第九話 好きって言って⑥
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初めて入れてもらった五十嵐の部屋は、リビングと同じように、本当に必要最低限の物しか置かれていなかった。ベッドと、勉強机と、本棚には最低限の参考書や教科書が並んでいるだけ。
五十嵐が勉強机の方の椅子に座ったので、俺は恐る恐るベッドに腰掛けた。好きな人の部屋の、しかもベッドの上とか、めちゃくちゃ緊張するけど。でも仕方ない。他に座る場所がないんだから、これは不可抗力、というか。
ぶおおお、と勢いよく、エアコンから風が吹き出す。けっこう広い部屋だけど、空気は瞬く間に涼しくなっていった。多分、すごく性能のいいエアコンなんだろう。
「話ってなに」
吹きつける風に巻き上げられた前髪を気にしていると、その風に負けないくらい冷たい声が、目の前の椅子に座る五十嵐の口から発せられた。
ごくりとつばを飲み込んでから、俺は五十嵐の顔を見る。
「なに、っていうか。さっきも言ったけど――俺、五十嵐のこと、好きなんだ」
「で?」
「いや、『で?』って……」
反応うっす。
ぐぬぬ、と俺は唇を噛む。ある程度予想できていた反応とはいえ、ここまで塩だとさすがに少しイラっときた。
最初にキスしてきたの、そっちじゃん。好きにさせたのもそっちじゃん。
しかもさっきは、もっとちゃんと赤くなってたじゃん。
「もう一回言うけど、俺はお前のことが好きなの。付き合いたいと思ってるの」
「ふうん」
「ふうん、じゃねえ。お前はどうなんだって聞いてんだよ」
「どうって?」
「だから! 五十嵐は! 俺のことどう思ってんのって話がしたいの!」
あまりにものらりくらりと躱され続けるものだから、つい喧嘩腰で返してしまう。
「言いたいことあるならちゃんと言えって、お前よく言うだろ。今日はそれ、俺のセリフだからな。お前が本音をちゃんと話すまで、俺ぜっっっったいに帰んねえからな」
俺はバタンと勢いよく後ろに倒れて、五十嵐のベッドの上で大きく両腕を広げた。そのまま首だけ少し持ち上げて、思いっきり五十嵐を睨みつける。
五十嵐は、ドン引きって感じの表情をしていた。「面倒くさい」って、明らかに顔に書いてある。
「……めんどくさ」
口に出して、今度ははっきりと言われた。でも知らない。かまうもんか。
俺は頭の中で、五月に目撃した仲さんの告白シーンを思い出していた。あの時と同じように「なかったこと」にしようなんて、そんなの俺、絶対に許さないからな。
バチバチと、しばらくお互いの視線がぶつかる。でも俺からは絶対、ぜっっっったいに逸らさない。
鋼の精神で睨み続けると、先に根負けしたのは五十嵐の方だった。
五十嵐はやがて、黒い瞳をすいっと逸らし、左手で自分の耳たぶを引っ張りながら、ものすごく嫌そうな顔で口を開いた。
「柴本は、俺のこと好きなのに、なんで俺の目の前で他人とキスすんの?」
五十嵐の声は、明らかに拗ねていた――その響きや小さく尖った唇に、俺は一転、そわそわとくすぐったい気持ちになる。
「つまり?」
「は?」
「だからつまり? お前は? 俺のことが?」
「……………………」
五十嵐、再び沈黙。
貝みたいにぴったり口を閉ざして全力で目を逸らし、「俺は、これ以上は何も喋らねえ」って意思表示をする。
「っ、だあああああああ!」
それを見た俺は思わず、大声で叫びながら上半身を起こし、五十嵐の前に立ち上がった。
いやもう、マジでこいつなんなの。そっちがめんどくさいわ!
