第9話 〜新居〜
翌週、事務所に橘が来た。
隣に、眼鏡をかけた30代前後の男がいる。
紺のシャツ。スニーカー。
どこか大学の研究室にいそうな雰囲気だった。
「小林 賢司といいます」
男が名刺を差し出した。
「データサイエンティストをやっています。
橘さんから話を聞いて、面白そうだと思って来ました」
「桐島です」
会議テーブルに5人が並んで座った。
「うちの代表の西村です」
「西村公輝です。よろしくお願いします」
西村が名刺を差し出した。
小林が
「こちらこそ」
と受け取った。
山下が静かに頭を下げた。
橘はパソコンを開きながら
「よろしくお願いします」
と言った。
「今日は事業の方向性をお伝えします」
「橘さんのブログを軸にした、競馬・競輪・競艇の予想アプリを作りたいと思っています。
橘さんの分析と、小林さんのAIによるデータ処理を組み合わせる形にしたい」
小林が少し前のめりになった。
「AIによる予測自体は既出のサービスがあります。
ただ、既存のものは過去データの統計処理が中心で、レース当日の状態変化や騎手の精神状態みたいな非構造化データの処理が弱い。
そこを橘さんの人ならではの分析で補完するなら、差別化できると思います」
橘が頷いた。
「私が8年間取り続けたデータは、まさにその部分に特化しています。
AIが苦手とする部分を人間が補う構造です」
「いいじゃないですか」
西村が前のめりになった。
「橘さんのブログ、昨日初めて読んだんですよ。
データの量がすごくて最初は何が書いてあるかよくわからなかったですけど、面白かった。
データだけではなく、その日の馬の状態なんかも分析に入れてるのも興味深かったです。
これが3万人に届いてるなら、有料でも払う人間は絶対いる」
橘が少し目を細めた。
「……読んでいただいたんですか」
「このアプリ開発を進めるとして、具体的なリリースのスケジュールは」
西村が橘に聞いた。
「開発期間を含めて半年から1年ほどと考えていただければと。
まずβ版を出して、反応を見ながら改良していく形が現実的です」
「わかりました。ありがとうございます」
山下が
「小林さんの待遇を確認してよいですか」
と静かに口を開いた。
「正社員での採用をご検討ということでよろしいでしょうか」
小林が少し驚いた顔をした。
「……正式に雇用していただけるんですか」
「月額50万円で考えています。いかがでしょうか」
「問題ないです。ありがたいです」
山下がメモした。
「では雇用契約書を準備します。入社日が決まり次第、社会保険の手続きも進めます。
それと橘さん、ブログの運営は個人名義ですか」
「はい」
「アプリ事業との切り分けのため、ブログを法人に帰属させるか個人で継続するかを早めに整理しておいた方がよいです。
税務上の処理が変わります」
橘がメモを取り始めた。
「わかりました」
「収益モデルはどういう形で行きましょう」
橘が聞いた。
西村が俺を見た。
「サブスクリプションと広告収入の組み合わせを考えています。詳細は橘さんと西村さんで設計してください」
打ち合わせが終わったのは2時間後だった。
橘と小林が帰り際、橘がもう一度俺に頭を下げた。
「桐島さん、来週からよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
*(はじめは変な人だと思ったが、いい出会いだったかもな)*
「橘さん、真面目な人ですね」
山下が静かに言った。
「ストーカーって言ってた人もいましたが」
俺が言った。
「いや、最初の情報だとそう思うだろ」
西村が笑った。
*(橘さんと小林さんを、仲間にして良かったと思える日が来ることを願おう)*
---
週末、引っ越しをした。
練馬のアパートで9ヶ月暮らした。
荷物は少なかった。衣類と本とノート12冊と、時計の入った小箱。
段ボールは3箱で全部入った。
引っ越し業者が来て、1時間かからず作業が終わった。
アパートを出る前に、一度だけ部屋に戻って天井を見上げた。
散々毎日見てきた染みが3つある。
左上の丸いやつ、真ん中のぼんやりしたやつ、右端の細長いやつ。
*(お世話になりました)*
鍵を管理会社に返して、外に出た。
2月末の練馬の空気は、まだ冷たかった。
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南青山のマンションは10階建ての角部屋だった。
