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第8話 〜競馬オタク〜

朝6時3分。


目が覚めた。


時計を握ると映像が来た。


1頭だった。


中山競馬場の直線。


外の方から、誰も見ていないような位置を走っていた栗毛が、残り200メートルで突然加速する。


他の馬がみんな止まって見えるような伸び脚だった。

背中の番号が「13」。それだけが、くっきりと焼きついた。


温かかった。


*(今日は単勝か)*


スマートフォンで出走表を調べた。


中山競馬場、第8レース「如月特別」。


13番、トーセンバルカン。

単勝オッズ42倍。

前3走は着外続きで、市場からはほぼ見捨てられた馬だった。

今回も誰も買わない。


1番人気は4番・ヴィクトリアロード。

単勝オッズ3.1倍。

近走安定。


*(42倍か)*


賭け金を決めた。

今日は20万にしよう。


*(20万で42倍なら840万。単勝にしては十分だ)*


着替えて部屋を出た。


アパートの階段を下りると、2月の朝の空気が全身に当たった。

吐く息が白い。

ユニシロのダウンのファスナーをしめながら、駅へ向かった。


---


中山競馬場に着いたのは10時過ぎだった。


改札を出ると、競馬場特有の空気があった。

馬の匂い、タバコ、競馬新聞のインク。


3ヶ月この場所に通ってきた。

最初の頃はこの空気を嗅ぐたびに体が反応していた。

ギャンブラーの体が覚えている感覚だ。


今は少し違う。

それでもこの場所は嫌いじゃなかった。


指定席の入場手続きを済ませ、D列のいつもの位置に向かった。

土曜の中山はそれなりに人が入っている。


競馬場の空気は冬の寒さのまま変わらないが、外の空の色だけがわずかに明るくなってきた気がした。


席に座って、出走表と時刻を確認した。

第8レースの発走まで2時間以上ある。


コーヒーを買ってきて、馬場を眺めた。第2レースが終わったところで、次のレースの馬たちがパドックを回り始めていた。

調教師らしき人間が馬の脚を確認している。

一頭一頭に何百万、何千万という金が動いている。


それを追いかける人間が何万人もいる。


*(俺が負け続けた場所でもある)*


しばらくして、隣の席に人が来た。


小柄で細身。

丸眼鏡。

手元に競馬新聞が3紙。

膝の上にスマートフォン。


見覚えがある、という程度ではなかった。

D列に来るたびに、ほぼ必ず同じ位置にいる男だ。


男は席に座るなり新聞を広げた。

ボールペンを手に取って、何かを書き込み始めた。

こちらへの挨拶はなかった。

俺も何も言わなかった。


しばらく並んで座っていた。


男は第3レース、第4レース、第5レースと、どのレースでも同じリズムで何かを書き込み続けた。

一度も窓口に向かわなかった。

ただ、ずっと書いていた。


第5レースのとき、男が新聞の余白にびっしりと数字を書き込んでいた。

ラップタイムの推移を独自の計算式で補正しているらしかった。


*(なんか...すごいな...)*


俺はこの男を覚えている。

D列に来るたびに同じ場所にいて、同じリズムで書き込んでいた。

負けた日も、当たった日も、俺が払い戻しから帰ってくると、この男の目が少しだけこちらを向いた。


声をかけてくることは一度もなかった。


でも今日は、やけに目が合う気がする。


---


第7レースが終わったころ、男が新聞から顔を上げた。


目が合った。


今度は男が最初に口を開いた。


「……少し、よろしいですか」


「どうぞ」


「橘といいます。橘 修」


「桐島です」


「知っています」

男がそう言った。


「桐島 遊馬さん。KY Holdings株式会社・オーナー兼会長。

代表は西村公輝さん、取締役兼経理は山下さん。港区に事務所を構えている」


沈黙があった。


*(っ怖!!)*


 「....よく調べましたね」


「登記情報は公開されています」

橘が静かに言った。


*(いや、そもそも俺の名前はどこで知ったんだよ...)*


「それ以外に、私が調べたものもあります」


スマートフォンを取り出した。

画面を開いて、俺の前に差し出した。


表計算のアプリだった。

日付、競技場名、レース番号、番号、賭け式、払い戻し金額。

