不幸体質令嬢アンリエッタは幸せになりたい!〜婚活パーティーに参加したら霊感貴公子様の契約婚約者になってしまったのですが〜
「アンリエッタ……! 今日この日を持って、僕は君との婚約を解消させてもらう!」
よく晴れた青空の下、ブラン子爵家の庭園にて。
唐突にそんなことを言われたアンリエッタは唖然とした。
今日は婚約者である彼、カーティス・ブラン子爵令息に話があると呼び出されて来たのだが、まさかそんなことをいわれるだなんて思ってもみなかった。
「まあ……どうなさいましたの、カーティス様」
「どうしたもこうしたもあるか……! 君と一緒にいると、いつも不幸な目に遭わされるんだぞ! もうこれ以上我慢できない!」
美しい薔薇が咲き誇る見事な庭園には似つかわしくないぐらい、カーティスは鬼気迫る様子だ。
元々気の短いところはあった人だが、こんなに怒るなんて。
だが、婚約を解消するなどということは彼の勝手でできることではない。
ブラン子爵家は家業の商家が大変に栄えており、いわゆるお金持ち。
対するアンリエッタの生家、ルティルス伯爵家は歴史だけは長く、実態は借金だらけの貧乏貴族。
領地経営を立て直すための借金で、伯爵家を存続させていくのに必要なお金であったことはアンリエッタも理解しているが、なにせ額が大きすぎた。
一時期はこのままでは返済どころか明日の生活さえ見えないという状況まで来てしまったのだが、そこで名乗りを上げたのが、父の旧友であるブラン子爵家だった。
ブラン子爵は伯爵家に資金援助をする代わりに、アンリエッタとカーティスの婚約を結んだ。
貴族としての格を上げるため、つまりは伯爵家のネームバリューを買ったというわけだ。
そういうわけだから、二人の婚約は突発的に解消してしまえるものでは無い。
カーティスもそれは分かっているはずのことだ。
「もしかして、わたくしが少し時間に遅れてしまったことを怒っていらっしゃるのですか?」
「いや違う! それはもう今更なことだ! 君のことだから、どうせまた道を間違えたとか変な落し物を拾っただとかしてたんだろ! 考えなくても分かる!」
「ご名答ですわ。わたくしがまだなにも言っていないのに分かって下さるなんて、カーティス様は凄いですわね」
「そういうことじゃない……!」
褒めたつもりが、カーティスは声を荒らげてしまった。
今日は待ち合わせの時間に遅れないように早く家を出たつもりだったのだが、途中で道が通れなくなっていたり、困っていたご老人を手助けしたりと色々なことが起きたので、カーティスの言う通りやっぱり時間には遅れてしまったのだ。
が、それはもういつもの事なので彼が怒るにしたって今更な話だったようだ。
「では、もしかしてなにか嫌なことでもありましたの? よければわたくしがカーティス様のお悩みを聞きますわ」
遅刻を怒っているのではない、ということは原因は他にあるのだろう。
昨日まで普通だったのにいきなり婚約を解消するだなんて、よっぽどのことがあったに違いない。
「だから君こそが僕の悩みの種なんだと……!」
その時だった。
カーティスの声を遮るかのように、突然、空が曇りぽつぽつと雨が落ちてくる。
やがて雲はすぐに空を覆い、ざぁっと雨が降り注いできた。
「あら、雨が降ってきましたわね。おかしいですわ、さっきまであんなに晴れていたのに」
「ほら……! 天気がこんなにも急に変わるなんてありえないだろ!」
「でもご安心なさって。こんなこともあろうかと、傘を持って参りましたの。さ、カーティス様もお入りになって」
左腕にかけていた傘をさっと手に持ちさす。
誰がどうみたって晴天なのに傘を持ち歩いているのは、こういうことがよくあるからだった。
カーティスはアンリエッタの傘には入ろうとせず、濡れるのも構わずにため息をついた。
「なんで君は冷静でいられるんだ……!? 君と一緒にいると急に雨が降ったり雷が落ちてきたり、そんなことばっかりじゃないか!」
確かに、アンリエッタが外出すると天気が悪化することは多い。
カーティスの主張も分かるが、それでもアンリエッタは優雅に微笑んだ。
「だからこそですわ。空は気まぐれですもの。そうお怒りになったって、先のことは決められませんわ」
たとえ、雨が降ろうが風に吹かれようが動じない。
慌てたところで、天気を変える術などないだから、空が晴れるのを気長に待つしかない。
アンリエッタはそういう考え方をする人だった。
「天候だけじゃないぞ。君と遠出をすれば馬車は事故に遭うし、宿が火事になったり、森の中で遭難したりもしたじゃないか!」
「そんなこともありましたわね。あの時は本当にヒヤヒヤしましたわ。でも旅にハプニングは付き物ですもの」
「そんな軽いものじゃないだろ! 毎回だぞ、毎回事故に遭ったり遭難したりする旅なんて、あってたまるか!」
きっと眦を釣りあげて、カーティスは子供のように怒鳴り散らしている。
そう言いつつも、婚約したばかりの頃はよくアンリエッタを旅行に連れて行ってくれたのだ。
だが今はすっかりアンリエッタとの外出を疎んでいる様子。
アンリエッタにとってはどれも、一つ一つが新鮮で大切な思い出なのだが、カーティスにとってはそうではなかったようだ。
「まあまあそうお怒りになさらないで。そんなに濡れてしまっては、風邪を引いてしまいますわよ」
「僕はいい。君が風邪を引く方が困る。また前みたいに、君の風邪が君の家の家族や使用人だけじゃなくて街のあちこちに広がったりしたら困るからな……!」
「そんなことになったりはしませんわよ。その話は、皆さんが偶然揃って風邪を引いてしまっただけのことでしたわ」
カーティス様は心配性ですのね、とアンリエッタはにこやかに笑う。
あの時期は妙な寒暖差で風邪を引く人が多く、アンリエッタもそのうちの一人でしかなかったのだが、それ以来カーティスはアンリエッタが風邪を引くと大変なことになると言って聞かないのだ。
「君はお気楽すぎる! いい加減にするんだ君がちょっとやそっとじゃへこたれないのは美点だと思うがね、もう僕は我慢できない」
カーティスの声が少し低くなる。
「舞踏会に出席した時だって、とんでもないことをしでかしてくれたじゃないか。他人にぶつかってワインをかけられるし、僕の自慢のアクセサリーはどこかに失くしてしまっただろう!」
「……そ、それは」
途端に、アンリエッタの微笑みが崩れる。
「僕はまだ怒っているんだぞ。君が僕の指輪をどこかに落っことしたのを」
アンリエッタがかつてないほどカーティスを怒らせてしまった出来事だ。
この話を出されると、アンリエッタはもうひたすらに謝ることしかできない。
「あの時のことは、本当に申し訳なく思っていまして……」
「最高級のアメジストだったんだぞ! 君には価値が分からないだろうけどね、あれひとつで君の家の借金をいくら返せると思ってるんだい!?」
アンリエッタは言葉に詰まってしまった。
ついこの間、二人で侯爵家の舞踏会に出席した時のことだ。
派手好きのカーティスはまた新しいアクセサリーを身につけていたが、今回はまた格別なものだったようで嬉しそうに自慢していたのだ。
そしてあろうことかアンリエッタは、もっと詳しく見せて欲しい、などと言ってしまった。
彼があまりに喜んでいたもので、気になってもっと見てみたいという純粋な好奇心がわいたからだ。
カーティスも気分が良かったことから、指輪を外してアンリエッタに手渡してくれた。
が、そこで事件は起きた。
アンリエッタが指輪を手に取り眺めていたその背後を大柄な男性が通り、アンリエッタにぶつかってしまう。
男性が持っていたワイングラスの中身が盛大にこぼれ、カーティスのジャケットにかかり、それと同時に体勢を崩したアンリエッタの手のひらから、指輪はぽーんと軽やかに弾かれて。
そして不幸なことに、彼らがいたのはバルコニーだった。
それも、その向こうには大きな湖がある。
アメジストは宙を舞い、バルコニーを越えて夜の闇へと消えていき、直後にカーティスの悲鳴が響き渡った。