92平米、2LDK。
窓が大きくて、南向きの光が部屋全体に入ってくる。
しばらく窓の外を眺めた。
練馬とは空の見え方が違う。
隣に高い建物がない。
*(広い)*
天井を見上げた。
染みがない。
*(……落ち着かないな)*
床に段ボールを置いたまま、近所を少し歩いた。
南青山通りに出ると、表参道まで続く通りに並木があった。
2月の末で、枝先がまだ固く締まっていた。
並木沿いのセレクトショップに入ってみた。
ウールのコートが何着かかかっていたので、値段を確認した。
110,000円。
*(品川で似たようなコートを見て買わなかったのが、ずいぶん前のことに思える)*
「これをください」
袋に入れてもらって、その場で着た。
店を出ると、2月末の南青山の風が当たった。
*(勢いで高額コートを購入してしまった)*
部屋に戻って、部屋の電気をつけた。
練馬の6畳とは別の空間に、まだ慣れていない。
でも悪い気はしなかった。
*(家具がない)*
92平米に段ボール6個とベッドだけが置かれている状態だった。ソファもテーブルもない。テレビもない。冷蔵庫もない。ベットもない。
山下にメッセージを送った。
「家具を買いに行きたいんですが、一緒に来てもらえますか」
「週末の土曜はいかがでしょうか」
と山下からすぐ返信が来た。
了承した。
それから少し考えて、アンちゃんにもメッセージを送った。
「引っ越したんですが、部屋に家具が何もなくて。
アンちゃんはセンスがいいと思うので、もし迷惑じゃなければ家具選びに付き合ってもらえますか。
土曜の表参道で。同伴の延長みたいな感じで夜もお店に行きます」
返信は2秒で来た。
「行く!!!絶対行く!!!」
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土曜の午前11時、表参道で3人で待ち合わせた。
山下、俺、そして水沢アンちゃん。
「なんで水沢さんがいるんですか」
と山下が俺に確認した。
「俺一人だと何を買えばいいかわからないので、センスのある人間を呼びました」
「なるほど」
アンちゃんはジーンズにオーバーサイズの白シャツ、小さいトートバッグという格好だった。
*(私服のアンちゃんも可愛いな)*
「やっばい、遊馬くんの私服初めて見た」
アンちゃんが言った。
「コートおしゃれだね、似合ってる」
「最近買ったんだよ」
「似合ってる、カッコいい!!山下さんもおしゃれですよね」
「ありがとうございます」
山下が静かに言った。
3人で歩いた。
表参道から骨董通りにかけて、家具やインテリアのショップが並んでいる。
「どんな感じの部屋にしたいですか」
アンちゃんが聞いた。
「その前に」
スマートフォンを取り出して、山下が送ってきた間取り図と、内見時に撮った部屋の写真をアンちゃんに渡した。
アンちゃんが画面をスクロールした。
「……ちょっと待って」
しばらく黙って見ていた。
「めちゃくちゃ綺麗だし、部屋広そう!!」
「ありがとうございます」
「南青山で、この広さ……」
アンちゃんが俺を見た。
「遊馬くんってやっぱりすごい人なんだ!」
「そうですか」
「そうですか、じゃないよ」
アンちゃんがもう一度写真を見た。
「窓大きいし、光めちゃくちゃ入ってる。天井も高い。住んでみたいな」
「広すぎて、どこに何を置けばいいかわからなくて」
「それで私を呼んだんですね」
アンちゃんが少し笑った。
「センスいいかわかりませんけど、頑張って選ぶのお手伝いします!」
「どんな感じの部屋にしたいとか、好みとかはありますか」
「んーないかな」
「ない?」
「うん、こだわりはない」
「わかりました」
アンちゃんがスマートフォンを返してきた。
「この家に合う家具、頑張って選びます。任せてください」
---
最初のショップに入ると、アンちゃんがさっそく動き始めた。
ソファを3つ確認して、グレーのファブリック製を選んだ。
「これ、部屋の広さと壁の色に合うと思います。白に近い空間に濃すぎないグレーが締めてくれる感じで」
山下がスペックを確認して
「価格と耐久性のバランスが取れています」
と静かに言った。
「じゃあこれで」
俺が言った。
「もう少し見なくていいんですか」
アンちゃんが笑った。
「即決すぎる」