2ヶ月弱分のデータが並んでいた。

スクロールした。

列が止まらなかった。


*(……ラップタイムの補正まで入れてある。馬場指数の独自計算も)*


単なる記録ではなかった。

分析するための構造になっていた。

さっき余白に書いていた数式と同じものが、セルの中に組み込まれていた。


「私がD列に座り始めたのは、あなたが来るようになってから少し後です。

最初は偶然でした。ある日、あなたが3連単で高額払い戻しを受け取るのを見た。

その翌週にまた来た。また当たっていた。次の週も」


「競馬だけですか」


「ここで観察できた範囲だけです。競馬場で確認したデータに限定しています」

橘が静かに言った。


「あなたの的中率、百パーセント。この会場で私が確認した限り、外れたことが一度もない」


「はあ」


橘が少し間を置いた。


「私自身もそれなりに的中率は高い方です。単勝で的中率37%、3連複で22%、3連単で12%。

回収率は年間を通じると112%前後を維持しています。」


「あなたの百パーセントとは、別の話ですね」

橘が静かに言った。


*(徹底してる)*


「で、何が聞きたいんですか」


男がまっすぐに俺を見た。


「なぜ、毎回当たるんですか」


---


しばらく沈黙があった。


スタンドに風が吹き抜けた。


どう誤魔化すべきか、少し考えた。

嘘をついても無駄だという直感があった。

2ヶ月弱データを取り続けてきた人間に、誤魔化しは通じない。


「教えられません」


橘がわずかに眉を動かした。


「その理由だけ聞かせてもらえませんか。私も勝率は高いほうですし、データ分析にも自信があります。

ただ、あなたほど毎回毎回当てる人間を、これまで見たことがありません」


「自分でも説明できないからです」


橘が少し間を置いた。


「……どういうことですか」


「全部当てられる。なんとなくわかる。それだけが事実です」


橘がスマートフォンを見た。

それからもう一度、俺を見た。


「わかりました」


「それだけで納得できますか」


「できません」

橘が静かに言った。


「ただ、あなたが説明できないと言うなら、それ以上聞いても意味がない。

事実として受け入れるしかない」


*(割り切りが早い)*


橘が少し間を置いてから、口を開いた。


「今日は何レースに賭けるんですか」


「第8レースです」


「……同じのに賭けていいですか」


「止める理由はないです。どの番号で行くつもりでしたか」


橘がスマートフォンを開いた。

「私のデータでは2番と8番の一騎打ちだと見ています。3連複で2−8を軸に広げるつもりでした」


「単勝で13番。20万円です」


橘の手が止まった。


「……13番ですか。データ的には着外の評価です。前3走は二桁着順が続いています」


「そうですか」


橘がしばらく俺を見た。

それからスマートフォンを操作した。


「わかりました。同じ番号を買います。1万円だけ」


---


第8レース「如月特別」の発走15分前。


俺はマークシートを記入して窓口に向かった。


「13番、単勝、20万円」


窓口のおじさんが一瞬だけ手を止めた。

黙って処理してくれた。


馬券を受け取って席に戻った。


---


発走。


13番・トーセンバルカンは出遅れた。

ゲートが開いた瞬間、他の馬より半馬身遅れて飛び出した。

後方からのレースになった。


*(出遅れか)*


時計を握った。温かさは変わらない。


*(信じろ。映像で見た。あの馬は後ろから来る)*


3コーナー。

先頭集団が固まって直線に向く。

13番はまだ後方、10番手前後にいた。


*(遅い。遅すぎる。でも時計は温かい)*


4コーナー。

動いた。


外から、13番が動いた。

他の馬がまだ手応えよく走っている中で、1頭だけギアが変わったように伸び始めた。


直線。

前との差が10馬身以上あった。

それが残り400、残り300と、みるみる縮まっていく。


スタンドがざわつき始めた。

隣で橘が新聞を持ったまま固まっているのが視界の端に入った。

そこには関係ない。

俺は先頭だけを見ていた。


残り200。

まだ届かない。


*(来い)*


残り100メートル。

先頭の4番に、外から13番が並びかけた。


ゴール。


