、二瑚は再び地面に足を下ろした。
端から本気で死ぬつもりなどない。ただ、《奴》が胸の中で暴れている間は、この世界はつまらない映画で、二瑚はその映画の登場人物なのだ。きっとどこかに監督がいて、自分は無意識に脚本通りに動いているのだろう。
さながら二瑚は、悲劇のヒロインだろうか。
(……バカらしい)
自分の頭の中にのみ存在する、わけのわからない世界観。全て言い訳だ。
おそらく、少し生きることに疲れているのだ。或いは刺激のない生活の中で退屈を持て余しているのかもしれない。だから大した理由もなく死にたくなり、けれど本当は生きていたいから、本気で死のうとは思えないのだ。
こうして中途半端なことを繰り返す。自分はなんて我儘で贅沢で最低な人間だろう。平穏に退屈を感じるなんて。理由もなく死にたいと思うなんて。
(ほんと最低だ)
それをわかっているからこそ、二瑚は胸の中に住む《奴》の存在を誰にも相談することができなかった。誰かに相談したところで、馬鹿げていると呆れられるか、頭のおかしい子と笑われるか、命を軽んじていると軽蔑されるか――或いは怒られるに違いないのだ。
《奴》が暴れるのをやめたのか、二瑚の心が落ち着きを取り戻し、思考が少しだけすっきりとしてきた。もう嘘でも死にたい思う気持ちは微塵もない。
それでもまだこの場から動く気になれず、二瑚は再び柵へと寄り掛かる。
「駄目だよ、やめて!」
突然、背後から悲鳴にも似た声が上がった。驚いて跳ねた二瑚の肩を、ほどよく筋肉質な腕が抱きしめた。
「なっ、なに?」
「なにがあったか知らないけどさ、死んじゃダメだよ」
焦っているような男の声が耳元で叫ぶ。制服越しに伝わる体温が、先程感じた風よりも熱を持って二瑚を包み込む。生温かな、生きた人間の体温。それがお天道様の照り返しと合わさって、熱い。
「あ、あの。離してください」
状況が飲み込めずに身を固くしながら、精一杯の勇気を振り絞って二瑚は抗議した。
しかし男は二瑚を抱きしめる力を強くして、かぶりをふった。
「嫌だ。離したら死ぬんでしょ?」
泣き出しそうな男の声に、二瑚は自分が驚いているのか怖がっているのかもわからないまま、慌てて言葉を返した。
「死なない……ていうか、別に死のうとなんてしてませんから、私!」
二瑚が叫ぶと、素っ頓狂な声を上げて、漸く男の身体が離れた。
二瑚に死ぬ気がないとわかった少年は、驚かせた詫びだと、近くのコンビニでアイスを奢ると言いだした。訝しみながらも、悪意を感じさせない少年の陽気な笑顔に逆らえず、二瑚は彼の後をついて来てしまった。
しかし会計のとき、少年は財布を持っていないと言いだした。二瑚は呆れた。それでも、「お詫びのアイスを買ってあげることもできない」と言って項垂れる彼の姿を見たら、なんだか可哀想に思えてきた。そして気付けば二瑚が彼にアイスを奢っていた。
「ありがとう」
少年は満面に笑みを浮かべて言った。
嬉しそうにソーダ味のアイスを舐め始めた彼の隣に、二瑚も腰を下ろす。
コンビニの駐車場脇に置かれたベンチ。鍍金が剥がれたり汚れていたりして元の色がよくわからないそこで、二人は肩を並べている。ちょうど木陰になっていて涼しい。
青い氷の塊を器用に舌で舐めていく姿を見ていると、初対面の相手だというのに、なぜだか懐かしさを覚えた。不思議と、彼に対する警戒心が薄れていく。否、そんなものはもうとっくに消え去っている。
「ねえ、名前教えてよ」
問いながら、二瑚もアイスを袋から取り出した。
「……波知」
そう答えた少年は少しだけ挙動不審だった。
