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8/12

第7話 〜仲間〜

朝5時58分。


目が覚めた。


天井を見た。

染みが3つある。

左上の丸いやつ、真ん中のぼんやりしたやつ、右端の細長いやつ。


おはようございます。

今日も変わりないですね。


枕元の時計を握った。


映像が来た。


競輪場のバンク。

先頭誘導員が退避して、9車がもつれるように最終コーナーへ突入する。

外を回ったライン3車の先頭が捲り切れずに沈み、内から鋭く踏み込んだ「7」が抜け出す。

2着は流れ込んだ「2」。

3着に外から伸びた「8」が飛び込む映像だった。


時計が温かかった。


出場表を調べた。

京王閣競輪場、第6レース「初春杯」。


7番・三浦昭二、2番・片岡龍也、8番・宮崎貴文。

3連単の試算で70倍前後。


賭け金を絞れば1,000万のラインを超えない。


*(今日は午前中に競輪を済ませて、午後から事務所を見に行く)*


西村から昨夜メッセージが来ていた。

「木村さんに声かけてみたら、さっそく港区で面白い物件を紹介してくれた。明日の午後、一緒に見に行けないか」。


*(西村は動くのが早いなあ)*


起き上がって顔を洗った。

冷水が手に痛かった。

今日も給湯器のスイッチを入れなかった。体が覚えているのか、まだ習慣を変えるほど心が追いついていないのか、自分でもよくわからない。


---


京王閣競輪場に着いたのは10時過ぎだった。


スタンドの席に座って、時計を握り直した。温かさは変わらない。

第6レースまでまだ1時間ほどある。

売店でコーヒーを買って、バンクを眺めた。


1月の空は晴れていたが、空気が冷たかった。

コンクリートのバンクに影が落ちていて、練習走行の選手が数人、ゆっくりと周回している。

コートの前を合わせながら、コーヒーをすすった。


*(この場所も、何度来たんだろう)*


あの時計を拾う前、ここでいつも負けていた。


競輪は馬や艇と違って「人間が人間を押さえて走る」競技だ。


ラインと呼ばれる同じ府県の選手どうしが連携して逃げ・先行・番手という隊列を作り、そこに別ラインが捲りをかける。

出走表を睨んでラインの組み合わせを読んで、捲りが決まるかどうかを予想して賭ける。


頭では理解していたが、8年間それで当てたことはほとんどなかった。

展開次第で何でもひっくり返るのが競輪という競技で、「読めた」と思った瞬間に落車が起きたり、意外なラインが突き抜けたりする。


*(だが今日の映像では、三浦ラインが捲りをかけてくる外の先行ラインを内でブロックする動きが見えた。京王閣は最終コーナーが鋭いバンクで、外からの捲りが蓋をされると一気に失速する。

