第2話 〜初めてのキャバクラ〜
朝5時52分。
目が覚めた。
いつもより少し早い。
カーテンの外はまだ暗く、隙間から入ってくる風が昨日より冷たかった。
10月も中旬に入ると、朝と昼の温度差が馬鹿にならない。
枕元の時計を握ると映像が来た。。
最初に現れたのは馬だった。
東京競馬場の直線、内を粘る黒鹿毛、「2」。
その外に並ぶ青帽の栗毛、「5」。
離れた3着争いから伸びてくる「9」。
3連単の映像だ。
*(今日も3連単か)*
昨日から始まった新しいパターンだ。
単勝映像が8日目に突然3頭になった。
能力が進化しているのか、単純に慣れてきたのか、理由はわからない。
わからないが、使えるなら使う。それだけだ。
映像が続いた。
馬が消えて、今度は水面が現れた。
競艇場のターン。
白い水しぶきを蹴り上げながら1マークを回る艇。
外から大きく差し込んで先頭に立つ「3号艇」。
その後ろに続く「1号艇」。
引き離された位置から粘る「5号艇」。
*(……競艇も?)*
1日に2種目の映像が来たのは、初めてだった。
時計を握り直した。
温かさは変わらない。
むしろ、馬の映像のときより少し強い気がした。
*(両方やれということか)*
起き上がって、出走表を調べた。
東京競馬場、第9レース「秋晴れ特別」。
2番、コスモスプリング。
単勝オッズ3.2倍。
今回の1番人気で安定した先行馬。
5番、ヴェルトシュライバー。
オッズ4.8倍。
先行力があり前走も2着と好走している。
9番、マルゼンライト。
オッズ12.1倍。
差し脚はあるが近走はやや不振。
3連単の試算。
2番が人気通りに勝っても、5番と9番の並びが正確に来れば、9番のオッズが効いてそれなりの配当になる。
50倍から80倍は見込めるか。
*(1番人気が勝つレースに、なぜ大金を賭けるのか)*
*(着順を全部当てるから、だ)*
競艇の方を調べた。
浜名湖競艇場、第11レース。
1号艇、浜田 浩二。
直近10走で好成績の断然人気。
3号艇、田中 義雄。
5号艇、鈴木 大輔。
地元選手。
3連単の試算。
1号艇が人気通りに勝って、2・3着の組み合わせ次第で20倍から40倍前後か。
こちらも「1着が誰か」より「2・3着に誰が来るか」が値段を決める。
*(浜名湖か)*
新幹線で1時間半ほど。
競馬を午前に済ませてから向かえば、午後の第7レースには十分間に合う。
*(今日は長い日になりそうだ)*
今日の予算を決めた。
競馬に10万、競艇に10万。
合計20万円。
*(1回の払い戻しが1,000万を超えないよう、賭け金はできるだけ絞る。それができるうちは記録を残さなくて済む)*
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東京競馬場の指定席、D列。
席に座ると、右隣にまたあの男がいた。
昨日も同じ席にいた男だ。
小柄で細身、丸眼鏡。
今日も競馬新聞が3紙、膝の上にスマートフォン。
昨日とまったく同じ格好で、同じリズムで新聞に書き込んでいる。
*(毎日来てるのか)*
俺が席に座ると、男が顔を上げた。
一瞬こちらを見て、軽く会釈した。
俺も会釈した。
それだけだった。男はすぐに新聞に目を戻した。
*(まあ、そういうやつか)*
俺も出走表を広げた。
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第9レース「秋晴れ特別」、発走。
2番・コスモスプリングは好スタートを切った。
ハナを主張してそのまま先頭へ。
5番・ヴェルトシュライバーが2番手で続く。
3コーナー。
隊列は変わらない。
2番が逃げ、5番が追いかける形のまま直線へ。
後方で動いたのが9番・マルゼンライトだった。
直線。2番と5番の差がじりじりと縮まるが、なかなか交わせない。
外から9番が長い脚を使って伸びてくる。
ゴール前。2番が粘り切った。
半馬身差で5番。
そこから1馬身、9番。
確定。
2→5→9。
払い戻し、10万円に対して732万円。
俺は立ち上がって、払い戻し窓口に向かった。
歩きながら、ふと振り返った。
隣の男が、掲示板をじっと見ていた。
俺の馬券を横から見ていたのかどうかはわからない。
ただ、その顔が少し硬かった。
まあ、関係ない。
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払い戻しを受け取って競馬場を出たのが午後2時過ぎ。
新幹線で浜松まで行き、そこからバスで浜名湖競艇場に着いたのが午後4時前だった。