二人は急いで探しに下りたが、なかなか見つからない。
庭の生垣の中に落ちたのか、それともすぐ側に面している大きな湖なのか。
もし湖に落ちたとしたら、暗い中で指輪ひとつを探し出すなんて難しいことだろう。
ぶつかった男性も従者を呼んで一緒に捜索してくれたが、案の定見つからずじまいで、人目もあったことからその日は諦めてカーティスは帰っていった。
湖に潜って探せばまだ可能性はあるだろうが、他人の土地で恥を忍んでそのようなことができるほど、カーティスはプライドの低い人ではなかった。
この国で最も栄えている商会のうちの一つであるブラン家の子息のカーティスにとって、必死になって指輪を探す姿を他の貴族に見られるなんて、耐え難いにもほどがあるだろう。
普段から金など有り余るほどあると周囲に豪語しているのだから、尚のことだ。
『君みたいな不幸体質の女に指輪を渡すんじゃなかった! 僕は君を一生許さないからな』
指輪が見つからないことをアンリエッタに告げたカーティスは、そう付け足していた。
「本当にごめんなさい……。指輪はちゃんと弁償させていただきますから、」
「出来もしないくせに弁償だと! ふざけるなよ、僕のアメジストを取り戻す金があるなら僕の家からの援助がなくてもやっていけるようにしろ!」
謝ろうとするものの、カーティスはそれすら遮って怒りを爆発させる。
「ですから、ちゃんと返済が終わってからアメジストの指輪を、ということが言いたかったんですのよ」
「そんなの待てるわけないだろ! 一体あと何十年僕のアメジストを待たせる気なんだ!」
「えーっと、そうですわね、ざっと数えてあと二十、三十は……」
「嘘つけ! もっとかかるだろうが! とにかく、僕はもうこれ以上君の面倒は見たくない! 今までは親の付き合いで仕方なく婚約していたけど、君といたら僕の身が持たないんだよ!」
カーティスはそう吐き捨てると、狼狽えるアンリエッタに目もくれず屋敷に戻ろうとする。
そんなに大切ならそもそも見せびらかさなければ良いのでは……と、アンリエッタは一瞬思ったものの、慌てて追いかけようとする。が、その直後のことだった。
「ひぃっ!」
「きゃっ」
ガシャーンと何かが空から落ちてきて、盛大な音を立てて砕けた。
「これは、花瓶……ですわね?」
アンリエッタとカーティスの間には、陶器の破片と散らばった花が。
見上げれば、三階の窓が開いているのが目に付いた。
窓を閉めようとしてうっかり誰かが落としてしまったのだろうか。
さっきまで晴天だったのに突然雨が降ってくるものだから、使用人たちも慌てているところだったというのは想像できる。
上の方からバタバタと騒がしく、悲鳴とカーティスの名前を呼ぶ複数の声が聞こえてきた。
これにはさすがに、カーティスは真っ青な顔で震えながら後ずさりをする。
またしても、アンリエッタが不幸を呼んでしまったということか。
「ほっ、ほらな! もう少し遅かったら、僕は死ぬところだったんだぞ!」
ドアに手をかけようとしていた所だったカーティスはわなわなと震えだす。
「なんてことでしょう……! カーティス様の足が速くて良かったですわね」
「だからそうじゃない! もういい! 出ていけ!」
アンリエッタは怪我がなくて良かったと本心から言ったつもりなのに、逆効果になってしまった。
不幸に慣れすぎたアンリエッタと不幸に巻き込まれてばかりのカーティスでは視点が違うのに、ついうっかり失敗してしまう。
「申し訳ありません、またわたくしはカーティス様を不快にさせてしまったのですね……」
しゅんと小さくなってしまうアンリエッタを見て、カーティスは何か言いたげな顔をするも、最終的にはフンっと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
「父にはもう話を通してある。いい加減諦めるんだな!」
「そ、そんな……」
ということは、ブラン子爵は婚約の解消を承諾したということになる。
いつまで経っても傾きかけの伯爵家に呆れたのか、他にカーティスの結婚相手として相応しい家が見つかったのか。
けれども確かなのは、子爵からの支援が打ち切られてしまえば伯爵家はますます生活が苦しくなるということだ。
「どうしてなのでしょう、カーティス様……」
カーティスが去っていった後、アンリエッタはぽつんと立ち尽くしてしまった。
彼に迷惑をかけている自覚はあった。
自分はやたらと不幸な目にあうことが多いことも分かっていた。
だが不幸であることを嘆いたところで現状は変わらない。
アンリエッタは不幸であることを嘆くよりもそれを受け入れ、むしろ、いかに自分が幸福であるかという点を探すことに努めていた。
それは、今は亡き母からの教えである。
だがそれがまさかこんな結果に繋がるとは。
カーティスとは長い付き合いで、婚約者として互いを思いやってきたつもりだったのだが、それはアンリエッタの思い違いだった。
「カーティス様の中でのわたくしは、アメジストの指輪よりも価値の無い人でしたのね……」
辛いことも大変なこともカーティスと一緒ならば、なんて考えていたのはアンリエッタだけで、カーティスにとってアンリエッタは指輪と天秤にかけたら指輪の方をとってしまえるような存在だった。
それが、何よりも悲しい。
カーティスが消え去ってから、ますます雨が激しくなる。
ざあざあと降りしきる雨音に紛れて、アンリエッタはぐすんと鼻をすすった。
じんわりと視界に涙が滲んで、溢れそうになる。
カーティスは確かに派手好きでよく購入した品を自慢していた。
それでも、アンリエッタより金品を優先するような人ではなかったと記憶している。
カーティスの心は、アンリエッタの気付かぬうちにすっかり冷めてしまったのか。
もしかすると、あの指輪は誰か大切な人から貰った品だったのか。
いや、今までは表に出なかっただけで、内心ではアンリエッタのことを疎ましく思っていて、指輪は別れるための口実なのかもしれない。
考えれば考えるほど、嫌なことばかり想像してしまう。
だがいくら後悔したって、もうカーティスの心は変えられないだろう。
「……いいえ。だったら、わたくし、指輪より価値のある人になってみせますわ!」
アンリエッタの母は言っていた。
過去は変えられなくとも、未来は変えられる。
どんなに悲しい時でも進まなければ何も変わらないままだ、と。
泣いてばかりはいられない。
目元をぐっと拭うと、一歩踏み出し歩いていく。
自らの手で、カーティスよりももっと素晴らしい良縁を掴んでみせるしかない。
***
「それで、またフラれたってこと?」
「はい……ッ!」
「そんな男、こっちから捨ててやったと思いなさいよ! あなたもうこれで何度目なの!?」
数日後、アンリエッタは生来の友人であるミレーヌの元を訪ねていた。
より良い結婚相手を探すなら、自分一人で地道に探すよりも人脈を頼るべき。
そう思い、最も頼りになる彼女の元を選んだのだが、話を聞くやいなやミレーヌは険しい顔で怒り出してしまった。
ミレーヌは昔からの友人なので、アンリエッタの婚約破棄歴をよく知っていた。
カーティスとの出来事は、なにも初めてのことではない。
これまでもアンリエッタは、アンリエッタが不運すぎることが理由で何度も婚約を破棄され婚約者に逃げられ続けていた。
「そもそも、最初からあの男はやめた方がいいって言ったじゃないのよ」
「でも、それはわたくしでは決められないことですし……」
ミレーヌの勢いに気圧されつつ、呑気にあははと笑えば彼女は呆れたようにため息をついた。
「伯爵もあなたも、人を見る目がないの」
「おっしゃる通りです! あ、でもお友達選びのセンスだけは抜群ですよ! ミレーヌという大切な親友がいるのですから!」
「あなたね、私にお世辞言ったってしょうがないでしょ。それより、この先どうするつもりなのよ。十二回婚約破棄されたことを誤魔化すにしたって、限度があるわよ」
そう言いながらティーカップをまるで酒のように煽る。