その名に二瑚は少しだけ驚いて、視線を隣に座る彼へと向けた。
肩ほどまで伸びた赤みの強い茶髪は、真夏の太陽の下でも暑苦しさを感じさせず、元からその色なのかと思うほど綺麗だ。細くやわらかそうな髪はふわふわとしていて、まるで幼子のように無邪気な笑顔を浮かべる彼によく似合っている。
(全然似てないなぁ)
波知。その名前を聞いて小学生の頃に想いを寄せていたクラスメイトの顔を思い出したのだが、隣に座る彼にその面影を見つけることはできない。初恋の彼はどちらかというと無愛想な表情が格好いい男の子で、隣の彼のような笑顔を浮かべるような人ではなかった。
「えっと……なにかな?」
困惑顔の波知に問われ、二瑚は彼の顔を凝視していたことに気付いた。
「あ、ごめんなさい。違うの」
会ったばかりの、それも異性の顔を至近距離で無遠慮に眺めてしまった。そのことが恥ずかしくて、二瑚は体温が上がっていくのを感じながら慌てて視線を逸らした。
「あの、犬をね、思い出しちゃって。昔飼っていた犬の名前も……ハチだったから……」
なにか言わなくてはと思い、咄嗟に口をついて出た言葉だった。実際、二瑚はハチと名付けた犬を飼っていたことがあるので嘘ではない。だからと言って、そんな理由で人の顔を見つめるというのも可笑しな話である。
「えっと……だから……」
結局まともな言い訳も思いつかず、二瑚は手元のアイスをかじった。早くも溶けかけているアイスを気にしているという体で、どうにか羞恥心から逃れようとする。
「そっか。二瑚は、その犬が好きだった?」
二瑚の言動を怪しむでもからかうでもなく、波知はなんだか嬉しそうに表情を緩めながら訊いてきた。彼は犬好きなのだろうか。
「うん。大切な、大好きな家族だった」
だから亡くなったときは哀しくて毎日泣いていたのだと話すと、波知の手が無言で頭に乗せられた。そのまま、優しく髪を梳くように頭を撫でられる。
二瑚は再び驚いて波知を見上げた。歳の近い異性にこんなことをされるのは恥ずかしかったが、なぜだか哀しそうに眉尻を下げている波知を見ると、やめてとは言えなかった。
そのまま大人しく頭を撫でられていると、二瑚がアイスを食べ終えたのを見計らって、波知がぽつりと呟いた。
「二瑚は、本当に死のうとしてたわけじゃないんだよね?」
迷子の子どもよりも不安気な波知の声に、二瑚の心がざわりと揺れた。
また胸の奥で《奴》が暴れ始めたのではないかと心配したが、その様子はない。寧ろ《奴》が現れたときとは正反対のざわめきだ。不安はあるけれどそれは自身を押し潰すものではないし、苛立ちなんてこれっぽっちも感じられない。
波知の零れんばかりの大きな漆黒の瞳。そこに二瑚の姿が映っている。
不安はそこにあった。これは、波知が抱いている不安だ。
「さっきの二瑚、思い詰めた顔で川を睨みつけてた。それを見て、胸がぎゅって苦しくなって、慌てて二瑚を止めなきゃって――」
会ったばかりの二瑚を、彼は心の底から心配してくれている。
「僕、二瑚が死んだら嫌だよ」
「違う。本当に、違うの」
二瑚は波知の言葉を遮り、かぶりを振った。
「本当に、死にたかったわけじゃないの。ただ……」
二瑚は初めて、胸の中に住みつく《奴》の話を人にした。《奴》が暴れ出すとどうしようもなく不安になり、同時に全てがどうでもよくなってくることも。
「でも、自分でもなにが不安なのかわからなくて。なんだか、どこにいても辛くて。だから、もういっそ、ここじゃないどこかに逃げてしまいたいって」