平日の競艇場は、競馬場よりさらに客層が高齢だ。
70代とおぼしき老人たちが、風をしのぐ屋根の下でレースを眺めている。
売店でコーヒーを買って、スタンドに陣取った。
時計を握った。
熱かった。朝より強いかもしれない。
*(今日の本番は、こっちだ)*
第11レース出走表を確認した。
3号艇、田中 義雄。
1号艇、浜田 浩二。
5号艇、鈴木 大輔。
窓口に向かった。
3連単「3→1→5」。
1点、10万円。
窓口の女性スタッフが、一瞬だけ手を止めた。
何も言わずに処理してくれた。
スタンドに戻って、発走を待った。
10月の浜名湖は風が強い。水面が細かく波立っている。
風が強い日は外の艇が有利になることがある。
映像の意味が、少し後追いでわかる気がした。
発走。
6艇が一斉にスタートを切った。
1号艇・浜田浩二が先頭へ。
3号艇・田中はスタートでわずかに遅れ、3番手のポジション。
時計を握った。
熱さは変わらない。
*(信じろ)*
1マーク。
先頭の浜田浩二が内側のライン取り。
そこに3号艇・田中が外から迫る。
風の影響でインコースの艇が膨らんだ。
その隙間を、田中が正確に突いた。
2マーク以降、先頭は田中。
浜田浩二が追いかける。
5号艇・鈴木が3番手。
最終周に入っても順番は変わらなかった。
ゴール
3→1→5。
電光掲示板を確認した。
10万円が284万円になっていた。
競馬の732万と合わせると、今日1日の払い戻し合計は1,016万円。
賭け金20万を引いた純利益は996万円だ。
*(2種目合わせると、払い戻しが1,000万を超えた。1回の賭けは両方抑えた。それでいい)*
払い戻しを受け取りながら、ふと笑いたくなった。
笑わなかったが。
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浜名湖から新幹線で帰る途中、品川で降りた。
第1話で「ユニシロのダウンを買わないといけない」と思っていたのを、そういえばまだ買っていなかった。
品川のショッピングモールに入って、ユニシロを探した。
ダウンジャケットのコーナー。
3,990円のやつと、5,990円のやつが並んでいた。
*(どっちでもいいか)*
5,990円の方を手に取った。
少し厚みがある。
10月の練馬の朝には、これくらいがちょうどいい。
レジに持っていこうとして、ふと隣の店が目に入った。
セレクトショップだった。
ウィンドウの中に、シンプルなウールのコートが何着かかかっている。
値段を確認した。68,000円。
*(……6万8千円)*
数字としては普通にわかる。
でも今の自分がそのコートを着て歩く姿が、どうにも想像できなかった。
金の問題ではなく、なんとなく、まだそういう段階じゃない気がした。
ユニシロのダウンをレジに持っていった。5,990円。
*(まあ、いつかでいい)*
袋を受け取って外に出た。
夜の品川の駅前は人が多かった。
みんな早足で歩いていた。
俺も東京方向の電車に乗った。
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それから10日間、俺は毎朝来る映像に従って稼ぎ続けた。
賭け方は完全に固まってきた。
映像が3頭分来た日は3連単一点。
1頭だけの日は単勝か3連複を少し押さえる。
何も来ない日は、本当に何もしない。
食生活も、少しずつ変わってきた。
競艇の帰りに駅前の中華屋に入った。以前なら素ラーメン一杯で出てきていた店だ。
今日はラーメンにチャーハンと餃子も頼んだ。
全部食べた。腹いっぱいになった。
*(当たり前のことが、当たり前にできる)*
8年間、食事に金をかけるのが後ろめたかった。
その分を賭けに回せる、とどこかで思っていた。
コンビニのおにぎりと缶コーヒーで一日を動かすことに、慣れすぎていた。
今はファミレスでも中華屋でも、値段をいちいち気にせず入れる。
それだけで、飯がうまく感じた。
休みの日の過ごし方も、少しずつ決まってきた。
午前中はアパートでぼんやりして、昼を過ぎたあたりで「ふくろう」に行く。
福田さんの店は夜だけでなく昼も営業していた。
ランチは日替わり定食が800円で、これがまたうまかった。
ある休日、昼から「ふくろう」のカウンターに座っていたら、福田さんがテレビをつけた。
プロ野球の日本シリーズだった。
「遊馬くん、野球好きか」
「嫌いじゃないです」
「じゃあ見ていけ。今日はヤクルトが面白い試合してる」
それから3時間、福田さんと二人でカウンターに並んでビールを飲みながら野球を見た。