しばらく、誰も何も言わなかった。

電光掲示板に数字が光った。


「13」


確定。


*(来た。42倍。来た)*


払い戻し、20万円に対して840万円。


息を一回、ゆっくり吐いた。

まだゴールの余韻でスタンドが揺れている。


隣を見ると橘が電光掲示板を凝視したまま動いていなかった。


俺は立ち上がって、払い戻し窓口に向かった。


背後で橘が何か小さく言った。

聞き取れなかった。


---


払い戻しを受け取って席に戻ると、橘はまだいた。

スマートフォンの画面をじっと見ていた。


「いくらでしたか」

俺が聞いた。


「1万円賭けて42万円でした」


橘が静かに言った。

「……信じます」


「何か言いましたか。的中したとき」


橘が少し間を置いた。


「『やはり』と言いました。2ヶ月分のデータを見続けて、それでもどこかでまだ疑っていた。今日でその疑いがなくなりました」


俺は少し考えてから、口を開いた。


「橘さん、一つ聞かせてください。ブログを8年間続けてきた。

データを集め続けた。でも自分では勝てなかった」


「……はい」


「その8年間に、後悔はありますか」


橘がしばらく黙っていた。

スタンドの外の木が、2月の風に揺れていた。


「後悔ではないです」

橘が静かに言った。


「ただ、データで勝てると信じていた。

競馬は確率で動いている。正確な情報を十分集めれば、いつか勝てる日が来ると思っていた」


「……来なかった」


「来なかった。どれだけデータを積んでも、予測できない要素が必ず残る。

それが競馬だと今はわかっています」


橘がスマートフォンを見た。

「でも、それでもデータを捨てられなかった。意味があると信じていたから」


*(俺と似てるな。全然俺よりすごいけど)*


俺も8年間、ノートを12冊分書き続けた。

負けた理由を分析し続けた。

全部外れだったが、それでも捨てられなかった。


「橘さんのデータが意味を持つとすれば、どういう形だと思いますか」


橘が少し考えた。

「AIと組み合わせれば、精度が上がる可能性があります。

私のデータには、数値化しにくい情報が含まれています。

馬の気配、騎手の仕草、パドックでの挙動。機械には拾えない部分です。

それを構造化できれば、今より一段上の予測ができるかもしれない」


「それをやりたかったんですか」


橘が少し間を置いた。


「……はい。ただ、AIの専門知識が私にはなかったですし、そこまでは行動を起こせませんでした。」


*(8年間、一人でやってきた男だ)*


橘が少し間を置いてから言った。


「桐島さん」


「なんですか」


「あなたのことを師匠と呼んでもいいですか」


*(……なんだ、それは)*


「呼ばなくていいです」


「私の最終目標というか、私の理想が『あなたの姿』です。

的中率は、私が確認した限りでは百パーセント……。

これほどの方はいません。まさに私の理想形です」


橘が静かに言った。

「師匠以外の言葉が思い浮かびません」


*(この男は本気だ)*


少し考えた。


「……そこまで言うなら、うちの会社に来ませんか」


「月60万。橘さんのやってきたことを、うちのために使ってほしい」


橘がこちらを向いた。


「俺はどの馬が来るかだけはわかる。なぜ来るのかは、自分でもわからない。

でも橘さんのデータとつき合わせれば、パターンが見えてくる可能性がある」


橘がすぐに言った。


「……わかりました。行きます」


「即決ですか」


「現状競馬の予想記事をブログで投稿しているのですが、それらのweb収益が月10万円ほど入ってくるくらいです。

そんな人間に月60万の話をすれば、迷う理由がほとんどありません」


橘が静かに言った。

「それに、あなたのそばにいれば、私のデータが正しいかどうかを確かめられる」


*(この男は、自分の分析に対して正直だ)*


橘がまた口を開いた。


「それで、師匠と呼んでいいですか」


「呼ばなくていいです」


「桐島さんと呼びます」


「それでいいです」


しばらく並んで座っていた。

競馬場のスピーカーから次のレースのアナウンスが流れていた。


「橘さん、聞いていいですか?」


 「はい」


 「ブログの読者に対して、これまで有料サービスや予想の提供はしていませんでしたか」