ミレーヌも伯爵家の令嬢だが、経済的にはミレーヌの家の方が断然豊かだ。
いつも貴族令嬢らしく流行りのドレスを身にまとい、所作も優雅で、婚約者こそまだ決まっていないが社交界ではその美貌から注目を集めている。
殿方に理不尽な理由で婚約破棄をされる、なんて出来事とは縁遠い存在だと言えるだろう。
「お父様はなんて仰られてるの」
「迷惑をかけてすまない、と泣かれました」
「はぁ……でしょうね」
あれから、家に帰って父に報告しようすれば、ちょうど父にもブラン子爵から婚約解消の申し出をされたばかりのところだったらしい。
既に子爵と父での話し合いは終わったようで、正式に婚約は解消されることとなった。
子爵家からは、元はと言えばこちらから持ちかけた話で、一方的にそれを打ち切ろうというのだからむしろ申し訳ないと。
指輪の代金は今回の慰謝料と差し引きで帳消しにしてもらえたのが唯一の救いだ。
普通に考えれば子爵家に何の得もない話になるが、そんなおかしなことはありえない。
おそらくブラン子爵家はルティルス家よりも利益のある結婚相手を見つけたのだろう。
少なくともブラン子爵にとって利益がなければ、容易く許可するはずがない。
何となくこうなることの予想はしていたのだろう。
父は項垂れつつも、今日まで援助してもらえただけありがたい話だったと言っていた。
「そうは言っても、あなたと婚約破棄をして困るのはあの高慢ちきなおぼっちゃまだと思うんだけど」
「きっとカーティス様は新しい婚約者さんを見つけたのですよ。アメジストを弁償できないわたくしよりも価値のある素晴らしい女性を……」
「よしなさいよ、あなたは誰がなんと言おうとアメジストなんかよりもずっと価値のある人だわ。あんな偉そうな奴、新しい婚約者見つけたってすぐ嫌われるわよ。きっとお金目当ての女しかすよりってこないわ」
ミレーヌは相変わらずなかなかの毒舌だ。
美しい黒髪から彼女を黒薔薇と称する人もいるが、まさしく綺麗な薔薇には刺があるというものだろう。
「とにかく、そういうことですから何かツテはありまんか? 結婚相談所とか、婚活パーティーですとか。未婚の子女が集まるような会にわたくしも招待して欲しいのです」
「ないことはないけれど……うーん……あなたに薦めるとなると、なにか合わない気がするのよねぇ。サロンやパーティーに行くにしたって、あなたの経歴を見たら変な誤解をされそうで心配だわ」
ミレーヌとしてはアンリエッタに勧めるにはなにかが物足りないらしい。
険しい顔の彼女に瞳を潤ませながら待っていれば、彼女はふと何かを思いついた様子だ。
「ああ、そういえば……!」
「なんですか!?」
「ドノン夫人のところで、今度夜会が開催されるのよ。未婚の若者たちを集めたお見合い目的のパーティーなの。あの方、仲人をするのが大好きでいつも知り合いの貴族の子どもたちにお節介を焼いているものだから」
「ああ! もしかして、ミレーヌがこの前言っていた!」
何度かミレーヌから聞いていた人物だ。
貴族夫人にそういう世話焼きな人はありがちな話だが、婚活パーティーに参加できるのなら、アンリエッタの希望にピッタリだ。
アンリエッタはそのあたりは父に一任していたので(その結果、婚約しては破棄されの繰り返しを常に続けていたため)今まではあまり縁がなかった。
「そう。私も招待されたから行ってみたんだけど、まあ悪くなかったわよ。私好みの人はいなかったというだけで、交友を広げるのなら問題ないわ。ちょうど招待状があるから、私の代わりに行ってきてちょうだい」
断るつもりで返事を書いている途中だったのだという。
不幸続きだが幸運なこともあるものだ。
「ありがとうございます……! わたくし、必ず素敵な殿方を見つけてみせますわ!」
「下手な男には引っかからないでよ。とにかく、見つけ次第まずは私に相談して!」
「もちろんですわ!」
元気よく頷いてみせるアンリエッタに、ミレーヌは疑わしいとじとっとした視線を見せていた。
そうして、意気揚々と婚活パーティーに乗り込んだわけだが。
「あんた、呪われてるぞ」
黒髪に鮮やかな青紫の澄んだ瞳。
くっきりした目鼻立ちは怜悧そうな印象を与え、乙女なら誰もが見惚れるであろう美丈夫が、アンリエッタの片腕を捕まえて、そう睨んでいた。
「聞こえているのか。あんたは呪われている」
アンリエッタの左腕をむんずと掴み、青年は険しい顔でそう言い放つ。
こんな状況でなければ美丈夫に見とれてしまっているだろうが、それどころでは無い。
「ふ、ふ………………」
アンリエッタは肩を震わせ、口を大きくあける。
「不審者ですわーーーーッ!」
「なっ!?」
相手が怯んだその一瞬。
アンリエッタは彼を振りほどくと駆け出していく。
不審者、という聞き捨てならない単語に周囲がざわざわとこちらへ視線を向けるのも構わず、アンリエッタは一目散にバルコニーへ逃げ出した。
(これは詐欺ですわッ! 詐欺ッ! わたくし、詳しいんですのよ!)
ドレスのレースを翻し、ヒールの音を響かせながらアンリエッタは一目散に駆け出していく。
『あなたに悪霊が取り憑いています! 今すぐこの壺を買って除霊しなければ!』――――――なんていう売り文句、アンリエッタがどれほど聞いただろうか。
アンリエッタは不幸体質なだけあって、詐欺に引っかけられそうになった回数は両の手を何往復もできるぐらいにある。
あなた呪われてます! 今すぐうちのお守りを買わないと死にますよ! なんて言われたところで今のアンリエッタが簡単に引っかかるものか。
まさか婚活パーティーにまで詐欺師が潜り込んでいるとは思わなかったが、世間知らずでお金持ちのお嬢さんを引っかけてやろうとしたのだろう。
(そうはいきませんわよ! わたくし、悪魔も悪霊も取り付いているなんて何度言われたことか! せっかくの婚活パーティーをこんなところで終わらせてたまるものですか……っ、あっ!?)
突然、アンリエッタの体が前に倒れる。
ばき、と嫌な音が足元からした。
だが、アンリエッタが顔面から倒れることはなかった。
「危ない!」
「ひゃっ!」
すんでのところでアンリエッタを抱きとめてくれた人がいたからだ。
突然、大きな黒い影に包み込まれて目が回りそうになる。
ふわりと間近から慣れない香水の匂いがして、一気に心臓が跳ね上がった。
「あ、ありがとうございます……って、あなたは!」
「怪我は無いか? それと、人の話は最後まで聞いてくれ」
振り向いて相手の顔を確認した瞬間、アンリエッタは絶叫しそうになった。
なんと、助けてくれたのは今しがた振り切ってきたはずの(推定)詐欺師の美丈夫だった。
「ヒールが折れてるな。ちょっと失礼するぞ」
「え?」
彼はアンリエッタを軽々と持ち上げて横抱きにする。
急に視界が高くなった上、抱き上げられるなんて初めての経験で混乱する。
「は、話してください!」
「っ、暴れるな。椅子に下ろすだけだ……ほら」
じたばたとアンリエッタが暴れそうになったところで、彼は素早くバルコニーに備え付けられていた椅子にアンリエッタを下ろす。
「見たところ捻ったりはしていないな。痛みは?」
「な、無いですけれど」
「そうか、なら良かった。それと、俺は不審者じゃない」
彼はアンリエッタが怪我をしていないか念入りに確認してから、姿勢を正す。
「俺はサーディク・ダーンベルク。ダーンベルク侯爵家の次男と言えば分かるだろうか」
「えっ……!? あ、あのダーンベルク侯爵家の!?」
ダーンベルク侯爵家の美形兄妹……世間では有名な話だ。
長男と次男、そして長女の三人はとても美しい容姿で、見るもの全てを虜にすると言われている。
実際アンリエッタも長男を夜会で遠巻きに見たことがあったが、艶やかな長髪にすらりとした体躯で、世の女性たちが入れ込むのも頷けた。
どうりで目の前にいるサーディクも美形なわけだと納得するが、アンリエッタは、自分が彼にとんでもない扱いをしたことを思い出して硬直する。
(や、や、や、やってしまった………………!)