「2人が選んでくれるなら、それでいいです」
「そういうものなんですか」
「そういうものです」
次の店でダイニングテーブルと椅子を選んだ。
アンちゃんが
「6人掛けにしましょう」
と言った。
「人を呼んだとき困らないように」
*(人を呼ぶことがあるかどうかはわからないが)*
山下が
「来客の可能性を考えると、4〜6人対応のテーブルは合理的です」
と補足した。
「じゃあそれで」
「これも即決」
アンちゃんが笑った。
カーテンは少し時間がかかった。
アンちゃんがリネンのオフホワイトを推し、山下が遮光性の観点から別の選択肢を出し、少し話し合いが起きた。
「南向きで光が入りすぎるなら、遮光ある程度必要ですよね」
と山下が言った。
「でも光を殺したくないんですよ。せっかく南向きなんだし」
とアンちゃんが言った。
俺は黙っていた。
「桐島さん、どっちがいいですか」
アンちゃんが振った。
「どっちでも」
「意見がない人ね、本当に」
結局、レースカーテンと薄手のリネンを組み合わせる形に落ち着いた。
山下とアンちゃんが
「それが正解ですね」
と同時に言って、2人とも少し笑った。
ベット、テレビ、冷蔵庫、洗濯機は家電量販店で一気に揃えた。
山下が事前に機種を調べていて、着いた瞬間から指定して会計した。
アンちゃんが「山下さん、来る前から調べてたんですか」と聞くと、「一応」と山下が静かに答えた。
雑貨屋でクッションや小物を選ぶとき、アンちゃんが
「これ置いたら生活感出てかわいくないですか」
と言って、遊馬の顔を見てきた。
「どうぞ」
「本当に何でもいいんですね」
アンちゃんが苦笑いした。
「住む人がそれでいいなら、いいんですけど」
「2人のセンスに任せた方が絶対いいので」
山下が
「それは正しい判断だと思います」
と言った。
アンちゃんが
「山下さん、それは遊馬くんの肩持ってるようで貶してません?」
と笑った。
「山下さん!?」
「そんなことはありません」
会計を済ませて店を出たとき、アンちゃんが少し俺を見た。
「ねえ、部屋見たい」
「え」
「せっかく選んだじゃないですか。どんな感じになるか見たくて」
「また今度ね」
「また今度って言う人、だいたい連れていってくれないですよね」
アンちゃんが笑った。
でもその後、少し表情が変わって
「冗談です」
と言った。
*(冗談じゃなくても良かったのに)*
俺も何も言わなかった。
---
昼過ぎに3人で近くのカフェに入った。
「楽しかったです」
アンちゃんが言った。
「家具選びって、誰かの家を一から作る感じがして、すごく楽しい」
「助かったよ」
俺が言った。
「山下さんも来てくれてよかった。
一人だったら遊馬くんが全部『なんでもいい』で終わってたと思う」
「その通りですね」
山下が静かに言った。
「桐島さんは、自分のことに関して無頓着すぎる部分があります」
「言い方」
アンちゃんが笑った。
*(山下さん、よくわかってるじゃん)*
コーヒーを飲んでいたら、アンちゃんが少し真顔になった。
「ちょっと聞いていいですか」
「なに?」
「遊馬くんって、いまどんな仕事してるの?前から気になってたんだけど」
「投資とか、だね」
「投資」
アンちゃんが俺を見た。
「それで南青山に住めるんですか」
「まあ、うまくいってます」
アンちゃんがしばらく俺を見た。
それから
「そうですか」
とだけ言った。
山下は何も言わなかった。
「もっと聞かないんですか」
俺が言った。
「聞いてもちゃんと答えてくれなそう」
アンちゃんが笑った。
「遊馬くん、全然自分のこと話さないからなぁ」
*(話しても仕方ないしな)*
帰り際、3人で表参道の駅まで歩いた。
「また家具が必要だったら連絡してください」
アンちゃんが言った。
「一緒に選びにきます」
「そのときはまた頼むね」
「山下さんも来てくれます?」
山下が少し間を置いた。
「必要であれば」
「絶対来てください」
アンちゃんが笑った。
「山下さんがいると心強い」
山下は何も言わなかった。
でも表情がわずかに和らいだ気がした。
3人で改札を出て、山下は半蔵門線の方へ歩いていった。
「山下さん、ありがとうございました! また来てください!」
アンちゃんが手を振った。
山下が静かに頷いて、改札に消えた。
アンちゃんが俺を見た。
「お腹すいた?夜ご飯どこで食べる?」
