第5話 〜有馬記念〜
朝5時51分。
目が覚めた。
天井を見た。
染みが3つある。
左上の丸いやつ、真ん中のぼんやりしたやつ、右端の細長いやつ。
おはようございます。
今日も変わりないですね。
ただ今日は少しだけ、空気が違った。
12月22日。
カーテンの隙間から入ってくる光の色は、10月と比べると完全に変わっていた。
白いというより、薄く透明な光だ。
冬の朝の光。
アパートの壁が、いつもより冷たい顔をしている。
枕元の時計を握った。
映像が来た。
中山競馬場の直線だった。
内側から粘る鹿毛、「4」。
その外に、長い脚を使って追い込んでくる栗毛、「11」。
後方からさらに伸びてくる青帽の「7」。
3頭が一列に並んでゴール板へ向かっていく。
番号が、順番に、ゆっくりと焼きついた。
*(……中山か)*
時計が、今日はいつもより少し熱い気がした。
握り直した。
確かに熱い。
日によって熱さの強さが微妙に違うことは、時計を拾ってから気づいていた。
熱さが強い日ほど、映像が正確で、情報量も多い。
*(3連単、か)*
起き上がって、出走表を調べた。
---
中山競馬場、第11レース「有馬記念」。
スマートフォンの画面に並んだその名前を見て、少し止まった。
*(有馬記念か)*
競馬を覚えた20歳のとき、有馬記念という名前だけは知っていた。
年に一度の大一番。
競馬ファンでなくても知っている名前のレースだ。
8年間のギャンブル人生の中で、有馬記念には一度も勝ったことがなかった。
毎年買って、毎年外れた。
祭りの雰囲気に飲まれて、根拠のない本命を突っ込んで、毎年同じように外れた。
*(今日は違う)*
出走表を確認した。16頭立てのフルゲート。
4番、ミカヅキノキセキ。
3番人気。
単勝オッズ7.2倍。
前走の古馬G1で3着。
じわじわ上がってきている馬で、中山の2500mは合う条件だ。
11番、オーシャンクラウン。
9番人気。
単勝オッズ26.4倍。
中穴。
前走は距離が合わなかったが、今回は違う。
7番、ブライトスカイ。
4番人気。
単勝オッズ8.1倍。
差し脚があって末脚勝負なら侮れない。
3連単の試算をした。
4番が頭で来て11番・7番が絡んだ場合、11番のオッズが効いて配当は60倍から90倍の間になる。
*(30万突っ込んで、80倍前後なら2,400万以上になる計算だ)*
時計を握り直した。熱さは変わらない。
*(行こう)*
---
電車に乗った。
武蔵野線から総武線に乗り換えて、中山競馬場のある船橋法典へ向かう。
普段の土日の競馬場行きは、特に何も考えないで乗る。
でも今日は少し違った。
車内が込んでいた。
座れなかった。
つり革を握って窓の外を見ると、12月の東京郊外が流れていく。
年末の街だ。
会社の帰りらしきサラリーマンが、スポーツ新聞を開いて有馬記念の予想ページを眺めていた。
赤と青のペンで印がついている。
*(みんな今日は競馬場に向かっているんだな)*
隣の家族連れが、子どもに
「今日は競馬場に行くんだよ」
と話している。
子どもが
「お馬さん見れる?」
と聞いていた。
こういう日の競馬場というのは、そういう人間まで引き込む磁力がある。
8年間負け続けてきたが、有馬記念だけは毎年来ていた。
そして毎年外れた。
今日は違う。
映像が来た。
熱さがいつもより強い。
*(今日は、有馬記念を当てる)*
その言葉を頭の中で一度転がしてみた。
変な感じがした。
8年間、一度も当てられなかったレースを、今年は当てる。
それがこんなに静かな確信として胸の中にある。
8年前の自分が聞いたら、笑うか、あるいは羨ましがるか。
電車が法典に近づいてきた。
---
中山競馬場に着いたのは10時過ぎだった。
改札を出た瞬間、雰囲気が全然違った。
普段の土日のレース日も人は多いが、今日は別物だった。
ホームの時点ですでに人が溢れていた。
競馬場特有の高揚感と、年末の雰囲気が混ざっている。
子どもを連れた家族、カップル、サラリーマンのグループ。
競馬をやらない人間も、今日だけは来る日だ。
*(これが有馬記念か)*
スタンドに入ると、すでに人が埋まっていた。
指定席のD列もほとんど埋まっている。
空いていた席に滑り込んで、コーヒーを買ってきた。
馬場を眺めた。
12月の中山の芝は、冬の低い光の中で鈍く光っている。
パドックを見ると、16頭がゆっくりと周回していた。
馬体の緊張感が、普段のレースとは違う。