ブロックが決まれば後ろの番手・片岡が流れ込んで2着。8

番の宮崎は三浦ラインとは別の中団の選手で、捲り合戦が決まれば差し残る形になる。

3連単の旨みは、この宮崎の3着だ)*


*(そういう読み方がいつもできれば苦労はしなかったんだが。今は映像が教えてくれる。それでいい)*


第6レースの発走20分前に窓口へ向かった。

3連単「7→2→8」、賭け金12万円。

マークシートを機械に通すと、車券が吐き出された。

スタンドに戻って、発走を待った。


---


打鐘が鳴った。


先頭誘導員が最終周回に入ってバンクを退避する。

9車が一気にスピードを上げた。


外の先行ライン3車が先頭を目指して早仕掛けに出た。

2コーナー手前、すでに全速だった。

南関東の先行選手が引っ張るラインで、前受けした内の三浦ラインを一気に叩きにかかる形だ。


内の三浦昭二がすかさず踏み込んで蓋をする。

外のラインが上がろうとするところに、真正面から間合いを詰めてラインごと封じ込めにかかった。

京王閣のバンクは直線が短く最終コーナーが急で、外から捲りをかけようとした選手が内に締められると、そのままふくらんで失速するパターンが多い。


*(そこだ。映像と同じ動きだ)*


最終コーナー、外の先行ラインが蓋をされた状態でカーブへ突入した。

内に締められて膨らみ、失速した。

捲りが完全に死んだ。


*(来い)*


直線。

内から三浦昭二が力強く踏み込んで抜け出した。

後ろから番手の片岡龍也がそのまま流れ込む。

中団で待っていた8番・宮崎貴文が、捲り合戦が落ち着いた直線の隙間に切れた脚を差し込んできた。

前の2車との距離があったが、外から一気に詰める。


*(3着、来い)*


ゴール。

三浦昭二が押し切った。

2着片岡龍也。

3着に宮崎貴文が飛び込んだ。


「7・2・8」。確定。


払い戻し、856万円。


*(ふぅ)*


これは普通じゃない。

でも体の感覚は、もうだいぶ慣れてきた。

最初の頃は払い戻しのたびに手が震えた。


今は窓口で並びながら軽食のことを考えられる。


払い戻し窓口へ向かった。

自動払戻機に車券を差し込むと「窓口へお越しください」と表示された。


係員に案内されて有人窓口へ向かい、番号札を渡されて待った。

3分ほどで呼ばれて、紙袋を受け取った。重さを確かめた。


*(少しつ慣れてきたが、やはり払い戻しの瞬間は気分が高揚はする。)*


 山下への宿題が、また一行増えた。


---


競輪場を出たのが正午過ぎ。

タクシーで品川へ向かった。


改札を出ると、西村と山下がすでに並んで立っていた。

西村は今日はシャツにジャケットという格好で、いつものTシャツ姿とは少し違う。


「お、来た来た」西村が手を上げた。

「午前中、何かあったのか。連絡つかなかったぞ」


「用事があった」


「用事って」


「個人的な用事だ。問題ない」


西村が少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。

