第三話 お見舞い②
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教えてもらったマンションは、駅から徒歩五分というずいぶん便利な場所にある、小綺麗で背の高い建物だった。
オートロックのようなので入口でインターフォンを押すと、「はい」と低く掠れた五十嵐の声が聞こえた。
「あ、えっと。俺、柴本。お前一週間も休んでただろ? だからその、お見舞いっていうか。大丈夫かなって思って」
「……」
おどおどと説明すると、しばらくの間、なにか考えるような沈黙があった。うわー、やっぱりこれ、追い返されるかな? って思ったけど、結局五十嵐は、無言のまま入口の施錠を解除してくれた。
ピカピカに掃除されて、いっそよそよそしいくらいのエントランスを進み、エレベーターで五階まで上がる。
性能のいいエレベーターなのか、ひゅいんって感じで、本当に一瞬で到着してしまった。廊下の床も、寝っ転がれるんじゃないかなってくらいに綺麗だ。もしかして五十嵐の家って、かなり金持ち?
慣れない空間に、心臓がドキドキしてくる。五◯八号室のインターフォンを押してしばらく待つと、室内でガタガタっと物音が響いて、ガチャ。目の前の扉が開いた。
「急に、なに。俺マジで今具合悪――げほっ、ゲホゲホゲホ! ……くっそ、」
「えええ、大丈夫?」
憎まれ口もそこそこに、五十嵐が突然咳き込み始める。開いた扉に手を突いたまま、苦しそうに体を折り曲げたので、俺は慌てて駆け寄って広い背をさすった。
「五十嵐、歩ける? 俺が支えるから、中まで戻ろう」
「いい。一人で行ける」
「でも俺がいた方が楽だろ。店長からリンゴもらったから剥いてやるよ」
「ああ? なんでお前がそこまで? いいから放っと……ゲッホ、ゴホ、ゲホゲホゲホ!」
「ほらあ」
俺は嫌がる五十嵐の腕を無理やり自分の肩に回して、靴を脱いで短い廊下に上がる。進んだ先の扉を開けると、だだっ広いリビングのような空間が現れた。
外観と違わず、綺麗な内装だ。閉まったままのカーテンや応接セットはグレーで統一されていて、照明はオシャレな暖色系。カウンターキッチンに、大きな冷蔵庫。
モデルルームみたいだな、とぼんやり思う。
「五十嵐の部屋、どこ?」
「左の奥……でもここでいい。そこのソファまででいいから」
俺は五十嵐の言う通りに、部屋中央のソファまで五十嵐に付き添った。
その後自主的に俺の体から離れて座面に腰を下ろした五十嵐は、「はーっ」と深く息をつく。
「マジしんど……ゲホっ」
「あ、俺水持ってくるよ」
「いい。勝手なこと――」
五十嵐が言い終わるよりも前に、俺はカウンターキッチンの方に歩いて、水切りカゴに一つだけ残っていたグラスを手に取った。とりあえず水道水を汲んで再び五十嵐のそばに行き、ソファの前のローテーブルに置く。
「……さんきゅ」
なんだかんだ言いつつ、水は飲みたかったのだろう。不服そうな顔でつぶやきながらも、五十嵐はグラスを持ち上げて唇に当てた。
しっかりと浮き出た喉仏がごくりと上下する。それを眺めながら「風邪、そんなに悪かったのか?」と尋ねると、五十嵐はチラリとこちらに視線をやってから「喘息」と答えた。
「昔、結構ひどかった。だから今でも、風邪ひくと咳が残る」
「そうなんだ。知らなかった」
「そりゃそうだろ。知ってたら怖えよ」
すぱっと切り捨てて、五十嵐が俺を見る。
「で。なにしにきたんだ、柴本」
心底うんざりしたような、面倒くさそうな顔だった。
それを見た俺は、「あ、これバレてるな」って早々に気づき、うしろめたさから視線を下げる。
「ちょっと、その……五十嵐と一回、ちゃんと話してみたいなって思って。でも、また今度でいい。治ってからで」
「これは少なくとも一ヶ月は治んねーから、今でいい」
そう言って自分の膝に片肘を突いた五十嵐の咳は、さっきよりは落ち着いているように見えた。
だから、そう言ってもらえるならと素直に甘えて、俺は「わかった」と返事をする。
「もうちょっとだけ待ってて。リンゴ剥いてくる」
「だからべつに、いいって」
「いや、一応お見舞いだから」
なんて言いつつ、五十嵐のじいちゃんが帰りがけに持たせてくれたやつだけど。
心の中でつぶやいて、仮にも「お見舞い」だったのに、なんにも持ってこなかった自分を反省した。五十嵐に包丁の場所を聞き出してからピカピカのキッチンに戻り、せめてもの罪滅ぼしに、一口サイズに切ったリンゴの皮をウサギの耳状に仕上げていく。
「お前、こういうとこは器用なんだな」