そして数秒後、大慌てで謝罪した。
「たっ、たたたっ、大変失礼致しました! わたくし、ルティルス伯爵家のアンリエッタと申します!」
必死の形相でぺこぺこ頭を下げる。
サーディクはそれを制すと、不思議そうに首を傾げた。
「ルティルス伯爵家の……なるほど。ヴェルレ男爵の婚約者ではなかったか? 今日は一人のようだが……」
「あ、ヴェルレ男爵との婚約は解消したのです……」
「……おっと、そうだったか。すまない、余計なことを聞いてしまった」
「いえ! お気になさらず」
何人目の婚約者だったかは言わずに、アンリエッタはごまかし笑いをする。
例に漏れず、ヴェルレ男爵もアンリエッタと婚約した途端に怪我や事故といった不運に見舞われ始めたので危険を感じられ、婚約破棄となった。
サーディクは気まずそうだが、もう過去の話なのでアンリエッタは何も気にしていない。
「あのう、それで……ダーンベルク侯爵令息様のようなお方が、わたくしにどういったご用で……」
「サーディクでいい。いいか、落ち着いてよく聞いてくれ」
彼は表情を改める。アンリエッタも、ごくりと息を飲んだ。
「あんたは呪われている。女の生霊が、あんたにまとわりついてるんだ」
「……へ?」
ぽかんとするアンリエッタに、サーディクはため息をつく。
「手を貸してくれ」
「は、はい」
由緒正しい侯爵家の嫡男が貧乏令嬢に詐欺を働く理由はない。
となると、本気でサーディクは生霊が取り憑いているのだと言っているのか。
アンリエッタは半信半疑で手を差し出す。
サーディクが手を重ね、なにか呟く。
ぱちっ、と静電気のようなものを皮膚に感じた途端。
「今、なにか……っ!?」
アンリエッタの手首に、黒いものが巻きついている。
よく見ればそれ、真っ黒な人間の髪だった。
「ひぃぃぃっ!? な、なんですかこれ!? 誰!? 何!?」
もちろんアンリエッタのものではない。
アンリエッタの髪色はピンク色で、見間違えようがない。
大慌てで髪を落とそうとして、サーディクの手を振りほどく。
だが、サーディクと離れた瞬間それは消えてしまった。
「落ち着け」
「今のは、どういうことなんですの……」
はあはあと必死に呼吸を整える。
手品にしても怖すぎるし、サーディクの表情からしてそんなことをしたわけではないと分かる。
「わっ、わたくしたち、二人して幻覚でも見たのですか」
「いいや違う。残念ながらこれは現実だ」
サーディクは少し迷ったように視線をそらしてから、打ち明ける。
「俺は昔から、こういうものが見えるんだ。今日だってパーティー会場に着いた途端怪しい気配を感じたと思ったら、全身にとんでもない量の怨念をまとわせたあんだがいたんだから驚かされたぞ」
「見えるって……」
「言葉通りだ。さっきのあれはあんたに取り憑いた生霊が発生させた怨念だ。あんなものを平然と連れ歩くなんて、呪われているどころかもはや人間の領域じゃないぞ。普通は体調が悪くなったり息苦しくなるものだ」
だから、あの時いきなり呪われているなんて掴みかかってきたと。
「ええと、そういったことは特にないのですが。ですがあれは、本当なのですよね……?」
理解はできたが、さすがに非現実的がすぎる。
確かにサーディクが触れた瞬間、アンリエッタにもおかしなものは目に見えた。
だけれど、十数年間生きてきてあんなものは初めて見たのだ。
アンリエッタは夢見がちと言われるが、意外とそういう部分は現実的でオカルトだとか幽霊だとかを一切信じていない。
「信じるか信じないかはあんた次第だ。あんたが望むのなら俺はあんたを助けてやれる。だがあんたが俺を信じられないというのなら、俺にあんたを助ける権利も理由もなくなる」
「そう、ですわよね……」
このままサーディクと別れパーティーに戻り、何事もなかったかのように婚活を続けることはできる。
だが、一度認識してしまったものをかき消すのは難しい。
アンリエッタはもう一度自身の手首に視線をやる。
(こうしている間にも、今もわたくしの手にはアレが残ったまま……)
アンリエッタの背筋を冷や汗が伝う。
見て見ぬふりはできなさそうだった。
「助けて、くださいますか」
アンリエッタのか細い声に、サーディクはしたり顔で頷いた。
「ならば、交換条件だ。俺の頼みを聞いてくれないか。その代わり、俺があんたに取り憑いた生霊を祓う」
「もちろんです! あ、でもお金となるとちょっと持ち合わせが……」
「俺と婚約してくれ」
サーディクが恭しく膝を付いて手を差し伸べる。
なんだ、婚約ならお金は払わなくて済む。アンリエッタはにこりとその手を受け取った。
「はい! 婚約……………………婚約!?!?!? 婚約ですって!? わたくしと、サーディク様が!?」
アンリエッタは驚きのあまり絶叫した。
自分に幽霊が取り憑いているという話よりも信じられない話だった。
「おい、声が大きいぞ。婚約したいからこのパーティーに来てるんだろ、そんなに騒ぐことか?」
「騒ぎますわよ!? だって、あのダーンベルク侯爵家の美形兄妹ですわよ!? かたやわたくしは落ち目の貧乏伯爵家! 釣り合いませんわよーッ!」
「家格に問題はないだろ」
「いやいやいや! それに、サーディク様ならわたくしでなくともたくさんの婚約者候補がいらっしゃるのでは!?」
「そんなものいない」
サーディクはきっぱりと断言する。
こんなに美形で世間からの注目も集めているのだ、いないはずがない。
その上彼は次男で今は王宮勤め。引く手あまたなのは間違いないだろうに。
「今回このパーティーに来たのは、俺の母親とドノン夫人が懇意にしているからだ。いつまで経っても世帯を持つ気のない俺に痺れを切らして無理やり出席させられただけで、俺は婚約者なんていらない」
「いらないのに、わたくしと婚約するのですか?」
サーディクの言っていることがよく分からず、アンリエッタは首を傾げた。
「一時的な婚約関係で良いんだ。仲睦まじいところを見せつけた後に盛大に破局してみせれば、傷心中の俺に無理やり結婚を勧めることはしなくなるだろう。それに、婚約者を見つけるまでパーティーからは抜け出せられないだろうしな」
つまり、かりそめの婚約ということか。
アンリエッタは除霊をしてもらう対価として、サーディクの独身生活を守るために恋人を演じる、と。
「あんたには、伯爵家に相応しいちゃんとした結婚相手を紹介してやるよ。これでも顔は広いんだ」
「ほ、本当ですか!」
「俺はこれでも内務省勤めだからな。不良物件なんて紹介することはない。下手な相手に仲人を頼むより安心出来ると思うぞ」
アンリエッタは目を輝かせる。
それならば、アンリエッタが断る理由はない。
幽霊も消えて、新しい婚約者も確保できて、良いこと尽くしではないか。
その上、サーディクからの紹介であれば詐欺師にも問題のある人物にも引っかかる可能性はうんと低くなる。
「ぜひこのお話、お受けさせていただきますわ!」
が、そう言った時だ。
アンリエッタの頭に、ミレーヌの疑うようなあの顔が思い浮かんできた。
『伯爵もあなたも、人を見る目がないの』――――と。
(そうでした……! 世の中、うまい話にはワケがあるというものです!)