和代さんが途中でつまみを出してくれた。
串カツだった。
*(こういう時間があったんだな)*
ギャンブルをしていた8年間、休日に「何もしない」という発想がなかった。
負けた分を取り返すために動くか、次の賭けを研究するかのどちらかだった。
ただテレビを見ながら酒を飲む昼間というものを、何年ぶりに過ごしたかわからなかった。
ヤクルトが9回に逆転した。福田さんが「やったな」と言った。俺も少し声が出た。
「遊馬くん、最近顔色がよくなったな」福田さんが言った。
「そうですか」
「ちょっと前と比べると、目の色が違う。仕事がうまくいってるからか」
「……どうでしょうね」
「まあ、いいことだ。飯もちゃんと食えてるみたいだし」
俺は返事をしなかった。
ビールをもう1杯頼んだ。
*(目の色が違う、か)*
自分ではわからないが、たぶんそうなのかもしれない。
8年間ずっと「次こそ勝てる」と思いながら負け続けてきた男が、初めて根拠のある勝ちを手に入れた。
何かが変わったとしても、おかしくはない。
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10日間の収支がこれだ。
| 日付 | 種目 | 買い方 | 賭け金 | 払い戻し |
|------|------|--------|--------|---------|
| 9日目(午前) | 競馬(東京) | 3連単1点 | 10万 | 732万 |
| 9日目(午後) | 競艇(浜名湖) | 3連単1点 | 10万 | 284万 |
| 10日目 | 休み | ― | ― | ― |
| 11日目 | 競輪(川崎) | 3連単1点 | 8万 | 899万 |
| 12日目 | スロット(スロット北斗) | ― | 3万 | 31万 |
| 13日目 | 競馬(中山) | 3連複 | 15万 | 178万 |
| 14日目 | 休み | ― | ― | ― |
| 15日目 | 競艇(江戸川) | 3連単1点 | 9万 | 995万 |
| 16日目 | 休み | ― | ― | ― |
| 17日目 | 競馬(東京) | 3連単1点 | 14万 | 938万 |
| 18日目 | 競輪(西武園) | 3連複 | 10万 | 94万 |
| **10日間計** | | | **79万** | **4,151万** |
18日目の夜、ノートを閉じた。
8日目が終わった時点での手元現金、1,278万円。
そこに9日目以降の純利益4,072万円を足すと。
手元の現金は、約5,350万円。
*(5,000万を超えた)*
アパートの押し入れが、段ボール箱で完全に埋まっていた。
現金をこれ以上ここに置くのは、物理的にも精神的にも限界が近かった。
*(早く1億にして、会社を作りたい)*
1億まで、あと約4,665万。
このペースなら、1ヶ月もあれば届く。
ノートを閉じて、しばらく天井を眺めた。
*(……そういえば)*
8年間、金がなかった。金ができたら何かやろうと思っていた。
でも何をやるかを、一度も真剣に考えたことがなかった。
「当てること」しか頭になかったから。
スマートフォンを開いた。
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池袋に着いたのは夜9時過ぎだった。
西口を出ると、ネオンの看板と人の流れが一気に目に飛び込んでくる。
ホストクラブ、キャバクラ、居酒屋、呼び込みの男。
慣れない場所の空気が濃かった。
スマートフォンで調べた。
エリア内の店をいくつか比較した。
料金体系が各店で違う。
セット料金、指名料、飲み放題オプション。
*(複雑だ)*
口コミ評価の高い一軒を選んで入ってみた。
「クラブ・ルーナ」という店だった。
階段を上がると薄暗い廊下があって、スーツの男が「いらっしゃいませ」と出迎えた。
「ご新規ですか」
「はい」
「ご指名はございますか」
「……ないです」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
奥の席に案内された。メニューが置かれた。
ドリンクの種類が多くて、何を頼めばいいかわからなかった。
とりあえずビールを頼んだ。
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5分ほどして、女の子が来た。
「はじめまして。水沢アンです。よろしくお願いします」