笑うでも呆れるでもなく、波知は黙って話を聞いてくれた。
話してみて、二瑚は気付いた。《奴》が暴れ出す原因はわからないけれど、《奴》の正体がぼんやりと見えてきた気がするのだ。
日常の中で感じるストレス。不安や焦り。それは人間関係に対してであったり、将来へ対する漠然としたものであったり。やはりこれといった一つの理由はない。けれど、一つ一つがとても小さなそれらをたくさん抱え込んでいるうちに、持て余すようになってしまった。上手く飼い慣らす方法がわからず、胸の中で暴れさせてしまうのだ。
「焦燥感っていうのかな。とにかく、なんだか急に込み上げてきて、どうしようもなくなるの。そうすると、叫びたくなったり、暴れたくなったりするんだけど……」
そんなこともできずに堪えて、けれど耐えきれずに、《奴》が暴れ出す。
波知はたまに相槌をうちながら、真剣に話を聞いてくれた。
二瑚はそれを嬉しく思いながらも、自分のことを人に話すのはどうも慣れていないせいか恥ずかしくもある。深刻で真面目くさった空気も、彼女を居た堪れなくさせた。
「あはは。なんか、可笑しな話でしょ」
思わずベンチから立ち上がり、二瑚は照れ臭さを誤魔化すように笑った。
けれど切実な想いはしっかりと伝わっていたようで、彼は二瑚にあわせて笑ってみせた後に、優しく微笑みながら言った。
「二瑚は、いろいろなものが辛いんだね」
「そう、なのかな。なんだか情けないね」
来年には高校生になるのにと笑おうとして、失敗した。
「きっと、二瑚は少しだけ不器用さんなんだよ」
「不器用?」
「そう。小さな不満や不安を、みんな当たり前みたいに受け流す。或いは、ちょっとしたストレスくらいなら、スポーツや遊びなんかで発散しちゃうんだ」
波知に腕を引かれ、再びベンチに座るよう促される。
「二瑚はきっと、人より少しだけ、そういうのが苦手なんだよ」
二瑚が腰を下ろすのを待ってから、波知が訊ねた。
「ねえ、二瑚。胸の中にいるそいつが、二瑚の中に現れたのはいつ頃?」
「え?……わかんない。気付いたらいたの」
「じゃあ、今日、僕に話して、少しだけでもスッキリした?」
二瑚が素直に頷くと、波知は「良かった」と呟いて微笑んだ。柔らかな笑みと、自分に向けられた慈しみの視線。それを見た二瑚の胸に、なにか温かなものが込み上げてくる。それは優しく、いつも我が物顔で胸の奥に巣くう《奴》までも包み込んでしまった。
不思議だった。いままで手懐けることのできなかった《奴》が、波知といると大人しい。まるで奴が現れる以前に戻ったようだ。
「波知って凄いね。一緒にいると、なんだか落ち着く」
こんなに心穏やかでいられるのはいつぶりだろうか。夏の日差しの下で、二瑚は優しくそよ吹く風を感じた。
波知の隣にいるだけで、銀幕に映るつまらない映画でしかなかった世界が、身近に感じられる。そしてその世界には優しく穏やかな時間が流れていることを知れた。
思ったままを二瑚が口にすると、波知は漆黒の瞳を丸くさせ、それからやわらかな笑みを浮かべて言った。
「二瑚、デートしようか」
「え……?」
突然の提案に驚いた二瑚だったが、波知に手を引かれるがまま町中を歩きまわった。
川沿いの道に、遊具の少ない近所の公園。通気口から芳ばしい臭いを漂わせる定食屋。ウィンドウ越しに綺麗なガラス細工が輝くお店は、今より幼い二瑚がいつも立ち止った場所だ。そのすぐ側には大きな犬が苦手なおばさんが経営する、民家を改造した床屋がある。
波知はどの店を覗くでも、どこに立ち寄るでもなく二瑚を連れて歩き続けた。