スタンドを埋め尽くす人間の視線と、年末の空気を吸い込んだ16頭。
その中に、4番・ミカヅキノキセキがいる。
*(こんな場所で外れたことが8年間ずっとあった)*
*(今日は、違う)*
第11レースまでは時間がある。
他のレースも念のため時計で確かめたが、何も来なかった。
今日は11レースだけだ。
空き時間をどうするか少し迷って、場内を歩いた。
出走表を配っているスタッフがいて、傍らに馬のぬいぐるみグッズを売る屋台が出ていた。
有馬記念の日だからか、いつもは来ないような屋台も出ている。
家族連れがぬいぐるみを子どもに選んでやっていた。
馬場の近くのフェンス沿いに立った。
馬場の芝がまだ青みを残したまま冬の光を反射している。
向こうから厩務員が1頭を連れて歩いてきた。
大型の栗毛だった。
馬体の筋肉が、一歩ごとに滑らかに動く。
競走馬を近くで見ると、毎回その大きさと迫力に少し圧倒される。
8年間ここに来続けて、いつも同じように感じた。
この動物に賭けてきた。負け続けた。
*(今日この馬場で、有馬記念を当てる)*
その事実を反芻しながら、フェンスに手をかけた。
馬が通り過ぎていった。
蹄の音が芝に吸い込まれていった。
---
第11レースの発走30分前、窓口に向かった。
「4→11→7、3連単、30万円」
窓口のスタッフが処理した。
有馬記念の窓口は混んでいたが、高額の3連単1点に表情を変える様子はなかった。
今日はそういう客が多いのかもしれない。
席に戻った。
パドックの映像がモニターに映し出されていた。
ミカヅキノキセキが周回している。
馬体が落ち着いていた。
脚元が軽い。
担当の厩務員の様子も、張り詰めているが落ち着いた表情だった。
*(この馬は今日、状態がいい)*
純粋にそう思った。
映像が来たから、とかそういう話ではなく。
競馬を8年やってきた体の感覚として、今日のこの馬は来る、と思った。
隣の席に老夫婦がいた。
おじいさんの方がビールを飲みながら新聞の印をチェックしていて、おばあさんが何かを話しかけていた。
少し先の席では、競馬グッズを首からさげた若者グループが、馬柱を囲んで議論していた。
今日は本当にそういう人たちが多い。
競馬をやらない人間も、有馬記念の日だけはここに来る。
8年間、俺も毎年この景色の中にいた。
根拠のない本命に全財産を突っ込んで、毎年同じように外れた。
*(でも今年は違う)*
30万円の馬券を手の中で確かめた。
3連単、4→11→7。
この紙切れが2,000万円以上になる。
8年間で一度もそんなことは起きなかった。
今日は起きる。
映像が来た。
時計は熱い。
それだけが根拠で、それで十分だった。
スタンドのざわめきが少しずつ大きくなっていく。
ゲートに向かう馬たちの映像が大型モニターに映し出された。
時計を握った。熱い。
*(来い)*
---
発走の号砲が鳴った。
16頭が一斉に飛び出した。
先頭争いで早い馬が2頭前に出た。
1番人気の逃げ馬が先頭を奪う。
2番手グループが固まる。
ミカヅキノキセキ——4番は、中団の外めに陣取った。
ポジションを急がない。
ゆったりとした走りで、まず流れに乗っている。
後方では差し馬が静かに脚を溜めていた。
向こう正面。
ペースが落ち着いた。
スタンドが静かになる。
みんなが息を止めているみたいな静寂の中で、16頭が2500メートルを走り続けている。
3コーナー。
動いた。
中団から4番が動き始めた。
少し早めに、でも確実に、ギアを上げていく。
前にいた馬たちをかわしながらポジションを上げる。
後方では、11番・オーシャンクラウンが外から一気にポジションを押し上げていた。
縦長になった馬群の後ろから、長い脚で一気に間合いを詰めている。
4コーナー。
先頭集団が直線に入った。
4番がその後ろに迫る。
11番がさらに外から。
直線。
残り400。
先頭を走る馬に、4番が並びかけた。
スタンドが揺れた。
残り200。
4番が先頭に立った。
そこに外から11番が突っ込んでくる。
7番・ブライトスカイも後方から脚を伸ばして追い込んできた。
スタンドが割れるような声になった。
3頭がもつれるようにゴール板へ向かっていく。
*(来い!)*
ゴール板を通過した。
しばらく誰も何も言わなかった。
電光掲示板に数字が光った。
「4・11・7」
確定。
払い戻し表示が出た。
30万円に対して、2,640万円。
*(88倍か)*
息を1回、ゆっくり吐いた。
スタンドはまだ揺れていた。
