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第1話:二つの凱歌が鳴る広場

 光が裂けるように開き、足裏に石畳の感触が戻った。


 いつものことだ。世界の境を越える瞬間には、ほんの一拍だけ体が宙に浮く。重力も空気も音もない、空白の隙間。それが終わると、新しい世界の匂いと温度と音が一斉に押し寄せてくる。


 今回は——祭りの匂いだった。


 焼いた肉の脂と、甘い果実酒の蒸気。石造りの建物に反響する楽器の音。色とりどりの旗が頭上を渡り、人々の歓声が地面から湧き上がるように響いている。


 自由市アーカ。南方の交易都市にして、印刷と演劇の街。


 オリヴィアは左手のスタッフを軽く握り直し、広場の端に立ったまま周囲を見渡した。二股に分かれた杖先の琥珀色の水晶が、かすかに光を帯びている。新しい世界の空気に触れた直後の、ごく微細な反応。すぐに収まるだろう。


 ——ネフラの加護が定着するまで、少し待つべきですね。


 依頼主の名を心の中で呟く。鏡映と投影の神。薄い微笑を浮かべたまま、鏡面越しにこちらを見つめていた存在。声は穏やかだったが、瞳の奥に映っていたのは好奇心とも警戒心ともつかない、奇妙な熱だった。


「記録係として振る舞いなさい。巡礼者でもよい。調査の対象は——そうね、信仰と現実の境目、とでも言えばいいかしら」


 建前としては明快な依頼だ。だが、神々の言葉をそのまま受け取る習慣は、オリヴィアにはもうない。


 広場の中央に、大きな石像が立っていた。


 鎧をまとった人物が剣を天に掲げている。台座には花と酒瓶が供えられ、周囲を人々が取り囲んでいる。祝祭の中心。英雄の像だろう。


 オリヴィアは人垣の隙間から像を観察しながら、ゆっくりと歩き始めた。


 広場を時計回りに四分の一ほど進んだとき、最初の違和感が来た。


 歌が聞こえていた。さきほどから聞こえてはいたが、広場の東寄りに立った今、その歌詞がはっきり耳に入った。


「——剣冠の獅子よ、汝の一太刀が闇を裂き——」


 力強い男声の合唱。勇壮な旋律。剣を振るう英雄を称える歌。


 悪くない曲だ、と思った。祭りにはふさわしい。


 だが、さらに四分の一ほど歩いて広場の南寄りに来たとき、別の歌が重なった。


「——星灯の智者よ、汝の詠唱が夜を解き——」


 こちらは弦楽器を伴った混声合唱。知恵と魔術で魔王を封じた英雄を称えている。旋律はまるで違う。歌われている偉業も、英雄の名も、違う。


 オリヴィアは足を止めた。


 二つの歌が同時に鳴っている。同じ広場で。同じ祝祭で。祝っている出来事は同じ——魔王の討伐。だが歌われる英雄が違う。


 それだけなら、東西で異なる英雄を称えているだけだと解釈できる。地方によって英雄が異なる世界は珍しくない。


 問題は、像だった。


 オリヴィアは広場の東寄りに戻り、中央の石像を見上げた。重厚な板金鎧、短く刈り上げた髪、厳めしい顎。剣を掲げる戦士の像。


 次に、南寄りに移動して同じ像を見た。


 ——長い外套、細身の体躯、額に星章の冠。杖を天に向ける魔術師の像。


 同じ像だった。台座は同じ。位置も同じ。供えられた花も同じ。だが見える姿が違う。


 角度の問題ではない。立つ位置によって、像そのものが変わっている。


「……これは」


 声に出したのは無意識だった。


 オリヴィアはもう一度、東と南を往復した。移動するたびに、像は滑らかに変容する。境目はない。気づけば別の姿になっている。歌もそれに合わせて、どちらか一方が優勢になる。


 位置が認識を決めている。あるいは、認識が位置に紐づけられている。


 手帳を取り出し、最初の記録を走り書きした。スタッフを脇に挟み、小さな文字を素早く連ねる。


 ——同一広場、同一像、位置依存で外見変化。東は武勇譚系、南は智謀譚系。歌も連動。単なる幻覚ではなく、周囲の人間も各位置に応じた像を「正しい」ものとして認識している様子。