ローテーブルに出したウサギリンゴを一切れ持ち上げて、それをしげしげと眺めながら五十嵐が言った。
五十嵐にしては珍しく、心の底から感心しているような口ぶりだった。
「昔母さんに教わったから。でさ、五十嵐と話したいことについてなんだけど」
五十嵐の向かいに座り、唾液で喉を湿らせてから切り出すと、五十嵐は黒い瞳をすっと動かして俺を見た。
あの、静かな水面みたいな、無風のまなざしだ。
「俺もしかして、この前五十嵐のこと傷つけた?」
目を逸らさないように頑張ったけど、つい少しだけ上目遣いになってしまった。五十嵐が無言のまま、目を丸くしてこちらを見返してくるので、俺はもっとちゃんと説明しなきゃと思って言葉を続ける。
「この前の、火傷見てもらった時。お前怒ってただろ。だから俺、五十嵐のこと傷つけたのかなって」
人が怒る時はだいたい、その裏に別の感情が隠れている。悲しいとか、寂しいとか、傷ついたとか。
「俺、けっこう思ったこと考えなしに口走るタイプだし。わかってるけどなかなか直せないから、やらかしたって思ったらちゃんと謝るって自分で決めてるんだ」
五十嵐に向かって、「ごめん」と頭を下げる。悪かったって気持ちが、ちゃんと伝わりますようにって祈りながら。
「……柴本ってさ、」
そのまましばらく待っていると、五十嵐は小さな声で話し始めた。
「家庭環境、めちゃくちゃよさそう」
「へ?」
予想外の返しに、間抜けな声が出てしまう。
反射的に顔を上げた先で、五十嵐がウサ耳のリンゴをパクっと口に入れた。
「俺は、両親が二人とも医者だから。金はあるけど当たり前に忙しくって、全然かまってもらえないままここまできた」
しゃりしゃり、しゃりしゃりと、咀嚼音が響く。
その音が予想以上に大きく聞こえることに、俺は気づく。
「お前の言ったこと、正しかった。だからイラついたんだ――俺は多分、寂しいんだと思う。でも今さら、色々欲しいなんて思わない。受け取ったって、大事にする方法もわからないし。柴本みたいなやつにはまあ、全然ピンとこない話なんだと思うけど」
ごくんとリンゴを飲み込んだ後、五十嵐は「俺も悪かった」と続けた。
荒っぽくして、怯えさせて悪かった。
俺も謝ったから、この話はこれでおしまい。
「ってわけで、そろそろ帰れ、柴本。俺は今日はしっかり休んで、明日からはまた普通に店に出たいんだ」
呆気なく明かされた事情に戸惑いつつ、鋭い視線に促されて、俺はソファから立ち上がった。
そのまま容赦なく玄関の方に追い立てられ、だけど一個だけ、どうしても言いたいことがあったので、靴を履く直前にくるりと振り返って五十嵐を見つめる。
「俺は、そうは思わないんだけど」
なにが? とでも問いたげに、五十嵐が怪訝な顔をした。
「大事に云々、ってやつ」と俺は続ける。
「五十嵐はべつに、受け取ったものを大事にできないやつだとは、俺は思わないって話。だってシェリーと店長のこと、お前めっちゃ大事にしてるじゃん? さっき謝ってくれたのだって、俺の謝罪を、五十嵐がちゃんと受け取ってくれたからだろ」
自分で言いながら、俺はうんうん、と何度も首を縦に振る。
五十嵐がシェリーに通い詰めているのは、シェリーと店長のことが大事だからだ。終始そっけない感じではあったけど、それでも今日事情を話してくれたのは、俺の「ごめん」って気持ちが五十嵐にちゃんと届いたから。
「俺今日、お前のことちゃんと知れてよかった。ほんと、具合悪いところごめんな」
じゃあまた明日、シェリーで。
きちんと謝れたことへの安堵と、五十嵐の態度の謎が解けたことへのスッキリ感から、俺は無意識のうちににこにこと笑っていた。
目が合った五十嵐は、驚いたように目を見開いていた。しかし「なに?」と問いかけても「いや、」と視線を逸らすだけだったので、俺はそれを不思議に思いながらも、今度こそ靴を履いて五十嵐の家を後にする。
「あー、すっきりした!」
五十嵐のマンションを出て、俺は大きく伸びをした。空はだいぶ暗くなってきているけど、胸の引っ掛かりがなくなって、気分は明るい。
五十嵐は相変わらずツンケンしていたけど、家のこととか話してくれたのは、思い返せば随分俺に気を許してくれた証拠だったんじゃないだろうか。
もしかして明日からは、もうちょっと優しく接してくれるようになったりして。
そんな未来に思いを馳せて、口元がさらに緩む。五十嵐と仲良くなれれば、アルバイトに行くのはかなり楽しくなるだろう。
そうなったらいいなと期待に胸を弾ませながら、俺は家に向かって足取り軽く歩き始めた……のだけど。