「アンちゃんが行きたいとこでいいよ」
「ちゃんと決めてください」
アンちゃんが笑った。
表参道の交差点を少し歩いて、通り沿いのビストロに入った。
カウンター席が空いていた。
「今日はありがとうね」
「うんん。誘ってくれて嬉しかった。普通に楽しかったよ」
「良かった」
「また家具が必要になったら呼んでね」
白ワインを飲みながら、2時間ほど話した。
アンちゃんが店の話を少しした。
常連が増えてきたこと、もうすぐ2年になること。
「遊馬くんが来るようになったのも、ちょうど去年の秋ごろだったよね」
「うん」
「あのころから結構謎だったけど、今はちょっと距離が近づいた気がする」
「そう?」
「そうだよ!これから、もっと遊馬くんのこと教えてね」
店を出て、タクシーで池袋に向かった。
---
クラブ・ルーナに入ると、
黒服が
「お待ちしておりました」
と案内した。
いつもの席に座った。
アンちゃんがすぐに席についた。
仕事用の顔に戻っていた。
でも時々さっきまでの表情が出てくる。
「今日のお礼に、シャンパン入れるよ」
俺が言った。
「え、いいの?」
「どうぞ」
「何がいい?」
「任せる」
アンちゃんがメニューを開いた。
少し考えてから
「クリスタルでもいいですか?」
と言った。
「いいよ」
黒服を呼んだ。
「お願いしまーす。クリスタル1本」
「かしこまりました」
ボトルが運ばれてきた。
グラスに注いでもらって、アンちゃんと軽くグラスを合わせた。
「ありがとうございます」
アンちゃんが笑った。
「今日は本当に楽しかった。シャンパンもありがとう」
「こちらこそ」
*(こういう日があってもいいな)*
会計は小計20万円。
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翌週月曜、橘が事務所に初出勤した。
8時55分に来た。
山下が
「おはようございます」
と頭を下げた。
西村はまだ来ていなかった。
橘が鞄からノートパソコンを出して、デスクに置いた。
「どこに座ればいいですか」
「空いているところでどうぞ」
山下が言った。
「デスクはまだ配置を変えられます。桐島さん、どうしますか?」
俺が来たのは8時半だった。
今日は映像が来なかった。
休みの日だ。
本来なら事務所に来る必要もない。
でも映像が来ない日の朝は、少し体が落ち着かない。
8年間毎日ギャンブルのことを考えていた人間の習慣が、まだ完全には抜けていない。
実は昨日、事務所に向かう途中で一度、立川競輪場に寄っていた。
映像は来ていなかった。
時計も温かくなかった。
でも改札を出た瞬間に、体が勝手に動いた。
競輪場の方向へ曲がりかけて、2歩歩いてから気づいた。
*(なんで行こうとしてるんだ。映像も来てないのに)*
でも体は知っていた。
正確には
「行かないと落ち着かない」
という感覚が先にあって、理由はあとからついてくる。
「少しだけなら」
「どうせ時間があるし」
「もしかしたら今日は見えなかっただけで当たるかもしれない」。
8年間で何百回も繰り返してきた言い訳が、1秒で揃った。
「少しだけなら」
という気になった。
3万円を突っ込んだ。
外れた。
さらに2万円。
外れた。
*(……そうだな。温かくないときは買うなよ)*
5万円が消えた。
傷としては小さい。
でも久しぶりに「外れた」という感覚を体で受けた。
帰りの電車で少し考えた。
力がなければ、俺はただのギャンブル依存症だ。
その事実は変わっていない。
映像が来なくなる日が来たら、俺は間違いなくまたここに来る。
そしてまた溶かす。
わかっていても、来る。
8年間がそれを証明している。
*(だから、映像がある間に積み上げるしかない)*
事務所に着くと橘が既に席でパソコンを開いていた。
「おはようございます」
橘が頭を下げた。
「おはようございます」
橘のデスクを見た。
すでにパソコンが開いていて、表計算のシートが広がっていた。
「何をやっているんですか」
「直近3ヶ月の競馬場のデータ整理です。
私が保有しているデータを法人の資産として再整理しています。
山下さんから業務開始前にやっておくよう言われました」
山下を見た。山下が静かに頷いた。
*(橘さんが来る前にもう手を打っていた)*
西村が来たのは11時だった。
「あ、会長! もう来てたんですね」