 「していません。無料のブログだけです。

有料にしようかと考えたこともありましたが、私自身の的中率で有料サービスを運営するのは気が引けて」


「月3万PVの読者は、予想に金を払う可能性がある人たちです」


橘が少し間を置いた。


「PVが増えたのは、実はここ半年ほどの話なんです。

8年間は月数百から数千の間でした。

去年の夏ごろにSNSでいくつかの記事が拡散して、そこから急に伸びた。自分でも少し驚いています」


橘が静かに俺を見た。


「……予想サービスを作るということですか」


「アプリです。競馬・競輪・競艇の予想アプリ。

橘さんの分析を核にして、AIを使ったデータ処理を組み合わせる。

AIだけでは拾えない要素を橘さんの人間分析で補完する形にしたい」


橘が少し前のめりになった。


「それは……面白いと思います。ただ、AIによるデータ分析は私にはできません。さっき言いかけたことに繋がりますが」


「心当たりはありますか」


「一人います」


「大学のゼミで一緒だった人間で、今データサイエンス関連の仕事をしています。

競馬が好きで、以前私のブログを読んでいたと言っていた。

声をかければ乗ってくれるかもしれません」


「連絡は取れますか」


「取れます。今日中に連絡してみます」


「来週、その人と一緒に事務所に来てもらえますか。

うちの代表や経理にも同席してもらいます。

もしできるなら、その人も正社員で迎えるかどうかも、その場で話しましょう」


「わかりました」

橘が頷いた。


---


競馬場を出て、事務所に向かった。


港区の事務所に着くと、山下がすでに席にいた。


「おかえりなさい」


山下が顔を上げた。


競馬の払い戻し用に持ってきた紙袋を、デスクに置いた。


「840万です」


山下が立ち上がって、紙袋の中身を確認した。

帯封のかかった束を手に取り、素早く数えた。


「確認しました。処理します」


席に腰を下ろした。

西村はまだ来ていなかった。


「電話で伺った橘さんの件ですが、月60万の雇用契約を準備します。

今月は月途中からの日割りになりますが、翌月25日から正式な支払いになります」


山下がメモした。


「それと、来週いらっしゃるAI分析の方ですが、正社員での採用をご検討ということでしょうか」


「そうです。話してみてからになりますが、月額50万を想定しています」


「わかりました。

雇用契約書と社会保険の手続きを準備しておきます。

橘さんと同様、正式な支払いは入社月の翌月25日からになります」


山下が静かに言った。


ドアが開いた。


「お疲れさまです」

西村が入ってきた。


鞄を椅子に置きながら、


「遊馬、昨日メッセージで話があるって言ってたけど、何」


「2つある。新しい人間を採用した報告と、不動産の話だ」


西村が椅子を引いて座った。


「採用? どんな人」


「競馬のブログを8年続けてきた男だ。

データ収集と分析が本職で、月3万PVのブログを持ってる。

競馬場でよく会ってたんだが、ずっと俺のことを観察してたみたいで」


「……それストーカーじゃないか」


「有能なストーカーですよ、採用を検討するに値する几帳面さです」


「山下さんが言うなら信用できる」


「それと、橘さんのブログを軸に予想アプリを作りたいと思っています。

AIによるデータ分析と橘さんの人間分析を組み合わせる形で。

来週、橘さんがAI分析の専門家を連れてくるので、一応お前が代表なんだから、ちゃんと挨拶して顔合わせしておいてくれ」


「わかった。来週俺も出る」


---


「で、次は不動産の話だよな」西村がコーヒーを一口飲みながら言った。


「会社として不動産投資を進めたい。前に頼んでたやつ、どうなってる」


「それ、動いてるよ。木村さんに話したら、すぐ案件を探してくれてさ」


西村が言った。


「今のところ3件、候補が出てきてる。

一棟マンションが1件と、区分マンションが2件。

全部で購入価格は合計で20〜25億くらいかな」


西村がスマートフォンを取り出した。


「資料、後で送る。来週か再来週、山下さんを連れて一緒に見に行きたいんだけど」


「構いません」

山下が言った。


「収益性と法人の財務状況を確認してから判断しましょう。

20〜25億となると融資が必要になりますが、現在の収益実績があれば打診は十分できます」