 メモを書き終えて顔を上げると、近くの屋台から良い匂いが漂ってきた。


 祭りの食事。串に刺した肉と、平たいパンに何かを挟んだもの。オリヴィアの足が自然とそちらへ向いた。調査は大事だが、新しい世界に来たら現地の食事を試すのも同じくらい大事だ。少なくとも、オリヴィアにとっては。


「すみません。そちらの、パンに挟んだものをひとつ」


「あいよ、英雄カツレツね。三銅貨」


 ネフラから渡された現地通貨を数えて支払う。受け取ったそれは、薄く叩いた肉を揚げたものをパンで挟み、赤い酸味のあるソースがかかっていた。一口食べる。衣が軽く、肉の旨味がしっかりある。ソースの酸味が脂を切って、素朴だが完成度の高い味だった。


「……おいしい」


 小さく呟いて、もう一口。少食ではあるが、これは最後まで食べられそうだった。


 カツレツを片手に、オリヴィアは南寄りの屋台へ移動した。同じような屋台が並んでいる。同じパンに挟んだ料理を出している店があった。


「こちらも英雄カツレツですか?」


「そうだよ、叡智カツレツ。うちのはちゃんと香草パン粉を使ってるからね」


 名前が違う。英雄カツレツと叡智カツレツ。だが見た目はほぼ同じだ。オリヴィアは一つ購入し、食べ比べてみた。


 ——味が違った。


 同じ料理のはずだった。同じ肉、同じパン、同じ調理法に見える。だが香草パン粉と言われた途端に、確かにハーブの風味が舌の上に広がった。先ほどのカツレツにはなかった味だ。


 問題は「実際に香草が入っているかどうか」ではない。


 名前が変わると味が変わる。あるいは、説明が変わると味覚が補正される。


 オリヴィアは二つのパンを見比べた。衣の色も、肉の厚みも、今はもうどちらがどちらか分からない。食べかけのまま、手帳にメモを追記した。


 ——料理名の差異が味覚に影響。説明による認識補正が味覚にまで及ぶ可能性。要追跡。


「お嬢さん、両手にカツレツ持って手帳に書くの、器用だね」


 声をかけられて顔を上げた。


 目の前に、革の肩掛け鞄を背負った若い女性が立っていた。日に焼けた肌、短く束ねた茶色の髪、動きやすそうな麻の上着と膝丈のズボン。鞄からは封書や小包がいくつもはみ出している。配達人か何かだろう。


 その女性は、オリヴィアの顔を見て少し首を傾げた。


「……ああ、記録係さん? 巡礼の?」


 加護が機能している。ネフラの認識補完。初見の相手がオリヴィアを見たとき、違和感を抱かず、何らかの既知の枠組みに当てはめてくれる。今回は「記録係」か「巡礼者」として認識されるよう調整されているはずだった。


 だが、女性の目がオリヴィアのスタッフ——脇に挟んだ杖の先端、二股の間の琥珀色の水晶——に一瞬止まった。


「記録係にしては、変わった杖だね」


「……ええ、家に伝わるものなので」


「ふうん」


 深く追及はしなかった。ただ、その視線の止まり方が気になった。加護による認識補完が完全に機能しているなら、杖にも違和感を覚えないはずだ。


 ——揺れている、ということでしょうか。


 東寄りの屋台では「記録係」として扱われた。南寄りでは「巡礼者さんかい?」と聞かれた。そして今、この女性には「記録係」として映りつつ、杖への疑問は残っている。


 加護の補完が、位置によって揺れている。像や歌と同じように。


「あの、少しお聞きしてもよいですか」


「いいけど、配達の途中だから歩きながらでいい?」


「構いません」


 女性が歩き出し、オリヴィアはカツレツを片方ポーチにしまい——行儀が悪いと思いつつ——もう片方を食べながら後を追った。


「先ほどから広場を歩いていたのですが、あの像は……見る場所によって違う人物に見えるのでしょうか」


「ああ、レオンハルトのこと? それともセレスのこと?」


「……両方、です」


 女性は肩越しに振り返り、少しだけ笑った。


「普通はどっちか聞くんだよ。両方って言う人は珍しい」


「両方見えたので」


「それも珍しい」


 女性は路地に入り、一軒の家の戸口に封書を差し込んだ。慣れた動作だった。


「あたしはナディア。ナディア・ベル。この辺の配達と、あと——まあ、案内みたいなこともやってる」


「オリヴィアです。オリヴィア・エスメラルダ」


「綺麗な名前だね。で、オリヴィア。あの像が両方見えたってことは、あんた、どっちの版にも染まってないんだ」


「版?」


「西の連中が語る話と、東の連中が語る話。同じ魔王討伐でも、主役が違う。レオンハルトが剣で斬ったって話と、セレスが術で封じたって話。どっちも本当で、どっちも——まあ、本当じゃない」