「まあいいか。木村さんの会社の人が案内してくれるから、もうすぐ来るはずだ」


山下が小さく会釈した。

「桐島さん、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


「木村さん、動いてくれるのが早かった」

西村が言った。

「昨日の夜、飲みながら話したら、今朝には物件を送ってきてくれた」


*(こいつの周りの人間はみんなそういう動き方をするのか、それともこいつがそういう空気を作るのか)*


5分ほど待つと、30代半ばの男が早足でやってきた。


名刺には「港南不動産 営業部 田中」とあった。


「西村さん、はじめまして。木村部長よりご紹介いただきました田中と申します」田中が頭を下げた。「こちらの方々が……」


「桐島です」


「山下です」


「桐島会長、山下様、本日はよろしくお願いいたします」


*(会長、という呼ばれ方に、まだ慣れない)*


4人でタクシーに乗り込んだ。


---


物件は港区の湾岸沿いのビルの上層階だった。


エレベーターを降りると、まず窓が目に入った。

東京湾が広がっている。


晴れた12月の午後の光を受けて、海面がきらきらと光っていた。


「こちら、142平米になります」田中が言った。

「前のテナント様が半年ほど前に退去されまして、現在空き物件となっております。

オーナー様も早期入居を希望されていることもあり、礼金はいただいておりません。

月額賃料は78万円。管理費込みで80万になります」


西村が窓際まで歩いて行って、腕を組んで外を見た。


「いい眺めだな」


「そうですね。このフロアは角部屋になっておりまして、南と東、両面が窓になっています」


俺は室内を一周した。

スケルトン状態で、床はコンクリートのまま。

柱が少なく、広さのわりに圧迫感がない。

天井が高い。


山下がメモ帳を手に室内を歩いていた。

壁を指で触ったり、窓の鍵の具合を確かめたり、エアコンの配管の位置を確認したりしている。


*(山下さんは本当に几帳面だな)*


「田中さん」西村が振り返った。

「ここを契約する場合、初期費用はどのくらいになりますか」


「はい」田中が手帳を開いた。

「敷金が賃料6ヶ月分で468万円、仲介手数料が1ヶ月分で78万円、前家賃が78万円、火災保険が5万円ほどで、契約時の費用の合計は約630万円になります。

礼金がございませんので、その分抑えられています」


「内装工事は別ですよね」


「はい、別途かかります。このままスケルトン渡しになりますので。

弊社の提携業者をご紹介することもできます。規模にもよりますが、坪15万から20万円ほどが目安です。

こちらは43坪ほどになりますので、工事費は650万から850万円の間かと」


山下が田中の話を聞きながらメモを取っていた。


「内装が終わった後の備品ですが」と山下が口を開いた。

「デスクや椅子、会議テーブル、複合機、ネットワーク機器を最低限揃えると170万円ほどかかります。合計すると初期投資全体で1,300万から1,500万円前後になります」