西村が荷物を置きながら言った。
「昨日、橘さんのブログまた読みましたよ。
先月のヴィクトリアマイルの分析、面白かった」
橘がわずかに目を丸くした。
「……読んでくださっているんですか」
「俺、一回気になったら全部読むタイプなんですよ」
西村が笑った。
「橘さん、今後は記事の更新もうちの仕事の範囲になりますか」
「そのつもりでいます。ブログは引き続き個人名義で更新を続けつつ、法人との関係は山下さんと整理します」
「わかりました。読者数、増やしましょう。SNSの運用とか、得意ですか」
橘が少し間を置いた。
「……得意ではないです」
「俺がやります」
西村がさらっと言った。
「告知とか拡散とか、そっちは任せてください」
*(こいつ、どこでも同じことをする)*
---
2月の下旬。
朝に映像が来た。
江戸川競艇場、第9レース。
3連単「1→4→6」。賭け金は15万。
*(久しぶりの競艇だ)*
空は晴れていたが風が強かった。
2月末の江戸川は毎年こういう日がある。
スタンドに陣取って、コーヒーを買ってきた。
出走表を確認した。
1号艇、内藤 雄太。直近の勝率が高く、モーターの仕上がりも良い評価だった。
4号艇、松本 健一。6号艇、吉田 圭介。地元選手。
展示航走を眺めた。
本番前の練習走行で、各選手のターンの感触とモーターの出足を確認できる。
1号艇・内藤のモーターは軽かった。
1マークのターンで内側を突くように回って、出口の伸びが早い。
今日の機力は間違いなくいい。
6号艇・吉田のターンも悪くない。
江戸川でのコース感覚が染みついた走り方で、ターンの入り方が内側に深い。
強風で外の艇が振られる日に、地元選手はこういう走り方をする。
*(1号艇が軸で、4番と6番が絡む。2月末の江戸川は風が強い。
スタートで1号艇が枠なりにイン有利のコースを確保すれば、そのまま押し切れる展開が見える。
4号艇の松本はスタートが得意で2番手に飛び込んでくるはず。
問題は6号艇だ。スタートで少し遅れるかもしれないが、江戸川を知っている選手は第2ターン以降が違う。映像でも最終的に3番手を差し込んでいた。焦れる展開だが来る)*
時計を握った。温かかった。
*(よし)*
窓口に向かった。
「1→4→6、3連単、15万円」
スタンドに戻って発走を待った。
風がスタンドを吹き抜けていく。
水面が波立っていた。
*(波がある日の競艇は、選手の技術差が出やすい。
展示で動きが良かった1号艇の内藤が、本番でも同じ動きをしてくれるかどうかだ)*
もう橘がいてくれたらこういう話ができるな、と少し思った。
データで数字を確認するのは橘の仕事だが、レースを見ながら考えを整理するのは一人の方が楽だった。
発走。
1号艇の内藤がスタートをぴたりと合わせて先頭で第1ターンに入った。
展示通りのターンだった。
内側のラインをきっちり守りながら、膨らまずに押し切る走りで、外からコースを奪おうとした3号艇を弾き出した。4号艇・松本が2番手につける。
6号艇が少し出遅れた。
*(大丈夫か)*
時計を握り直した。温かさは変わらない。
*(信じろ)*
第2ターン。
風の影響で外の艇が振られて膨らんだ。
その隙間を6号艇・吉田が内側に切り込んだ。
江戸川を知り尽くした選手だけが選べるライン取りで、強風で外が乱れる日に内を突く。
外の馬力で押し切ろうとしていた5号艇を差し切って、3番手を奪い返した。
最終周。
内藤が逃げ切る。
4号艇が追いかける。
6号艇は離されながらも3番手をキープした。
ゴール。
1→4→6。
*(来た)*
電光掲示板を確認した。
払い戻し、15万円に対して620万円。
*(41倍か。6号艇がヒヤリとしたが、結果は合っていた。
展示の走り方が本番に出た。映像の通りだった)*
*(今月もいい滑り出しだ。
練馬のアパートを出て、南青山に移って、橘と小林が入って、法人が動き始めて。それでも毎朝時計は温かくなって、俺はここに来て、帰る)*
払い戻しを受け取って、紙袋に入れた。
事務所に持っていけば山下が処理してくれる。
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その夜、練馬に向かった。
電車を乗り継いで40分。
南青山から練馬は、思ったより遠かった。
でも今日は行きたかった。