すっかり舞い上がっていたところで、アンリエッタは冷静になる。
「……ですが、どうしてサーディク様はそこまでわたくしに親切にしてくださるのですか?」
「親切って……困ってる奴を平気で見捨てるほど、俺は薄情な奴じゃないぞ」
「そうですが、わたくしと一緒にいても良いことなんてありませんわよ。この契約だって、結果的にわたくしばかりが徳をすることになりますし……」
はっきりあなたを疑っていますと言えず、アンリエッタはあれこれと理由を並べ立てる。
サーディクが親切なのは分かったが、他人の親切ほど高いものはないとアンリエッタは理解している。
「なにか裏があるんじゃないかって疑ってるのか? 良い心がけだ」
サーディクは疑われて気を悪くするどころか、かんしんしたうように頷いた。
どういうことかと思えば、サーディクが説明してくれる。
「あんたは俺が内務省のどこに勤めてるか知らないんだったな。俺は、超自然観察局の捜査官だ」
「ちょ…………超自然?」
聞きなれない言葉だ。
内務省にそのような部署があるのも初めて耳にした。
「自然界の法則を超えた科学では説明できない出来事を指す。要は、人間には理解のできない神秘の領域の話だ」
困惑するアンリエッタに、サーディクが上着のポケットから手帳を取り出す。
中には身分証があり、超自然観察局捜査官サーディク・ダーンベルクと記されていた。
王家の紋章がしっかり載っているあたり、偽物ではないだろう。
「この世には、科学の理論を超えた現象がいくつもある。さっき見た幽霊や俺があんたにしたこともその一環だ。俺たち捜査官は、そうした人智を超えたものが引き起こす事件を解決する役職を担っている」
急に知らない世界の話が続いて、アンリエッタは目を回してしまいそうだった。
「つまりだな、あんたの身に起こっている現象を解決できるのはこの場では俺しかいない。だから、簡単に見捨てるわけにはいかないんだ」
「つまり、職務に対する正義感と」
「そうとも言えるな」
どうやら本当に親切でやってくれているようだ。
もちろん、彼の独身生活を守るという名目があるにせよ、そこには職務に対する忠誠心と誠実さが感じられる。
「ただ、この件を事件として立証するのは少し難しい。単に取り憑ついているだけで、実害は出ていないからだ。それに、万が一あんたの名前に傷がつくようなことがあったら困るだろう。だが俺が個人的に手を貸すことならいくらでも出来る」
「だから、わたくしと婚約をというわけですか」
「だな。婚約者という関係性があれば、個人的な付き合いもしやすいだろ。それに、あんた、少し気になることがあるんだ」
「なんでしょう?」
まじまじと見つめられ、アンリエッタは少々顔を赤らめる。
美丈夫に見つめられてドキドキしない乙女はいない。
だが、サーディクはアンリエッタのドキドキに構わず、じぃっとヘンテコな置物でも見るかのような目を向けてきた。
「あんたほど霊に対して鈍感な奴は見たことがない。あんたのことを詳しく研究すれば、俺の霊媒体質の解析に繋がるはずだ」
「えっ」
鈍感すぎて研究対象……さすがのアンリエッタも唖然とした。
「今でこそ捜査官なんてやってるが、俺は昔からこの体質で苦労してきたんだよ。結婚できないのものそのせいだ。力の制御は多少できるようになったが、もっと深く理解しなければ、根本の解決には繋がらない」
「ええと、ではわたくしの存在がサーディク様のお悩みの解決になるかも、と?」
サーディクは頷く。
それから、彼のいわゆる霊感についてこれまでの紆余曲折を話し出した。
「俺は子どもの頃から幽霊の類が見える人間だった。家族は優しかったが、そのせいで気味悪がられて友達も出来なかったし、いつも孤立していた。その上勉強も剣術も兄に勝てず、学校に通えば気取ったキザ野郎だって仲間はずれにされ、王宮で文官になっても俺目当ての女性が押し寄せてきて仕事にならないと左遷され………………」
「あ、あの……」
あまりの内容にズドーンと空気が一気に重くなる。
サーディクはすっかり遠い目をしていた。
「どいつもこいつも、俺の顔が好きだと近づいてきては俺の中身を知って離れていく。世間から見た俺は、火遊び相手の顔だけ男なんだよ」
「えぇ……そこまでご自身を卑下なさらなくても……」
「誇張表現なんかじゃない。俺は顔だけの男だ。取り柄が顔しかない。本当に顔だけが世間から好かれる」
真顔でとんでもないことを言っているが、サーディクが美形なのは紛れもない事実だ。
美しいがゆえの悩み。アンリエッタには縁のない悩みだった。
だが、サーディクが真剣に悩んでいるということは十分に理解できた。
自分の存在がサーディクにとって助けになるなら喜んで協力させてもらおう。
アンリエッタは不幸体質だが、それ以上にお人好しで自分よりも人の心配をしてしまうタイプだった。
「俺の愚痴はもういい。とにかく、こんなつまらないパーティーさっさと抜け出して除霊するぞ!」
「はい!」
***
というわけで、サーディクとアンリエッタが移動したのは休憩室だ。
なぜかというと、ここには鏡があるからだと。
「まず、あんたに取り憑いている生霊の姿を認識してもらう。その上で、心当たりがないか探るぞ」
幽霊は鏡に映るものと映らないものがいるそうだが、とにかくアンリエッタが取り憑いているものの姿をより強く認識しなければ話が始まらない。
ということで鏡台の前に二人で立ったが。
「待ってください、なんで背後からなんですか」
「いや、鏡を見るんだから仕方ないだろ」
「ひぇー……」
甘い香水がまた香ってきて、アンリエッタは思わず現実逃避のために目をつぶる。
背後から包み込むような姿勢で、傍から見れば恋人同士がじゃれ合っているようにしか見えない。
たしかにこれは休憩室のような人目がない場所でしかできないだろう。
分厚い胸板の感触と体温を感じていれば。
ぱちり、と電流が走る。その瞬間、アンリエッタの視界が黒く染まった。
「……っ、あ、なに、これ」
「大丈夫だ、落ち着け。息を吸うんだ」
サーディクの体の向こう側、透けて見えるのは黒い人間の形をした大きな影だ。
それは長い髪を垂らしてアンリエッタの両腕に巻き付き、さらに骨のような細くて長い両手がアンリエッタの首元を締めている。
『オマエ…………ノ………………』
地を這うような声が聞こえる。
男のような女のような、がさついたそれは複数の声が入り交じっているようにも聞こえる。
「ひぃぃぃ!」
「惑わされるな。気をしっかり持て。こいつはまだ直接危害を加えられるほどの力はない」
「何!? わたくしの!? わたくしの何がなんなんですの!?」
「お、おい!」
暴れ回った拍子でサーディクと触れ合っていた肌が離れ、アンリエッタの視界から瞬時に幽霊は消える。
ようやくアンリエッタはふうと深呼吸をする。
「はぁ〜びっくりですわ! まさか声まで聞こえるなんて! でももう安心ですわね!」
「別に、見えなくなっただけで存在自体は消えてないぞ……」
「あっ、たしかに」
俺の目にはばっちり見えてるんだ、とサーディクは言う。
視界にさえ入らなければ気にならないが、そう言われるとだんだん怖くなってきた。
アンリエッタは首元に手を当てて、異常がないか確認する。
「今のところ痛みはないのですが、もしかするとそのうち首を絞められちゃったりするんですの?」
「可能性は無いとは言えないな」
「そんなぁ……わたくし、誰かに恨まれるようなことをした覚えはないのですが」
伯爵令嬢として、そして一人の人間としてアンリエッタは自分に恥じない生き方をしてきたつもりだ。
それなのに、ここまで執念深い幽霊に取り憑かれるなんてさすがにいつもの不運だけでは説明できないだろう。
「まあ、そう深く気にするな。人違いで取り憑かれたり、無差別に憑かれることもあるんだ。あんたが悪人だなんて誰も思いやしないよ」
「そうなのですか……でも、人違いというのもそれはそれで悲しいような……」
アンリエッタはううんと唸りながら、はたとあることに気づく。
「ですが、サーディク様はいつもあのような世界を見ているのですね」
「ん? ああ、まあな。もう慣れたが」
「それはさぞお辛かったでしょう……! わたくし、身をもって体験して、ぜひともサーディク様の助けになりたいと感じました! こんな鈍感なわたくしでよければ、いくらでもサーディク様の研究材料にしてくださいませ!」
「お、おう……ありがたいが、人の心配よりまずは自分を心配しろよ。お人好しすぎやしないか?」
サーディクはなんてことのない顔をしているが、アンリエッタには衝撃的な世界だった。
身をもって体験して、サーディクのこれまでの苦労を思い知らされたような気分になったのだ。
それと同時に、自分の存在が彼の悩みを解決できるのならいくらでも協力させて欲しいと。
「お気遣いありがとうございます! わたくしの悩みもサーディク様のお悩みも、一緒に解決を目指しましょう!」
アンリエッタはどうしようもないお人好しだ。
さっきまであんなに怖がっていたのも忘れ、今では意気揚々とはしゃいでいる。
「ああ……そうだな」
そんなアンリエッタを見て、サーディクは呆れたような、微笑ましいような、なんとも言えない感情を抱えていた。
「お客様、失礼致します」
コンコン、とノックの音と共に屋敷の使用人が現れる。
急にどうしたのかと思えば、サーディクがこそりと教えてくれた。
「俺が呼んだんだ。あんたの替えの靴を借りたいって」
「まあ、そうでしたの!」
サーディクの言葉通り、使用人は靴箱を持っていた。
が、それに続いてもう一人入ってくる。
「まあまあ、あのサーディクさんが本当に女の子と……!」
パーティーの主催、ドノン夫人だ。
アンリエッタの母が生きていたら同じくらいの年齢なのだろうが、ドノン夫人は同世代の女性よりも若々しく見える。
レースの扇をぱちんととじて、彼女は鮮やかなルージュの唇をにこりとつりあげてから、アンリエッタとサーディクを嬉しそうに見比べていた。
「夫人、彼女はただ偶然助けただけにすぎませんよ」
「それにしてはずいぶん親しげだったけれど、もしかしてどこかで面識が?」
「いえ、初対面です。こんなに愛らしい人ですから、一目見れば忘れませんよ」
「あらまあ!」
サーディクは爽やかな笑顔をたたえ、アンリエッタをちらりと見やる。
まるで恋する純朴な青年のような表情に、ドノン夫人は嬉しそうに歓声を上げた。
(もしかして、もう演技は始まっているのですか……!?)