田中が小さく頷いた。

「おっしゃる通りかと思います」


田中が山下を見た。

「内装業者については、ご紹介できる業者がいくつかございますが」


「内装については、私の知り合いの業者に依頼します」山下が静かに言った。

「信頼できるところがありますので」


「……かしこまりました」


俺は室内をもう一度見渡した。


*(1,450万か、いいね)*


「仮押さえをお願いできますか。細かい条件は改めて詰めます」


田中が少し目を丸くした。


「……かしこまりました。では仮押さえの手続きを進めます」


西村がこちらを見て、ニヤッとした。


何も言わなかったが、目が「な」と言っていた。


---


田中を見送って、3人でビルを出た。


「カフェでも入りますか」山下が言った。

「近くにあります」


山下が先を歩いて、ビルから2分ほどのところにある静かなカフェに入った。

窓際の4人がけテーブルに座った。


「よかったな、あの部屋」西村がコートを脱ぎながら言った。

「眺めもいいし、広さも十分ある」


「そうですね」

山下がメニューも見ずにコーヒーを頼んだ。


「ただ」西村が少し真顔になった。

「家賃、月80万ってけっこう高くないか。大丈夫か」


「大丈夫だ」

俺が言った。


「大丈夫ですよ」

山下が続けた。


「現時点での収益規模からすれば、月80万の固定費は問題ありません。賃料も管理費も内装工事費も、法人の経費として計上できます。実質的な負担は数字ほど大きくない」


 「……山下さんがそう言うなら」

西村が少し安心したような顔をした。


「俺はお金のことよくわからんから、山下さんの言葉は信用できる」


「それはよかった」

山下が静かに言った。


「それに」俺が言った。


「港区の湾岸沿いで坪単価18,000円は相場のど真ん中だ。礼金がなかった分、実質的にお得な物件だった」


「さっきの田中さんの話、そのままじゃん」

西村が少し笑った。


「メモした」


「してなかっただろ」


「頭の中に」


西村がまた笑った。

「まあいいか。じゃあ決まりで」


しばらく3人で黙って、コーヒーを飲んだ。


「それにしても」

西村が山下を見た。


「さっきの数字、よく即座に出てきましたね」


「事前に物件資料は確認していました」

山下が言った。


「内見の前に概算が出ていれば、その場で判断できます。それだけです」


*(さすがだ)*


西村がコーヒーカップを置いて、少し真顔になった。

「ちょっと聞いていいか」


「何だ」


「そもそも今の会社の状態ってどうなってるんだ。金はどこから出てきてるんだ」


山下が静かに口を開いた。

「動いています。詳しくは桐島さんから改めてお伝えすることになりますが」


「大丈夫だ」俺が言った。

「詳しい話はいずれする。今はまだそのタイミングじゃない」


「……いずれって、いつだよ」


「もう少し整理がついてからだ」


西村がしばらく俺を見た。

それから山下に視線を向けた。


「山下さん、本当に大丈夫なんですか」


「大丈夫ですよ」山下が静かに言った。

「法人としての収益という形で、正式に入金が取れています。金額も相当な規模です。事務所の初期費用程度なら、問題なく対応できます」


「……そうなんですか」西村が少し安心したような顔をした。

「なら問題ないか、、、、詳しくは聞かないほうがいいよな」


「今はそうしてくれ」


「わかった」

西村がコーヒーを飲んだ。


*(西村は深く聞かなかった。そういうところがこいつのいいところだ)*


「ちなみに」

西村が少し真面目な顔に戻った。


「俺、来週から本格的に動けるんだけど。最初に何をすればいい」


「人に会え」


「人?」


「不動産、金融、法律。この3つの周辺で、顔が利く人間を探してくれ。お前のやり方で構わない。俺はそういうことが苦手だ」


「そんなことでいいのか?」

西村がニヤッとした。


「任せろ。木村さんも今日の物件の話、すごく喜んでくれてさ。他にも案件があれば声かけてくれるって言ってた」


「木村さんの信用を使った結果がちゃんと出た」


「そう。でも最初に声かけたのはただ話したかっただけで、まさか翌朝に物件送ってくるとは思わなかったけど」

西村が笑った。


「まあ、そういうもんだよな。関係作っておくと、向こうから動いてくれる」


 *(西村の人との付き合い方がいいからだろうな)*


「頼んだ」


「会長から許可が出た」

西村が大げさに頷いた。


「よし、頑張ります!」


---


翌週、山下と事務所の打ち合わせをした。


場所は山下が指定した丸の内のコーヒーショップだった。


ランチ時間が終わった後の空いた席に2人で座った。

山下はすでにノートを開いていた。


「事務所の内装業者、今日連絡を入れました。来週には現地を確認してもらえます」


「早いですね」


「早い方がいい」

山下が言った。


「もう一点。法人口座への払い戻し金の直接入金の件ですが」


「ああ」


「競馬・競輪・競艇いずれのネット投票も、払い戻しは個人口座への振り込みが基本です。法人口座への直接入金は、現状の仕組みでは難しい」


「わかりました」


「それから」

山下が少し間を置いた。


「口座開設後、桐島さんが現場で受け取った現金払い戻しが手元に残っています。競馬・競輪・スロット、各種合わせると相当な金額になっているはずです。そちらをどう処理するか、今日整理したかった」