二瑚は波知と肩を並べて歩きながら、ふいにある事実に気付いた。
(この道、ハチのお散歩ルート……)
以前飼っていた犬のハチを散歩に連れていくのは、二瑚の役目だった。学校へ行く前の朝や、帰って来てからの夕方。日差しの強い日も、雨の日も、暑い日も、寒い日も。二瑚はこの道をハチと歩いた。
そんな道を、いまは波知と歩いている。あの大切な家族だった犬と、同じ名前を持つ少年と。それがなんだが面白くて、二瑚は笑顔を滲ませた。
「二瑚はなにが好き?」
隣で二瑚が何を考えているかを知らない波知が、ふい質問を投げかけてくる。
「私の好きなもの?」
「そう。僕は、さっき食べた氷のアイス。昔ね、大好きだった子がわけてくれたの」
「へぇ。女の子?」
「うん。大切な家族なの。彼女も、僕にそう言ってくれたんだよ」
嬉しそうに笑う波知の横顔を見上げ、二瑚は考えてみた。私の好きなものはなんだろう。考えてみても、パッと思い浮かぶものがない。
「二瑚は? 二瑚の好きなもの、僕知りたい」
「私は……わからない。さっきのアイスも美味しいし、橋から川を眺めるのも好き」
だけど一番好きなものはわからない。
二瑚がそう答えると、波知は不思議そうに首を傾げた。
「わからなくないでしょ。二瑚は、さっきのアイスが好きで、橋から眺める川が好きなんだよ」
「でも、それは一番好きなものじゃないし」
「どうして一番を決めるの? アイスも好きで、川も好き。好きなものがたくさんあるのは幸せなことだよ」
当たり前のことのような、幼稚な考えのような。そんな波知の言葉に言葉を返せず、二瑚は瞬きを繰り返した。
「それと僕は、公園の茂みも好き。お散歩、青い空、雨上がりの臭い、人の足音、赤いランドセル、家族の笑い声」
「ランドセル? ランドセルが好きなの? なにそれ、可笑しい」
「あ、笑うなんて酷いなぁ。僕にアイスをわけてくれた女の子がね、いつも背負ってたんだよ。真っ赤なランドセルを背負って、僕に駆け寄って来るんだ。それで、朝と夕方に、散歩に連れて行ってくれたの」
懐かしい景色を想い浮かべているのか、波知の目が宙を見つめたまま細められた。
「それって幼馴染? それとも妹ちゃん?」
「んー……。大切な家族」
曖昧な答え方をした波知に首を傾げてみせても、彼は笑って誤魔化そうとする。軽く睨みつけてみせても、彼の反応は変わらなかった。
「ねえ、二瑚。もしもまた《奴》が暴れ出しそうになったら、好きなものを想い浮かべてごらん」
「え?」
「或いは、橋の上から川を眺めるのが好きなら、そうすればいい。でも今日みたいに、飛び降りようとしちゃダメだよ」
素振りだけでもダメだと、波知は念押しをした。
「世界がどうでもよく見えたら、どうでもよくないものを想い浮かべるんだ。今日僕に話したみたいに、誰かに話してみるのもいい」
二瑚はぴたりと歩みを止めた。
立ち止った二瑚を置いて数歩進んだ波知が振り返る。二瑚を見た彼の瞳に、僅かに焦りの色が浮かんだ。
きっと自分はいま、あの橋の上で爪先を浮かせたときと同じような顔をしているのだろう。どこか他人事のように二瑚は思った。
「二瑚……?」
「思い出したの。私、以前はハチに話していたの。どうってことはない、寝て起きれば忘れてしまうような小さな不安や苛立ち。愚痴は全部ハチに聞いてもらっていたの」
学校の給食に嫌いなピーマンが入っていた。誰と喧嘩をしてしまった。テストで良い点がとれなかった。お気に入りのハンカチを失くしてしまった――あの頃はなんでも、ハチに話していた。