先程までの口調もさっぱりしているけれどどこか親しみやすかったが、今のサーディクはまさしく社交界の華となるような貴公子然としている。
「アンリエッタさん、今夜は災難だったわね。良ければこの靴はあなたが貰ってちょうだいな」
「えっ、よろしいのですか!? 夫人」
「もちろんよ。実は、その靴は見た目に惚れて買ったのだけれどサイズが合わなくて。あなたのような可愛らしい人に履いてもらうのが一番良いわ!」
「まあ、そうなのでしたか! でしたら、ご好意に甘えさせていただきますね」
サイズの真偽はさておき、こういう時は素直に受け取った方が良い。
いずれまた別の形で夫人には恩を返そうとアンリエッタは思う。
「でも、サーディクさんが女の子と二人きりだと聞いて驚いたけれど安心したわ。ハプニングが二人を繋ぐ縁になったなんて、なんだか素敵ねぇ」
「ええ、私もそう思います」
夫人はほほと笑っている。
こういった夜会の場では休憩室があるものだが、男女二人で入るとなると話が違う。
いわゆるそういうことをする不埒な場という認識がされるものの、今回は未婚の若者を集めたパーティーというだけあって、そのあたりの監視は厳しかった。
休憩室の前に使用人が立っており、必ず名前を記録されるので女性を無理やり酔わせて連れ込もうなどという事態が起きないようになっている。
が、それはつまりアンリエッタとサーディクが一緒にいるということがばっちりドノン夫人にも伝わるということであり。
だから今こうして、アンリエッタの顔を見に来たようだが、無事にアンリエッタはドノン夫人のお眼鏡にかなったようだ。
「あら、素敵ねぇ。やっぱり良く似合うわ。あなたにプレゼントするために買ったのだと思うぐらいよ」
ドノン夫人が履かせてくれたのは、ローズピンクのパンプスだった。
リボンとパールの飾りが上品で、アンリエッタのシンプルなドレスにも華を添えてくれる。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」
「ええ。あなたを呼んでくれたミレーヌにもお礼を言わなきゃね」
そうして、嬉しそうな夫人に見送られながら、アンリエッタたちは休憩室を出て迎えの馬車へと戻っていく。
御者が扉を開けてくれ、乗り込もうとしたその時。
「アンリエッタ」
「はい、なんでしょう」
「明日、あんたの家へ行く。お義父さまに挨拶させてくれ」
サーディクはアンリエッタの耳元でそう言うと、じゃあなと笑って手を振る。
(サーディク様、演技というか結構ノリノリでは……!? こ、これが貴公子の微笑み……!)
口調は戻ったが顔は貴公子モードのままのサーディクに、不覚にもアンリエッタはときめきを覚えていた。
***
翌日、ルティルス伯爵家の客間にて。
真剣な表情のサーディクが、手帳とペンを片手にアンリエッタの正面に座る。
サーディクはアンリエッタの婚約の打診のためにルティルス伯爵家へ来ていたはずだが、まるで聞き込み中の捜査官そのもののようだ。
「まず、あんたのここ最近の行動を全て洗い出すぞ」
「はい!」
アンリエッタは背筋を伸ばし勢いよく返事をする。
「とりあえず、一週間前からだな。どこで何をしていたか、言える範囲で構わないから教えてくれ」
「はい! 一週間前わたくしは………………………………わ、た、くし、は………………」
「どうした?」
突然声が沈んでいき顔面蒼白状態になったアンリエッタを、サーディクは怪訝そうな顔で見ている。
今日からちょうど一週間前アンリエッタは何をしていたか。
それはもちろん。
(婚約破棄されていました! なんて言えませんわー!)
心の中で絶叫する。
元婚約者であるブラン子爵家のカーティスを、それはもう手がつけられないほど怒らせてしまい婚約破棄されていた、なんて恥ずかしくてとても言えやしない。
その上、自分が不幸体質すぎるせいで何度も婚約破棄されてきた、なんていう醜聞、なんとか必死に隠してきたというのに自分の口から言えるものか。
「大丈夫か……?」
「は、はは…………ええ、もちろんですわ…………」
力なく項垂れるアンリエッタを前に、サーディクは少し迷ってから『一週間前、懸念事項アリ』と書き込んだのだった。
サーディクが昨日の宣言通りルティルス伯爵家を尋ねてきたのは、数時間前のことだった。
父の驚きっぷりはそれはもう凄まじく、まだ婚約するともなんとも言っていないのにお義父さんと呼んでくれても、なんて言い出す始末。
それもそのはず。
あのダーンベルク侯爵家の次男が、先日の夜会でアンリエッタを気に入ったから親交を深めたいとばかりにやってきたのだから、これを逃がす理由はない。
気配り上手で貞淑だとか、慎み深い性格だとか貴族の男性が好むようないかにも弁えていそうな性格であると必死にアピールをして、サーディクが良い返事をするまで解放してはくれなかった。
そうしてようやくアンリエッタが客間にやってきたわけだが、まだ婚約関係でもないのにアンリエッタとサーディクを二人きりにして父はどこかへ消えてしまった。
扉の外で使用人たちが身を潜めて様子を伺っているが、サーディクにはバレバレだった。
ちなみに、アンリエッタは気づいていないどころかまだ動揺が続いている。
「落ち着いたか?」
「はい……ええ、わたくしは落ち着いておりますが」
「手が震えてるぞ」
ティーカップを持つ手はガタガタと揺れており、アンリエッタはすぐさま机にそれを戻した。
「あの……今からお話することは、内緒にしてくださいますか?」
「もちろん。必ず約束しよう」
サーディクは真剣な顔で頷いてから、手帳を閉じてペンを片付けた。
記録もしないし、口外もしないという意思表示だ。
アンリエッタはサーディクを疑っているわけではないが、故意ではなくとも偶然知られてしまうこともある。
サーディクの気遣いに感謝しつつ、アンリエッタは意を決して口を開く。
「あのですね、わたくし……つい一週間前に婚約破棄をされまして」
「なっ……そうだったのか!? それは悪かった! ヴェルレ男爵からそのような話は聞いていないから、てっきりもっと前のことだったのかと」
「いえ、ヴェルレ男爵との婚約破棄はずっと昔のことなのです。別の方に、婚約破棄をされていました。その前も、また別の方に」
「また、ってことは……」
驚いているサーディクに、アンリエッタはこれまでのあらましをかいつまんで説明する。
双方の事情やどちらかの不義理により婚約が解消されることはあれど、こんなわけのわからない理由で何度も振られ続ける令嬢なんてそうそういないだろう。
サーディクの青紫の瞳を見ていると、どこかに落としてしまったカーティスのアメジストの指輪を思い出すようでまた違う意味のドキドキを味わうことになった。
「えーっと、つまりだな……」
話を聞き終えたサーディクが言い淀む。
こんな突拍子もない話、なんと言い換えて良いのか分からないのだろう。
「わたくしは不幸体質すぎるあまり、婚約破棄を何度もされているということなのですよ」
「そんなこと、ありえるか……?」
「ありえたのですわよ。とにかく、どの殿方もわたくしといると身の危険を感じると仰られまして」
半信半疑といった様子のサーディクに、アンリエッタはもはや取り繕う気すら起こらなかった。
悲しさや恥ずかしさを通り越してもはや苦笑いしか出てこない。
「身の危険なんて、それはさすがに相手の思い込みがすぎるんじゃないのか?」
サーディクは励ますように言ってくれるが、アンリエッタと一緒にいるだけで、雨が降り植木鉢が降り木材が降りとレパートリー豊かな不幸が降ってくることを彼はまだ知らないだけだ。
アンリエッタには帰宅途中にサーディクが事故に会わないことを祈るしかできない。
「はっ……!もしかして、わたくしの不幸体質は悪霊に取り憑かれているからなのですの……!?」
そうだとしたら説明がつくのでは、とアンリエッタは考えたのだが。
「いや、それはないな」
「えっ」
「あんたに取り憑いている霊は、さほど古いものではない。おそらく、一週間ほど前にどこかで拾ってきたんだろう」
「まるで流行り病のような言い方!」
アンリエッタはがっくりと項垂れた。
「俺の推測だが、因果関係が逆なんじゃないか? 取り憑かれたから不幸体質になったわけじゃなくて、元々不幸体質だから悪霊を呼び寄せたと考えてもいい」
「そ、そんなぁっ……」
悪霊のせいで不幸体質になったとしたらこれまでのあれこれも納得できそうだったが、どうやらそう都合良くはいかないようだ。
しかし、そう言われるとしっくりくるのもまた事実で。
(わたくしの不幸は、幽霊までも引き寄せてしまうのですね……!?)