「はい」


山下がノートに視線を落としたまま、静かに続けた。


「ギャンブルの払い戻しを法人の売上として計上する方法は、通常の会計処理では存在しません。ただ、まったくやれないかというと、そうとも言い切れない手段はあります」


「具体的には」


「現時点では詳細をお伝えできません。というか詳細は聞かない方が得策かと思われます。」


山下がそこで止めた。


俺はしばらく考えた。


「わかりました。では、ギャンブルで稼いだ現金は一旦山下さんに預けます。その後の処理はお任せするので、会社の売上にしてください」


山下が初めて、目線を手元から上げた。


「……そんな大金を私に渡して、危ないと思わないんですか」


「思いません」


「なぜですか」


俺はコーヒーを一口飲んだ。


「山下さんはそんな浅はかな人間じゃないと思っています。私との関係を良好に保つ方が、中長期的にはずっと稼げるはずです。それに」


「それに?」


「私と一緒に事業をやる方が、楽しいと思いますよ」


山下がしばらく黙っていた。


それから、ふっと表情が緩んだ。


普段は感情の読めない顔をしている人だったので、その変化が少し意外だった。


「……面白い人だな、桐島さんは」

山下が静かに言った。


山下がまた黙った。

今度は、何かを考えているような間だった。


「わかりました。では、そのような形で進めましょう。」


「確認ですが、詳細は聞かない方がいいということですよね」


「その通りです」


山下がノートに何かを書いた。


「一点だけ改めて確認させてください」

山下が俺を見た。


「桐島さんはこの会社を、本当に動かすつもりですか。収益を隠すための箱として使うつもりなら、私は引き受けられません」


「以前も言いましたが、この能力がいつまで続くかわからない。だから事業で本当に稼げるようにしたい。ギャンブルの金は種にする。それは変わっていません」


山下がしばらく黙っていた。

それからノートを閉じた。


「わかりました。では進めます」


*(稼ぐのは俺の仕事。それ以外は山下さんの仕事だ)*


コーヒーが半分ほど残っていた。

山下がそれを飲みながら、少し間を置いてから言った。


「桐島さん、西村さんとはどのくらいの付き合いになるんですか」


「大学のときからです。十年弱くらいですかね」


「あの方は、人を好かれることも、動かすことも上手い。」


「そうですね」


「いいバランスだと思います。桐島さんが稼いで、西村さんが広げる」

山下がコーヒーカップを置いた。


「私はその間に入って、崩れないようにする」


「助かります」


山下が立ち上がって、コートを手に取った。


「では来週また。内装業者の件は今週中にご連絡します。急ぎすぎず、でも遅すぎず。そのペースで進めましょう」


---


事務所の内装工事は2週間で終わった。


山下が紹介した業者は仕事が早かった。


コンクリートの床に薄いグレーのフローリングを張り、壁を白で統一した。


デスクを6台、会議用のテーブルを1つ。

照明を替えて、エントランスにガラスの仕切りを入れた。余計なものは何もない。


完成した日の夕方、3人で内覧した。


西村が窓際に立って、腕を組んで外を眺めた。


「いいじゃないか」


「そうですね」

山下が室内を一周しながら言った。


「機能的でいい。無駄がない」


「無駄がなさすぎないか」

西村が振り返った。


「観葉植物くらい置こうよ」


「植物の管理は誰がするんですか」

山下が静かに言った。


「……俺が」


「西村さん、毎朝ここに来ますか」


「来ます。代表取締役ですから」


「では構いません」


「言質取ったぞ」

俺が言った。


「取らなくていい」

西村が苦笑いした。


*(いい事務所になった)*


窓の外で、日が落ちていた。

東京湾の対岸の灯りがゆっくりと増えていく。


「そういえば」

西村が言った。


「名刺、もう刷れるな。KY Holdings 株式会社 代表取締役、西村公輝。どうだ、いい名前じゃないか」


「お前が決めたわけじゃないだろ」


「でも俺の名前だ」


「そうですね」

山下が静かに言った。


「発注しましょうか。桐島さんの分も一緒に」


「会長職で頼みます」


「かしこまりました。デザインはシンプルなものでよろしいですか」


「なんでもいいです」


「俺はかっこいいやつにしてほしい」

西村が言った。


「具体的には」


「かっこいいやつ」


山下が何かをメモして、「承知しました」と言った。

西村が「本当に通じるのかそれ」と小声で俺に言った。俺は返事をしなかった。


---


KY Holdingsが正式に動き始めたのは、2月の上旬だった。


西村の動きは、思った以上に早かった。