「でも、ハチがいなくなって、私、そういうことを話せる相手がいなくなっちゃった」
その頃からだ。胸の奥に《奴》が現れて、胸の中で暴れ出し始めたのだ。
「波知の言うとおりだね。私はそういう小さな不満や憤りを、上手く発散できる方法を失くしたんだ」
「……二瑚。相手は誰でもいいんだよ」
波知は行き過ぎた僅かな距離を引き返してくると、そっと二瑚の頬に触れてきた。
「親や友達に話すことに抵抗があるなら、二瑚の好きな川に話しかければいい。亡くなったハチだっていいんだ。二瑚が話しかけてくれたら、きっと凄く嬉しいよ」
そういえば、ハチも自分が落ち込んだときや愚痴を零した後は、頬を舐めて慰めてくれた。二瑚の脳裏に、懐かしい光景が蘇る。
「二瑚、笑ってよ。ニコニコ笑顔が眩しい女の子に育ちますように。二瑚のご両親は、そう願ってその名前をつけてくれたんだよね」
「え……。なんで、なんで波知がそんなこと知ってるの?」
ぐいと身を乗り出し、頬に触れていた波知の手を掴んで二瑚は訊いた。
「ずっと昔、二瑚が教えてくれたんだよ」
「私が? 私達、以前にも会ったことがあるの?」
波知は頷いた。
「僕は怪我をして、公園の隅で倒れていたんだ。それを二瑚が助けてくれたんだよ」
波知の言っていることが、二瑚には一瞬なんのことだかわからなかった。しかし、そのときの光景はすぐに思い出すことができた。否、一度だって忘れたことはない。
十年前、小学校に入学したばかりの頃、二瑚は大きな赤いランドセルを背負って帰路を歩いていた。家まであと二百メートルという距離まで来たとき、苦しげな声が聞こえて二瑚は足を止めた。
立ち止ったのはブランコと滑り台、それから砂場だけがある小さな公園だった。砂場には誰かが置き忘れた黄色いスコップが置かれていた。
「……誰? 誰かいるの?」
二瑚はランドセルを握りしめ、低く呻くような声のほうへと向かった。苦痛を訴えるようなその声が、助けを求めていることは幼い二瑚にもわかった。
公園の奥、茂みの向こうにそれはいた。
「わんちゃん? どうしたの。……あっ、大変。怪我してる!」
そこにいたのは、赤毛の柴犬だった。クラスで一番小さな二瑚にはとても大きな犬に見えたけれど、実際は四十センチもなかったのかもしれない。
犬は足から血を流していた。よく見ると硝子のようなものが刺さっていて、それに気付いた二瑚はあまりに痛々しい光景に耐えきれず泣いてしまった。
泣きながら、二瑚は家まで走った。それから夕食の準備中だった母を引っ張ってきて、怪我をした犬を動物病院へと連れて行った。怪我の原因は、近所のゴミ捨て場に散らばった硝子だったとすぐにわかった。
治療を終えた犬を二瑚は連れて帰った。きちんと面倒をみるという約束で、飼うことを許されたのだ。その犬の名前は、二瑚が名付けた。
「……ハチ?」
とうにお別れをしたはずの家族の名前を呼ぶと、波知は笑顔で頷いた。
「わんっ」
犬の鳴き真似をした彼の赤茶色の髪が、頭の動きに合わせて揺れる。それはハチの毛と同じ色だった。
「うそ。そんな話……っ」
「二瑚は僕を助けてくれたでしょ。だから、いつか絶対に恩返しをしようと思ってたの」
「だから今日、現れたっていうの?」
「うん。二瑚、最近元気なかったでしょ。僕、ずっと心配で。またニコニコしてくれたらいいのになって、僕が二瑚を笑顔にさせてあげられたらいいのにって。ずっと思ってた」
黙って波知の話を聞いていると、自然と涙が溢れ出た。
亡くなった犬が人の姿をして現れるなんて、そんなバカな話があるものか。そう思うのに、波知の髪は見れば見るほどふさふさだったハチの毛と同じ色をしている。