そのうち伯爵家が天変地異に見舞われやしないかが不安になってきそうだった。
「まあそう悲観するな。俺があんたを助けると誓ったからには必ず救ってみせるさ」
「サーディク様……! もはや、あなただけが頼りですわ……!」
サーディクの励ましにアンリエッタは大袈裟なまでに喜ぶ。
泣いたり笑ったり、落ち込んだり元気になったり。
目まぐるしく表情を変えるアンリエッタを前にすると、自然とサーディクの頬は緩んでいった。
「さて、そういうわけだからあんたを助けるためにひとつ協力してもらおうか」
「もちろんです! 何でもおまかせください!」
「二週間後、皇子殿下主催の夜会が開かれる。俺の婚約者として、それに同行して欲しい」
「もちろんです! 夜会に同行……夜会ですか!? わたくしが!?」
「そんなに驚くことか? 別に、思いつきで言ったわけじゃなくてちゃんとした理由はある」
サーディクは先程アンリエッタの話を聞きながら取っていたメモを見せる。
「その夜会に、ブラン子爵令息も出席する。さらに、ヴェルレ男爵にエルテス伯爵——————あんたと関わりのあった貴族が何人も同じ会場にいるんだ」
「そ、そんな偶然が!?」
「偶然なのか、それともこれもあんたの不幸体質とやらの力なのか……ともかく、夜会の規模が大きいおかげでこちらから出向いて調査しなくても怪しい人物には接触できるんだ」
「なるほど、そういうことでしたか」
皇子殿下は賑やかな催しを好むというのは有名な話で、友人のミレーヌも招待されたことがあると言っていた。
もっとも、当の本人は派手な場所が苦手なのでずいぶん疲れた顔で帰ってきて「二度と行かない」と文句を言っていたが。
「わたくしに取り憑いた悪霊を探るだけでなく、当初のかりそめの婚約を周知させるという目的も達成出来ますし、素晴らしい好機ですわね!」
「その通り、っていうわけだ」
サーディクの独身生活を守るための婚約者役を演じるには、まさしくぴったりな場だろう。
「ま、俺のことはついででいいんだ。今のあんたはほっとけないからな」
「何をおっしゃいますか。このわたくし、一度任された役目はきっちり努めあげてみせますわ! 最高に仲睦まじい恋人同士を演じ、最高に悲劇的な別れ方をしてみせましょう!」
堂々と自信満々に宣言するアンリエッタを前に、サーディクは思わず苦笑いをしてしまいそうだった。
思いつきで頼んだ仮の婚約者という変わった役割を、こんなに熱心に向き合ってくれるとは当初は考えもしなかったことだ。
やはり彼女はとんだお人好しだろうとそう思わずにはいられなかった。
***
そして迎えた夜会当日。
アンリエッタはサーディクから贈られたドレスを身にまとい、華やかに着飾っていた。
「よく似合ってる。あんたの髪は明るいから、きっと似合うと思って選んだんだ」
「あ、ありがとうございます。サーディク様も、とっても素敵ですわ。こんなに素敵な殿方にエスコートして頂けるなんて、夢みたいで……」
「はは、褒めすぎだ。夢なんかじゃないさ」
アンリエッタが照れ隠しをすれば、サーディクは察したように笑ってくれた。
だが、夢のように思っているというのは本当だ。
誰もが振り向くような憧れの貴公子が自分の隣に立っているなんて、少し前なら想像すらしたこともなかった。
サーディクに腕を引かれ、入場する。
煌びやかなシャンデリアの光の下で、男女たちが歓談し、音楽に合わせて踊っている。
この中に、アンリエッタに取り憑いた幽霊の謎をとく鍵があるはずだ。
「行くぞ」
「はい!」
サーディクと一緒だと、こんなにも心強いなんて。
ふと見渡せば、以前アンリエッタを酷く罵り婚約破棄を一方的に突きつけた男性や、アンリエッタを嘲笑った令嬢の姿もあった。
けれど、怯えたり隠れたりすることなく、アンリエッタは堂々と胸を張って歩く。
(サーディク様と仲良しなところを見せつけるのも、契約のうちのひとつですからね!)
周囲の令嬢たちから、ちらちらと何度も視線を向けられている。
「あの格好良い男性は、ダーンベルク侯爵家の……」
「では、隣の女性はいったいどなたかしら?」
そんな囁きまで聞こえてきた。
「さて、めぼしい人物に挨拶回りでもするか」
「はい……、あれ?」
「どうした?」
ふと、人混みの中に見覚えのある姿を見かけた気がして立ち止まる。
「今、ミレーヌが……私の友人がいた気がしたのですが」
「あんたの?」
「はい。確かにそこに……」
ミレーヌのトレードマークである長い黒髪を視線で追いかける。
(あら、そういえば黒髪って……)
だが次の瞬間、アンリエッタの目に信じられないものが飛び込んできた。
「カ、カーティス様……!?」
「ん?」
ミレーヌの隣にいたのは、アンリエッタの元婚約者カーティスだった。
彼はミレーヌに腕を絡ませている。突然ミレーヌは跳ね除けるだろうと思ったが、俯いてされるがままだ。
カーティスは緩みきった気色の悪い顔でミレーヌに触れている。あの気高く、男性を寄せ付けない麗しいミレーヌに、だ。
悪夢のような光景だとしか思えない。
「わ、私がついこの間婚約破棄をされたばかりの元婚約者が、私の友人と一緒にいたんです!」
「なんだって? そりゃ一体どういう……」
「しかも、なんだか妙に距離が近いんです。その上あの子が男性に触られるのを許すなんて……!」
幻でも見たような気になってしまう。
今日はまだ一度も不幸な目にあっていないと思った矢先にこれだ。
「あの黒髪の女性か?」
「はい。ミレーヌです。伯爵令嬢で……ドノン夫人のパーティーも、彼女が招待してくれたんですよ」
「なるほどな」
サーディクは頷いてから、じっとミレーヌの後ろ姿を見つめる。
「アンリエッタ。一つ思ったんだが、いいか」
「はい」
「あんたに取り憑いた幽霊、あの女性の生霊じゃないか」
「え……?」
今、サーディクはなんと言っただろうか。
あまりの衝撃に、アンリエッタは呆然とする。
「生霊って分かるか。生きてる人間の魂が霊体になって現れるものだ。大抵無意識的に恨みやら何やらを訴えているものが多いんだが……」
「恨み!? ミレーヌがわたくしに!?」
「あんたが彼女に恨まれるようなことはしたとは思っちゃいないさ。だが、どうも気配が似ているんだ」
サーディクは眉根を寄せて考える。
大切な親友に恨まれているなんて思いたくはない。
それに、カーティスとミレーヌの関係も分からない。あの男はやめた方がいい、と言っていたはずのミレーヌが、どうしてカーティスと夜会にいるのだ。
「少し、様子を伺ってみるか」
「は、はい……」
サーディクが自然にアンリエッタの腰に手を回して抱き寄せる。
これで、仲睦まじい恋人として夜会の風景に溶け込めるだろう。
心臓を高鳴らせながら、慎重に二人へ近づいていく。
ざわめきの中から、二人の話し声が聞こえてきた。
「ミレーヌは可愛いなぁ。アイツとは大違いだよ。やっぱり僕の婚約者は君みたいな可愛い子じゃないと」
「……」
「お父様には感謝しないとだなぁ? 君も、僕と婚約できて嬉しいだろう? 僕なら、君の望むドレスも宝石も何でも与えてあげられるからね」
「……そう」
ずいぶん険悪な様子だ。
(婚約? これはどういう……)
ミレーヌは俯いて、ニコリとも笑わない。
カーティスはあまりにミレーヌが反応しないからか、舌打ちをした。
「……ふん。まあいいさ。そうやって意地を張っていればいいよ。もう君は、僕に売られたんだから」
サーディクは吐き捨てるように踵を返す。
(なんですって……!?)