木村との縁はそのまま続いた。

飲みの席で紹介してもらった不動産関係の人間が翌週さっそく事務所を訪ねてきて、投資案件の話を持ち込んできた。


山下がその場で話を聞いて、「検討に値する」と言った。

翌々週には金融系の人間が来た。西村の元同僚の紹介だという。


「なんで居酒屋の副店長にそんなつながりがあるんだ」


「俺が副店長だったんじゃなくて、いろんな人間が来る店に俺がいたんだよ」

西村が笑った。


山下は毎日必ず来た。

8時半には席に座っていて、12時に昼食に出て、夜7時か8時まで仕事をしていた。

来客がない日はほとんど喋らなかった。

それでも存在感があった。


俺は午前中に映像が来た日は競輪場か競艇場に向かい、帰りに事務所へ寄った。


映像が来ない日は事務所で山下と打ち合わせをするか、西村が連れてきた人間と顔を合わせた。

内装工事の2週間で、法人口座にさらに約3,200万円が積み上がっていた。山下がそのまま処理してくれている。


*(ギャンブルで8年間ひとりで負け続けてきた男が、会社を作って人を雇って、組織の中にいる)*


*(なんか変な感じだ)*


---


ある夜、山下が帰り支度をしているところに声をかけた。


「今夜、3人で飲みに行きませんか。会社が動き始めた祝いに」


山下が少し間を置いた。

「いいですね」と静かに言った。


西村に連絡した。

「今夜空いてるか。3人で飲む」


「空いてるよ!どこで?」


「池袋で」


---


クラブ・ルーナに3人で来るのは初めてだった。


ボーイが3人分の席を案内した。


西村はさっそく

「フリーで好みの子をつけてもらえますか」

と頼んでいた。


山下は

「私はフリーで構いません」

と言った。


俺は本指名で水沢アンを呼んだ。


水沢が来たとき、隣に西村がいるのを見て少し目を丸くした。


「……久しぶりですね」

水沢が少し笑った。


「2ヶ月以上ぶりじゃないですか」


「そうですね」


「何かあったんですか? 急に来なくなったから」


「いろいろと忙しくて」


「前回来てくれたときに『次は連れと一緒に来ます』って言ってたから、もしかしたらと思ってたんですけど」

水沢が笑った。


「本当に来てくれましたね」


「言ったので」


「嬉しいです」

水沢が少し目を細めた。


「会社の同僚です」


西村がすかさず

「仲良しです。よろしく」

と名刺を差し出した。


水沢が

「代表取締役……」

と呟いて俺を見た。


俺は何も言わなかった。


「私のことはアンちゃんって呼んでください」

水沢が西村と山下に言った。


「アンちゃん、了解です」

西村がすぐ馴染んだ。


山下は静かに頷いた。


しばらく飲んだ。

山下は静かにグラスを傾けていた。


西村はフリーでついた女の子と早くも話が弾んでいた。

水沢が隣に座って、ゆっくりと話した。


入店から15分ほど経ったころ、水沢がふと「少し失礼します」と言って立ち上がり、他の席へ向かった。

代わりに別の女の子が俺の横についた。


横から西村が小声で言った。


「あの子、お気に入りなんでしょ。

アンちゃんは人気で2、3卓は被ってそうだから、ずっと席に縛り付けたいならシャンパンぐらい下ろしておいた方がいいよ。

じゃないとあまりついてくれないと思う」


「なるほどな」


俺は横についた女の子に言った。

「シャンパンのメニューをもらっていい?」


メニューが来た。

種類と値段を確認した。ページをめくって、一つ決めた。


*(よし、これにいこう)*


黒服を呼んだ。

「これを入れたいんですが、水沢さんを呼び戻してもらえますか」


「かしこまりました。少々お待ちください」


数分で水沢が戻ってきた。

席に座るなり俺を見た。


「何かありましたか?」


「シャンパン入れます。アルマンド信号機で」


水沢の目が変わった。


「……本当ですか」


「はい」


黒服が

「桐島様よりアルマンド信号機いただきました!」

と通した。


周りにいた黒服が数人集まってきて、「ありがとうございます!」と声を揃えた。


3本のボトルが運ばれてきた。

ゴールド、ロゼ、グリーン。


「うわー、すごいな」


思わず声が出た。


「ありがとうございます」

水沢が言った。


「アルマンド信号機、初めて入れてもらいました」


「喜んでもらえれば」


「すごく嬉しいです」

水沢が少し声のトーンを落として言った。


西村が

「写真撮っていいですか」

と水沢に聞いていた。


山下は淡々とグラスを受け取っていた。


「山下さん、こういうの慣れてるんですか」

西村が聞いた。


「いいえ」

山下が静かに言った。


「ただ、特に驚くことでもないと思って」


「さすがですね」