 ナディアは次の家に小包を届けながら、淡々と続けた。


「この街はその両方が流れ込んでくる場所だから。印刷物も芝居も、西と東の両方の版が出回ってる。だから広場に立つと、自分がどっち寄りかで見えるものが変わる。歌も像もメシの味も」


「味も、ですか」


「そ。英雄カツレツは力強い味がして、叡智カツレツは繊細な味がする——って言われると、そう感じるようになる。中身は同じなんだけどね」


 オリヴィアは食べかけのカツレツに目を落とした。今自分が感じている味は、果たしてどちらの版なのか。


「……それは、暗示のようなものですか」


「もっとたちが悪いよ」


 ナディアの声が少しだけ低くなった。


「暗示は解ける。でもこっちは——物語が何百回も語られて、何千冊も刷られて、何万回も演じられると、そのうち現実のほうが辻褄を合わせ始める。味も、地形も、人の顔も」


 オリヴィアは足を止めた。


 現実のほうが辻褄を合わせ始める。


 それは、ネフラが調べたがっていたことの核心に近い。「信仰と現実改変の境目」——建前の言葉がにわかに重みを持った。


「ナディアさんは、両方見えるのですか」


「ナディアでいいよ。——うん、あたしは両方見える。どっちの版も同時に。だから配達ができるんだ。東寄りの住所と西寄りの住所が食い違っても、あたしにはどっちも分かるから」


 何でもないことのように言ったが、その能力が意味するところは軽くない。


「それは……生まれつきですか」


「境界盆地の生まれだから。あそこは西と東の話が重なって、一つの場所に二つの版が同時にある。そこで育つと、どっちか一方だけを見るほうが難しくなる」


 境界盆地。西の剣冠王国と東の星灯学都の間にある土地。


 ナディアは最後の配達物を届け終え、空になった鞄の蓋を閉じた。そしてオリヴィアのほうを向いた。


「ねえ、オリヴィア。あんた、記録係なんでしょ。この街のことを記録しに来た」


「……ええ、そのようなものです」


「だったら、ここだけ見てても足りないよ。アーカは両方の版が混ざる場所だけど、混ざり方はまだ穏やかなほうだ」


 ナディアの目が、一瞬だけ翳った。


「境界盆地はもっとひどい。版が重なりすぎて、どっちが本物か分からなくなってる場所がある。最近は——崩れてきてるところもある」


「崩れる?」


「地面が。建物が。人の記憶が。二つの版の辻褄が合わなくなると、どっちかが消えるか、両方壊れるか。最近そういうのが増えてる」


 オリヴィアはスタッフを握り直した。琥珀色の水晶が、先ほどよりわずかに鈍い光を帯びている気がした。


「知りたいなら、境界まで来るといいよ。あたしが案内する。明日の朝、南門の前で」


 ナディアはそう言って、軽く手を挙げた。


「配達のついでだから、案内料はカツレツ一個でいい。——どっちの版でもいいけど」


 冗談なのだろう。だがオリヴィアには、冗談に冗談で返す回路がない。


「……では明日、二つとも持っていきます。食べ比べていただければ」


 ナディアが目を丸くして、それから声を出して笑った。


「真面目だなあ、あんた」


 広場に戻ると、日が傾き始めていた。西陽の中で、英雄の像は長い影を落としている。


 オリヴィアは像を見上げた。今、自分の立っている位置からは——鎧の戦士と外套の魔術師が、ちょうど重なって見えた。二つの輪郭が、夕陽の中でひとつの影になっている。


 どちらが本当の英雄なのか。あるいは、どちらでもないのか。


 手帳を開き、最後の一行を書き加えた。


 ——この世界では、物語が現実を食べている。

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