「あのなあ五十嵐、お前、そんなんだからひよりんに嫌がらせされるんだよ!」
ぴしゃんと叩きつけるように言って、五十嵐の顔を見下ろす。
呆然とこちらを見返す瞳は、よく見れば黒目が大きくて、まるで幼い子どものようだ。
「俺、キスされてない! 唇のすぐ横にふにってやられただけ!」
「……………………え、」
長い長い沈黙の後、五十嵐が驚きの声をもらす。「マジ?」と小声で続けたので、「そう! 未遂!」と念押しして、俺は乱れた息を整えながらベッドに座り直した。
「そもそもひよりんは、俺がお前のこと好きなの知ってるし。お前がキスしてきたことも知ってるし。だけど付き合ってないって俺が話したから、『さっさと関係はっきりさせろ』って発破かけてきたの」
まあこれは、俺の推測だけど。
でも多分、間違ってはいないと思う。
「なんだそれ。過保護すぎんだろ……」
「ひよりんは俺を心配してくれたの。ひよりんはいいやつなの」
「じゃあアイツと付き合えばいいだろ」
「おい。そういうことじゃないって、お前絶対わかってるだろ」
俺はじっと五十嵐を見つめ返したけど、一向に視線が合わない。
ここまで言ってるのにまだ逃げようとするとか、本当に腹が立つ。
「五十嵐、とにかく一回こっち向け」
そう声をかけて、俺は返事を待つよりも先に、五十嵐の頬に両手を伸ばした。
そのまま無理やりこちらを向かせて――少しだけ腰を浮かせ、固く引き結ばれた唇にそっと口づける。
「お前が、不器用だけど優しいやつだってこと、俺はちゃんと知ってる」
唇を離しながら、小さな声で話しかける。
「大事にする方法がわかんないなら、俺が先にお前を大事にする。俺は大丈夫だから、欲しいなら欲しいって言え。……寂しいんなら、今ここで俺に、好きって言って」
そう言った瞬間、黒い瞳が不安げに揺れるのを見て、俺は「やっぱり」って思った。
イケメンだけど意地悪なこいつは、実は寂しがりやで、すごく優しくて、それで。
びっくりするくらいに、臆病だから。
五十嵐は多分、好きなものに手を伸ばすのが苦手なんだ。大事にできる自信がないから。自分のせいで、大切なものが壊れてしまうかもしれないのが怖いから。
そんなの全然、気にしなくていいのにって思う。
俺はお前のこと、少しも疑ってなんかいないのに。
「俺はお前が、俺以外の誰かにキスされてたらすげー嫌だ。だから今日、お前が『嫌だ』って思ってくれて嬉しかった。一緒に遊びに行けて楽しかったし、手をつないでくれたのも嬉しかった」
そういうの、俺はこれからも、当たり前にしたいんだけど。五十嵐はそうじゃないの?
じいっと、俺は五十嵐の顔を見つめる。
空っぽのこいつの中に、俺の言葉と気持ちが、きちんと染み込んでいきますようにって願いながら。
「……前、柴本に『五十嵐はシェリーを大事にしてる』って言われて、すげー嬉しかった。だから、お前には少しくらい、優しくしてみようかと思って……そしたらなんか、知らねーけど、どんどんよけいに、大事になってく気がして」
やがて、少しずつ視線を下げながら、五十嵐は話し始めた。
「他の男の話されんのマジで嫌だし、すげー可愛いし、キスしたいし、抱きしめたいし……それ以上もしたいし」
「……ん?」
しっかり聞くモードに入っていた俺だけど、なんだかとんでもない発言を聞いてしまった気がして、自然と口から戸惑いがもれた。
え、もしかして今こいつ、「それ以上」とか言った……?
「これ絶対、好きになっちまったってさすがにわかったけど、俺みたいな人間がちゃんと、お前を幸せにできるかって考えたら、自信とか全然ねえし」
「あ……うん。あの、五十嵐」
「そりゃ付き合えたら嬉しいし、意識されてんのもよーくわかったけど。でも万が一見当外れなこと言って、それで避けられたら耐えられねえとか考えたら、多分そんなことないだろうなってわかってても怖えし」
「いっ、五十嵐……! その、」
「傷つけたくないし、嫌われたくもないし。大事だし。ほんと、シェリーと天秤にかけても釣り合うんじゃないかってくらいで、」
「もういい。わかった。わかったから」
だんだん耐え切れなくなってきて、俺はなんとか声を絞り出し、五十嵐の言葉を遮った。
五十嵐が俺をどれだけ大事に思ってくれているかは、もう十分すぎるほどに伝わってきた――それはもう、恥ずかしさで体中が熱くて、本当に熱中症で倒れるんじゃないかってくらいに。
顔ももちろん熱すぎて、五十嵐を見れない。いやこいつ、ここまで言っておいて、俺に向かってちゃんと「好き」とは言ってねえなって気づいたけど、そんなのはもうどうでもいい。突っ込む余裕なんて一ミリもない。
「柴本」
一度静かになった五十嵐が、改めて俺を呼んで、手のひらを伸ばしてくる。
その温もりが、膝の上に乗っている俺の手にそっと触れる。
「他人のこと、初めてこんなに、ちゃんと大事にしたいと思った。もしかしたらこれから、時々間違えるかもしれないけど……それでもよければ、俺と付き合ってほしい」
その声は、五十嵐にしては珍しく、不安そうに揺れていた。
「わかった」と応えながら指先を握り返すと、五十嵐はちらりと視線を上げて、心底嬉しそうな顔ではにかんだ。