「俺こういうの得意なんだよ」

西村が笑った。


「人と飯食いながら話してるうちに案件が出てくる、みたいな。木村さんも動きが早い」


*(こいつは、待っていても動く)*


---


事務所を出たのが夜の8時過ぎだった。


帰りの電車に乗る前に、少し遠回りした。


練馬の駅を降りて、アパートとは逆方向に歩いた。

商店街のはずれに「ふくろう」の暖簾が見えた。

灯りがついていた。


暖簾をくぐると、福田さんが顔を上げた。


「あ、遊馬くん。久しぶりだな」


「2ヶ月くらいですかね」


「それ以上じゃないか。年明けてからも来てないだろう」


「会社の手続きや事務所の引き渡しがばたばたしていて、なかなか来れなくて」


「そうか」

福田さんが串を刺しながら言った。


「ちゃんと飯は食えてたか」


「なんとか」


「なんとかって言い方が心配になるな」


「食べてます。ちゃんと」


「座りな」


カウンターの端の定位置に座った。

今日は客が少ない。

小上がりに1組いるだけだった。


それからカウンターの中ほどに、1人で飲んでいる女性がいた。


*(……あの人だ)*


見覚えがあった。

去年の秋ごろ、文庫本をカウンターに置いたまま静かに飲んでいた女性だ。

あのときも1人で、グラスの前に開いた本を置いて、ページをめくる様子もなくただ飲んでいた。


今日も文庫本がある。

でも今日は読んでいた。


「何にする」


「刺身と、焼き鳥と、ビールで」


「はいよ」


刺身が来た。

2月の刺身はブリが入っていた。

脂が乗っていた。一切れ食べた。


*(うまい)*


ビールを飲みながら、しばらく黙っていた。

福田さんが串を刺しながら、テレビのボリュームを少し下げた。


「最近、顔色がいいな」

福田さんが言った。


「そうですか」


「なんか、前と目の色が違う。前は目つきが鋭いわりに、どこか焦ってる感じがあった。今はそれがない」


「よく見てますね」


「毎日いろんな人間の顔を見てるから」

福田さんがしばらく黙っていた。

串を炭に乗せる音がした。


「仕事は順調か」


「まあ」


「まあって言い方が変わらないな、お前は」


和代さんが奥から顔を出した。


「ちゃんと食べてるの、最近」


「食べてます」


「本当に?ちゃんと食べなさいよ」


「あ、そういえば。僕、近々引っ越すんです」


「どこに?」


「南青山です」


福田さんと和代さんが少し顔を見合わせた。


「……南青山」

福田さんが繰り返した。


「遊馬君が南青山か」


「変ですか」


「変じゃないけど」

福田さんが苦笑いした。


「ここから遠くなるな」


「電車で来ますよ」


「来るか、そんな遠くから」

和代さんが言った。


「来ます」


「本当に?」


「本当に」


しばらく3人黙っていた。

焼き鳥が来た。

塩のネギマとタレのつくね。

炭の香りがした。一口食べた。


*(やっぱりうまい)*


そのとき、隣から声がした。


「……南青山、いいですよね」


振り返ると、文庫本を持ったまま、その女性がこちらを見ていた。


「すみません、聞こえちゃって」

女性が少し困った顔で言った。


「青山通り沿いって、緑が多くて好きなんです。余計なこと言いました」


「いえ」


少し間があった。


「あの……以前もここで飲まれてましたよね」


女性が少し目を丸くした。

「……覚えてるんですか」


「文庫本を置いて飲んでいたので」


「そうです。あの、私も何度か見た気はしてたんですけど、声かけるのも変かなと思って」


「桑原です」

と女性が小さく頭を下げた。


「桐島です」


「南青山に引っ越されるんですか」


「はい」


「いいですね。あのあたり、街の雰囲気が好きで。

私は三軒茶屋なんですけど、青山は空気が違うんですよ」


「そうなんですか」


「行くなら骨董通り沿いがおすすめです。セレクトショップが並んでて、散歩するだけで楽しい」


「一度散歩してみます」


少し間があって、桑原さんが手元の文庫本に目をやった。


「それ、何を読んでいるんですか」


桑原さんが表紙を向けた。

聞き覚えのない作家の名前と、短いタイトルが書いてあった。


「翻訳小説です。ちょっと重い話なんですけど、ここで読むと不思議と頭に入るんですよね」