「二瑚? 泣いてるの? どうして?」
慌てて顔を覗きこんできた波知の声は不安げで、二瑚を見つめる瞳は涙でも滲んでいるかのように潤んでいる。それが、記憶にあるハチの瞳と重なった。
「……ハチ。本当に、ハチなの?」
「そうだよ。二瑚に会いに来たんだよ」
波知の指が二瑚の頬を伝う涙を拭った。生前のハチも、二瑚が涙を流す度に温かく湿った舌で涙を拭ってくれていた。
「ねえ、笑って、二瑚。二瑚が笑ってると僕も笑顔になれるんだよ。二瑚に助けてもらって嬉しかったし、二瑚と暮らしている間は凄く楽しかった。最期のときも、二瑚が見守ってくれたから怖くなかったんだよ」
出会ったときには既に大きかったハチは、二瑚が小学校を卒業したばかりの頃に亡くなった。寿命だったと医者は言っていた。
「二瑚のおかげで僕、幸せだった。だからね、二瑚。なにがあっても《奴》に惑わされないで。なんとなく死にたいなんて、そんな寂しいこと言わないで。……僕、二瑚には生きててほしいんだ。だから、辛かったら泣いていいし、弱音を吐いたっていい。立ち止って、あの橋から川を眺める時間が必要なら、そうすればいい。その後で二瑚がちゃんと笑顔になれるように。《奴》が暴れないように。弱さを見せること、愚痴を零すことは悪い事じゃないよ。それで誰かを傷つけたりしない限りはね」
二瑚の頬を撫でながら、ハチはまるで幼子を諭すように、優しい声音でそう言った。
「二瑚。僕はずっと二瑚を見守ってるよ。話しかけてくれれば、いつでも耳を傾ける」
「ハチ……」
「また《奴》が暴れそうになったら、いつでも僕に言って。僕はいつだって二瑚の側にいるから。二瑚の心の中に。ね、二瑚。約束」
――もう、なんとなく死のうなんてしないで。
二瑚が頷くと、ハチは満足気に笑った。
それからハチは散歩コースを折り返し、二瑚を家まで送り届けてくれた。手を繋いだ二人が家の前まで帰ると、陽はすっかり沈んでいて、帰りが遅い二瑚を心配した母が玄関の前に立っていた。
母の姿を確認して、相手がハチといえど、異性と手を繋いでいる姿を親に見られたくなくて、二瑚は慌てて手を離した。
「二瑚! あんた今まで何処にいたの。携帯に電話したのに出ないし。寄り道するなら連絡くらい入れなさい」
「え、ごめんなさい」
咄嗟に謝ってブレザーの内ポケットに入れていた携帯電話を開くと、確かに母からの着信履歴が何件も残っていた。
「もう。無事に帰って来たからいいけど、今度からちゃんと連絡くらいしなさいよ」
玄関のドアを開いて中へ入っていく母を追いかけようとして、二瑚は背後を振り返った。ハチはこれからどうするのか、何処へ行くのか、訊ねようとしたのだが無理だった。
振り返った先にハチはいなかったのだ。
後ろにいた少年がいつ帰ったのかと母に尋ねると、二瑚の側にそんな人間はいなかったと言われた。母が二瑚の姿を確信したときには、二瑚はもう一人だったと言うのだ。
そんなはずがないと思ったが、そうだったかもしれないとも思った。亡くなった筈のハチが人間の姿になって現れたなど、そんな馬鹿な話があるわけない。
ハチが波知という少年になって二瑚に会いに来てくれたのか否か。あれは夏の蜃気楼だったのか、夢だったのか。事実は気になるようで、大して気にならなかった。真実はなんにせよ、二瑚は確かに波知に出会い、慰められ、《奴》の飼い慣らし方を知ることができたのだ。
それから二瑚は、毎日のように語りかけた。
「あのね、ハチ」
あの橋の上で。思い出の中のハチに。