本命馬が差し返せなかった悲鳴と、穴党の歓声が混ざっている。
俺はただそこに座って、電光掲示板の数字を眺めていた。
*(有馬記念で当てた)*
8年間毎年外れ続けたレースで、当てた。
それが嬉しいのか悲しいのかよくわからなかった。
ただ、これだけのことが当たり前になってきている自分の感覚が、少しおかしい気がした。
いや、おかしくなってきているのは感覚だけじゃないかもしれない。
立ち上がって、払い戻し窓口に向かった。
歩きながら、周囲の空気を感じた。
外れた人間があちこちで馬券を丸めている。
連れに「惜しかった」と説明している人間がいる。
的中した人間がガッツポーズをしている。
有馬記念は一年に一度の舞台だ。
全員が何かしらの気持ちをここに持ち込んで、今日の結果を持って帰っていく。
---
高額払い戻し窓口に案内された。
係員が馬券を受け取って確認した。
「おめでとうございます。高額の払い戻しの場合、お名前とご住所のご記録をいただいております」
いつもの手続きだった。
名前と住所を書いて、免許証を出した。
紙袋が差し出された。
「2,640万円、お確かめください」
*(そういえば、あの日と同じだ。初めて4桁の払い戻しを受け取った日も中山だった。あのときは手が震えていた)*
今日は震えていなかった。
それが少し、寂しいような気もした。
紙袋を持って、スタンドを出た。
外に出ると、年末の中山競馬場の空気が当たった。
冷たかったが、人の熱気でどこかぬるかった。
人の流れが、あちこちで散っていく。
今日は当たった人間も、外れた人間も、みんな同じ顔をして帰っていく。
競馬というのは毎回そういうものだが、有馬記念の帰り道は少しだけ特別な空気がある気がした。
スマートフォンを取り出した。
山下に連絡した。
「今日、競馬で当たりました。いつも通りお願いします」
「承知しました」
と山下からすぐ返ってきた。
「明日、登記申請の手続きが完了します。正式な登記は年明けになりますが、申請は年内に終わらせます」
*(もう少しで、会社ができる)*
あの時計を拾ってから2ヶ月弱で、資本金1億円の会社を作る。
本当に人生何があるかわからないものだ。
---
練馬のアパートに帰ったのは夕方だった。
山下に紙袋を届けてから戻った。
山下の事務所に入ると、山下はいつも通り机に向かっていて、紙袋を受け取ってすぐに中身を確認した。
「処理します」
それだけ言った。
*(この人は驚かない。2,640万円が入った紙袋を受け取っても、表情ひとつ変えない。競輪場で的中を目撃してから、ずっとそうだ)*
「メッセージもお伝えしましたが、明日には登記申請の手続きが完了します」
山下が帯封を確認しながら言った。
「登記そのものは年明けになりますが、年内に申請を終わらせます。合わせて処理を進めます」
「よろしくお願いします」
「おめでとうございます」
山下がふと言った。
滅多に言わない種類の言葉だった。
「有馬記念ですか」
「いえ」
山下が紙袋を閉じながら静かに言った。
「ついに会社として始動しますので」
*(……ああ、そういうことか)*
山下は書類の整理に戻った。
事務所を出た。
外は夜になっていた。
電車に乗って練馬に帰った。
改札を出ると、駅前の商店街にクリスマスのイルミネーションが灯っていた。
明後日はクリスマスイブだ。
年末の夜の空気は少し浮ついていて、どこかの店からにぎやかな音楽が漏れてきた。
(今年はもう無理だけど、来年こそは...)
アパートに入って電気をつけた。
日が落ちていた。
12月の夜は早い。
窓の外が真っ暗になるのに、夕方5時でもう十分だ。
「今日もありがとう」
懐中時計に話しかけてみたが、返事はなかった。
*(当然か)*
スマートフォンを開いて、ノートアプリを立ち上げた。
今日の収支を入力した。
払い戻し2,640万円、賭け金30万円、純利益2,610万円。
打ち終えて、アプリを閉じた。
---
**── 残高メモ ──**
| 有馬記念(中山・3連単4→11→7・純利益) | **+約2,600万円** |
|:--|--:|
| ※法人向け処理(山下保管→登記完了後法人計上) | |
| **KY Holdings 法人向け保管(未計上)** | **約2,600万円** |
| 桐島遊馬 個人資金(変動なし・有馬記念は法人計上) | **約1億507万円** |
|:--|--:|
---
*【第6話(会社を作る)へ続く】*