思わずアンリエッタが飛び出そうとしたその時だ。
「危ないっ」
「きゃっ!」
ドンッとぶつかる音がする。
よそ見をしていた他の招待客とぶつかりそうになり、サーディクが抱きとめてかばってくれた。
が、そのまま招待客はこちらへ向かっていたカーティスにぶつかってしまい、彼女飲もっていたグラスが宙を舞う。
「きゃぁっ!」
「あぁっ!?」
ばしゃっ、とワインがカーティスの頭上に降り注いで、彼の白いシャツを染める。
「わあああ!? 僕のスーツが!? おい、なんてことを……!」
「も、申し訳ありませんわ……!」
一瞬で周囲が騒然となる。
目が合ってカーティスに気づかれるかと焦ったが、彼はそれどころでは無い様子だ。
「気をつけろ! ふざけるなよ……!」
周囲の目を気にしてか、カーティスは足早に去っていく。
彼は見栄えを何より気にしている人だから、この状態はひどく堪えるだろう。
「行っちゃいましたね……まさか、気付かれないとは」
「今日のあんたは特別綺麗だから、分からなかったんだろう。見る目のない男みたいだからな」
アンリエッタに降りかかるはずだったワインが、サーディクのおかげで回避できた結果、カーティスに降り注いでしまうとは。
婚約破棄をされてからも彼に不幸で迷惑をかけてしまっているようだ。
しかし、この騒動のおかげで隠れることはできなくなってしまった。
「アンリエッタ、どうしてここに……」
「ミレーヌ!」
「それに、そちらの男性は……」
ミレーヌが困惑したように二人を見る。
ミレーヌと会うのは、婚約破棄の報告をしたお茶会以来だった。
「初めまして。ダーンベルク侯爵家のサーディクと申します。アンリエッタさんとは、つい先日婚約させていただいたばかりでして」
サーディクは貴公子モードの微笑みにすぐ切り替える。
だが、ミレーヌの顔は浮かないままだった。
「婚約……」
彼女らしからぬ覇気のない様子に、アンリエッタはこれ以上黙っていられなかった。
「すみません。先程の会話を聞いてしまったのですが、カーティス様とは一体何があったのですか?」
ミレーヌはためらうように少し沈黙してから、口を開いた。
「さっきの話、聞いてたんでしょう。お父様に、婚約という名目であの男の家に売られたのよ」
「ずいぶん穏やかじゃない話だが、それは一体どうして?」
サーディクが優しく問いかけ聞き出そうとする。
だがミレーヌは、悔しそうに表情を歪め目に涙を溜めていた。
「お父様が、違法賭博であの男の家に莫大な借金を背負わされたのよ……!」
「そんな……!?」
「違法賭博だと? それ、あんたの父親は嵌められたってことじゃないか」
サーディク曰く、近頃裕福な貴族を狙い、違法賭博に誘い込んでイカサマで借金付けにするという事例が横行しているという。
「そうよ! でも、周りの目を気にして通報も裁判もしないで、家の体裁を保つことばかり考えて! 私のことも簡単に売り払って……!」
ミレーヌの言う通り、貴族は家の体裁を何よりも重視する。
そんな中、付き合いで行ったただの遊びのような賭け事が違法行為だったとしたら、なんとしてでも揉み消したいと思うのが大半だろう。
その思考を最大限利用し、脅迫して搾取するのだと言う。
だが、今のミレーヌの言葉に引っかかるものがあった。
「通報……あ」
二人は顔を見合わせる。
すっかり忘れそうになっていたが、サーディクは内務省勤めだ。
つまり、この話を聞いたのなら黙っているわけにはいかない立場であって。
「すみません、お嬢さん。実は俺は、こういったものでして」
サーディクは手帳を取り出して身分証を見せる。
ミレーヌは涙を拭いながら、怪訝そうにそこに書かれた文字を読んだ。
「超常現象……? ええと、あなたは内務省勤めの文官ということかしら……?」
「はい。そういうことなので、そのお話、詳しく聞かせてもらっても?」
ミレーヌの目が見開かれる。
アンリエッタは肯定するようにぶんぶんと首を縦に振った。
「大丈夫。必ずあなたのお役に立つと約束します」
「カーティス様も賭博に関わっていたのだとしたら、婚約だって解消に持込めますわ!」
なぜ突然家格を欲しがっていたブラン子爵が婚約破棄を許したのかずっと謎だったが、ようやく謎が解けた。
(そう……ブラン子爵は我が家からもっと都合の良い相手に乗り換えただけだったのね)
どうりで、簡単に婚約が解消されるはずだ。
むしろ、子爵にとっては望んでいたぐらいだろう。
サーディクと出会わず悪霊の謎を調査しようとしなければ、何も知らないままだったと思うとゾッとする。
「私、助けて貰えるの……?」
「当然だ。あなたに罪は無い」
サーディクの言葉に、ミレーヌは安堵したのか顔を覆って泣き出す。
「ごめんなさい。私、あなたが少しでも婚約の解消を止めてくれたらこんなことには、って考えてしまって……友達なのに、私は最低だわ」
「いいえ、ミレーヌは悪くありませんわ。思い詰めてしまう前に、助けられて良かったです」
アンリエッタは優しくミレーヌを抱きしめた。
周囲の視線も集まってきたところで、別室に移動してミレーヌから詳しい経緯を聞き出す。
その後、ミレーヌはカーティスと顔を合わせないよう急いで帰っていった。
明日からまた、内務省で取り調べを進めていくという方針で、サーディクもすぐに管轄部署に報告することになった。
今頃カーティスはそんなことも知らず、会場でミレーヌを探していることだろう。
「なんだかとんでもない一日だったな」
ようやくあらかた片付き、バルコニーで外の空気を吸う。
「もしかするとあの生霊は、あんたに取り憑いていたんじゃなくて助けを求めていたのかもな」
「じゃあ私は大切な友達からの助けを、ずっと無視し続けていたと……!?」
「いや、そうはならないと思うが……まあ、これで解決するだろうな。現に今、あんなに強かった悪霊の気配が、すっかり消えている」
「まあ、本当ですか……! よかった、ミレーヌの心はもう開放されたのですね!」
「あんた、やっぱり人のことばっかりだな。ま、後のことは俺たちに任せておけ」
生霊というのは、単に恨みだけで発生するわけではないらしい。
詳しいことは分からないが、やっぱりサーディクと出会わなければ大切な友人を守れなかっただろう。
この出会いには心から感謝しなければならない。
「でも結局、サーディク様の霊媒体質については何も分からないまま終わってしまいましたわ……」
二人が契約関係となったきっかけである悪霊の一件はもう解決したのだ。
このまま婚約解消なんて申し訳ない、とアンリエッタが言おうとすれば。
「そうだな。つまり、契約はまだ完了していないと考えても良いわけだ」
「え?」
サーディクはこほんと咳払いをしてから、改めてアンリエッタに向き直る。
「というわけで、まだしばらく、俺の婚約者でいてくれないか?」
「え、ええー!?」
思わぬ申し出に、アンリエッタは驚きを隠すこともできない。
「もう少しだけ、あんたをそばで見ていたいんだ。ダメか?」
「そっ、それは霊感的な意味で、ですか……!?」
「そうじゃないさ。ただ、あんたがあんまりにも面白いからってだけだ」
サーディクはくすりと笑う。
「いっそ、本当に結婚してみるか? そうすれば、あんたの求める条件に合う男をわざわざ探さなくていいだろ? それに、そもそも俺は条件にぴったりじゃないか」
「え?」
「内務省勤めで、伯爵家とも釣り合いが取れて、金もあるからあんたの家も助けてやれる。何より、顔が良い」
「それはそうですけど……!」
確かに、サーディクはとても魅力的な人だ。
優しくて親切で紳士的で、なによりアンリエッタの不幸を笑ったりしない。
サーディクともっと一緒にいられたらどれほど幸せだろうかと思わなかったと言えば嘘になる。
(でもそれは、サーディク様の望みを叶えられないことになるからと……そう、思ったのに)
当の本人が、結婚を申し出てくるなんて想像すらしなかった。
「やっぱり、ダメか?」
ちょっと切なそうに眉を寄せて微笑みを見せられたら、頷けないわけがない。
「〜っ、ダメじゃないです! むしろ、夢みたいで、こんなに幸せなことがあっていいのか信じられないくらいで……!」
「はは、夢なんかじゃないさ」
サーディクはそう言って笑うが、頬は赤くなっている。
なんてことないように装ってはいるものの、彼にとっては重大な決心だったのだ。
(これから先、どうなるかは分からないけれど……私はサーディク様と一緒に、幸せになりたい!)
アンリエッタの胸に、強い願いが湧き上がる。
出会いは偶然の縁からだったが、今やアンリエッタの中でサーディクはとても大きな存在になっていた。
「じゃ、そうと決まればこんなつまらない夜会抜け出して、さっさと賭博事件を解決させに行くぞ!」
「はい!」
いつぞやと同じ台詞で、サーディクはアンリエッタに手を差し伸べる。
そうだ、ミレーヌの事件はまだ始まったばかり。
これから先、きっとたくさんの困難が待ち受けているかもしれないが、サーディクと一緒ならきっと前に進める。
アンリエッタはそう信じて、彼の手を取った。