スラッとした綺麗な女性が、笑顔で名刺を差し出してきた。
両手で受け取った。
水沢アン、26歳と書いてあった。
「よろしくお願いします」
*(なんか普通に礼儀正しくなってしまった)*
「お客様、お名前は何とお呼びすれば」
「桐島です」
「桐島さんですね。私のことはアンちゃんって呼んでください。みんなそう呼ぶので」
「……アンちゃん」
「そうです」
アンちゃんが笑った。
アンちゃんはこちらのペースに合わせてくる子だった。
俺が喋らなくても詰めてこない。
隙間を変な話題で埋めようとしない。
グラスが減ってきたら
「何にしますか」
と聞いて、それだけ言って待つ。
その間が、不思議と苦じゃなかった。
*(キャバクラに来るのは人生で初めてだが、案外こういうものなのかもしれない。いや、この子が上手いだけか。わからない)*
「お仕事は何されてるんですか」
「ギャンブルをしてます。あと、副業で投資をしてます。」
「それ絶対逆でしょ!」
「本当ですよ」
そんな感じで他愛のない話を20分ほど経ったころ、水沢がふと
「そろそろ他のお客様のところに回らないといけないんですが」
と言った。
「……あ、そういうものなんですか」
「フリーだと、一か所にずっといるわけじゃないので。他の子に替わります」
少し考えた。
*(このままでいい気がするんだが)*
「このままいてもらえますか」
アンちゃんが少し表情を変えた。
困った顔ではなく、少し確認するような顔だった。
「場内指名っていう形になるんですけど、追加料金がかかっちゃうんですよ。それでもいいですか」
「……場内指名?」
「来てからその場で指名するやつです。最初から決めて予約してくる本指名より安いんですが、今日はまだ何もつけてないので、追加になります」
*(そういうシステムがあるのか)*
「いくらですか」
アンちゃんが金額を言った。
「わかりました。お願いします」
アンちゃんがボーイを呼んで、短くやりとりした。それだけで話は済んだ。
「ありがとうございます」
アンちゃんが言った。
「初めてなのに、決断はやいですね」
「居心地がよかったので」
アンちゃんが少し笑った。
今度は作った笑いとは少し違う気がした。
「最初、メニュー見てる顔が真剣すぎましたよ」
「ドリンクの種類が多すぎて」
アンちゃんがまた笑った。
そこから1時間近く、席で並んで飲んだ。
ギャンブルの話を少ししたら、水沢が「どのくらい勝ってるんですか」と聞いてきた。
「まあまあ」
と答えたら
「まあまあってなんですか」
と返ってきた。
そのやりとりが、なんとなくおかしかった。
帰り際、アンちゃんが
「また来てくださいね」
と言った。
「来るかもしれないです」
「本指名してくれたら最初から私がつきますよ」
「検討します」
勘定を済ませた。
セット料金と場内指名料と飲み物代と、気が向いてボトルを一本入れた。
合計9万8千円。
*(ほぼ10万か)*
階段を下りて外に出ると、池袋の夜の空気が顔に当たった。
看板の光が足元に落ちて、人が流れていく。
さっきまでいた店は、もう普通のビルの一部に見えた。
*(悪くはなかった)*
お金を使うとか、知らない場所に行くとか、そういうことをここ数年ほとんどしてこなかった。
ギャンブルに負けていた8年間は、それをする余裕がなかった。
今日初めて
「金があると、こういう夜が過ごせる」
をほんの少し体で覚えた気がした。
電車で練馬に帰った。
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翌19日目の朝。
時計を握ったが、何も来なかった。
今日は休みだ。
ベッドの上でしばらく天井を眺めた。
染みが3つある。
左上の丸いやつ、真ん中のぼんやりしたやつ、右端の細長いやつ。
*(1億まで、あと約4,720万)*
*(1ヶ月もあれば届く)*
起き上がって、ユニシロの新しいダウンを着た。
外に出ると、10月下旬の空気が頬に当たった。はっきりと冬の匂いがした。
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**── 残高メモ ──**
| 今話の収益(10日間・6種目) | **+4,072万円** |
|:--|--:|
| キャバクラ(初体験) | ▲10万円 |
| 生活費・外食(10日間) | ▲5万円 |
| 前話からの繰り越し | 1,278万円 |
| **桐島遊馬 手元現金** | **5,335万円** |
---
*【第3話 へ続く】*