「ここで?」


「静かじゃないですか、でも賑やかで。

家で読むより集中できる。なんか矛盾してるんですけど」


*(なんとなくわかる気がする)*


「いつもここで読んでるんですか」


「週に1〜2回は来てます。福田さんのところ、料理がおいしくて。

1人で飲むのに居心地がいいですよね」


「わかります」


それだけだった。

桑原さんはまた文庫本に目を落とした。

俺もビールに戻った。


向こうも余分なことは言わない人らしかった。


ビールを飲みながら、ふとこの店のことを考えた。

練馬に来てから、ずっとここには通っていた。


松屋かコンビニか、あるいはここか。


今は会社も作って、金銭的にも余裕がある。

それでもここのカウンターに座ると、何も変わっていない気がした。

変わったのは外側の数字だけで、この場所の空気は同じままだった。


*(変わらない場所がある、というのは悪くないな)*


2本目のビールを頼んだ。

福田さんが

「珍しいな、2本目」

と言った。


「気持ち的にも金銭的にも、少し余裕があります」


「南青山に引っ越すならそうだろ」

福田さんが笑った。


2時間ほど飲んで、勘定をした。

7,600円。1万円を出して、釣りを受け取った。


「また来てね」

和代さんが言った。


「来ます。南青山からでも」


「遠いよ、気が向いたらおいで」

和代さんが笑った。


暖簾をくぐって外に出た。


2月の夜の空気が、体を引き締めた。


---


その夜アパートに帰ると、南青山のマンションの入居書類が届いていた。

物件選びも手続きも山下に全部任せていたので、確認してサインするだけだった。


部屋の電気をつけた。


6畳一間。

染みが3つ。

いつもの3つ。


*(もうすぐここを出る)*


段ボールを開けて、ノートを取り出した。

過去の負け分析が詰まっているやつだ。


パラパラとめくった。

日付。レース名。買い目。払い戻し。

「なぜ外れたか」。「次はこうすべき」。


この繰り返しが12冊ある。


最初のページには「2016年10月3日」とある。

20歳だった。


最後に書き込みをしたのは今年の春だ。

時計を拾う前日。


「第3レース、本命外れ。やはり前走のタイムに引っ張られすぎた。次回は馬場差を補正する」

と書いてある。


翌日、時計を拾った。

その日から外れていない。


ノートに「なぜ外れたか」を書く必要がなくなった。


*(捨てるか)*


少し考えた。

捨てる気にはなれなかった。

でも、もう開くこともない気がした。


段ボールに戻した。


引っ越しのときに考えよう。


2ヶ月前、お金も仕事も家族も信用もなかったの俺が、

今は会社があって、事務所があって、3人が毎月給料をもらっていて、新しい人間が加わろうとしている。


*(変わったな)*


時計を取り出して握った。温かかった。


*(本当に君のおかげだよ。引き続きよろしく頼む)*


返事はなかった。


染みが3つある天井を見上げた。最後に見る機会もそう多くない。


*(お世話になりました)*


---


**── 残高メモ ──**


| 今話の収益(競馬2/15・純利益) | **+約800万円** |

|:--|--:|

| 2/11〜2/14の収益(4日間) | **+約850万円** |

| 南青山マンション初期費用(社宅・法人負担) | ▲約280万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約2億5,800万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約2億7,200万円** |


| 生活費・外食(2/11〜2/15) | ▲約5万円 |

|:--|--:|

| ※南青山初期費用(約280万)は法人負担・法人口座側に計上済み | |

| ※2/25の役員報酬受取は第8話に計上 | |

| 前話繰り越し(個人) | 約707万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約702万円** |


---


*【第9話 へ続く】*

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