その後、追加でボトルを1本おろして、3人の席で飲み続けた。


ふと山下の方を見ると、フリーでついた女の子が山下の一挙一動に釘付けになっていた。

山下が何か短く言うたびに、女の子がにこにこしながら前のめりになっている。

山下は表情ひとつ変えず、静かにグラスを傾けていた。


*(……さすが山下さんだな)*


何をやっているのかまったくわからないが、結果だけ見ると完璧だった。


西村の方は逆に騒がしかった。

隣の女の子を笑わせ、水沢にも話を振り、気づいたら山下の子まで巻き込んでテーブル全体が笑っていた。


特別なことを言っているわけじゃない。

ただ、この男がいる場所では自然とそうなる。


*(こいつは、どこに行っても同じことをする)*


2時間ほどして席を立った。


会計はアルマンド信号機の小計108万円に、追加ボトル・指名料・飲み物代などを合わせた小計から、サービス料25%・税10%込みで合計190万円。


3人で階段を下りた。外に出ると冬の夜の空気が当たった。


「いい夜でしたね」

山下が静かに言った。

普段言わないことを言う夜だった。


「俺の指名した子、めちゃくちゃよかったな」

西村が笑った。


「山下さん、あのフリーの子のこと気に入ってませんでした?」


山下が少し間を置いて、

「仕事の話はしませんでした」

とだけ言った。


*(笑うのを堪えた)*


---


アパートに帰って、部屋の電気をつけた。


6畳一間。変わっていない。

ベッドも、折りたたみのローテーブルも、衣装ケースも、全部同じ位置にある。

段ボールの中身だけが、現金から書類に変わった。


天井を見上げた。


染みが3つ。

左上の丸いやつ、真ん中のぼんやりしたやつ、右端の細長いやつ。


*(変わらないな)*


ベッドに腰を下ろして、スマートフォンを開いた。

今日の収支をノートアプリに入力した。

払い戻し856万円。

賭け金12万円。


純利益844万円。


事務所の賃料が来週から月80万円の引き落としで始まる。

初期費用と内装・備品合わせて1,550万ほどかかった。

山下が全部処理してくれている。


ひとりで段ボール箱に現金を詰め込んでいた1ヶ月前とは、状況が変わった。


西村が走り回って、山下が整理して、俺が稼ぐ。

それぞれが自分の仕事をしている。


*(あとは、このまま積み上げるだけだ)*


ポケットから時計を取り出した。

薄暗い部屋の中で、翠色の金属が鈍く光っている。

握ると、温かかった。


*(引き続きよろしく頼む)*


返事はなかった。


ふと思った。

この時計の針は、なぜ逆向きに動いているのか。

拾った日からずっとそうだった。機械の故障かもしれない。

でも他の全てが「設計通り」に動いているのに、針だけ逆というのは、やはり妙だ。


*(逆向きに動く針が、何かを意味しているとしたら)*


答えは来なかった。

当然だが、今夜はなぜか、そのことが頭から離れなかった。


スマートフォンを置いて、天井を見た。染みが3つ。

変わっていない。


明日の朝、また映像が来る。


---


**── 残高メモ ──**


| 今話の収益(競輪1/6・純利益) | **+約800万円** |

|:--|--:|

| 1/7〜1/17の収益(11日間) | **+約2,400万円** |

| 内装工事期間中の収益(1/18〜2/1・2週間) | **+約3,200万円** |

| 工事完了後〜法人設立祝いまで(2/2〜2/10・9日間) | **+約2,000万円** |

| 事務所初期費用(契約・内装・備品) | ▲約1,600万円 |

| 1/25 役員報酬支払い(山下・西村・遊馬 額面計) | ▲約1,000万円 |

| クラブ・ルーナ(3人・アルマンド信号機)※法人交際費 | ▲約200万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約2億300万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約2億5,800万円** |


| 桐島遊馬 役員報酬受取(1/25 手取り・額面500万) | +約270万円 |

|:--|--:|

| 生活費・外食(1/6〜2/11・約5週間) | ▲約30万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約467万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約707万円** |


---


*【第8話 へ続く】*

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