「ふくろう」
の暖簾に灯りがついていた。
暖簾をくぐると、福田さんが顔を上げた。
「あれ、遊馬くん。久しぶりだな」
「ひと月以上ぶりですかね」
「もっとだろ。年明けてから来てないじゃないか」
「ばたばたしてました」
「座りな」
カウンターの端の定位置に座った。
福田さんが何も聞かずにビールを出してくれた。
福田さんがしばらく黙って串を刺していた。炭の音がした。
焼き鳥が来た。
塩のネギマとタレのつくねと皮。
炭の香りがした。
ネギマを一口食べた。脂と塩気が喉を通った。
*(うまい)*
和代さんが奥から顔を出した。
「遊馬くん、ちゃんと昼も食べてる?」
「食べていますよ」
「本当に?」
「良かった」
和代さんがそれだけ言って、奥に戻った。
ビールを飲みながら、しばらく黙っていた。
*(ずいぶん変わったか)*
時計を拾ったのが10月の始めだった。
今はまだ2月末。5ヶ月も経っていない。
貯金3万2千円だった男が、今は南青山に住んで、港区に事務所を持って、4人を雇っている。
数字として理解はできる。でも体の感覚の更新が、いつも少し遅れる。
*(それでいいかもしれない)*
感覚が追いついたとき、何かが変わってしまう気がした。
追いつかないままでいることが、自分らしい気がした。
根拠はないが、そう思った。
福田さんがテレビをつけた。
夜のニュースが始まった。
音量は小さかった。
お湯割りを一杯頼んだ。焼酎の温もりが、2月末の夜の体にじわじわ広がった。
*(この店だけは変わらないな)*
2時間ほど飲んで、勘定をした。7,800円だった。
1万円を出して、釣りを受け取った。
「また来てね」
和代さんが言った。
「もちろん来ます」
暖簾をくぐって外に出た。
2月末の練馬の夜の空気が当たった。
まだ冷たかった。
電車で南青山に帰った。
新しい部屋に着いて、部屋の電気をつけた。
染みのない天井を見上げた。
*(慣れるまでもう少しかかるかな)*
ベッドに腰を下ろして、スマートフォンを開いた。
今日の収支をノートアプリに入力した。
払い戻し620万円。賭け金15万円。純利益605万円。
ポケットから時計を取り出した。
薄暗い部屋の中で、翠色の金属が鈍く光っている。
握ると、温かかった。
*(引き続きよろしく頼む)*
返事はなかった。
スマートフォンを閉じようとして、橘からメッセージが入っていることに気づいた。
「本日の業務開始データ整理、完了しました。明日から小林さんとの初回ミーティングを設定してもよいですか」
*(早い)*
「問題ない」
と返した。
すぐに「ありがとうございます。
桐島さん、明日もよろしくお願いします」と来た。
*(師匠へのメッセージみたいな締め方だ)*
スマートフォンを置いた。
窓の外、南青山の夜が広がっていた。
練馬より少し明るい。
---
**── 残高メモ ──**
| 2/16〜2/28の収益(13日間・競艇含む) | **+約2,800万円** |
|:--|--:|
| 2/25 役員報酬支払い(山下・西村・遊馬 額面計) | ▲約1,000万円 |
| 橘修 給与(2/15〜2/28・日割り) | ▲約30万円 |
| 小林賢司 給与(2/17〜2/28・日割り) | ▲約20万円 |
| 家具・家電・雑貨購入(法人経費) | ▲約400万円 |
| ※南青山マンション家賃(月55万)は半額を社宅として法人負担 | |
| 前話繰り越し(法人) | 約2億7,200万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約2億8,500万円** |
| 桐島遊馬 役員報酬受取(2/25 手取り・額面500万) | +約270万円 |
|:--|--:|
| 引っ越し業者費用 | ▲約30万円 |
| コート購入 | ▲約11万円 |
| 食事・クラブルーナ(クリスタル同伴) | ▲約20万円 |
| 生活費・外食(2/16〜2/28) | ▲約15万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約702万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約896万円** |
---
*【第10話 へ続く】*




